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能の「ワキ方」のようなライターでありたい

能楽師の安田登さんの講演を聞いてから、ずっと読みたいと思っていた本を読みました。

能  650年続いた仕掛けとは (新潮新書)

能 650年続いた仕掛けとは (新潮新書)

泥酔しては下品なダンスミュージックを聞いてウェーイとなることだけが趣味、という私にとって、お能など高尚すぎて無理と思っていました。が、この日のお話は居ながらにして別世界を見るような、自分の存在ごとぐわんぐわんと揺さぶられるような、サイケデリックな体験で忘れがたいものでした。

その後、娑婆に還ってからこの本を読み、特に気になった能のワキ方という役割の人について考えたことを書きたいと思います。

ワキ方」は「脇役」ではない

能にはシテ方ワキ方という役割の人がいるそうです。

シテ方」・・・幽霊とか神様とか、この世の者ではない人。
ワキ方」・・・「この世」に居ながら「シテ方」となぜか出会っちゃう人。

「夢幻能」と言われる能はふらっとどこかを歩いていた人(ワキ方)が、霊だったり神様だったり(シテ方)に出会ってその人のお話を聞くふしぎな体験をする…という内容のものだそうです。

ワキは物語を始める存在で、幽霊であるシテ方に出会う旅人として登場します。能のワキは、脇役の「ワキ」ではなく、「分ける」のワキです。つまりはあの世とこの世の分け目、境界にいる人物です。(安田登「能 650年続いた仕掛けとは」新潮新書、2017年)

ワキ方」は 「シテ方」の「念」を昇華させる

もうこれを読んでね、私は思いましたね、シテ方」=NPOの代表(創業者)ワキ方」=ライター・ジャーナリスト ではないかと。別に、NPOの代表が幽霊とか神様とか言いたいわけじゃないんです。でも、きっとNPOの代表って「この世」ではない世界を思い描いている人でしょう?今の、「この世」にはない価値、「この世」にはない社会を作ろうと思っている人でしょう?

でも、だからこそNPOの代表(創業者)=シテ方は、「この世」では「異形の者」と思われてしまう。「この世」にはないことばっか言うもんだから、「この世」の人には「何言ってるの?」「そんな夢みたいなことばっか言ってー」「ちゃんと働け(=この世で生きろ)」みたいな。

安田登さんのことを書いた松岡正剛さんの文章から引用しますね。

シテとは「仕手」や「為手」と綴るのだが、その正体は「残念の者」である。なんらかの理由や経緯で、この世に思いを残してしまった者をいう。(松岡正剛「千夜千冊1176夜『安田登 ワキから見る能世界』http://1000ya.isis.ne.jp/1176.html

NPOの人はこういう社会を作りたいんだ、こういう価値を生み出していきたいんだという理想を掲げて事業を立ち上げるんだと思います。でも、その裏には、自分が「おかしい」「くやしい」「さみしい」「つらい」と思ったことがスタートにあることがあるのではないでしょうか。学校でいじめられていた、産後に孤独で辛い思いをした、認知症になったおじいちゃんをどうしていいか分からなかった…だから「若者支援のNPOを立ち上げる」「産後のママを応援するNPOを作る」「高齢者のデイサービスを作る」みたいな。「残念の者」なんです。

でもその価値観は「この世」では必ずしも価値があると認められないものだったりします。
例えば「この世」の評価は「それは何の役に立つの?」とか「いいことだけど儲かるの?」とか「それで家族を養っていけるの?」「子どもを大学に行かせられるの?」とかだからです。

この時「シテ方」の取る反応は2つに分けられると私は思います。
一つは「この世」の評価などものともせず、ずんずん我が道を行くタイプ。
二つ目は「なんで『この世』の人は分かってくれないのよぅ」とジタバタし、思い悩むタイプ。

前者は孤高の人として、小さくとも汚れのないコミュニティを作っていくのでしょう。でも後者の人は、活動資金や仲間の獲得のために声を尽くして自分たちのことを訴え、それでもうまくいかないのはどうしてだろうと日々思い悩んでいるのではないでしょうか。

そんな時、「ワキ方」が現れて、シテ方の思いをこの世に伝えられたらいいんじゃないか?と思ったんです。

ワキ方は)あの世ととこの世の分け目、境界にいる人物です。だからこそ、あの世の存在である幽霊たちの無念の声に耳を傾け、その恨みを晴らすことができる。諸国をさまよい、幽霊に出会い、成仏させる、それがワキの役割です。(安田登「能 650年続いた仕掛けとは」新潮新書、2017年)

ワキとは、シテの残念や無念を晴らすための存在だったということになる。「晴らす」とは「祓う」ということでもあって、ワキはシテの思いを祓っていることになる。
 無念な思いを祓うとは、いいかえれば、思いを遂げさせるということでもあろう。(松岡正剛「千夜千冊1176夜『安田登 ワキから見る能世界』http://1000ya.isis.ne.jp/1176.html

「この世」とシテの語る「あの世」の間を行き来する世界。能ではワキが場面を整え、ワキがシテの思いを引き出し、思いが引き出されたことでシテは思う存分舞うことができる。つまり、観客は「ワキが見た世界(能)」を見ているのだと。

シテが言うことを通訳して「この世」の人にもわかりやすい表現で伝える、と言ってしまうと、あまりにもつまらなく、能の持つダイナミックさが失われてしまう気がする。でも、「ライター」って「そういうもの」だと思われていないか?「ライター」が「シテ方」を、手垢のついた言葉でつまらなくし、「この世」に軟着陸させようとするあまりダイナミズムを失わせていないだろうか?と。

自分がNPOの広報とか事務局を手伝っている上、NPOのことを書いてお金をもらうライターの仕事をしているので、つくづくそう思いました。
 

ワキ方的な支援とは

ではワキ方とは何でしょうか。シテの思いを遂げさせるには、何をすればいいのでしょうか。と考えたとき、私はますます分からなくなってしまったのです。

能のなかで、ワキはたいしたはたらきをしていない。ワキは舞台で最初に登場し、たいてい「次第」や「道行」という謡(うたい)を謡う。そして「あるところ」で正体があやしい者と出会う。これは大発見だ。それにもかかわらず、ワキはその後はほとんど活躍しない。ただ事態の推移を見守っているだけなのだ。(中略)
問いを発し、シテの語りを引き出したあとは、そのシテの物語を黙って聞くばかり。しかしながらそうであるがゆえに、ワキが異界や異類を見いだし、此岸と彼岸を結びつけ、思いを遂げられぬ者たちの思いを晴らしていくという役割を担う。いったい、これは何なのか。(松岡正剛「千夜千冊1176夜『安田登 ワキから見る能世界』http://1000ya.isis.ne.jp/1176.html

はたらかないのかよ!活躍しないのかよ!
でも、それがこの世とあの世を結びつけるとは、いったいこれは何なのでしょうか。

と考えたとき、そもそもシテとは何なのか?という疑問も持ちました。

能は「念が残る」「思いが残っている」といった「残念」を昇華させる物語構造になっています。(中略)世阿弥は夢幻能によって特に敗者の無念を見せる舞台構造を作ることに成功しました。(安田登「能 650年続いた仕掛けとは」新潮新書、2017年)

NPOの人は世のため人のため、こういう社会を作りたいんだ、こういう価値を生み出していきたいんだという理想を掲げて事業を立ち上げるんだと思います。なので、社会起業家だソーシャルベンチャーだというと、新しい時代のヒーロー、正義の味方、みたいに言われるけど本当にそうなんだろうか。
さっきも書いたけど、その原点には小さいころ貧しかったとか、いじめられたとか、報われなかったとか、話を聞いてもらえなかったとかいうルサンチマンや、そういう状況を目の当たりにして苦しかったとか、何もできなくて悔しかったとか、うしろめたかったとかいう思いがあるのではないでしょうかか。最初から華々しい理想を掲げていたのではなく、「負」の感情「不」の状況があったのではないかと思うんです。

人生がうまくいかなかったという事情に絡んだ者たちを主人公にした物語を、多くの能は主題にしてきたのである。
 つまりは自分の力を過信して失敗してしまった者たち、他人の恨みを買った者たち、ついつい勇み足をした者、みずから後ずさりしてしまった者たち、自分の能力がうまく発露できなかった者たち、そういう者たちを主人公にした。かれらは負けたというより「何かを負った」と解釈した。しかし、そこにも新たな再生がありうることを謡ったのが、多くの能の名曲なのである。(松岡正剛「千夜千冊1176夜『安田登 ワキから見る能世界』http://1000ya.isis.ne.jp/1176.html

ルサンチマンを自分の内部だけでこじらせるのではなく、社会構造の問題ととらえて事業なり活動なりを起こしていく。それがシテ方、残念の人、社会起業なのではと私は考えるのです。
怒りや苦しみという内発的な動機は活動の大きなエネルギー源となるので、それを持って起業した人の活動はターボがかかりスケールしやすい。言葉に熱がこもるので共感を集めやすい。「当事者性」という求めても手に入らないパワーも持っている。

しかし、これには両刃の剣のような扱いの難しさもある。
それは「個人的な鬱憤」と「事業」を混同してしまうことです。

ひきこもり支援のNPO若い人たちをたくさん勇気づけても、自分の幼少の頃の嫌な記憶が消えるとは限りません。(だって別物だもの)それはそれとして、今自分がなすべきことはこの仕事なのだ、と割り切って進んでいくものだと思います。

しかし事業に自分の思いが乗りすぎて、ルサンチマンの解消、自己肯定感の獲得が動機なのか、目的なのか分からなくなってしまうと危険ではないかと思います。「自分の事業が否定される、うまくいかない=自分自信が否定される」という思考回路に陥ってしまう。それは内部でなく「外部でこじらせてしまう」という状況になるわけです。

私は「社会起業家」と呼ばれる人にはこのこじらせを防ぐ人、「個人的な鬱憤」と「社会的なニーズ」を「分ける」サポートができるワキ方が必要ではないかと思っています。そう考えると、ライターだけでなく中間支援とか事務局とか代表をサポートする役割の人も「ワキ方」的であるといいのではないか、と思いました。

ここ数年の間に、名古屋のNPOで不祥事があり、新聞沙汰にもなった事件が数件ありました。そこに、代表の「念」を「外部でこじらせてしまった」ところはなかったか…?と私は感じています。しかしそれがこうした事態になるまでは、凄まじい推進力で事業を進めていた代表であったし、それを外部もすごいすごいともてはやしていたわけです。

シテの語る「あの世」の話は正しく新しく、パワフルで魅力的なので、この世の人もぐいぐい引き込まれて「一緒にあの世を目指そう」となるのだと思います。うまくいっているときはいいんでしょうが、「この世」のルール(倫理的、法的、経営的な)との齟齬が生まれた時に適切な対応ができないと破綻してしまうのかなと思いました。

でも、そのあの世の話を「黙って聞くばかり」でありながらも、そこに「異界や異類を見いだし、此岸と彼岸を結びつけ、思いを遂げられぬ者たちの思いを晴らしていく」、さふいふライターに私はなりたい、と思ったのでした。
がんばって書くぞー!

能  650年続いた仕掛けとは (新潮新書)

能 650年続いた仕掛けとは (新潮新書)