#レコーディングダイエット

毎日食べたものを書きます

心理的なディスタンスがほしい

2020年4月11日

ウイルスに感染しないために、ソーシャル・ディスタンスをとりましょうと言われている。スーパーではレジに並ぶのにも距離を保つようテープが張られ、SNSで出回っている漫画だと「ペンギン2頭分くらい離れましょう」とか描いてある。知らんわ、ペンギンの大きさ…(ペンギンは好きです)

「ソーシャル(社会的)・ディスタンス」だと何もかも離れて孤立してしまうようなイメージがあるので、「フィジカル(身体的)・ディスタンス」という言い方がいいんじゃないかと言っている人を見て、なるほどと思った。ツバ(飛沫感染)をよけるためなら、身体さえ離れていればそれでいいわけで。

しかし出勤できない、会って話せないという、フィジカルが離れた状態になった今、それでも心理的サイコロジカル)な距離は決して離すまい、という風潮を強く感じるのは、私だけなのでしょうか。
それを特に感じるのはzoomなどリアルタイム・ビデオ通話の偏重されぶりである。いやzoomとかほんとに便利でいいんだけど、リアルの会議と同じくほんとにzoomつないでやんなきゃいけないミーティングなのかなとか。メールやslackで済まないのかなとか思うんですね。「zoomの会議が1日にいくつもあって疲れる」みたいな話を聞いていると。

自分が文字でのコミュニケーションの方が対面より10000倍得意だからそう感じるのかもしれないけれど(なのでみなさん、メールやメッセンジャーをください♡)特に今、在宅勤務でzoomを使う人が多いわけで、やっぱり「会社が家を侵食してくる」感がメールよりもやっぱ強いじゃないかと思うんですよね。
私はフリーランスなので好きで家で働いてるし、以前からzoomも使っていたけどやっぱ気は遣いますよね。メールと違って時間も合わせなきゃいけないし。よほど気を強く持たないと、家で仕事をしているのか、職場で寝ているのか分からなくなっちゃいますよね。職場のコミュニケーションの雰囲気にもよると思うけど。

余談だけど(このブログに余談じゃない話があるのか?)「zoom飲み会」も私にはちょっとキツい。やったことないんだけど、やることを考えるだけでひるんでしまう。なんでそんなに嫌なのか?と考えたんだけど、自分にとって飲み会は「店でわーわー飲む(気が大きくなって往々にしてデカいことを言う)→家に帰る(ひとり反省してふりかえり飲みをし、泣きながら寝る)」までがセットなのだと気づいた。「外→内」「公→私」の移動までが私の飲みによるキマり方なのではないかと。zoomだとずっと家だし、帰るとこないし、ソトがウチまでやってくるのがつらいし…ウチモードでソト対応できないし…家でも毎日ひとりで飲んでるけどそんな姿は誰かに見せられる/見せたいようなものではないし…みたいな…

最近は「住み開き」(自分の家を開放して、気軽に色んな人が寄って交流できるスペースを作ること)も流行っている(?)ようなので、私みたいに「家=プライベート、私的空間」とガチガチにとらえて他者の侵入を阻んでいるのは、これまた時代遅れなのかもしれない…とも思う。

でも、そんなにいつでも人とつながり続けること、感情の機微までも共有し続けることって本当に大事なのかな?とも思う。考えていることが完全に分かり合えなくても、心理的にもたれあわなくても、一緒に生き続けることは可能なんじゃないだろうか。一人ひとりの孤独を大切にすることと、お互いに弱った時に助け合うことは両立するんじゃないだろうか。社会的・身体的な距離はどうあれ、心理的な距離を縮めすぎず、離れすぎずに心地よい状態を保っていくことを、私は学びたいと思う。

明治から昭和にいたるまで、文壇を支配したのは、主義主張を持つ党派であり、師匠と弟子の集団であり、同世代の若者が結ぶ独特の友情の関係であった。(略)
 それらは、たんに外に向かって排他的であるだけでなく、内の仲間にたいして強い心理的な拘束力を持ち、粘っこい、湿潤な共通感情を分け合うことを求めあったが、その場合の誠実さとは、それぞれの私的な感情の真実を吐露しあうことであった。
 ひょっとすると、日本の近代精神史を解明するひとつの鍵は、明治末年から昭和の前半までつづいた、あの「友情」という特殊な観念の君臨だったかもしれない。それは、漱石の『こころ』の「先生」と友人「K」を支配し、無数の旧制高等学校の生徒たちの感情を呪縛し、反族と無頼を誇る文士たちの精神を支えてきた。(略)
 最大の皮肉は(略)その新たな拠り所として、一見、近代的にみえて、じつはきわめて古い社会集団に頼ったことであった。師弟や友情の集団は、それを個人が選びとるという点で近代的にみえるが、いったん選んでしまえば、その先は一元的で全身的な帰属を要求するという点で、古めかしい。社交の場合のように、個人が複数の関係に距離をおいて関わり、そのどれにも属しながら属さないという自由な立場は、この集団では許されない。いいかえれば、それは青年たちに、自由に選びとったという自己満足は許すものの、実質的には、彼らが捨てた家族や地縁の絆と同質の集団だったのである。(山崎正和森鷗外 人と作品ー不党と社交」,1968年)

これは私が好きな文章なんだけど、いま読むと「党派・師弟や友情の集団」あたりを今は「企業」に置き換えたほうがしっくりくるような気がする。特に「正社員」の人の場合は…。コロナ対応のためにどれくらい行動を「自粛」するかって、「会社から言われているかどうか」がすごく大きいなと感じていて。会社が在宅勤務や外出禁止を命じているタイプの人は私生活でも危機感が強く行動を自ら制限しがちなのに対して、通常通りの仕事の人はやや弱めな気が。(特に根拠はないです。私の観察範囲での感想だけど…)企業福祉は強いなという思いを新たにしたのでした。