#レコーディングダイエット

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傾聴と完コピ

エマーソン北村さんというキーボード奏者の方が書いた「僕の考えるパッタナー: 「田舎はいいね」をカヴァーして」という文章にいたく感じ入った。

www.emersonkitamura.com


エマーソン北村さんが、タイの人が作った「田舎はいいね」という曲をカバーするにあたって、どんな苦労や工夫をしたかということが書かれている。その苦労の中身は主に、西洋の、というかいわゆる先進国の人が、アジアとかアフリカとかカリブ周辺とか、いわゆる発展途上国の音楽がイカスと思って、カバーしたりコピーしたりその要素を取り入れたりするとき、一見リスペクトしているようで実は搾取しているだけなんじゃないか?という葛藤だった。

僕がレゲエ、アフロなど非西洋のポップスに興味を持つようになったのは、1970年代終わりから80年代頭にかけて起こったパンク・ニューウエーブ、特にイギリスでのそれの影響だった。そこには、アメリカのロックンロールやポップスが大好きなのだが、同時に、アメリカのポップス的な価値観には絶対に取り込まれまいとする強い意志が曲や演奏の端々に表れていた(中略)。それらの動きがちょっと煮詰まったかな、という感じが出てきたころ、非西洋の要素を取り入れた「ワールドミュージック」がブームになった。その中でよく議論されていたのは「我々はその音楽を新しいと言ってもてはやしているが、それは彼らの音楽を、新たなやり方で搾取しているだけではないか」というものだった。その議論は特に大きな結論を見ないまま、音楽のトレンドの変化にともなって「リスペクトを忘れない」みたいな言葉に置き換わって何となく収まったけど、僕たちにない音楽を、単にアレンジ上の要素として加えるだけのやり方はしたくないという気持ちは残った。
問題は、では「単にアレンジ上の要素で取り込んだ」ものと「本当に相手の音楽を、彼らの気持ちに立って理解したもの」との境目はどこにあるのかということである。(上記エマーソン北村さんのブログより 強調はyoshimiによる)

エマーソン北村さんは「田舎はいいね」を「本当に作った人の気持ちに立って理解する」ために、求められているのはインスト曲なのに「歌」を完全にコピーして演奏してみたという。タイ語もわからないのに、曖昧な要素の多い音を耳で聞いてひとつずつ楽譜に起こし、起こせないところは「このタイミングは微妙」というメモを入れる。歌の次はベースに何かあるんじゃないかと考えて、キーボード奏者なのにベースの譜面を作る。この丁寧さ、しつこさは凄まじいものがあるので、ぜひ元の記事を読んでもらいたい。とにかく演奏する「前」の段階で原曲を理解しようとする手間と時間のかけ方が半端ない。もっと手っ取り早くできそうなやり方だってありそうなのにそれを選ばず、地道に原曲を聞きこむ。その結果、ついに「田舎はいいね」の持つパワーの源にたどりつく。


私は今までにいわゆるホームレス状態にある人や、家はあってもものすごく生活に困っている人と関わる活動や仕事をしたことがある。
その時にいつも感じたのが「五体超満足で心身共にめちゃくちゃタフ、四大卒で正社員として勤め、何不自由なくぬっくぬくと40年近く暮らしてきた健康優良中年たる自分」に、彼女ら彼らの何が分かるのかという葛藤だった。

いや、別に分からなくてもいいのかもしれない。完全に分かることなどできないものなのしれない。けれどおこがましくも「支援」とか言って、「彼らの音楽を、新たなやり方で搾取しているだけではないか」とも感じていた。

生まれた時から全く違う環境、家庭、地域、階級で育ち、言葉もお金の使い方も違う。見てきた風景、感じてきた傷みが全然違う。それなのに、あたかも彼女ら彼らのことが分かるかのようにふるまって、「支援」する、とはどういうことなんだろう。

彼女ら彼らの生活を少しでも良くしていく、そのために色んな策を尽くして努力する。だけどその「良さ」って、私の価値観、私の階級の価値観で解釈した「良さ」ではないだろうか。それは、西洋音楽のモノサシでタイのローカル音楽を聴いて、素朴で心あたたまるとか訳が分かんなくてヤバイとか言ってることと、同じではないだろうか。彼女ら彼らの生活を良くする、とは、「私たち」の思う「良い暮らし」に近づけていくことなんだろうか?それは、タイの音楽をヨーロッパとかアメリカの音楽に近づけていくことを「洗練」と言っているのと同じにならないだろうか?

もちろん支援する人は勝手にああしろ、こうしろと「良い生活」を押し付けてるわけじゃなくて、本人の気持ちを聞いて、本人の意に沿うようにサポートしていると思う。
でも、その「本人の気持ちを聞く」時に、エマーソン北村さんがしたように聞いているだろうかと思う。音楽家としての知識も演奏家としてのスキルもいったん横に置いて、ただその音楽、その文化しか持ちえない表現に向き合っているだろうかと。ついつい、西洋音楽としての文脈で「田舎はいいね」を解釈していないか。つまり、私が育ってきた環境を前提として、目の前にいる人の気持ちを解釈していないか。その結果、「支援」と言いつつ「新たなやり方で搾取する」ことになっていないだろうか、と思う。


昨日から「健康で文化的な最低限度の生活」という生活保護ケースワーカーを主役にしたドラマが始まった。役所で働く人は、多くが大卒で心身ともに概ね健康で、知性や教養、対人スキルなんかも身に着けてきた人たちだと思う。でも藁にもすがる思いで役所に来る人たちの中には、大学に行くとか自分の健康に気を付けるとかいった文化を必ずしも共有していない人たちもいる。「支援」とは、「そういう文化」を「共有できるようにする」ことだろうか?と私は思う。
まずはエマーソン北村さんのように、いろいろを脇に置いてその文化をあじわうことからじゃないかな、と最近私は思っている。

誰もがエマーソン北村さんみたいにできるわけじゃないし、できたとしても、エマーソン北村さんでさえ結局どうしてもわからない(譜面に起こせない)部分は残る。
それでも、ついにエマーソン北村さんは「田舎はいいね」のコアに肉迫し、原曲のパワーを残したまま知識とスキルを生かした表現に昇華させた。

私はソーシャルワーカーの仕事もこういうものじゃないかなと思っている。その人の持っている文化を最大限生かしながら、その人が持っていない文化とのぶつかり合いや融和を起こし、新たな芸術、文化、暮らしを生んでいくような。それはたぶん、「課題解決」ということばに小さく押し込められてしまう仕事ではないはずだと思う。

前のブログでも紹介した大阪の田中俊英さんはよく「サバルタンは語ることができない」という話を紹介される
けど、私はサバルタンが語れないだけじゃなくて、私たちが「聞けていない」のではないかと思っている。私たちの脳の中で鳴っている音が大きすぎて、誰かの奏でる音楽をかき消しているだけなんじゃないかと。

『田舎はいいね』e.p. (12

『田舎はいいね』e.p. (12" vinyl record) [Analog]