アーティストの「人格」と「作品」は分けて考えるべきか問題
何年かぶりに新しいアルバムを発表したミュージシャンがいて、その作品が各方面ですごく絶賛されていた。私はそのミュージシャンが昔出したCDが好きで、若い頃にはうっとりしてよく聞いていた。
だけど、私はどうしても新作を聞く気になれなかった。
なぜかというと、ある時インターネットで、そのミュージシャンが過去に障害のある人に対してひどいイジメをしていたという記事を読んでしまったからだ。インタビュー形式で、悪びれもせず、こんなしょうもない遊びやってたんですよ~、みたいな調子で語られていた。私はそれを読んで、うわっ、エグい、ひどい、気持ちが悪い、とうんざりぐったりして、その人の名前を聞くだけで嫌な気持ちになるようになってしまった。その記事を載せた雑誌(ずいぶん昔の記事なんだけど)もどんな号であれ見たくない。
それくらいひどい内容だったし、私にはショックだった。読んだことを後悔するくらいトラウマになっている。
とはいえ、そのミュージシャンはかつてとても好きだったし、どこ行っても大絶賛だし、TwitterとかYoutubeとか見てると流れてくるしで、つい、つい、ちょっと聞いてみたら、おっ…、あっ…、…、… … みたいな良さがあり、よかった。でも、その良さを全然楽しめていないというか、「お前はこんなひどい奴の曲をいいと思ってるのか」と言うもう一人の私が出てきて邪魔をした。
いつもならこんなこと思ってなかったはずなのだ。
例えば、ミュージシャンが覚せい剤だか大麻だかで捕まると、その作品がCDショップから消えたり、曲がテレビやラジオでかけられなくなったりする。私は、それはおかしいと思う。シャブとかは違法だから、まぁ、それは悪いです、として、でも作品まで悪いか?作品は無実じゃないの?作った人が悪いことをすると作品自体に内在する良さまで損なわれるの?それに音楽って一緒に演奏してる人とか、CDをプレスする工場の人とか、営業の人とかジャケットの写真撮った人とかとの共同作品なんだからそのワンオブゼムが悪いだけで全部ダメなの?と思っていた。
そういえば、そんなに昔のことじゃないはずなのにもう忘れ去られつつあるけど、昨年は政治家の人が不倫してどーのこーのというニュースがいくつかあった。
それを見た人の意見の中には「政治家は法律を作って暮らしを良くするのが仕事なんだから、個人で不倫してよーと何してよーと有権者には関係ない。家族には個人的に謝るべきだけどそんなの有権者には関係ない」というのがあり、確かにそうだな、もっともだな、と思った。
でも一方では「家族との約束が守れない人に、有権者との約束が守れるのか?*1」とか「私生活で女性をないがしろにしているような人に、女性を尊重する政策が作れるのか?」みたいな意見もあり、うーん、そう言われると一理ある気もする…とも思った。
要するに、その人の「人格」と、公的な仕事や作品は
分けて考えるべきものなのか?
そもそも、分けられるものなのか?
と、悩んでいたんです。
私の結論
・その人の「人格」と、公的な仕事や作品についての評価は「分ける」
いや、何当たり前のこと書いてんだよって話なんですけどね!でも、つい混同しちゃうから。。。
えっとですね、私は分けようと思いました。分かりやすく言うと、どんなにイヤな奴でも、作品なり仕事なりの良い点はそいつのヤなとこは置いといて、良いと言おうと。逆にどんなイイ人、仲良しでも、作品なり仕事なりのダメなところはダメと言おうと。
仮にその作品/仕事のダメな点を評するときに「あ~、ココあいつの女性蔑視的な性格が出てるよなあ~」と思ったとしても、その人の人格と結びつけた批評ってしなくていいんじゃね?って思って。「作品のここに偏見が出てて良くないと思います」って言えば十分なんで。人格に言及する必要ないなと。良いところもしかり。
逆に作品/仕事が良いからと言って、その人を全人格的に持ち上げない。仕事でダメなことがあっても、その人自体がダメなわけじゃない。そういう風に考えることにした。
なに当たり前のこと書いてんだろって自分でも思うけど、作品や仕事と人格を結び付けられすぎて、傷ついたり、のぼせ上ったりしちゃう人がすごく多いなって感じるので、わざわざ書きました。
じゃあ例の曲が聞けるかっていうと、聞けないんだなコレが
そういうふうに考えることにしたんだけど…私はまだ冒頭のミュージシャンの曲をどっしり構えて聞けるかっていうと、どーしても聞けない。やっぱり吐きそうになってしまう。
前は、こうやって自分に筋が通っていないことが、嫌だった。
でもよく考えたら、この部分は矛盾していてもいいんじゃないかなって思った。
私には到底許せない過去を持っている人でも、その人が作ったものは美しい。その作品を美しいと評することを「でもあの人は…」と言って責めたり、否定することを私はしない。その事実ごと受け止める。
かといって、自分がどうしても受け入れられないものを受け入れることはしない。私として嫌なもの、聞けないものは聞かない。自分には受け入れられないことがある、ということを受け止める。でも、それを他の人に押し付けることはしない。
大人として、市民として、ライターとして、そういう態度を大切にしていきたいと思った。
厳しさと愛は同じところにあるな。
なんちて
*1:これに関しては「家族だからこそ守れない、っていう約束もあるんじゃないかな~」とも思った。それが不倫の言い訳にはならないと思うけど。
成り上がらないヒップホップ-SR サイタマノラッパーを見て考えたこと
昨年、友人から「まだ見ていないのか!絶対に見た方がいい!」という話になり、わざわざAmazonのギフト券をくれてまですすめてくれた映画「SRサイタマノラッパー」を年末に見ました。
初めて(日本語の)ラップを見聞きした時に「うわー、なんか恥ずかしい」と思ってしまったことはないでしょうか。見始めるとすぐ、そういういたたまれなさしかないシーンがこれでもか、これでもかと襲ってきて、シリーズ1作目の30分くらいで見続けるのがつらくてつらくてたまらない状況に。
でも、それが良かった。
今、またラップが流行っているけれど、当然ながらみんながBAD HOPみたいにかっこいいわけでもないし、ゆるふわギャングみたいに曲で歌ったことが実現できるわけでもない。マイク一本で成り上がる、ゲットーでも力強く生きていく、みたいなストーリーをついユースカルチャー/サブカルチャー/ストリートカルチャーとかに夢見てしまうけれど、現実にはうまくいくことの方が少ないんだよなあ。
ルックスも良くなく、ラップも下手で、そんなに音楽も聴いておらず、本も読んでない。友達も少なく、恋人もおらず、学歴も仕事もない。クラブもライブハウスもない地元から出ていくこともできない。イズムのないBボーイ、渋谷にいないロンリーガール。
でも、本当はそういうラッパーのほうが多いんじゃないか。
私はいちおう社会福祉士なのでそういう目線で見てしまうけど、登場人物はもしかしたら「福祉」の「支援」の対象になるような人たちばかりだ。働いていない「ニート」だったり、借金があったり、クズな男にひっかかって風俗で働いて中絶したりとかとか。
「福祉」の「支援」というと、オフィシャルにはこういう人たちを「まっとうな暮らし」に「引き上げる」ようなものばかりなことに、なんとなくうしろぐらいというか、こそばゆいというか…それこそ初めてラップを聞いたときのようなわざとらしさ、居心地の悪さ、恥ずかしさも感じていた。
いや、正しいんですよ?無理なく、きちんと稼げる仕事を見つけるとか、自己破産とか生活保護とかの制度をスムーズに使えるようにするとか。孤立していたり、家庭などの人間関係がハードすぎる人にはあたたかい交流の場を設けるとかとか。もっと具体的に言うと「相談支援」「就労支援」や「学習支援」は「まっとうな暮らし」へ導く手段だし、「子ども食堂」「居場所づくり」「地域のサロン」は交流の場づくりですよね。
でも、こそばゆくないですか?いや、こそばゆくないなら、いいんですけど…。
よく言われていることだけど、支援をする側の人(=公務員、教員、福祉施設の人など社会福祉士などのソーシャルワーカー、大学生や地域の心あるボランティアの人など)は「まっとうな暮らし」と「健康で文化的な交流の場」を得ていて、それによって自分たちは幸せだと感じられている人がほとんどだと思うんです。
その幸せは何ら責められるものではないし、幸せであることに何の疑いもないんです。
でも、それだけが幸せなのかな?とか、自分が幸せだからって、それを持っていない人をそれがある状態まで「引き上げる」ことが「支援」なのかな?というのが、自分の中で解消されない疑問だったんです。
たとえば学習支援は盛んですけど、もしもその支援が進学のためだけの支援だとしたら、なんか違うんじゃないかなって思うんです。それなら学習塾に任せればいいし…ということもあるけど*1、進学しない幸せ、進学しない生き方、進学しなくてもサバイブする方法ってあると思うし、なきゃいけないと思うし、そういう「多 様 な 生 き 方」を作っていくことがソーシャルワークじゃないかなって思うんです。
でも「支援する側」の想像力が欠けているせいで、つまり「支援する側」が高校や大学を卒業しないで幸せになる、というライフコースを想像できないままに「支援」をしていていいのかな、とは思うんです。就労支援や学習支援をするときに、自分が選んでこなかった生き方、自分のまわりの人にはいない職業や働き方を想像できるかということは、大切だと思うんです。
大学進学率はいま6割弱になったようですが、逆に言うとまだ4割、半分近くの人は大学進学しないわけです。でも「支援する側」の人は高学歴の人が多く、高学歴の人の友達もまた高学歴の人ばかりという現象は進みつつあるので、階層が違う人の生き方、気持ち、つまり文化を知ることが難しくなっているのではないかと思うんです。
私の中で消えない疑問というのは「高学歴の人や高収入の人や経済的人間関係的に「豊か(とされている)」な人の文化やライフスタイルに合わせていくこと=支援」と思われてはいないか?ということなんです。モヤモヤ。
話をサイタマノラッパーに戻すと、登場人物は本当にグダグダな人ばっかなんですよ。(「グダグダ」だと感じるのは、私が高学歴で健康で文化的で最低限度以上の生活をしているから、だけではないと思う…)
金もなく仕事もなく理解してくれる人もなく、八方ふさがりな状況を人のせいにしてばかり。それでも仲間とラップすることを通じて、何かを得ていく…というところもあるんだけど、この映画のいいところは、それでも全然現実は変わらない、ということだった。相変わらずラップは下手だし*2田舎はクソだし仕事はないし誰からもバカにされる状況はそのままなのだ。
でも映画のハイライトは、そのクソな状況のなかで無茶苦茶ヘタなラップをこれでもかと聞かせるところだ。彼ら彼女らのステージは、夢見たライブ会場ではなく、場末のバイト先であり、早く結婚しろとなじる親戚の前であり、刑務所の中なのだ。
成り上がるな、身の程を知れと言いたいわけではない。むしろ逆で、成り上がりとか、まともな暮らしとか、豊かなつながりとか、手垢のついた言葉に惑わされないしたたかさを、どんなしょうもない状況と思われているなかにいるひとたちも、持っているはずなのだ。ラップとも独り言ともアジテーションともつかない調子でがなり立てるのは、「ただ、ここに生きているんだ」という言葉だけだった。
誰が見ても正しいとしか思えない善行も、自分はただここにいるんだと言っているだけの叫びの声も、どちらも恥ずかしいと感じてしまう自分は何なんだろう、と思う。
でも、サイタマノラッパーでいちばんみんなに力を与えていたのは、いちばんかっこ悪くていちばん恥ずかしいことを、最後までやり続けている人だった。
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*1:実際に学習塾に任せる「スタディクーポン」という方法を選んだ自治体もあるみたいですね http://studycoupon.hatenablog.com/entry/project.summary
*2:主人公のIKKUだけ、3作の映画を経た後のテレビ編では実際にはラップが上手くなってしまっており、ストーリー上これでいいのかなってなんか変な気持ちになった。
つながるけどつるまない---ネットワークについて
私、いちおう社会福祉士なんですけど、業界関係者が集まる勉強会とかイベントに行って必ず聞くのが「つながりが大事」「つながることが大事」というやつなんです。ネットワークが大事だと。
でも、大事大事といいながら、どうもいっこうに満足のいくネットワークができている人や団体がないようなんです。それは理想が高すぎていつまでも実現されないものである、という意味でもあるのかもしれないけど、どっちかというと相変わらずのセクショナリズム、いわゆる縦割り行政/縦割り民間団体、困ったときに頼れる社会資源がない、みたいな感じなんです。これだけみんながつながりつながり、ネットワークネットワークと言いながら、それが実現されないのはなぜなのでしょうか。そんなに求めているのになぜ得られないのでしょうか。
一方、SNSなどで華やかなパーティーかなんかの写真と一緒に「出会いに感謝」「ご縁に感謝」「いろんな人とつながれた」とか言ってるのを見るとイラっとしたりモヤっとしたりオエっとしたりしてしまうのは、なぜなんでしょうか。いいじゃないですか、つながり上等じゃないですか。…こういうことで嫌な気分になるのって、やっぱり私に友達が少ないから?妬んでいるだけなんじゃないか?と常々思ってきました。
そもそもつながりとは何のため?
でもなんで社会福祉士がつながらないといけないかというと、それはソーシャルワークのためですよね?仕事のため。命にかかわるような緊急の状態に介入してその人の生活をなんとかマシにするためとか、認知症の人が家で暮らすためのサポート体制をつくるとか、生活保護基準の引き下げを阻止する運動を起こすとか。そのために「つながり」が必要なんですよね?
そう考えると、その仕事、その問題の解決に必要なのはパーティでウェーイってなってる「つながり」とか、勉強会で「つながりが大事ですよね~」「大事ですよね~」「つながりたいですね~」とか言ってることではないということは明白ですよね。
それはネットワークじゃなくて仲良しグループじゃないの?
「つながり」とか「ネットワーク」、あるいは「協働」「連携」って「私たち同じ目標を持った仲間よね、チーム一丸となって力を合わせて頑張っていこっ(キラキラ)」みたいなものだと私は思ってたんです。
そして、それが気持ち悪いと思ってたんだな、と気が付きました。
もちろんそういうチームで頑張って、危機介入やサポートネットワークができて生活保護基準が道理の通らない理由で下がるのを阻止できるなら、どんどんやればいいと思うんです。でも、それだけでは物事が前に進んでいないから、変わらずネットワークネットワークと言っているのではないかと思うんです。
私は、目標を成し遂げるための、社会福祉士のネットワーキングとは「気持ちが同じ」「分かり合える」「仲の良い」人や団体と一緒にやっていくだけではなく、「嫌だなと思う」「あいつの気が知れない」「やり方がいけ好かない」と思う団体とこそ、うまくやっていくことではないかと気づきました。
「あいつ」とは、困難事例はスルーしてうまく金だけ儲けてるっぽいあの団体かもしれないし、異動してきたばかりの担当者が分かったような口をきく行政かもしれないし、たいしたエビデンスもなく自分の正しさだけを訴えてくるNPOかもしれません。「社会問題に興味を持ってくれない一般市民」かもしれません。
ガマンして仲良くするのが「ネットワーク」か?
この「うまくやっていく」の「うまく」が大事で、それは「ネットワーク」のために耐え難きを耐え忍び難きを忍んで「嫌な人とも仲良くする」ことではないと思うんです。それが苦なくできる人はやればいいと思うんだけど、苦ならやめたほうがいいと思うんですよ。「意見が違う人とも話し合えば分かり合える」とか言いますよね。粘り強く話し合いを続けることが大事な時や、それが苦にならない方は話し合いを続ければいいんですけど、残念だけどそうじゃない、ということも現実には多々あるので、解決にはいろんなバリエーションを持っていていいんではないかと思います。
どうするかというと「ベッタリ仲良くはしないけど『ココ』は組めるな」と思うところだけは組む、みたいな方法とか。いけ好かないから「あいつには金輪際頼らない」とか子どもみたいなこと言ってないで、どんな状況でも最適な手を打てるように手持ちのカードをしたたかにそろえておくこと、それが専門職のネットワークではないかと思うんです。誰とでも仲良くなって仕事をする、というだけじゃないと思うんです。それでうまくいく人はいいけど、多くの人はそれでは甘えが出てしまう。危機介入の例でいえばその人に最適な支援機関につなぐんじゃなくて「頼みやすいから」という理由だけでリファーしてしまう、とか。生活保護の引き下げの例で言えば、内輪だけで反対派の悪口を言うだけで終わってしまうとか。大事なのは「好きじゃないな」と思っても「この人にはここで相談してもらうとよさそう」と思ったら紹介できるとか、生活保護を受給している人に生まれてこの方一度も会ったことがないという階層の人とも、意味の通じる会話ができることではないでしょうか。
それは難しいことですよ。だからこそ、それが「専門職」に求められることなんじゃないでしょうか。
つるんでるほど暇じゃない
私が「つながり」や「ネットワーク」に感じていた気持ち悪さって、つまりはそれって「つるんでいる」ことに対する気持ち悪さだったのかなと。。。誰とでも仲良くできる人ならそれでいいけど、そういう人はあまりいないと思うし。自分だってそんなの無理なのに「仲良くしなきゃ」「相手の背景を理解すれば…きちんとした対話を重ねれば…分かりあえるはず…」みたいに思っちゃってたんですよね。でもやだなって思うことってあるしー、しかたないしー、そんなにすぐにわかんないしー。
「好きだから一緒に」「嫌いだから会わない」って子どもかよって話ですけど「嫌いだけどガマンしなきゃ」も同じくらいガキっぽい考え方ですよね。仕事なんだから、プロなんだからもっと賢くしたたかに、サスティナブルにやらないと。コミュニケーション力って「友達が多いこと」じゃなくて「好きとか嫌いとかの感情に左右されずにプロジェクトの結果を出せること」じゃないかなって思うし。
「嫌いなんだけど、自分も相手も不快じゃない」くらいのニュートラルさで付き合う。必要な時に、必要なぶんだけ、協力しあう。ゆずれないところまで折れることはないけど、目的のために必要なことは譲歩しあう。そういう細かな調整、冷静な状況分析ができるからこそ難しい課題にあたれるのであって、…近しい団体が「こうだよねー」「そうだよねー」って言ってるのはただつるんでるだけであって、ましてやそれでコレクティブ・インパクトとか無理なんじゃないかなって思います。
もちろん本当にダメな団体、ダメな行政にはダメってちゃんと言って「つながらない」ことも当たり前に大事なんだけど、ベッタリかバッサリかの二択、0か100かじゃなくて、自分がラクで相手も傷つけない割合で付き合えばいいんだと思う。何かの「つながり」を期待して気の進まない飲み会に行ったり、気に入らない団体の悪口を言ってるヒマがあったらもっとできることがあるはずだし。
(なんだか専門職の話だかふだんの人間関係の話だかわかんなくなってきたわ。)
つるまないほうがラクかも
ただ「つるみ」が必要な時もあると思うんです。わかるわかるとなんでも受け入れてくれて、安心して愚痴が言えるような。でも、それだけで悦に入ってるのって専門職の仕事なのかなって。もしかすると社会福祉専門職は孤独すぎて「つるみ」の場すら得られていないので、つながり以前に自分のベースとなる、あたたかな巣のようなつるみの関係を求めているのでしょうか…。って皮肉で書こうと思ってたんだけど、はた、と考えると案外そうなのかもしれない。とも思ってしまった。。。昨今の「居場所づくり」の流行って、みんなが「つるみ」を求めているということではないか、とか。
逆に言うと、私みたいに「誰ともつるめない」のが長年の悩みだった人には、そうじゃない人との「つながり方」で頑張れるフィールドがあるんだと思えるのはちょっと希望かもしれない。つるみとつるみの間をつないだり、批評したり、編みなおしたりするような。
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MADARA2回目レポート&モリーダ・カーロの青い家を見てきました
9月23日に第一回を開催した「NPOのための情報発信講座MADARA」の第2回を11月23日に開催しました。ご参加いただいた皆さん、お手伝いいただいた皆さん、本当にありがとうございました~!
今回は宿題として調べてきた自分の団体の歴史を、社会や世界の歴史と重ねてみる「クロニクル編集」というお稽古をやってみました。
編集学校の課題でも「クロニクル編集」は本当に面白くて、感動して、私は何でもすぐ泣くタイプなのでこの日もつい参加された方のクロニクルを見ただけで涙してしまいました。特にドラマチックな出来事があるわけじゃないんだけど、クロニクルを見るだけでいつも感極まってしまう。。。他人の歴史なのに。。。
とはいえこの「クロニクル編集」はNPOだけじゃなくて、学生や若いソーシャルワーカーが「メゾ/マクロレベルのソーシャルワークを学ぶ」入り口になる教材、プログラムとして開発できるんじゃないかなと気づきました。
『資本論』発刊から150年ということで、資本論と貧困問題というコアなテーマで新聞社からインタビュー。面白かった。学生さんは『資本論』を解説本からでもいいから読んでほしい。
— 藤田孝典 (@fujitatakanori) November 22, 2017
資本論は資本主義理解が必要な現代社会にも有益な社会変革理論。ソーシャルアクションを必要とするソーシャルワーカーは、難解でも資本論の読書に取り組んでほしい。
— 藤田孝典 (@fujitatakanori) November 22, 2017
藤田孝典さんがおっしゃるのはもっともなことだと思うんだけど「読みたくないけど勉強のためにする読書」のつらさ、身につかなさ、地獄みは半端ないので、その前段階の「資本論が読みたくなるような」「ミクロ以外のソーシャルワーク/ソーシャルアクションをやりたくなるような」内発的な動機付けを促す教育プログラムがあるといいんじゃないかと。
クロニクル編集は「自分」と「世界/社会」との関係をぐっと近づけたり、違う方向からとらえたりできる簡単で面白い方法だと思ったのです。大学の先生とかといっしょにプログラム開発できないかなあと思ったんだけど、何から始めればいいのかわからない。
***
17時過ぎには終わったので、帰りに矢場町のギャラリーに寄って「モリーダ・カーロの青い家」を見てきました。
【名古屋】森村泰昌「モリーダ・カーロの青い家」MoriP100/06-014
「ギャラリー」なんて初めて行ったけど、ギャラリーの人がいろいろ教えてくれて楽しくみることができました。
これは森村泰昌さんが100種類の「マルチプル作品」を100個ずつ(合計10,000個)つくって売るというプロジェクトなんだそーです。
森村さん自身がこのプロジェクトについて語っていたことが印象に残った。
「『作品』はひとつとか、ほんの少数しかなくて、届けられる人が少ない。でも『自分のやりたいこと』を深く深く追求することができる。
『商品』はたくさん作って多くの人に届けられるけど、多くの人が欲しいと思うものの最大公約数をとった表現になる。
このプロジェクトでは『作品』と『商品』のあいだにあることをやりたい」
自分はライターとして『作品』として深められるような文章を書く覚悟もなく、かといってバカ売れする『商品』を提供することもできていない。何をどうしてどうやって書いていくのがいいんだろう、とつねづね思っていたけれど、「作品でも商品でもないあいだにあるもの」が、マーケットの中でも自分の中でも、意外に求められているのではないかしら、と感じました。
そして「ギャラリー」とは、美術館と違って絵を見に行くところじゃなくて絵を買いにいくところなんだ、と38歳にして初めて気づいたこともあり、いちばん「商品っぽい」マルチプルをひとつ買いました。バッヂと小さい鏡のセット。パチンコ屋の新装開店の花輪のようだわ。。。
#モリーダカーロ
本当はお花のついた髑髏のがイカスわ、うちの和室につるしたらかっこいいんじゃないかと思ったけど値段を見てあきらめました。このくらいポンと買えるようになりたい。もっと書いてもっとメイクマネーしなければ。
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誰がワーキング・クラスの味方なのか
いま、子どもの貧困、とか、貧困の問題についていろいろ言われているけれど、子ども食堂をしたり学習支援をしたり病児保育をしたりしているひとのほとんどはホワイトカラーというか、大卒で、健康で、経済的な資本にも社会関係資本にも恵まれた人たちだと思う。
それがまったく悪いこととは思わないけれど。
しかし、昔は、というか私が生きていないころの話なので確かめられないんだけど、昔は「ワーキング・クラス」という呼び方があったそうじゃないですか。「ワーキング・クラス・ヒーロー」とかね。大卒のインテリじゃなくても、ブルーカラーでもその「クラス(階層)」に対する敬意というか、そういうものがその階層内にも、階層外にもあったんじゃないか。そう想像するんです。それは文化的社会的経済的援助を与えて「ホワイトカラー層並み」に、文化的社会的レベルを「引き上げよう」とするものだけではなく、ワーキングクラスの文化をそのままで受け入れようとするものではなかったのだろうか、と私は想像するんです。
でも、いまやワーキング・クラスという呼び名はすたれ切ってしまったみたいで「ヒルビリー」とか「CHAVS」とか、日本語で言うと「DQN」みたいな。「スマートフォンとPCの両方を使いこなし、SNSで意識の高い議論を交わし、テレビもユーチューバーも全然見ない」みたいな層「以外」の人をそう呼ぶみたいなんですけど、それをかわいそうとかそれゆえに貧しいんだみたいな思い上がりがあると思うんです。(「ワーキング・クラス」の文化の弱体化という原因もあるんだろうけど。)自分は大卒でホワイトカラーでオバマ/立憲民主党支持者だけど、そのことにモヤモヤモヤモヤするんです。
このブログ↓に「オバマの民主党やブレアの労働党が、いかに労働者階級の人の意見を代表する党ではなくなっていくのかを鮮やかに描いた二冊。」という記述がある。
「困ったら何でも相談してください」「誰もが来ていいところです」と呼びかけるNPOよりも
「1万円札を1万5000円で売ります」とメルカリで呼びかける人や、「お給料の前払いができますよ」というアプリ(Paymeとか)のほうがずっと「当 事 者 の ニ ー ズ」に合っているのではないか、わかっているのではないかと思うたびに無力感にさいなまれるけれど、
私はあきらめない。
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ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち
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5000人の友だち
引越しをするので、毎日少しずつ本を新居に運び入れている。
重たくて重たくて、こんなに重たいわ場所をとるわではそりゃあみんな電子書籍にするよな~、と思う。
思っていたら、スーザン・ソンタグさんがこんなことを言っていたと知り、ジーンときてしまった。
本は沢山ありますよ。
下の階にも。でも、本を減らすべきだとは思わない。友だちが5千人もいるようなものですから。しかもこれらの友だちは、とても控え目で、私が声をかけるまで邪魔はしない。
ときには、D・H・ロレンスの本の前に立っただけで、本をとり出しもしないことがある。出さなくてもわかるんですよ。そこに何があるのかが。かれがそこに居てくれると思うと、それだけで満足なんです。しかも私は図書館嫌いときているので、わざわざ出かけて行かなくとも、かれがそこに居るということがとても嬉しい。好きな作品はそばに置いておきたい。これは敬意の表明でもある。本を沢山もっているということは、キーが沢山ある楽器をもっているようなもので、その時どきに合わせてキーが選べる。ただ眺めて、どんな音かを思い出すだけで充分なこともあります。本やレコードは物質的というより、もっと別なものを与えてくれるものとしてある。(『objet magazine 遊』2期:1006・1007 スーザン・ソンタグ3 727「ラディカル・ウィルの速度に乗って <前篇>・<後篇>スーザン・ソンタグ=松岡正剛」通訳翻訳=村田恵子・木幡和枝)
そうなんだ、本は友だちだったんだ、と思うと泣けてきた。
高野文子さんの「黄色い本」の中で、主人公が「チボー家の人々」の登場人物と、まるで生きている人間とするように会話するシーンがある。いや、「まるで生きているように」と書いたけれども、主人公にとっては「生きている」人なんじゃないか。まさに生きているのではないか。
本を読んでいて、そこに登場する人が、それを書いている作者が、それについて語っている人が、ありありと現れてくるように感じることがある。励まされたり、ひどく傷ついたり、憧れたり、眠くなったり、ドキドキしたりする。手で触れたり声を出して話し合ったりするよりも、ずっと確かなものを感じて心や体が動かされることがある。
ソンタグは「控え目な友だち」と言っているけれど、私にとって本は、私の孤独を尊重してくれる優しさのある友だちだと感じた。
最近はネットばかり見て、たいして読まなくなってしまったんだけど、ほとんどの本が新居に行ってしまってさびしい。そうか、このさびしさは友だちと離れたさびしさなんだなあと思った。(それでも、数十冊の本は売ったりあげたりしてお別れした)
写真は、とはいえ家に何も読むものがないのは嫌だと思って残しておいた3冊と、運び忘れていただけのWIREDのアフリカ特集*1。比較的あたらしいお友だちばかりなのは、心があたらしい方向に向かっているからなのでしょーか。
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WIRED VOL.29/特集「African freestyle ワイアード、アフリカに行く」
- 作者: Condé Nast Japan (コンデナスト・ジャパン),WIRED編集部
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- 作者: スーザンソンタグ,Susan Sontag,木幡和枝
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*1:写真がとてもかっこいい。買ってよかった
「地」と「図」のあいだを編集するーー「NPOのための情報発信講座MADARA」第一回ふりかえり
↓こちらのブログでエモエモしく告知し「情報発信講座の情報発信がこんなんでいいのか?」と脳内世論を巻き起こした「NPOのための情報発信講座MADARA」を2017年9月18日に無事、満員御礼で終えました。お越しいただいた皆様、ご協力をいただいた皆様、本当にありがとうございました!
「この会のふりかえりを書かないことには前に進めない」という呪いにかかっているので、もう一週間経ってしまいましたが書きます。時間が経つのが一瞬だなあ…。
「地」が広がらない
参加者の方に好評だったワークの一つに「地」と「図」を考える、というのがありました。
例えば「りんご」というモノは同じでも、「地」に「スーパーマーケット」を置けばりんごは「商品」と言い替えられる(=図)し、「地」に「仏壇」を置けばりんごは「お供え」になります。食卓に置けば「デザート」だし、アトリエを地に置けば「静物画のモデル」、ドコモショップならば「iPhone」になります。
では、同じように自分の団体(NPO)を「図」として、「地」を「将来の仲間(になって欲しい人)」と考えて、「地」を動かして自分の団体の在り方を色々考えてみましょう、というのをやりました。
「地」を動かす、つまり視点を変えると自分の団体の様子がダイナミックに動いて見える、捉え方が変わる、新しい見方を発見できるというわけです。これはなかなかに新鮮な体験で「面白かった」「持ち帰って団体メンバーの皆で一緒にやってみたい」(←社員研修などにオススメです!)などといった感想をいただきました。
でも、私が参加者の方のテーブルを見て思ったのは「あまり『地』が広がらないなあ」ということでした。NPOの「地」=将来の仲間って「団体スタッフ」「ボランティア」「寄付してくれる人」「利用者(お客さん)」「行政」だけなのかなあって。そういう風に書いてる人が多かったんだけど、それだけなのかなあって。
今日買物をしたコンビニの店員さんにとって、あなたの団体とは?
あなたの家族にとって、あなたの団体とは?
隣に座っている参加者の人にとって、あなたの団体とは?
っていう風に広がらないのは何故なんだろー、と思いながら見ていました。『誰もが○○な社会~』というのを標榜しているのに、それだけの人が『地』でいいの?「行政」とか「市民」ってざっくりしすぎでは?普段は『障害者』とか『外国人』ではなく『その人』をみる、という視点で活動しているのでは?など、小姑のようにイヤらしく観察してしまいました。そうです、私が「何もしない割に文句ばっかり言う、ヤなおばさん」です。
しかし、終了後のスタッフふりかえりの場で「あのお題ってどうだったのかなあ」という話が出まして。
「将来の仲間」=「地」って、NPOにとってそんなに無尽蔵に広げればいいってもんじゃないのでは?という意見があったんです。何のための団体か、理念に基づいた活動をしていれば、活動の影響の届く範囲は広く大きくなくても、確実に届けたいところに届くことや、仲間の数が限られてもいいのではないか。そういう団体にとって、「地」を動かす、という「方法」は学びになるとしても、やたらに振り幅を大きくすることにさほど意味はないのではないか?概念の遊びになってしまうのではないか?ということです。*1
それを聞いて私は「ああ、自分は『自分の持っている世界の殻を破ってどんどん新しい出会いを求めていくべき』」というフィルターで物事を見がちなんだな」ということに気づきました。
参加者アンケートでも「地」が全然広がらなかった、という感想があったのですが「できなかった」ことが悪いのではなく、むしろそこがチャンスなのだと思います。どんなフィルターを使って思考したから限界があったのか。フィルターを切り替えるために必要なことは何か。それを考えることがスタートなんじゃないかなあと思います。「編集が不足から生まれる」ってこういうことかー、と。
なんでMADARAという名前にしたのか
講座を始めるにあたり「NPOのための情報発信講座」というネーミングでは「長い・言いづらい・堅い・つまらない」の悲惨カルテットだと思ったので、何かよいニックネームを付けたほうがいいと考えました。
「NPOのための情報発信講座」は東京など他の地域では何年も前からやっていたものでもあり、何か名古屋らしい意味を加えたいなと思っていました。どんなミクロな活動をしている人でも、グローバルな活動をしている人でも「名古屋(とその距離的な周辺)という地区」が「地」になりうる団体が参加者だと思ったからです。
でも「金シャチ」とか「味噌煮込み」とかベタな名古屋のイメージもなんか違うと思ったんですね。金シャチや味噌煮込みも好きだけど、NPOのイメージとは違うと思ったんです。私はNPOに「既存の価値観を超越していくようなもの」を勝手に期待しているので、誰でもすぐ思いつくような名古屋のイメージは使いたくなかった。
そんなとき、ある打合せで編集学校の名古屋チーム(曼名伽組といいます)の組長であり、名古屋の良心「面影座」の座長でもある小島さんが「名古屋って、どこかに確固たる中心があるのではなくて、各地に独特の歴史や文化があって'まだら’みたいになっているんですよね」と言ったことを思い出し、この名前をいただこうと決めました。(小島さんありがとうございます)
確固たる中心がなく、濃いところも薄いところもある。かたちも配置も不揃いである。でも、そういうところにこそ価値やつながりを見出していく。わたしはそういう世界(名古屋)に住みたいと思うし、NPOが目指す社会はそうであってほしいと思って「MADARA」という名前にしました。
また「まだら(斑)」の語源を調べたら、どうやら「間(ま)がある」または「間がない」という「間」、あいだ、に関するものだったんで、これはイシス編集学校っぽさもあるなと嬉しくなって付けました。「地」に対する「図」が大事なのではなく、「地」と「図」の関係をたえず編集し続けていくという姿勢でいたいものです。
さらに後付けですが、「マダラ神」という神様がいることを知りました。『煩悩の神様』でもあり『後戸の神』といって、教義の本質的な所を守る神でもあり、芸術や芸能の神でもある、というのもいいなあと思って、悦に入っています。
で、MADARAはさらに掘り下げたい方のために、第一回の参加者限定ですが、二回・三回とある連続講座となっております。次からは少人数(10団体限定)となり、さらに濃いフィードバック(指南)もできると思いますので、ぜひ続けてのご参加も検討くださいませ。
★同じ講座のふりかえりとは思えない、きむらさん(スタッフ)のブログはこちら↓
meta-kimura.hatenablog.com
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*1:もちろん「地」は、この場合は「将来の仲間」としましたが、どのようにでも変えられるものなんですが。