#レコーディングダイエット

毎日食べたものを書きます

「さみしい病(びょう)」の行方

夜中に子どもが外に出るなんてけしからん、っていうのは
子どもにとって必ず、外よりも家の中のほうが安全で安心できる場所だってことが
前提にあるわけですよね。

家の中で家族とかから暴行されている子はどこに居ればいいんだ。

親は良くても子はグレる


わたしも10代のころは、夜にこっそり家を抜け出すような
今思うとぞっとする遊び方をしていたんだけど
うちの親は、殴ったりしていません。(笑)

それどころか、叱るときは叱り、甘やかすときは甘やかし
年に一回くらいは家族で旅行に行き、
家には本がたくさんあり、
テレビを見て政治のことを話し、
勉強しろとか大学行けとかひと言も言わず好きにさせてくれる
まー、絵に描いたようなグッド・オールド・デイズの
中流階級の家ですよ。

それなのにわたしはあまり家にいたくなくて
っていうか、全然家にいたくなくて
居心地がいいと思えなくて
夜にひとり出かけていたんですよね~。

だから、親には何の罪もなくても
子どもは子どもなんですよ。(笑)
親のかかわり方がどうであれ、親との関係がどうであれ
出ていく子は出ていくもんなんですよ。
ソースはわたしの経験からだけなんだけどさー。

確かに、家庭がゲットー過ぎて家に居られない
町中で寝る場所なんてどこにもない
そういう子らもいると思うんです。

でも、いずれにせよ、夜に子どもが出歩いたとしても
わたしは決してその子らを責められないし
ましてや親や家族の責任なんかじゃないと思います。
わたしが夜中に出歩いたことと、うちの親の教育は
全く関係ない。
子どもは親の子育ての「成果物」じゃないと思うんだよね。


うちの親は倫理的で素晴らしい親だったけど
わたしは夜中に出歩いていて、誰かに手をかけられて
いたかもしれない。
そうされなかったのは、ただ単に運がよかっただけだ。

出歩くぐらい自由にさせろ


でも、夜に出歩いたら、危ない目に合わされても当然、なんて
ホントはおかしいでしょ。

そんなのさー、
店員さんが見てなかったら、商品を万引きされても当然 とか
バットのそばを通りかかったら後ろから殴られても当然 とか
ナイフが置いてあったら刺されても当然 とか
言ってるのと同じじゃね?って思うんですよね。

万引きは、盗んだ人が悪いんであって
店内に所狭しと店員を配置しない店が責められるなんてことないじゃん。
傷害事件は刺した人が悪いんであって
ナイフが悪いわけでも、ナイフのそばにいた人が悪いわけでもないじゃん。
なんで出歩いただけでひどい目にあわされなきゃならんのじゃい。

見てなくても盗らない、ムカついても刺さない。
それと同じで、暗くても誰も見てないくても、無抵抗な子どもでも
やってはいけないことはやらない、って当然じゃん。
やってはいけないことをやったほうが悪いに決まってるじゃん。

子どもや女性や、どんなに力の弱い人が
無防備に道を歩いていても
誰も悪いことをしない。されない。
そういう ま ち づ く り をすることが
大事なんじゃないの~?
治安を乱してるのは誰なの?
オンナ子どもを責めることで、誰が一体トクしているというの?


(とはいえ、今日すぐに暗闇で悪いことをしてしまう人が
いなくなることはない、というのも悲しいけど現実なので
防衛のためになるべく出歩かない、ということをせざるをえないのも事実。
迷惑な世の中ですなあ。)

そもそも僕らは夜に生きるのか、そうでなければ、なぜ夜は


でも、できれば子どもは夜は出歩かないほうがいいと思うんですよ。(笑)
って、どっちやねんていう話なんですけど。

子どもが夜に出歩かないほうがいい理由、っていうのは
できれば「悪いことをする人がいるから」っていうよりも
昼に元気に遊んで、夜は寝たほうが健康とか成長にいいよって
いうのが先じゃないですか。
(だから、やっぱり家でゆっくり寝られない子がいる現実はつらい)


でも、そんなん言ったら大人だって同じじゃないですか。
大人だって昼に仕事とか活動とかして、
夜は寝たほうがいいわけじゃないですか。
夜になったらどうすんですか。
夜になったら寝るんです。



でも、夜に出かける楽しみっていうのは、あるわけでしょう?
たとえ健康に悪くても。次の日の仕事に差しつかえるかもしれなくても。
次の日が休みだとして、その休日を二日酔いで棒に振るとしても。
夏祭りとか盆踊りとか花火とか、
ハロウィンとかクリスマスとかカウントダウンとか
ロマンチックなことや、ドキドキするようなことが
夜には、あるわけでしょう。

そもそも僕らは昼に生きるのかもしれないけれど、
昼間だけでは生きられないのかもしれないなあと思う。
昼間には見せられないような顔を見せられるところ、
昼間にはできないようなふるまいができる時間に
魅せられるんじゃないかなあと思う。
10代の頃、クソわかりづらいフライヤーの地図だけをたよりに、
初めて一人でクラブに行ったとき、

「ここにいる人たちはみんな、わたしが普段何をしていて
 何歳で、どんなことを考えているかなんて
 何も知らないんだな。
 誰も、わたしのことなんて知らないんだ。」

と思ったとき、強烈にほっとしたことを覚えている。
自分が誰であっても、「誰か」じゃなくても
そこに居られる、ということがうれしかった。


まあ、こんなオバさんのエモい昔語りは置いておくとしても
夜にはちょっとドキドキするような、羽目を外してもいいような楽しみがあって
それが好きな人は少なくないわけじゃないですか。
健康で文化的な昼間のたのしみだけじゃなくて、
ちょっと不健康で品がなくても文化的な、夜の楽しみだって
誰でも楽しめたほうがいいと思うんだけどなあ。


昼は夜を信じることなく、夜は昼を信じることなく


夜の楽しみ方にもいろいろあって、
確かに昼間には会えないような人と出会えるっていうのは
盛り場の大きな魅力の一つだと思うんですね。

だけど、無闇に大酒を飲むのが危険なように、
やたらに「知らない誰かとの出会い」ばかり期待し続ける夜遊びも
危険だなあと思うんです。

親とか学校とか職場とか、
昼間の人間関係には窮屈なものや空虚なものを感じている人が、
夜の出会いを通じて、そういうものから解き放たれるような感覚を味わう。

だけど、そういう気持ちよさを続けたり、
一時の出会いの気持ちよさはそれと割り切って、
自分の欲望をコントロールしていくには、
昼間の人間関係や生活をコントロールしていくのと同じような
スキルやマインドが、ある程度は必要だったりするんだよね。。。

年若い女の子と「援助交際」するオヤジは、たんなるロリコンのフェチ男、と呼んでもかまいません。が、「援助交際」する女の子の側にはいろいろな事情があることでしょう。「もっともっとおカネがほしい」という消費社会の落とし子かもしれませんし、(略)あるいはたんなる性に対する好奇心かもしれませんし、ひとりでいたくない、という孤独感からかもしれません。さみしくて誰かに抱いていてほしかった、という少女の気持ちはほとんどの場合、文字どおり「抱いていてほしい」だけなのですが、それが性器のインサートに至ることまで、彼女たちは不用意にも予測していなかったかもしれませんし、あるいは「もののはずみで」受けいれたにすぎないかもしれません。あるいはまた、だれかに必要とされる(市場価値がある、ということはその何よりの証拠ではありますまいか)という実感を、日々おまえは無価値だと親や教師に言われつづけてきた少女は、つかのま手にしているのかもしれません。(上野千鶴子「発情装置 エロスのシナリオ」筑摩書房,1998 強調はyoshimi_deluxeによる)


夜に出歩く=売春 ではないと思うけど
(わたしは出歩いてたけど売ってません)
「ひとりでいたくない」という動機で夜に出歩いている人は
大人でも大人でない人でも、たくさんいるんじゃないかなあ。

抱いてほしいとまではいかなくても、
「さみしくて」誰かと一緒に居たい
それが誰だかよく知らない、さっき街中やスマートフォンのアプリの中で
出会ったばかりの人であっても、ひとりでは居たくない
そう思っているだけなのに、怖い目にあってしまうんじゃないかなと思う。

そして、わたしは、被害者だけじゃなくて
加害者の人もまた、同じ気持ちで夜に彷徨い出ているんじゃないかと思ってしまう。
上野さんのように「単なるロリコンフェチ」と片づけてしまうこともできるけれど、
自分を消して見知らぬだれかとの出会いを求めて出かけた時
たまたま、少し腕力や、凶器になるものや、お金や、車や、話術を持っていた人で、
ネガティブな感情に自分が支配されたときに、
その人は加害者になってしまうんじゃないかと思う。

わたしは加害者や、買春する側の人に、何ら同情するものではないけれど、
なにか自分に「さみしい」ものを感じて、ふらふらと夜に出かけがちな者として
被害者になってしまっていたかも、という怖さと同じくらい
何かあったら自分も加害者になっていたんではないかと思ってしまう。
「夜」に期待が大きいだけに、裏切られた時の絶望も大きいと思うし
その八つ当たりが、同じようにさみしくて夜に出歩いていた人に向けられてしまうことが
無いとは言えないんじゃないかなと思う。
昼にも夜にもどこにも生きられる場が無くなってしまったとき、
その不安や苛立ちや絶望をぶつける場所が、
自分か他人かの違いだけではないかと思う。

「さみしい病(びょう)」の行方


少し前に、電話でいろんな人のお話を聞く仕事をしていたことがあるんです。
病気だ、家族とうまくいっていない、仕事がつらい、仕事がない、お金がない、
友達がいない、友達以前に知り合いもいない、などなど、などなど
いろんなお悩みを聞かせていただいたんですが
それで一番多かったお悩みは、結局のところ「さみしい」っていうことだったんですね。

電話で誰かに「さみしい」って言われたとき
金属の針でひっかかれたみたいに、心に厳しいものがずっと残るんだけど
どうすることもできないでいました。

仕事がなければ仕事を探す方法を、
お金がなければ年金や生活保護や、いろんな方法を提案してみるのだけれども
「さみしい」を解決する手段なんてあるのだろうか。

「べてるの家」向谷地さんは、

「電話であれ対面であれ、
 『相談』によって『支援者』が、『さみしい』を
 解決しようなんて思わないほうがいい」

と言っていた。

向谷地さんが意図するところが、こういうことかはわからないけれど
「さみしい」は、きっと解決したり、解消したりするものでは
ないんだと思う。

自分が「さみしい」と、
ひとりぼっちで、誰からも何からも必要とされなくて
何もかも無為だと思わないで済むために
皆が働いたり、遊んだり、飲んだり、歌ったり踊ったり、
愛したり表現したりしているのだとしたら、
「さみしい」は交流と文化のエンジンだと思う。

でも、どれだけ愛しても表現しても
人と人とが結びついたとしても、
どんなにくっついても、わたしの皮膚と誰かの皮膚が溶け合うことがないように
ひとりはひとりなんだよね、っていうことが残るのは
さみしいっちゃさみしいことなんですよね。

だから、やっぱり「さみしさ」っていうのは
何かに没頭して忘れてみたり、
時にはガツンと向き合ってきゅうきゅうと味わってみたりと
それ自体を「味わったり」「飼いならしたりして」
なんとか付き合っていくもんなんじゃないかなあと思うんです。

だけど、経済的文化的人間関係的になんの後ろ立てもない状態だったら
「さみしさ」を詩的に昇華するとか
エネルギーに変えて「なにくそ!」って立ち上がるとか
出来ないと思うんですよ。
「ここでまた見捨てられたら、本当に何もなくなってしまう」って
追いつめられてしまうと思うんです。
そして、本当に見捨てられたり裏切られたりしてしまったら
自暴自棄になってしまうんじゃないだろうか、と。
「さみしい」に自分を蝕まれてしまうというか…。

何不自由なく育ち、本を読み音楽を聞き酒を飲み
やりがいのある仕事と知的であたたかい友人知人に囲まれて、なお
まだ「さみしさ」をこじらせて、こんなに長々と何かを
書いている人だっているのにですよ。
わたしだけか…。
とはいえ、本や音楽やお酒や、
それを通じて出会ったいろいろな人やコトが
なんとか自分を腐らせないでいてくれていることも事実。
Last night Something in the night saved my life ですよ。

わたしは夜の生活を信じているから、
いま、昼の生活で生きづらい思いをしているとしたら
夜にどこかでその人が受け止められるような場所があったらいいと思う。
被害者になりそうな人にも、加害者になりそうな人にも。
それは、昼の世界の思想や言葉では受け入れられないようなものかもしれないけれど
そこにしか希望がなかったとしたら
それを否定することはできないんじゃないだろうか。


黄昏’95 by TOKYO No.1 SOUL SET (1995-02-22)

黄昏’95 by TOKYO No.1 SOUL SET (1995-02-22)

WILD FANCY ALLIANCE

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発情装置―エロスのシナリオ

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