#レコーディングダイエット

毎日食べたものを書きます

力なき私(たち)の力

地域福祉、というのは「近隣に住む人同士の助け合い(いわゆる共助)」というものにとどまるものではなくて、自身の生活圏に根差したコミュニティにおいて/コミュニティを作りながら、行政、国や市町村(公助)に堂々と意見していく市民を育てていくことでなければならないのではないか、と最近強く感じるようになりました。そうでなければこのコロナ禍において人が死んでいくばかりではないか?と思ったためです。

静岡県立大学の津富先生が勧めていた、チェコの戯曲家/政治家のヴァーツラフ・ハヴェルの「力なき者の力」を解説した「100分で名著」を読みました。「100分~」の方、薄い本で3時間くらいあれば読めるからぜひ読んでほしい。ちくさ正文館でも堂々の平積み。全体主義下の70~80年代のチェコで、血の通った言葉とロックバンド、アンダーグラウンド出版(サミズダート)が民主化運動にどれだけ大きな役割を果たしたかということが私にもよーく分かるように書いてありました。

かつての支配者や指導者は具体的な顔を有しており、みずからが行った良いことにせよ、悪いことにせよ、何らかの責任を有していました。ですが、かれらは今日、官僚、統治と操作と定型句の専門家、特定の役割に拘束された国家の部品となり、「罪を担うことのない」装置に代替されたとし、近代の政治家は「透明」になっている、政治家の人工的な言語の陰には、愛や情熱といった自然世界の秩序の根ざす人間の姿を見ることはできない。そこにいるのは「権力の技術者」だとします。(阿部賢一「100分de名著 ヴァーツラフ・ハヴェル 力なき者たちの力 無力な私たちの可能性」NHK出版、2020年)

ハヴェルの言葉には、ある種の「ためらい」が感じられました。それは、断言することの「ためらい」、約束することの「ためらい」です。それは、私たちがよく耳にする「ワンフレーズ・ポリティクス」とは正反対に位置する思考手順でした。一つの事柄を徹底的に探求しようとするその姿勢は、時に読者や聴き手を置いていくことがあります。
ハヴェルは明言を避けるかわりに、問いを投げかけます。実は、『力なき者たちの力』の結びの一文も「どうなのだろうか?」という問いかけで終わっています。かれの問いかけを受け止めるか流すかは、受け取る側の問題です。しかし、かれの言葉に引っかかった者は、考える機会をみずから設けることになります。(同)

ただ、政治的な言説にせよ、アンダーグラウンドカルチャーにせよ、私(たち)の運動も文化も経済も「人が集うこと」をベースに動くことが前提となっていて、たとえば現在のように人と人が会うことが生命の危機と隣りあわせかもしれない、という状況において、運動や文化や活動をどうしていくのか?というのが私の目下の関心でありまして
それについて考えたことは、明日以降のブログで書きたいと思います。(つづく)

力なき者たちの力

力なき者たちの力