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#レコーディングダイエット

毎日食べたものを書きます

目にうつる全てのことはものがたり そして物語はときに苛酷

社会 福祉 本/書評 大学 ファシリテーション

特に書くことが思いつかない時は、
読んでいる本で面白かったところや
覚えておきたいところを引用して書こうと思います。

いま読んでる本はこれ
ささしまサポートセンター
理事長の森先生に教えてもらいました。

ナラティブホームの物語: 終末期医療をささえる地域包括ケアのしかけ

ナラティブホームの物語: 終末期医療をささえる地域包括ケアのしかけ

読んでいると、必ずしも積極的な治療をしない
終末期医療というものは、治すためというより
「死ぬための支援」なのではないかと思えてくる…。
死ぬための支援、というと殺しているみたいだけど
そうではなくて、死を目の前にした「生」を、
その人本人と、家族や友人と、医療関係者が
対話によって共有してものがたりを紡いでいくことで
豊かにしていくのだ、というようなことが書いてある。

死や生を、その人だけのものでもなく
家族の言いなりでも、医者の言いなりだけでもないものとしていく
ということは、医学だけでなく
哲学、文学、法律、社会学などなどを横断した知性が必要な支援だと
感じました。


以下、本からの引用

「学」というものにできることは、「本当にそうなの?」
「そういう問いかけでいいの?」「それは問題とする基
本からそれているのでは?」と常に一歩下がって、現場
の人間に石を投げ続けることではないだろうか。「うる
さい、正論ばかり」と言われながらも、あえて何かを言
い続けていく。そういう厳しい態度が「学問」なのでは
ないか。誰にでもできるものではない。逆に、現場は
「それは、実はこういうことではないの?」という問い
かけに対して、それが厳しい指摘であったとしても一度
は向き合って考える姿勢が必要なのではないか。その両
方の立場を理解することが、この当事者と非当事者の問
題を解決する一つの方法なのではないかと思う。
(佐藤伸彦「ナラティブホームの物語」医学書院、2015年)


この本でも、医者と患者、患者と看護婦や介護スタッフ、
あるいはスタッフどうし、患者と家族、患者と病院職員…
といった、立場の違う人々の「関係性」や「対話」が
ありふれた生や死を、その人たちにとってかけがえのないものにするのだ
と書かれていて、それがとても感動的なんだけど

実際には「対話」や「関係性」は
ふんわりとあたたかく心地の良いもの「だけ」ではなく
傷つけあいすれ違い、他者と自身の相容れなさを
浮き彫りにするものでもあると思う。


「創(きず、傷ね、バンソウコウの創)」が無ければ
「絆(きずな)」はないと言いますが
ファシリテーションとかワールドカフェとかワークショップとか
できるだけこうした「対話」に伴うおそれをなくして
安全・安心に話し合える場を工夫するという試みは多数ありますが

それは「きず」自体をなくしてしまうものではなくて
「きず」に立ち向かい、受け入れる
「勇気」と「しかけ」を作る工夫なんだなと思いました。
(そうでなければ、それは「対話」ではなく
 「馴れ合い」ではないだろうか。)

「事件は会議室で起きているんじゃない、現場で起きて
いるんだ!」
多くの職業人がこの叫びに共感した。トップと現場のジ
レンマをうまく言い表している。(中略)
 現場で起きている事件の個別の事情を考えることもな
く、会議室だけの議論は空論になりやすい。しかし、個
別の意見だけでは収拾がつかず現場が混乱してしまうこ
とも大いにありうる。現場も会議室も、それぞれでしか
できないことがある。お互いの事情をどれだけ斟酌でき
るか、そのバランスの問題ではないだろうか。そのバラ
ンスを取るには、先ほどのドラマでは、いかりや長介
演じた老獪なベテラン和久刑事のような存在が必要であっ
た。
 医療・介護の現場でも、「人には尊厳をもって接しな
さい」というような会議室的抽象論を声高に論じる人も
いる。「現場はそんなきれいごとでは済まないのよ」と
言って抽象論に耳を貸さない人もいる。どちらの意見も
必要なのである。そのバランスを取るものが必要である。
(佐藤伸彦「ナラティブホームの物語」医学書院、2015年)