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つながるけどつるまない---ネットワークについて

私、いちおう社会福祉士なんですけど、業界関係者が集まる勉強会とかイベントに行って必ず聞くのが「つながりが大事」「つながることが大事」というやつなんです。ネットワークが大事だと。
でも、大事大事といいながら、どうもいっこうに満足のいくネットワークができている人や団体がないようなんです。それは理想が高すぎていつまでも実現されないものである、という意味でもあるのかもしれないけど、どっちかというと相変わらずのセクショナリズム、いわゆる縦割り行政/縦割り民間団体、困ったときに頼れる社会資源がない、みたいな感じなんです。これだけみんながつながりつながり、ネットワークネットワークと言いながら、それが実現されないのはなぜなのでしょうか。そんなに求めているのになぜ得られないのでしょうか。

一方、SNSなどで華やかなパーティーかなんかの写真と一緒に「出会いに感謝」「ご縁に感謝」「いろんな人とつながれた」とか言ってるのを見るとイラっとしたりモヤっとしたりオエっとしたりしてしまうのは、なぜなんでしょうか。いいじゃないですか、つながり上等じゃないですか。…こういうことで嫌な気分になるのって、やっぱり私に友達が少ないから?妬んでいるだけなんじゃないか?と常々思ってきました。

そもそもつながりとは何のため?

でもなんで社会福祉士がつながらないといけないかというと、それはソーシャルワークのためですよね?仕事のため。命にかかわるような緊急の状態に介入してその人の生活をなんとかマシにするためとか、認知症の人が家で暮らすためのサポート体制をつくるとか、生活保護基準の引き下げを阻止する運動を起こすとか。そのために「つながり」が必要なんですよね?

そう考えると、その仕事、その問題の解決に必要なのはパーティでウェーイってなってる「つながり」とか、勉強会で「つながりが大事ですよね~」「大事ですよね~」「つながりたいですね~」とか言ってることではないということは明白ですよね。

それはネットワークじゃなくて仲良しグループじゃないの?

「つながり」とか「ネットワーク」、あるいは「協働」「連携」って「私たち同じ目標を持った仲間よね、チーム一丸となって力を合わせて頑張っていこっ(キラキラ)」みたいなものだと私は思ってたんです。
そして、それが気持ち悪いと思ってたんだな、と気が付きました。

もちろんそういうチームで頑張って、危機介入やサポートネットワークができて生活保護基準が道理の通らない理由で下がるのを阻止できるなら、どんどんやればいいと思うんです。でも、それだけでは物事が前に進んでいないから、変わらずネットワークネットワークと言っているのではないかと思うんです。

私は、目標を成し遂げるための、社会福祉士のネットワーキングとは「気持ちが同じ」「分かり合える」「仲の良い」人や団体と一緒にやっていくだけではなく、「嫌だなと思う」「あいつの気が知れない」「やり方がいけ好かない」と思う団体とこそ、うまくやっていくことではないかと気づきました。
「あいつ」とは、困難事例はスルーしてうまく金だけ儲けてるっぽいあの団体かもしれないし、異動してきたばかりの担当者が分かったような口をきく行政かもしれないし、たいしたエビデンスもなく自分の正しさだけを訴えてくるNPOかもしれません。「社会問題に興味を持ってくれない一般市民」かもしれません。

ガマンして仲良くするのが「ネットワーク」か?

この「うまくやっていく」の「うまく」が大事で、それは「ネットワーク」のために耐え難きを耐え忍び難きを忍んで「嫌な人とも仲良くする」ことではないと思うんです。それが苦なくできる人はやればいいと思うんだけど、苦ならやめたほうがいいと思うんですよ。「意見が違う人とも話し合えば分かり合える」とか言いますよね。粘り強く話し合いを続けることが大事な時や、それが苦にならない方は話し合いを続ければいいんですけど、残念だけどそうじゃない、ということも現実には多々あるので、解決にはいろんなバリエーションを持っていていいんではないかと思います。

どうするかというと「ベッタリ仲良くはしないけど『ココ』は組めるな」と思うところだけは組む、みたいな方法とか。いけ好かないから「あいつには金輪際頼らない」とか子どもみたいなこと言ってないで、どんな状況でも最適な手を打てるように手持ちのカードをしたたかにそろえておくこと、それが専門職のネットワークではないかと思うんです。誰とでも仲良くなって仕事をする、というだけじゃないと思うんです。それでうまくいく人はいいけど、多くの人はそれでは甘えが出てしまう。危機介入の例でいえばその人に最適な支援機関につなぐんじゃなくて「頼みやすいから」という理由だけでリファーしてしまう、とか。生活保護の引き下げの例で言えば、内輪だけで反対派の悪口を言うだけで終わってしまうとか。大事なのは「好きじゃないな」と思っても「この人にはここで相談してもらうとよさそう」と思ったら紹介できるとか、生活保護を受給している人に生まれてこの方一度も会ったことがないという階層の人とも、意味の通じる会話ができることではないでしょうか。

それは難しいことですよ。だからこそ、それが「専門職」に求められることなんじゃないでしょうか。

つるんでるほど暇じゃない

私が「つながり」や「ネットワーク」に感じていた気持ち悪さって、つまりはそれって「つるんでいる」ことに対する気持ち悪さだったのかなと。。。誰とでも仲良くできる人ならそれでいいけど、そういう人はあまりいないと思うし。自分だってそんなの無理なのに「仲良くしなきゃ」「相手の背景を理解すれば…きちんとした対話を重ねれば…分かりあえるはず…」みたいに思っちゃってたんですよね。でもやだなって思うことってあるしー、しかたないしー、そんなにすぐにわかんないしー。

「好きだから一緒に」「嫌いだから会わない」って子どもかよって話ですけど「嫌いだけどガマンしなきゃ」も同じくらいガキっぽい考え方ですよね。仕事なんだから、プロなんだからもっと賢くしたたかに、サスティナブルにやらないと。コミュニケーション力って「友達が多いこと」じゃなくて「好きとか嫌いとかの感情に左右されずにプロジェクトの結果を出せること」じゃないかなって思うし。

「嫌いなんだけど、自分も相手も不快じゃない」くらいのニュートラルさで付き合う。必要な時に、必要なぶんだけ、協力しあう。ゆずれないところまで折れることはないけど、目的のために必要なことは譲歩しあう。そういう細かな調整、冷静な状況分析ができるからこそ難しい課題にあたれるのであって、…近しい団体が「こうだよねー」「そうだよねー」って言ってるのはただつるんでるだけであって、ましてやそれでコレクティブ・インパクトとか無理なんじゃないかなって思います。

もちろん本当にダメな団体、ダメな行政にはダメってちゃんと言って「つながらない」ことも当たり前に大事なんだけど、ベッタリかバッサリかの二択、0か100かじゃなくて、自分がラクで相手も傷つけない割合で付き合えばいいんだと思う。何かの「つながり」を期待して気の進まない飲み会に行ったり、気に入らない団体の悪口を言ってるヒマがあったらもっとできることがあるはずだし。
(なんだか専門職の話だかふだんの人間関係の話だかわかんなくなってきたわ。)

つるまないほうがラクかも

ただ「つるみ」が必要な時もあると思うんです。わかるわかるとなんでも受け入れてくれて、安心して愚痴が言えるような。でも、それだけで悦に入ってるのって専門職の仕事なのかなって。もしかすると社会福祉専門職は孤独すぎて「つるみ」の場すら得られていないので、つながり以前に自分のベースとなる、あたたかな巣のようなつるみの関係を求めているのでしょうか…。って皮肉で書こうと思ってたんだけど、はた、と考えると案外そうなのかもしれない。とも思ってしまった。。。昨今の「居場所づくり」の流行って、みんなが「つるみ」を求めているということではないか、とか。

逆に言うと、私みたいに「誰ともつるめない」のが長年の悩みだった人には、そうじゃない人との「つながり方」で頑張れるフィールドがあるんだと思えるのはちょっと希望かもしれない。つるみとつるみの間をつないだり、批評したり、編みなおしたりするような。