#レコーディングダイエット

毎日食べたものを書きます

誠実な強者でありたい

2018年の終わりに初めて東洋経済オンラインに名前入りの記事を載せていただいて、2019年はYahoo!ニュースに何本か書かせていただいた。私がフリーライターになったのは2016年の4月からで、短い期間でこんなにたくさんの人に読んでもらえる媒体で書かせてもらえたのはひとえになごやメディア研究会のおかげである。代表の関口さんはじめ皆さんには感謝しかない。もちろん、なメ研以外にもいつも好きにやらせてくれるNPOや企業や杉浦医院の皆さんにも感謝しかない。本当にありがとうございます。

Yahoo!に記事を書かせていただけるようになり、とても驚いたことがある。それは「Yahoo!ニュースです」と名のると大抵どの方もすぐに取材に応じてくれ、お話を聞かせていただけることである。

以前、別の小さなメディアで取材のお願いをしたときは、自分がいかに怪しくないかを誠心誠意お伝えしないといけなかった。「それは無料なんですか?広告じゃないの?」とか何回も聞かれる。取材と言って近づいて、後から「掲載してやるから金を出せ」みたいな商売をしている会社からの営業がよくあるらしい。なので「取材依頼書」を懇切丁寧に作って、いかに自分が怪しくないか、ちゃんとした媒体であるかを書面と電話の両方で説明していた。それでも取材できなかったこともある。

まだほんの数本しか書いてないのに「自分は権力を持ってしまった」と思った。この程度でそんな風に思うなんておこがましいと思うけれど、でも誰でも持っている、行使できる権利ではないことも確かなのだ。メディアは権力だ。

メディアだけではない。私はFacebookを見ていると知人が選挙に出て議員になったり、大学の先生だったり、会社を経営していたり、大きな企業に勤めていたりする。こういうタイムラインが「当たり前」の人には取るに足りないことなんだろうけど、日本で身近に議員や社長がいる人はどれくらいいるのだろうか。そうじゃない人のほうが圧倒的に多いんじゃないだろうか。だけど、メディアに取り上げられたりするのは議員や社長の方が多いし、法律や条例を決める時に影響力が大きいのはやっぱり議員・教授・社長・メディア関係者っていう現状があるのではないか。
そうじゃない人の方が多いのに。

リベラルを自称するメディア人や議員さんなどは「そうじゃない人」の声も聞いて、言説や法律に反映していきたい、と言う。それは嘘じゃないと思うし、私だってそうしたいと思っているし、「社会福祉士で、ライターです。ライティング・ソーシャルワークなんです」と恥ずかしげもなく公言している以上、そういうものを書かなければ意味がないと思っている。

だけど、チママンダ・ンゴスィ・アディーチェ「なにかが首のまわりに」と、それを訳したくぼたのぞみさんのインタビューを読んだら、果たしてそんなことは本当に可能なのだろうかと考え込んでしまった。

誰かが誰かに一方的に贈り物をするとき、贈る者と贈られる者の間に、ある力関係が生まれていきます。贈る方が上。もらう方は下。親子なら、いずれ関係は変わるけれど、贈る側と贈られる側が入れ替わることがなかったら? それも個人の力量や努力で超えられない理由によって。だとしたらその関係は「対等」ですか?

何かを贈られることによって、受け取る側に積もり積もっていくマイナスの心情があります。弱者がGiftによって受ける傷、屈辱、それをアディーチェは描いています。(略)

立場を逆にして同じことが起こらないのであれば、両者の関係は人間として対等ではありえません。これは、常に「与える側」にいる強者が、「そういうものだ」という先入観で、生まれながらに与えられた特権として見落としていることです。(「物語」が「イズム」を超えるとき。Torus 
https://torus.abejainc.com/n/n5f7b38ca79cf?fbclid=IwAR0GWJp1fuKpQUmp8ejLvnUqCCb1_KV_ZXy1v5Jz7z6ag3P20RjMjWjVjO8

私が今ライターをして生活できているのは、なメ研や冒頭にあげた皆さんのおかげなんだけど、遡れば生まれた家にたまたま借金を背負うことなく大学まで行けるお金と家族の理解があったからだし、偶然この年まで大した病気もせず、身体的にも知的にも精神的にも「健常」でいられたからだと思う。「生まれながらにして与えられた特権」だ。

さらにその特権に乗じて、私はこうして下手でも気持ちや考えを言葉にして表出する能力も持つことができた。Twitterか何かで誰かが「言語はコミュニケーションの通貨だ」と言っていたけれど、あらゆる表現方法の中で、今もっとも世渡りと密接に結びついているのが読んだり書いたりする能力だと思う。そしてこの能力も、持っている人にとっては呼吸をするくらい当然のことなのに、持っていない人にはすごく高いハードルになっていると思う。そしてそれは読み書きができる「強者」が見落としていることでもあるのではないだろうか。

私はいつも山崎ナオコーラさんの小説の一節を思い出す。

私は思う、自分は強者だと。弱者ぶって甘えながら小説を書くことはできない。
だから被害者になることは少ない。私には気力や知力がある。車と同じで、ぶつかれば私が加害者だ。世の中に対して、できることが多い。(山崎ナオコーラ「この世は二人組ではできあがらない」新潮文庫、2012年

私は自分が持った力をちゃんと使えているだろうかと思う。まだ知らないこと、陽の当たらないこと、大きな声に埋もれてしまいそうなことをあきらかにしたいと思って書いている。でも、取材させてもらった人や、読んでくれる人にぶつかっては傷つけているのではないかとも思う。実際に傷つけてしまったこともあるし、知らないうちに傷つけたことも多々あると思う。それに対しては本当に申し訳ない。

特に、社会的に弱い立場にある人たちのことを書くとき、どう書くべきかとずっと思っている。どうやっても「貧しい人たちの生活をぼんやりながめ」るだけの記事になってしまわないかと。(「そこの人たちは「私の」生活をぼんやりながめることなどできはしないのだから。」)しかも、くぼたさんのインタビュー記事に南北問題の話が出てくるけれど、私が強者でいられるのは私が意図せずともどこか・誰かから搾取している面があるからにほかならないのに。


とはいえ私は私以外の人にはなれないし、しかも書くことをやめようという気にもならないのだった…。


だから自分の立場や限界から逃げないで、異なる立場の人にも少しずつでも伝わるように、よく聞いてよく見てよく読んでよく考えて、失敗しながらでも書き続けていくしかないんだと思う。傲慢だと思われても、自分自身はできる限り謙虚に、自分を疑いながら、慎重に慎重に言葉を選んで、でも遠慮はしないで書くしかない。

またこれもくぼたさんがインタビューで言っていることだけど、「イズム」ではなく「物語」の言葉で書こうとするとき、書き手自身の限界(弱さ、と言ってもいいかもしれない)を入れずに書くことはできないんじゃないかなと思った。自分の足りなさごと世界に投げ出していくことなんてどうでもよくなるくらい、書くべきことに肉迫できる力をつけたいっすね。オラもっと強い奴と闘いてえ。

すぐれた文学作品というのは国や国境を越えて、個人と個人が対等に出会うための想像力を養うものなので、そのまま世界を見る窓にもなるんですよね。「物語」が「イズム」を超えるとき。Torus 
https://torus.abejainc.com/n/n5f7b38ca79cf?fbclid=IwAR0GWJp1fuKpQUmp8ejLvnUqCCb1_KV_ZXy1v5Jz7z6ag3P20RjMjWjVjO8

この世は二人組ではできあがらない (新潮文庫)

この世は二人組ではできあがらない (新潮文庫)