『私にとって神とは』
毎日ブログを書くのがわたしのまわりで流行っているので
いたって流されやすいわたしは、
やすやすと乗っかってみたものの
2日目にしていきなり「書くことがないな」という
壁にブチ当たりました。
書くことがないときは「今日は書くことがない」と書く、とか
今日食べたものを書くとかするとよいのですが
わたしの心が、今日はそれをしたくないようなので
困りました。
そこで思いついた方法が、
1)部屋の本棚の本を見回す
2)目についた本を手に取る
3)てきとうにページをパッと開いて
そのページに書いてあることを「お題」にして
なんか書く。
というものです。
というわけで、今日目についてしまった本はこちら。
- 作者: 遠藤周作
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遠藤周作「私にとって神とは」
近所の古本屋で買って
まだ読んでない本。
いきなり積ん読に手を出してしまいました。
ホームレス状態にある人のサポートに興味があることもあって
尊敬する人に、クリスチャンの方が多く
お話しを聞いていると(聖書の話とかじゃなく、ふつうの会話でも)
感動してそのまま入信したくなってしまうこともあったなあと
思い出しました。
なんか宗教ってハードル高いなっていう気持ちと
それでも、信仰を持っている人って本当に強いなっていう憧れと
けどそれって、何かに縛られているみたいでイヤンみたいな気持ちが
わたしの中で混然一体となっている状態でして。
その精神が、たんまり買い込んだ遠藤周作の本を
手つかずのまま積み上げてあるという現象にあらわれているのでしょう。
というわけで、パラパラめくって「おっ」と思ったところを
書いておきます。(つまり、まだ読んでません)
信仰する人には強い人もいるでしょうが、私に即して言えばそうじゃありません。
私にも無宗教の人を強い人だと思う部分があります。自力で生きていける人だなと思います。
(遠藤周作「私にとって神とは」光文社文庫)
あっ、そうなんだ…。
執着をすべて捨てるのが宗教なら、私のように宗教を求めて小説を書く人間は書けなくなります。キリスト教の小説家で二十世紀の作家と言われている人々は大抵人間の執着しているものから神を信ずる心に移る変化を書いております。(中略)それはキリスト教の中にある、人間が執着しているもの、そういうものが、逆におまえの救いのタネになっていたのだ、という考え方です。執着するもの、即ち物とか金とか権力とか女とかを通して救いがくるのです。(同)
↑ここが好き。
最近、宗教について思っていることは、
宗教って、特別な言葉遣いや、ふるまいや、考え方のように
思いがちだけど、
本当は、それとは意識しないうちに、いつの間にか
生活にじわっと沁みこんでいるようなものなんじゃないかと。
「いただきます」と、手を合わせたりするようなことなんじゃないかと
思うようになった。
だから、何だっていうわけじゃないんだけど
最近そう思うようになった。
わざわざやることではないけれど、
身体にしみついて、心を落ち着かせたり揺さぶったりするような
習慣のようなものなのかなと思っている。
ふりかえってみると、私の信仰はお読みになるとおわかりになるだろうが、何よりも「無理をしない」「きばらない」ことの上になりたっているようである。恥ずかしいことだが仕方がない。(同)
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