#レコーディングダイエット

毎日食べたものを書きます

「まちづくり」って「まちづくりしたい人」だけがやってる趣味なんじゃないの?

よく「普通の会社に勤めている人にもっと
まちづくり活動に関わってほしい」とか
ボランティア活動をしてほしい、とか聞くんですよ。

だけどわたしが20代の時に
福祉とかまちづくりとかそういうソーシャル界隈と
あんま関係ない、営利の、「普通の会社」に
勤めていた時のことを思うと、
そんなことやってるヒマなかったなと思うんですよね。

日付が変わってから家に帰ることは
全然珍しくなかったし
土日のどちらか一日はとにかく寝たかった。
で、平日にできないいろんなことをやっていると
もう月曜で。

でもね、忙しすぎて全然遊んでないかっていうと
そうでもないんですよ。
どういうところから遊びの情報を得るかというと
それもやっぱり会社の先輩とかからなんですよ。
例えばゴルフとかね、最初は付き合いで…と思って
やり始める人が多いと思うんですけど
いざやってみると面白くないわけじゃないんですよ。
むしろ楽しくなっちゃうんですよ。

今は昔ほどではないと思うけど、それでも愛知県だと
大きい会社も多いので、福利厚生で
いろんなアクティビティが提供されたり、
会社で部活動みたいなのができたりするわけで。
それって楽だし、すぐ楽しめるし、仲間が増えて
仕事も楽しくなるしいいじゃないですか。

しかもそういう会社の人ってそれなりに金持ってるから
会社以外でも楽しめる遊びもたくさん知ってんすよね。
ちょっといいレストラン、おしゃれなパーティ、
海や山まで行ってするスポーツなどなど、などなど。
「お金では買えない幸せ」って
すごーいすごーいすごーい至福の喜びだと思うんです。
でも、「お金でしか買えない幸せ」にも
あなどれない喜びってあると思うんですよね。
(そんなに、買えたことないけど)

それに対して「まちづくり」なんて、
ド面倒くさいじゃないですか。
すぐに結果は出ないし
本題からそれて自分の喋りたいことばっか話し続ける
おっさんとかオバさんとかいるし。
必ずしも自分がやりたいことが叶うわけでもないし。
なんでそんなことやんなきゃいけないの?
幸せが金で買えているんだから、それで満足する。
それを誰が責めることができるのでしょうか。

こういう考え方の根底には、わたしの
「まちづくり」って「まちづくりしたい人」だけが
やってる趣味なんじゃないの?っていう考えが
あるんですけどね。
イベントとか祭りとか特産品とかゆるキャラの開発に
偏りがちなのも、「趣味」だからなんじゃないのって。
わかりやすく、すぐ結果が出て楽しめるものだから…。

うーん、と考えて、わたしはそれが
趣味なら趣味でいいんじゃないかと思うんですよ。
なのにそれが公益性があるとか「町に住む誰もが
関係ある!」「自分ごととして考えよう!」とか
言われるからモヤッとしたりイラッとしたりして
しまうんだなと気づきました。

この違和感を言葉にできずに悩みまくって
3日間ブログが書けずにいました。
しかしそんなに嫌ならこんなこと考えないで
放っておいて、それこそ金で買える幸せに
邁進してりゃいいのにそれもできない自分というのが
またイヤで…という無限ループを断ち切るべく
特に結論はないですがとりあえず投稿してみました。

食べることが大好きでそれを楽しんでいる人間は、次第に食べ物について思考するようになる。美味しいものが何で出来ていて、どうすれば美味しくできるのかを考えるようになる。映画が好きでいつも映画を見ている人間は、次第に映画について思考するようになる。これは一体誰が作った映画なのか、なぜこんなにすばらしいのかを考えるようになる。(國分功一朗「暇と退屈の倫理学朝日出版社、2011年)

人は楽しみ、楽しむことを学びながらものを考えることができるようになっていくのだ。(同)

モヤッとしたまま「暇と退屈の倫理学」を読み直して、
最後の最後になって、単なる趣味、単なる消費活動が
そうではない、もっと「豊かなもの」に
開いていく可能性のヒントみたいなものに気づいた
ような気がした。

退屈とどう向き合っていくかという問いはあくまでも自分に関わる問いである。しかし、退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は、おそらく、自分ではなく他人に関わる事柄を思考することができるようになる。(同)

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学