#レコーディングダイエット

毎日食べたものを書きます

ひょっとして自分は劣化していないつもりでいるんじゃねぇだろうな

このインターネット時代に、1か月以上も前にやった「劣化する支援@名古屋」というイベントの感想を書きますね!

劣化する支援というのは大阪で一般社団法人officeドーナツトークという若者支援の団体の代表の田中俊英さんが全国でやっているイベントです。
新興NPOというか、田中さんの言葉で言うと「おしゃれNPO」の運営の甘さ、SROIやクラウドファンディング・休眠預金といったトレンドに気兼ねなく乗ってしまうピュアさ(&あざとさ)、支援の必要なほんの一部の貧困層にしかリーチできてないのに持ち上げられすぎではないのか、といったことを舌鋒鋭く指摘するネットメディアでの記事とともに、おしゃれを自認しないNPO界隈の一部で話題となっています。

しかしこのインターネット時代ですから、参加された方がすでに素晴らしいレポートを書いておられます。まずはそちらをご覧ください。特にこの小池達也さんのブログには、Facebookで感想を述べていた方のリンク*1もまとめられていてすごいのでぜひ読んでください。

◆ミサイルの空、孤立の川
ミサイルの空、孤立の川 | Neu Zuppa

こちらのブログも素晴らしいのでどうぞ!

◆遭難者は、自分が道をロストしたと気づけるのか?『劣化する支援6@名古屋』
note.mu

このインターネッツ時代に、しかもすでにすばらしい記事が数多あるのに、まだ自分が書く意味あんのかなとも思ったんですが、私は皆さんよりも意識低く、下世話目線から書いてみようと思います。

貧困層が「見えていない」のはだれか?

田中さんがいつも言ってることって主に下記なんですよ。

1)「おしゃれNPO」がリーチしているのは、貧困層のうち学習支援や子ども食堂に「来ることができる」ほんの一部のみである。
  「おしゃれNPO」の代表やメンバーは中流~上流階級出身なので、意欲を奪われ「支援」を拒む貧困層に出会うことすらできていない。
2)なのに、「おしゃれNPO」はやった気でいる。貧困に興味がさほどないのに自団体の事業拡大のため色んな地域に拠点を出したりしている。
3)「おしゃれNPO」はSROIとか休眠預金とかに安易に飛びつきすぎ。
4)NPOの財源の多くは「寄付」か、行政からの委託事業や助成金であり不安定。給料が少なく、20代後半~30代になるとやめていくスタッフが多数。
 「おしゃれNPO」は食えないのに大学生を夢とかソーシャルグッドとか美しい言葉で誘って入社させるのはいかがなものか。

名古屋のイベントでもほぼ同じことを言っていて、支援のあるべき論から団体のマネジメントまで、短い時間で色んなことを一緒に語りすぎでは?という意見もありました。
だけど私は、田中さんが言ってることはひとつ、「意欲を奪われ「支援」を拒む貧困層がそれ以外の層から見えなくなり、必要な支援が届かなくなることが問題」ということだけだと思うんですね。

ひとつずつ見ていきましょう。

1)「おしゃれNPO」がリーチしているのは、貧困層のうち学習支援や子ども食堂に「来ることができる」ほんの一部のみである。
  「おしゃれNPO」の代表やメンバーは中流~上流階級出身なので、意欲を奪われ「支援」を拒む貧困層に出会うことすらできていない。

→「見えていない」ので、学習支援や子ども食堂など清く正しい支援「のみ」が貧困支援だと思われてしまうと、そこに乗れない層はほったらかしになってしまう。また「無料の学習支援や子ども食堂があるのになんで来ないの?来ればいいじゃん」となるとそれは「乗れない層」の生活や気持ちへの想像力を全く欠いたものであり、これだけが貧困支援だとなって制度が整えられていってしまうのはまずい。


2)それなのに、「おしゃれNPO」はやった気でいる。貧困に興味がさほどないのに自団体の事業拡大のために色んな地域に拠点を出したりしている。

→貧困にさほど興味がない=支援のスキルに乏しい団体が「支援」の名のもとに当事者を無意識に傷つけたり、遠ざけたりしてしまうのがまずい。


3)「おしゃれNPO」はSROIとか休眠預金とかに飛びつきすぎ。

→「成果」の出やすい人の支援ばかりクローズアップされ、就労しづらい、学校に復帰しづらい、目に見える変化をしづらい人など本人に何十年もよりそい続けるタイプの支援がないがしろにされるのはまずい。


4)NPOの財源の多くは「寄付」か、行政からの委託事業や助成金であり不安定。給料が少なく、20代後半~30代になるとやめていくスタッフが多数。
 「おしゃれNPO」は食えないのに大学生を夢とかソーシャルグッドとか美しい言葉で誘って入社させるのはいかがなものか。

→息の長い対人支援が必要な現場で、せっかく関係構築できたNPO職員と引き離される当事者がたくさんいる状況はまずい。

というふうに私は理解しています。

しかし、他の地域は知らないですが、今回の名古屋では「あいちコミュニティ財団」などの不祥事に「NPOの劣化」を感じていたり、「支援」を対人支援にとどまらず「NPO団体を支援すること」と捉えて来場した方も多かったようです。
そうした方にはもしかして「子ども食堂に来れる貧困層」と「子ども食堂に来れない貧困層」のどちらもすぐにはピンとこない、という状態の人も多かったのではないかと思います。その前提が共有できていなかったのではないかと。
しかし、この状況自体が「『劣化する支援@名古屋』に来たNPOに関わっている人々=貧困層との交流がほとんどない中流層以上の階級の人」という田中説を補強しているようにも、私は感じました。

私は私の言葉を持っているのか

私はこれまでしつこく「あいちコミュニティ財団」についてのブログを書いてきました。が、最近は財団自体じゃなくて、どんなかたちであれ「財団を応援していた私(たち)」について私は考えたいんだなと気づきました。

「遭難者は、自分が道をロストしたと気づけるのか?」にもある通り、若くて、頑張っていて、今までにない取り組みで、みんなを励まし、『社会課題を解決』しようとするチャレンジャーに、
寄付をしたり、スポンサードしたり、取材したり、講演や大学の授業に読んで話してもらったり、SNSでシェアしたり等で応援してきた人、つまりそれって(たち)なんだけどさあ!!!
(たち)の応援の方法はあれでよかったのか、(たち)の応援によってリーダーやそこで働く人たちを逆に追い詰めていなかったか、不祥事に対して(たち)はなぜこんなにガッカリしてしまったのか、なんで不祥事のあと手のひらを返したような態度をとる人たちに対してはこんなにムカついているのか、を考えたいんです、は。

イベントの中で「おしゃれNPO」のリーダーたちは、社会的インパクト評価とかソーシャルグッドとかコレクティブ何とかとか、流行りの言葉は上手に使うけれど、自身の活動や団体についての思いや理念を自らの言葉で語ることはできていない、という指摘がありました。

これを聞いて、私は寄付をするとき、クラウドファンディングの画面をクリックするとき、自分の寄付行動を説明できる、納得できる自分の言葉をもっていたかなとふりかえりました。社会を良くしてくれるなら、困っている人が助かるなら、頑張っている人が応援できるなら。それは紛れもなく善意だし、そう思って寄付する人を、私は責めることができません。

けれども、それは私にとって、耳ざわりのいい言葉に流された思考停止でもあったのでは、とも思います。
Facebookである人が「環境問題が叫ばれるようになった時、『環境にやさしい商品』が市場に出て、人々はそれを『買う』ことで環境に貢献できると考えた。でも、相変わらず市民は『自然環境』から切り離されたまま。それが問題の元凶なのに」と書いていました。

同じように今、貧困問題などに注目が集まり、インターネットを使った情報発信がしやすくなり、寄付も集めやすくなりました。イベントの中で「『おしゃれNPO』とは『劣化』ではなく、多くの人に問題が共有されるようになったがゆえの『一般化』ではないか」という指摘も参加者の中からありました。
確かに「ソーシャルな問題にアクセスする人が増えた」という状況だけを見れば『一般化』かもしれません。

でも、クレジットカードを持っていて、クラウドファンディングのサイトにログインできるリテラシーがあって、仕事とは別にソーシャルな活動もできる経済的知識的肉体的精神的に不健康ではない人と、
子ども食堂はおろかコンビニ行くにも一大決心という子や、「学校へ行ってない子はラーメンなんて食べちゃダメだと思っていた」子とか、家に児童相談所が来てこのままだとマズいと思ったとき県外に引っ越してしまう人とかの『分断』をむしろ進めているようであれば、それはやはり『劣化』ではないかと私は思ってしまいます。

誰もがフルコミットでガッツリ貧困問題に関わるわけにはいかないので、できる方法でできることをすればいいと思うんです。だから寄付もクラファンもどんどんやればいいと思うんです。でも「自分は免罪符を買っただけかも」という気持ちは持ち続けたいと私は思いました。
「うしろめたさの人類学」という本を読んでから、寄付ってなんだろう?とずっと考えています。
考えてみると寄付って、「金払ってやったんだからやることやれよ」とか「私はお金払う役割の人なんだからそれ以上を求めないで」という考え方を超えていくようなー生産者と消費者とか、投資する側とされる側みたいなー資本主義の考え方とは全く違う軸を持っているのではないでしょうか。それこそが「社会課題とを切り離さない」ことへの可能性だと思うんだけど、寄付によって人が『消費者化』されているとしたら、それは『劣化』なんじゃないかな。って、NPOの中間支援をしている人は思った方がいいんじゃないかと私は考えました。*2

NPOの人は「みんなで考えたい」「一緒に考えたい」って言うじゃないですか。絶対そうしたほうがいいんです。
でも、私が広報や宣伝の仕事をして身にしみるのは「考えさせないほうが、買わせやすい」ということです。
すぐに分かること、エモーショナルで心を動かされずにはいられないこと、反論の余地がないくらい正しいと思えること。「共感」と「思考停止」ってもしかしてすごく近いところにあるのでは?と私は思いました。自分は目先のお金集めたさに「考えさせないような」コピーや文章を書いていないだろうかと…書いたこともあるなぁ。ごめんなさい。*3

でも、「考える」っていうのは「正しいよね」「うん、正しいよね」って言い合うだけのことじゃないですよね。本当にそうかなあ…でも、こういう場合は…こういう人もいるよね…そもそも何だったんだっけ…ここは失敗だったね…とかだらだらしたやり取りで行きつ戻りつしながら進めていくことじゃないでしょうか…。

でもさー、そんなことやってたら圧倒的に時間が足りないわけですよ!!!今ここに虐待されている子がいるのに!!!今10円しか持っていない人がいるのに!!!もっとスピード感もってやらないと!!!
とも思ってしまうんですよね。でも、多くの現場の人はすごいスピード感を持って昼夜問わず対応してくれているし、それでも限界なのが残念だけど現実なんですよね。
それはそれで改善していくべきことは多々あれど、私はいち寄付者として、いち現場にいない者として、苦労知らずでぬくぬく育った中流階級として、「その焦燥感は誰のため?」「何もできない自分の罪悪感を解消したくて『社会課題の解決』を急いでいるだけじゃないのか?」という気持ちを持ち続けたいです。

「もっと早く、もっと速く、もっと多くの人に」と「社会課題の解決」をしたい人は考えると思います。でも、その欲望が若くまじめなNPOリーダーを追い詰めていないか。苦しい立場にある人を置き去りにしてはいないか。と私は思います。
そして貧困問題において、対人支援において、そもそも「社会課題」ってなんだろう?と思います。私は最近「スピーディな解決」だけではなく「課題と”ともにある”」というあり方もあるのではないか、と考えています。(これに関しては、もっとよく考えて、別に書けたらと思ってます)

半田でやってもよかったのでは?

今回のイベントに、コミュニティ財団のいろいろで抱えたモヤモヤを何とかしたくて、という思いで来場した人も多いと思うんです。
でも、話を「自分の言葉で語れない=劣化」に戻すと、そのモヤモヤを全国的にも影響力のある「田中さんの言葉」に頼ってなんとかしたいと思う、その私の心こそが「劣化」ですよね。だから、愛知で、名古屋で起こったことは、愛知/名古屋の人が自分の言葉で納得できるような思考とアクションを重ねていくしかないのだと思います。

その意味では、今回のイベントは愛知県半田市でやってもよかったのかもしれません。日本福祉大学の野尻先生、半田市社会福祉協議会の前山さんの問題意識としては、半田市あるいは知多半島を中心に若者支援をしていたNPO法人エンド・ゴールについての問題意識も高かったようにも思うからです。エンド・ゴールさんだってかつてはマスコミによく取り上げられて、企業も行政も大学も市民もすごく応援していた、と私は認識しています。「私たちは若い人たちが必死で頑張るNPOをどう応援すべきか/あるいは、しないべきか」ということを考え反省する機会という意味では、エンド・ゴールさんのことを考えないではいられない、と私は思います。(エンド・ゴールさん自身も良くなかった点は色々あると思いますが、が考えたいのはあくまで「応援する立場としての(たち)」の問題です。)

ユーモアが足りない

私が『劣化する支援』に行って一番の収穫と感じたのは「名古屋のNPOセクターにはユーモアが足りないんじゃないか?」と思えたことです。登壇された方が全員関西にルーツがある方で、関西マナーの言葉で話されていたんですね。関西マナー(関西弁を含む、関西コミュニケーションのマナーみたいなものと思ってください)だと、「親しみを込めた冗談」が名古屋弁文化圏にいる私(たち)には「辛辣な言説」に聞こえ、いまいちウケてなかったとこから気づきました。

「これは良い」と思ったら熱烈応援し、ダメなところがあったらこきおろすか無視する。どっちのガワについたらいいか周りの視線を気にしながらポジションを確かめる。それってさー、どれもマジメすぎるが故、価値観が「社会的に良いことは良い」しかないからじゃないの?って思ったんです。
「良くあろう」とすること、それ自体は全然悪くないと思うんです。でも「良さ」ってもっと豊かなものでしょう?それこそ一つの、清く正しく美しい「良さ」しかなかったら、逃げ場のないところに人を追い詰めるだけなんじゃ?って思うです。

ユーモア、ってふざけてんのかって怒られそうだけど、そうじゃなくて視点をあえて横にズラして、価値観の変換をはかる、っていうことじゃないですか。あっちからもこっちからもズラしてゆさぶって、アホらしくて笑ってしまっても、でもやっぱ残るものがあればそれが本物だと思うし、ズレたところに発見があればそれを取り入れていくのもアリじゃないですか。私はもっとユーモアをもってソーシャルセクターを見て、ボケたりつっこんだりしていこうと思いました。私にとって「批評」ってそういうことだと思うし、批評が中間支援足り得るとしたらコレやんって思ったんです。

だけど、誰もが批評家になる必要はないと思うんです。メタな視点を(あえて)持たないからこそすごい力を出せるNPOリーダーって多いと思うし、メタ視点を持てずに苦労している人の活躍の場としてソーシャルセクターがありうるかもしれない。そして、何よりコミュニティ財団とかの話でいえば、パワハラを受けた側の人がユーモアなんて簡単に言えないと思うし。でも、様々な関わり方のひとつとして、ユーモアをもって問題提起をしていく人はもっといてもいいかなって。マジメなことは借り物の言葉でも言えるけど、ユーモアは自分で考えないと絶対に面白くないと思うので。

私からは以上です。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

STILLING STILL DREAMING

STILLING STILL DREAMING

*1:Hagiwaraさんの記事のサムネイル画像が強烈

*2:私が「NPO」に過度な期待をしているだけなんでしょうか?でもそうじゃなかったらNPOじゃなくていいやん!!!

*3:あと●日でクラウドファンディング終了です!とかね。