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【後編】あいちコミュニティ財団総括シンポジウムから考えたこと

【前編】はこちらです。
yoshimi-deluxe.hatenablog.com

そもそもコミュニティ財団って必要なの?

寄付したい人 → コミュニティ財団 → NPO等の団体

上記がコミュニティ財団をめぐる大まかなお金の流れです。寄付したい人がいて、その人のお金をコミュニティ財団に預けて、コミュニティ財団からNPOなどお金が必要な団体にお渡しする。という流れです。でも、これを見て「?」と思いませんか?

寄付したい人 → NPO等の団体

この流れでよくないですか?
寄付したい人は、自分のお金を何かよいことに使ってほしいとか、NPO等の団体で困っていることがあればそれに使ってほしいとか、このNPOがホームレス状態にある人の家探しを手伝っている団体だとしたら、家がなくて困っている人のために使ってほしいと思っているわけですよね。ならば直接NPO(またはホームレス状態にある人)にお金が流れればそれでよくないですか?コミュニティ財団が間に入る理由って、何なのでしょうか?

これをお読みになっている人からしたら、今さら何言ってんだよ!っていう話だと思うんですけど、私は自分で考えたかったので私なりにその理由をひねり出してみました。

★寄付したい人にとってのメリット

  • どんな団体・人に寄付していいか分からない。コミュニティ財団が決める基準に合った団体に寄付してもらえるなら安心である。

NPO等の団体にとってのメリット

  • 自分たちの団体内には、寄付集め方ための知識や経験、人手が足りないので、代わりに集めてもらえるならば助かる。

他にも、財団にある程度まとまった金額をプールしておくと、大きな災害が起こった際にそこからすぐに必要な団体などに助成ができる(日本赤十字社義援金を送るみたいなイメージ)といったメリットも思いついたのですが、主には↑じゃないかと私は考えました。

中間支援の役割は「権利擁護」ではないか?

人や団体の間に立って、それぞれをつないだり応援したりする団体を「中間支援組織」というそうです。2月8日の総括シンポジウムでそのように言っていた方もいたので、あいちコミュニティ財団をはじめとするコミュニティ財団も中間支援組織なんだと思います。

それで私が思ったことは「中間支援組織の役割って権利擁護(アドボカシー)じゃないか?」ということです。寄付したい人と、NPO等の団体がやりたいことをする権利を護ることが、中間支援組織の仕事なのではないか?と。例えば、「どこに寄付すればいいのか分からない」は「自分が応援したい人や団体を応援する権利」が侵害されている状態、とも言えるのでは?と。どんな団体がどんな活動をしていて、活動のために何が必要なのか…といった情報にアクセスできない状態は、権利侵害の状態にあるとも言えるのではないでしょうか。同様に「お金がなくて活動が続けられない」も権利侵害の状態にあるのかもしれないと思ったんです。

なので、コミュニティ財団が「この地域にはこんな活動をしている団体があるんです」と紹介したり、寄付金をもとにお金が無くて困っている団体に助成することは「応援する権利」「活動する権利」を護る活動ではないか、と考えました。
逆に言うと、「寄付金の流用」は、本来応援したかった団体に助成ができなかった可能性を考えると、「応援する権利」を侵害した可能性がある、という点で問題であったとも言えるのではないかと思いました。

「権利擁護(アドボカシー)」は障害者や認知症の高齢者の支援でよく使われる言葉で、狭い意味では成年後見制度*1と同義で使われることも多いです。が、本当はあらゆる対人支援において通奏低音のように流れている考え方です。

権利擁護は、支援が必要な当事者の「〇〇したい」を最大化するための手段である。その際、手段であるはずの擁護者(an advocate)が、問題解決の主体なのではない。主体はあくまでも当事者であるはずだ。擁護者は、医師や弁護士を真似して、「問題を解決する上で必要なことなら何でもしてあげる擁護者」となってはならない。(竹端寛「権利擁護が支援を変える セルフアドボカシーから虐待防止まで」現代書館、2013年)

本人がやりたいことを叶える、権利侵害を防ぐ、人権をまもるというのが「支援」の一番大事なことだと私は思っています。財団であれば助成が支援なので、助成によって助成先のNPOとかがやりたいことを、NPO自身の力で叶えられるように援助すること(セルフアドボカシー)が大事なんだろうな、と思います。
上で引用した竹端氏の本によれば、セルフアドボカシーの目標は、当事者(助成先)が「自分のために発言し、自分の人生に影響を与える決定に参画できるよう力を付ける(empower)こと」とありました。また、セルフアドボカシーのステップとして(1)自分自身が望んでいるもの(課題)は何かを定める、(2)実践計画を立てる、(3)その計画を実行する、(4)得られた結果を評価する*2とあり、あっこれって中間支援っぽい!休眠預金の資金分配団体にJANPIAが求めてることっぽい!と思ったんですね。

だけどこれって コミュニティ財団 → NPO等の団体 という関係の中では行われているけれど「寄付したい人」と「コミュニティ財団」の関係の中ではどうなんだろう?と思いました。
コミュニティ財団って、支援のためにお金を「出す」団体でもあるけど、寄付者からお金を「もらう」団体でもあるわけですよね。しかも、寄付者の思いを代弁し、「したい」ことを叶えるという意味ではアドボカシーする団体でもある。
寄付の出し手が企業だったり、まとまった金額を寄付できる人であれば助成プログラムを一緒に作る過程を通して、上記のセルフアドボカシーの4つのステップみたいなことをしていると思います。
でも、少しずつお金を出してくれたたくさんの人たちに対してはどうなんだろう?と思ったんです。個人に対してもこれをやれよ!という意味ではないんだけど。だって寄付した先に自分がアセスメントされ、プランを立てられ、モニタリングされ評価されたいと思って寄付する人っていないと思うので。(笑)

中間支援も「社会モデル」であってほしい

自分が使いたいようにお金が使えない。自分の言いたいことが言えない、したいことができない。こうした「当たり前の権利」が奪われているのはなぜなのか。同じく竹端氏の本では「障害の医学モデルと社会モデル」という概念を使って説明されています。

例えば言葉によるコミュニケーションが難しい知的障害者の太郎さんが、ストレスがたまると壁に頭を打ち付ける自傷行為や、気に入らない職員への暴力行為を働いてしまうことがあるとします。このとき太郎さんをどう見るか?という視点です。

 一つ目の見立ては、「強度行動障害」「自閉症」などのレッテルを貼る見立てである。その人のIQは小学生以下であるとか(略)「ひどい自傷」や「著しいこだわり」「粗暴で恐怖感を与え、指導困難」などの評価基準で評価される。そういう「問題行動」をどう抑えることができるか、が支援における目標となる。
 もう一つの見立てとしては、太郎さんがそのような行為をする、「太郎さんの内側に内在する合理性(内在的論理)」を探すやり方である。「問題行動」とレッテルを貼られた行為が、どのような太郎さんの非言語的表現や、行為としてのSOSサインなのか。(略)それらを読み取ることなく、太郎さんの「問題行動」と矮小化して理解することは、社会的差別や本人への抑圧的支配につながりかねない、という視点である。
 前者の見立ては「障害の医学モデル」として、これまで支配的であった。これは、「病気は治せる」という二十世紀医学のモデルに準拠した考え方である。障害は個人の不幸であり、治療やリハビリテーションにより、「問題行動」の最小化や除去が目的とされる思想である。リハビリテーションや訓練によって「変わるべきは障害者」とされる視点である。
 一方、「問題行動」とは、本人ではなく支援する側にとっての「問題」である、とすると、「本人ではなく支援者がまず変わる」必然性が出てくる。その際、本人の内在的論理を理解し、その権利を護るために支援者が本人や社会にどう関わり、働きかけていくか、が重要になってくる。この視点は、「障害の社会モデル」と言われる。(略)障害を個人に起こった悲劇と捉えず、社会的差別や抑圧、不平等の問題と考え、「変わるべきは社会」とする点に特徴がある。(同)

お金や人が集められない、発信力がない、自らの活動を分かりやすく多くの人に説明できない。経営の知識や経験がない。こうしたNPOの不足を治そう、社会に適応できるように変えよう、という「医学モデル」で支援しようとする。私は「中間支援」を名乗る団体がしていることにこんなイメージを持っています。もちろん、そうではない中間支援もきっとあるとは思うんですけど。
でも「社会モデル」の支援は違うんです。障害を「治す」のではなく、障害者が障害者のままでも、社会変革の主体として生きていけるようにすることなんです。

「医学モデル」の支援は支援と言いつつ、本人を支援者の思うように変えようとすることは(それが心からの善意であったとしても)、本人の意志を無視し、権利を侵害することにもなりかねません。
「社会モデル」の支援をしようとすれば、まずは「本人の内在的論理」を知ろうと努め(その論理が、いかに「非常識」であっても)「支援者」側が変わることがまず求められます。

なので、私の最初の仮定が間違っていたんです。

      →        →
寄付したい人 コミュニティ財団 NPO等の団体
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矢印が両方向じゃなきゃいかんのではないか?と。やり取りされるものが、お金ではないかもしれないけれど。変わるべきはNPOとか、その先にいるNPOに支援されている人だけではなく、財団でもあり、寄付したい人自身でもあるはずなのです。

そして、この逆向きの矢印の力がはたらくためには、同書では「支援者(擁護者)」が「『自分の権力を行使しない』とはっきり表明」すること」が必要だと説かれています。これは難しいことです。寄付者や財団が「わたしたちは支援する/支援されるという関係を乗り越えていきたい」というお題目を唱えて、助成先やそのまた先にいる人と対等になった気になることではないと思うんです。これは難しいことです。だってどうしても「お金をあげる/もらう」「支援する/される」の間には権力関係が発生しますもの。「与えることができる」ことは権力ですもの。

エンパワメント支援とは、当事者が自分自身のために発言できない、自分の人生に影響を与える決定に参画できない「無力化」状態を乗り越える、セルフアドボカシーに向けた支援である。その際、支援者が自らの権力行使と決別し、当事者を「受け身」にさせず、共に権力という「ゲームの裏ルール」を乗り越えるためのパートナーシップの関係を築き、「批判的思考」の中から相互変容を行う必要がある。その中で、当事者が「問題を変革していく主体」としてパワーを取り戻していくことが可能になるのだ。(同)

どうやったって残ってしまう「与える/もらう」の権力構造から目をそらさないでやっていくためには「与える側」も自身の無力さを認め、自身も変わりゆくことを受け入れる(相互変容)ことが必要であると。「助成する時に立てた計画と違う結果や成果」と違うからどうこう言うんじゃダメなんですよね。お互いに、なぜその変化が訪れたのかを、頑なに責めるでも、いぎたなく甘え合うでもなく受け入れ、批評し、それまでになかった現実、持っていなかった価値に気付いて次のアクションを起こしていく…みたいなプロセスが必要なんじゃないでしょうか。それが結果として「社会が変わる」ってことなんじゃないでしょうか。

さっき私は「寄付した先に自分がアセスメントされ、プランを立てられ、モニタリングされ評価されたいと思って寄付する人っていない」と書いたのですが
財団→助成先 に対しては、「アセスメントし、プランを立て、モニタリングし評価する」ことって当然のように行われているんです。
さらに言うと、助成先であるNPOが障害者や高齢者を支援する団体だったとしたら、NPO→障害者(高齢者)に対しては「個別支援計画」というものが作られ、障害者が高齢者がどう変容するためにどんなことをしていきますって書いて、定期的にできたとかできなかったとかチェックするんです。
助成先→財団に対して、障害者→支援するNPOに対して、「個別支援計画」が立てられることがあるでしょうか?ほぼないですよね。それはやっぱり「支援される側」だけに変わることを求めていないか?と私は思うのです。


てかこの「エンパワメント支援」の対象者を、皆さんは障害者とか貧しい子どもとか働きたくても働けない若者とかっていう風に読んだかもしれないけど、「自分の人生に影響を与える決定に参画できない「無力化」状態」にあるのって、健康でバリバリ働けてて、ちょっとくらいなら寄付もできちゃう生活をしている人だってそうじゃないですか???長時間労働だって、子どもを育てにくいことだって、賃金が上がらないことだって、コロナウイルスをめぐるグダグダだって、本当に不安で困っているのに「まあどうしようもないよね」って「無力化」されているのは私たちではないでしょうか。それこそが「解決すべき社会課題」ではないでしょうか…。

役割が変わるしくみを取り入れては?

このブログを書き始めたときは、べ、別に、あいちコミュニティ財団のこれからについて何か提言しようなんて、ぜ、全然思ってなかったんですけどね!!!

でも、思いついちゃったので書きますと「寄付したい人・コミュニティ財団・NPO等の団体(助成先)」の役割をシャッフルするような仕組みができたらいいんじゃないかなって思いました。
「お金をあげる/もらう」の関係が固定化されると権力関係も固定されるけど、その時々で違った役割を与えられるような仕組みがあるといいんじゃないかと。助成の審査にホームレス状態にあるおじさんや、長くひきこもり状態にある人を入れるとか。財団の人がどっか他の財団から助成を受けてみるとか。以前にあいちコミュニティ財団は、子どもたち自身が「子ども支援の団体向け」の助成金をどこに使ったらいいかを考える、みたいな取り組みをやっていたけど、あれとか上手にやったらいいんじゃないですかね。(当然のことながら、子どもたちの意志と言いつつ大人の思い通りにするようなガイドを「しない」ことが前提だけど。権力を行使しない!!!)
私も含め、寄付者も財団の執行部も、自分たちの権力の使い方や使われ方にあまりにも無頓着だったと私は思うので、権力を持ってみたり手放してみたり、周りもそれをよく見てツッコんだりしながらやっていくしかないんじゃないかと思いました。


てかそれ以前に、やっぱりまずは「財団は要るのか」を考えてからだとは思うんです。6000字を超えるこのブログの記事を根本からひっくり返すような話で、すみません。
コミュニティ財団は「地域にお金が循環するしくみを作る」と言うけれど、私(たち)が欲しいのは「地域にお金が循環するしくみ」なのか?それとも単に「お金」が欲しいだけじゃないのか?ってずっと考えていたんです。でも、私ひとりでは答えが出ませんでした。
皆さんはどうお考えでしょうか。(おわり)

権利擁護が支援を変える -セルフアドボカシーから虐待防止まで

権利擁護が支援を変える -セルフアドボカシーから虐待防止まで

*1:自分の力で金銭管理とか生活に必要なことを他の人が助ける支援。悪徳商法に騙されてお金を取られないように、通帳を後見人と呼ばれる支援者がその人に代わって管理したりする。

*2:カリフォルニア州の障害者公的権利擁護機関DRC/Disability Rights Californiaのサイトより→今はリンク切れています https://www.disabilityrightsca.org/pubs/507001.htm 今のDRCのself advocacyに関する記事も実践に役立つ面白いことが書いてある気がする  https://www.disabilityrightsca.org/publications/self-advocacy