#レコーディングダイエット

毎日食べたものを書きます

ボーダーラインはどこに引かれているか

中村うさぎさんがブログで境界性人格障害について
少し書かれていたので、わたしもわたしなりに
思ったところを書いてみたいと思います。

takanashi.livedoor.biz

境界性人格障害って、ちょっとネットで調べてみると
酷い書かれようだったりして、ビックリする方もいるかと思います。

実際、対人操作性というか
ビックリするほど周りをいろんなことに巻き込んだり
感情の動きが激しすぎたり
言動がすごくエキセントリックだったりで
お医者さんやカウンセラーの人にとっても
関わり方がそんなに簡単じゃないと、少し精神障害のことを
勉強した人なら聞いた事があるかと思います。
その不安定さゆえに、家族や友人、恋人
そして医療や福祉の関係の人など、その人を
支えたいと思う人たちが
(あるいは、その人が自分を支えてほしいと思っている人たちが)
疲弊してしまうという話もよく聞きます。

わたしも昔は、精神疾患に悩む人と関わる仕事を少ししていたんだけど
そういう知識が頭にあると、つい
境界性人格障害だと診断された方と接する時に
ついつい構えて固くなってしまっていたなと思いました。


本を読むと

・きちんと自分ができること、できないことの境目をはっきり伝える
・動じない
・自分を大切にして入れ込み過ぎない

などといった「支援者としての心得」が書かれていて…
わたしはちょっとソフトに書いているんですけど
もっと「患者は患者、自分は自分として毅然とした態度を取れ!」とか
強い調子で書かれているものなんかもあるわけです。
もっと言うと、書きたくないんだけど
「素人がヘタに関わらないほうがいい」
くらいのことを書いてあることもあるんです。


でも、その人が境界性人格障害だからといって
誰も手出しをしない、関わらないなんていうことが
あってもいいんだろうか?
いや、よくないだろうと思うんです。

たしかに、境界性人格障害の方に
ひどく罵られたり、もう死ぬ!自殺する!と迫られてオロオロしたり
かと思えば逆にデレデレと甘えられたりという
ジェットコースターに乗りっぱなしみたいな毎日に
疲れ切ってしまう人も少なくないようなので
それを思ってのアドバイスでもあるとは思うんです。

だから、そういう関係に疲れてしまって
あるいはこのままじゃやばいと思って
距離を置いていくことを選ぶことは
止むを得ないとは思うんですね。


でも、それと「境界性人格障害だから近づかない」ということは
全然違うことだと思うんです。
障害があっても無くても、友達とはそれぞれに
近かったり遠かったり、一定の距離を持って付き合うものでしょ。
趣味が合うからよく連絡を取り合ってプライベートなことも話す、
という友達もいれば、
映画の話は面白いからよくするけど、思想信条の面では全然合わないから
二人で飲みに行くのはやめとこう、とか
それぞれに自分と相手が心地よい付き合い方を模索していけばいいはず。
境界性人格障害だから」という理由だけで
(その他の障害や病気も同じだけど)
シャットダウンしてしまうことは単なる差別や偏見だよね。

…とはいえ、病気が知られようが知られまいが
その振る舞いそのものから「あいつとはもう付き合えない」と
境界性人格障害の方は判断されてしまいがちな所も大いにあるわけで
そこが、その人自身も周りも辛いところなんだよね…。


そして、だからこそ特にここで専門家が
根性を見せないといかんところかなとも思うんですよね。
とはいえ病院でもデイケアみたいなところでも
カウンセリングルームとかでも
なかなかに大変だとは思うんです。
スタッフがその患者さんに振り回されて
疲弊してしまう…
他の患者さんや利用者さんも巻き込んでしまう…
となると
管理者の人としても正直受け入れをためらってしまうのも
分かるなあとも思うんです。


でも、境界性人格障害の根底には
自分が見捨てられるという不安、
誰にもどこにも必要とされていないという寂しさ、
自分には何の価値もないと思う絶望なんかが
あるそうなので、排除はますます問題を深めるだけなんだと思います。

悩んだときに、ある大先輩に言われた言葉を思い出します。
「重たい神輿はみんなで担ぐ」
その担当者だけ、その施設だけ、その家族だけ、その恋人だけで
その方を支えようとするのではなく、
病院と、いろんな施設と(この施設がダメならこの施設へ…と
人間関係が上手くいかないあまり、焼き畑農業的にいろいろ行くことも多いと思うので)
家族と役所と友達と、が
その大変さを共有して、うまく支えるパターンを
皆で見つけていくことしかないんじゃないかなと思います。


おそらく、周囲を振り回しているその本人こそが
重たい神輿を一人で担いでいる状態なんだろうと思います。
そして、そのしんどさを、振り回したり
激しい感情をそのまま爆発させることでしか
表現できないような状態にあるのかもしれないです。


そして、その人から神輿を取り上げようとするのではなく
一緒に担いでいく仲間になっていくことが、
関わりとして必要なのではないかと思います。
それは、専門家は専門家のやり方で
家族や友人は、家族や友人としてのやり方で
自分もつぶれないような担ぎ方がきっとあるんじゃないかと思います。


うさぎさんのブログにはこうありました。

彼女と共有できる部分がある限り、私は彼女の理解者でありたいと思う。

完全に理解するのは無理だけど、一部を理解したら、パズルが解けるように全体像が見えてくる気がするのよ。

私は彼女をコントロールしようとは思ってない。

ただ、理解したいだけ。

コントロールしようとすると、おそらく関係は破綻するわね。


今まで彼女との関係を維持できなかった人たちは、たぶん彼女をコントロールしようとしたからだと思う。

それは、めちゃくちゃ思い上がった行為よ。


中村うさぎ中村うさぎvsマッド髙梨 ガチBLOG! 『破綻も欠落もない完全なる人格の人なんて、この世に存在しない。』」
http://takanashi.livedoor.biz/archives/65986329.html

ちなみに「べてるの家」の向谷地さん・西坂自然さんの言葉が紹介してあるサイトも見つけたので長いけど貼っておきます。

 いちばん参考になったのは、先に紹介した西坂自然さんから寄せられた「〝自分で考える〟という大事な種みたいなものを奪わないところがいい」という言葉だった。

 大学で心理学や福祉を学んだ経験をもっている彼女は、「大学では〝傾聴する〟ことは習うけれど、〝一緒に考える〟ということは習わなかった」と言う。「実際に病院に入院したり、通院したりするなかで出会った精神科医、看護師、ワーカーは、たしかに熱心に聴いてくれ、自分のことを受け入れてくれた感じはしたが、肝心の〝その問題についてどうするか〟についての解決や解消を一緒に担ってくれる人は少なかった」

 さらに彼女は次のように現場の課題を鋭く指摘してくれ、なるほどと思わされた。「『聴いてほしい』というなかには〝自分の感情をどうにかしたい〟という気持ちにかかわる動機と〝問題を解決したい〟という具体的な現実的な対処を知りたいという動機がある。多くの場合、気持ちにかかわる部分はたくさん聞いてくれるけれど、現実的な対処について一緒に考えてくれる人は少ない」
           ○

「向谷地さんに話すと〝自分の問題の対策本部〟ができたような気がしてとても心強くなります。そして現実的にすぐ実行可能な具体的な指針が出てきます。向谷地さんに自分の言いたいことを言って気持ちを整理できたあと、電話を切ってからも〝自分でやってみること(宿題)〟が手元に残るのです。それは自分だけで考えたものでなく、〝一緒に考えてくれたもの〟です。私にとってはそこにも意味があって、たとえどんなに的外れなものであっても、一緒に考えてくれたものは一人ぽっちじゃなく、相手が入っているのです。だから一人でやってみることはみるけれど、孤独じゃない」
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/beteru32.html

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4月27日(水)
朝昼兼用
豆腐と野菜のサラダ、コーヒー、お茶


たまごの雑炊(今回はレトルトじゃなくお鍋で作った)
キャベツの胡麻和え
ビール

おやつ
コーヒー、ダイエットコーク

水曜なので今日もプール。
今回は自分よりだいぶ速い人と同じコースで泳いだので
自分もいつもよりちょっと速く泳げた。疲れたけど…。
いろんな他力の生かし方があるものだ。


私という病 (新潮文庫)

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他者という病

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