#レコーディングダイエット

毎日食べたものを書きます

戦場でサイケデリックなことばかり考えている人

夏の間はずっと暑くて、息をするのも暑くて暑くて、毎日毎日まるで溶けそうなトロントロンの天気だった。私は自由業なので、来る日も来る日も冷たい泡の酒を飲んではエアコンの効いた部屋で猫を撫で、好きな曲を聞いて寝ていた。地上7メートル、この部屋では音楽はマジックを呼ぶのである。

私は人間だからこういうことのために生きているのだと思っている。こういうこと、というのは快楽とか想像力とかのことだ。

だけど私のSNSのタイムラインに流れてくるのは、働き方、とか、学び方、とかばっかりなのだった。あるいは政治や「まちづくり」のことばっかりなのだ。それは私がそういう人たちが好きで、そういう人をフォローしているからなんだけど、私自身は労働や何かのためにする勉強は好きではない。
みんなが労働や勉強について発言することは特にイヤじゃないんだけど、「私は労働にも勉強にも特段の興味を感じない」と表明しづらい、と感じている自分がイヤだなとは思っていた。気にせず言えばいいのである。なので言うことにした。

会社員時代はまあまあの長時間労働をしていた。これといった能力に乏しく要領も悪いので、人より長く働かないと生き残れないと思っていたからだ。肉体的にしんどいことはあったけれど、頑張ったらいつかは報われるのではと思っていたので精神的にはそんなに苦にならなかった、と思う。

だけどずっと考えないようにしていたことがある。若い頃に読んだ岡崎京子の漫画のことだ。
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「時間が足りないんだよ みんな生きる時間がなくなってるんだ 働く時間なんてありゃしない」
「”労働は美しい、神聖だ”なんてハメられてさ 実は労働の果実を自分達で自由にしたことなんてないんだ」
岡崎京子「うたかたの日々」宝島社,2003年)

当時の私はこれが何を言わんとしているのかは全く分からなかったけれど、相当食らってずっと忘れられないでいた。忘れられないけれど、忘れていないと労働できないので考えないようにしていた。そのせいか40歳となった今でもこれが何を言わんとしているのか分からない。
でも、このページのセリフがしっくりきてしまい、どうにも反論できない自分はきっと精神が貴族なんだと思った。他にも楽しいことはあるのにね。音楽や美術や、散歩や登山や、ゲームやファッションや、文学やパーティのほうが楽しいし、そのために生きているんじゃないかしら。パンもお菓子もシャンパンもあたりまえに食べられることが、文化的な最低限度の生活ではありますまいか。

だけど、現実には私はプレカリアートで、働かなくていい機械を作る能力もないので食うために働くしかないのである。
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「生きることなんて召し使いにまかせろ」とリラダンは言ったわ
そのとおりね でも 現実には あたしが召し使いなんだわ
生きるって めんどうね
岡崎京子「でっかい恋のメロディ」(「私は貴兄のオモチャなの」宝島社,1995年所収))

ほんまにそーやで…。


だけど、私のこういう考えは21世紀も20年目となる昨今では時代遅れらしく、ビジネスや社会貢献といった「下部構造」のほうがビビッドなことだっていう風潮があるようだとは、うすうす感づいておりました。

――たしかに、現代の尖った若者は、文化的な活動ではなく起業やNPO活動などに従事している印象を受けます。

かつての若者がロックバンドを組んだのと同じように、現代の若者はスタートアップに踏み出す。経済的な活動だけでなく、NPO活動や差別反対運動のような社会・政治活動も同様です。

以前は、ビジネスや社会貢献といった「下部構造」はおじさんたちに任せ、若者は文化という「上部構造」で遊んでいました。しかし、もはや文化は死に、上部構造の可能性は尽きてしまった。もう「新しい文学を創り出す」「新しい音楽を創り出す」といった試み自体が成り立たなくなってしまっている。すると、経済、それを動かす人間関係、社会システムという下部構造で遊ぶしかなくなっているんです。

(千葉雅也「「新しい価値をつくる」のは、もう終わりにしよう。哲学者・千葉雅也氏が語る、グローバル資本主義“以後”を切り拓く「勉強」論」https://corp.netprotections.com/thinkabout/2404/

上の記事で千葉雅也さんは「上部構造」が見棄てられた原因を「文化のデータベース化」としているけれど、私はあまりこれにはピンときていない。

どちらかというと、バブル後に盤石だと思われていた大きな会社がつぶれたり、公務員の待遇も悪くなったりして、なんの職に就こうが「安定した生活」なんてないんだ(=この世はサバイバル)という意識が根付いたこと、
そして追い打ちをかけるように阪神大震災東日本大震災、その後も度重なる自然災害、リーマンショックなどなどを通じて「ふだんの、平穏な、当たり前の生活」がどれだけ得難く貴重なものであるかを感じた人が多いからでは、と私は思っている。
なんでもない毎日、安心できるひと時、それを豊かにしていく生活こそが「切実に欲しいもの」なんじゃないかと。実際、2010年代に入って流行ってるものって「コーヒー」「発酵」「梅仕事」「カレー」「マラソン」「サウナ」とか、日常をアップデートする系のものばかりな気がする。


しかし私がハマっていまだに抜け出せない90年代のカルチャーは「レイヴ」で、それは「クソな日常を吹っ飛ばす系」なのです。当時は「終わりなき日常を生きろ」とか言われていたんです。そこには日常=つまらないもの、という意識があったからだと思うんだけど、テン年代も終わりがけとなった今、日常はいつどこから撃たれるとも知れない戦場のようなものになっているわけで…。「ていねいな暮らし」とは、日常に平穏を取り戻すための祈りの儀式なのでは?と…。

そう考えると、イノベーションインパクトだと言いつつ、ソーシャルビジネスもまちづくりNPOも「自分たちが安心できる=把握できて不安要素の少ない」自分たちワールド(=社会、まち)を築いて安心を獲得しようとする取り組みなのかもしれない、と私は思うのです。


それでも、時代遅れだけど、私はサイケデリックなこと、つまり日常を吹っ飛ばす気持ちよさ、ここではない何かを、追い求めていきたいと思うのです。音楽とか、パーティとか、レイヴとか、そういった類の小説や芸術、思想とかです。

私にとってサイケデリックとは、見たことや聞いたことのないモノや体験に対する揺らぎ、不確実な何かに対する不安、そしてその両者によって既知の現実が粉々に砕けてしまい→しかしその後、破片がつぎはぎだらけだけどまた組み直されて再生する一連の流れです。
めためたに飲酒して前後不覚になり、翌朝起きた時のようなものです。破片の素材自体は前夜と変わらないけれど、再生した何かは新しい考えやものの見方ををなぜか得ているような…そういう体験をもたらす可能性のある、芸術や思想のことです。要するに、既存の自分が一回壊れてまた立ち上がってくるのが大事だと思っているのです。


けど、今や泥酔も喫煙も、アレもコレもいろいろかっこ悪いことになっているので、私が言っていることなんてただダサいだけなんだろうなーと思う。
けれど「健全なこと」「正しいこと」「誰かや何か(社会とか)の役に立つこと」によるうそ寒さ、コレジャナイ感、そしてそれを我慢することによる息苦しさにも、もう限界なのです。健康に気を付けろ、エシカルに消費しろ、主体的になれ、社会課題を知れ、自分ごとにしろ、寄付をしろ…などなど、強靭な正しさで殴られている気がするのは、私だけなのでしょうか…。


そういう暴力的な正しさに対して、私はどうしていったらいいのか分からないんだけど、とりあえず「そうではない別のやり方」として、ただ楽しいこと、美しいこと、うっとりすること、我を忘れるようなことに耽溺すること。そこから自分が計画したものではない発想や世界が生まれてくる可能性を、手放さないでいたいなと思うのです。

MELODY

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うたかたの日々

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私は貴兄(あなた)のオモチャなの (フィールコミックスGOLD)

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