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#レコーディングダイエット

毎日食べたものを書きます

「誰も排除したくない」という欲望と、「物語をつくること」のあいだにあるもの

マルシェとかファーマーズマーケットとか、
ちいさなお店が集まってバザールにする催しが流行っているじゃないですか。

先日、ある会社の社長さん(飲食関係)とお会いして話したんだけど

「ああいう催しって、ただお店を集めるだけでも
 『いいお店』を集めるだけでもダメなんだよね。

 まず、作りたい場の「ストーリー」を決めて
 それに合うお店に集まってもらうようにしないと。
 いくらいいお店が来たとしても、「ストーリー」に合っていないと
 場としてちぐはぐな感じがして、うまくいかないんだよね」

と言っていた。

たとえば「オーガニックな食べ物を売るマーケット」だと、物語としては弱くて


1)アートやクリエイティブに敏感ながら、 自然との暮らしも大切にする
 ポートランドのライフスタイルをイメージした
 スローライフと“食”をテーマにしたマーケット


とか


2)身体の声に耳を傾け、本当にカラダとココロが求める
 食材とロハスなモノ・コトだけを集め、現代人が忘れてしまった
 オルタナティブな暮らしを提案するヴィーガン・マーケット

とか


単に野菜やらコーヒーやら手作り雑貨やらを買いに行く、のではなくて
このキャッチを読んだ人がその雰囲気やめざす生活、思想をイメージできて
かつ、それに共感したひとが出店したり、遊びに来たりできるような
ストーリー、「物語」を考えるべきだと。

単なる「いいもの集め」ではなく、「ストーリー」に共感できる人が集まり
集まった人がさらにその物語やイメージを豊かに紡いでいくような場を作ることが肝心だ、
というようなことを話していた。

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ロハス」とか「ポートランド」に全く罪はないのですが、それらに対するわたしのひとかたならぬ思いが行間からにじみ出る文章となり、申し訳ありません。


ひるがえって、
いま、福祉の人などが取り組んでいる「居場所づくり」とか
あるいは「ケアのための施設」(いわゆる老人ホームとか)なんかは、
この「物語をつくる」というところが弱いのではないかと思った。

弱いからダメ、というのではなく

その背景に、福祉の人には「誰も排除したくない」という気持ちがあるからではないかと思った。

さっき挙げたオーガニックの話で言うと
1)のポートランド派のマーケットには、
オーガニックコットンのファブリックなんてたくさん売ってそうだけど

原子力発電に反対。
 風の力(風力発電)だけで織ったコットンの布ナプキンです」

っていう打ち出し方をするお店の人は、浮いてそうですよね。


でも、福祉の人は(わたしも含みますよ)、
誰も排除したくないんですよ。
サードウェーブコーヒーの人とも、
ラディカルな左翼ヴィーガンの人とも仲良くしたいんですよ。

不登校に悩む子たちのフリースペースだといえば、
30代のひきこもり状態の人は来れなくなり、
精神障害者自助グループだと言えば、
障害者手帳を取得していないうつ病の人は行きづらい。
高齢の人の孤立した暮らしを支えようと地域にサロンを作っても、
「俺を年寄り扱いするな」と言われれば集えない。

そういう経験をしてきたから、
今まで、どの「物語」にも乗れないで苦労してきた人たちを見てきたから、

「誰もが集まれる」
「誰もが来られる」
「誰でも来ていい」
「誰も排除されない」
「みんなの居場所」

が欲しくなる、切実に。

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だけど、いくらいいものだからといって、
都会のおしゃれなファーマーズマーケットに、
泥も毛虫もたっぷりついたまま野菜を段ボールにどーんと入れて
長靴のまま売りに来たとしても、それは売ってる農家もお客さんも
まわりのお店の人も、誰も居心地が良くないものになってしまう。

では、「物語をつくること」は、
「誰かを排除する」ことなんだろうか。
「誰も排除しない」ということと、
「物語をつくること」は、相反するものなんだろうか。


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ひとつの居場所、ひとつのイベント、ひとつの施設だけで
「誰もが」を実現することは、難しいと思う。

毛虫のついた野菜のおじさんは、都会のマーケットでは浮くかもだけど

『豪快!熱血農業野郎大博覧会』

みたいなイベントだったら、うけるんじゃないだろうか…。

ポートランドがだめなんじゃなくて「ポートランドしかない」という状態だと
排除が生まれてしまうんじゃないだろうか。
ポートランド」も「熱血」も「ハードコア・ヴィーガン」もいろいろあって
好きな物語を選んだり、
気分によって物語から物語へと乗り換えていけることこそが
本当に、「排除しない・されない」ということじゃないかなと思った。


逆に、自分の施設や団体だけで
「誰もが」をいきなりめざそうとすることは

・カレーもラーメンもパスタも冷やしたぬきそばもステーキも出す店
 ということになってしまい(=コモディティ化マクドナルド/ファミレス化)
 結果として何も美味しくない店 みたいになってしまわないか?

という懸念もあるし

・自分の施設や団体「ではないところ」や、「外」
 自分の施設や団体「ではない人、団体」に
 ちがう物語を作れる力がある
 ということを、信じられていない ということではないか?

そしてそれは、とても傲慢なことではないか?
という気もした。


しかし、じゃあ「物語」をつくる人や団体が地域にたくさんあるかというと
そうでもない という実態はあると思う。
(だから、どの物語も選べない人がたくさんいるわけで)

もしかしたら、これからの福祉や社会的包摂といわれる活動の役割のひとつは
こういう「物語」のあるコミュニティをたくさんつくっていくことじゃないかと思った。
その物語の在り方は、さまざまであってほしいけれど、
できるだけ「他の物語」を排除したりせず、自分たちの「物語」が万能でなく
自分達の「外にある物語」の存在も意識しつつ、何らかの方法で物語同士の交流もあるような
そんなものであってほしいと思った。

ちなみに
そういうことが得意なのって、じつは福祉の専門家じゃなくて
芸術や文学の勉強をしてきた人なんじゃないかなっていうことも思った。

でも、福祉の人も、「その人の物語を大切にする」という
ナラティブ・アプローチっていうの?そういう方法は、流行っているわけで
ミクロの領域で培ったその方法で
コミュニティをオーガナイズしていくことは、できるんじゃないかなあと
偉そうに思いました。



(追伸)
でも「わたしたちの物語の限界は、ここまでだから、乗れない人がいても仕方ない」
ということは、
「乗れない人がいるのは当然だーい」 じゃなくて
「わたしたちの限界」を見極めたうえでの、苦渋の決断であってほしいと
思うのでした。


ナラティヴ・ソーシャルワーク―“〈支援〉しない支援

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