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「意思決定支援」じゃなくて「欲望形成支援」じゃないか?っていう話ーー「精神看護」2019年1月号がすごい!

「精神看護」っていう、おそらく精神科の看護士さん向けの雑誌の2019年1月号がやばいからみんなに読んでほしい。
特集は「國分功一郎×斎藤環 オープンダイアローグと中動態の世界」。普段から、お前どんだけ國分さんファンなのかと周囲の人に呆れられている私ですが、冒頭の國分さんの中動態に関する講演録だけで1400円+税払って読む価値あるから取り寄せて読んで読んで。特に「中動態の世界」読んで、「分かったような分からないような」「ラテン語の意味はよく分からんがとにかくすごい労力だ」「意思はともかく、だったら責任はどうなるんだ」と思った人は読むとよいと思いますー。

意思決定じゃない、欲望形成をささえるのだ

國分さんは、昔は能動態と対立されていた「中動態」が消えて、「能動態(~する)」と「受動態(~される)」が対置されるようになった経緯を「行為の責任が誰にあるかを厳しく区別する言語になった」と説明します。「~する(能動態)」なら『私』の意思でやった行為だし、「~される、させられる(受動態)」なら、私ではない誰かの意志に沿って行われた行為だと言えるわけです。

だけどここで問題にされるのは、「意思」だけがその行為の原因といえるのか。「意思」とは本当に自分の心に固有な、オリジナルな、純粋な、自明のものなのかということです。

その子はお茶碗を割った。でも、その子はお母さんに怒られてむしゃくしゃしてやったかもしれない。また、お母さんが子どもに当たり散らしたのは、お父さんと喧嘩したからかもしれない。で、お父さんが喧嘩したのは、会社で何かもめごとがあったかもしれない。
 行為の原因というのは実際にはいくらでも遡っていけるのです。(略)
 ところが、意志という概念を使うと、その遡っていく線をブツッと切ることができる。「君からこの行為が始まっている」「君の意思がこの行為の出発点になっている」と言えるわけです。國分功一郎「中動態/意思/責任をめぐって」,「精神看護 2019年1月号」,医学書院,2018年)

意思はゼロからの出発点、純粋な自発性を指しているということです。そう思っていなくても、そういう意味で使われている。そういう意味で使われているから、責任を問うための根拠にされている。(略)
 意思が純粋なゼロからの自発性として考えられているということは、言い換えれば意思とは心の中での「無からの創造(creatio ex nihilio)」として捉えられているということです。しかし、そのようなことが心のなかにありうるでしょうか。もちろんあり得ません。
 人というのは、歴史を持っていて、人生を持っていて、過去とつながっている。そして人の心は、その周囲の環境とつながっている。完全に隔離された条件下の人間を考えることはできない以上、人間の心の中に、ゼロの出発点、「無からの創造」を置くことはできない。(同)

考えれば考えるほど「意思」とはあやしげであやふやな概念なのに、國分さんは現代では「意思」への依存が強まっていると語ります。

現代文明は意思の概念に強く依存しています。特に昨今の新自由主義体制においては、この依存は極限的に高まっている。「あなたには選択の自由がありますよ。選択はあなたの意思で行われることです。ですから選択の結果はすべてあなたの責任です」というわけです。今日は自由の話はしませんが、現代では「自由」は「選択の自由」にされてしまっている(自由の概念については『中動態の世界』の第8章をぜひ参照してください*1)。そしてその選択は、すべての責任を引き受ける主体を前提にしています(

これを踏まえて、たとえば医療の現場で言われている(福祉の現場でも言われていますが…)「意思決定支援」は、本人の意思を尊重するという建前のもと、単に責任の押し付け合いになっていないかと問題提起します。対して、本当に行われるべきは「欲望形成支援」ではないかと言うのです。

「意思決定支援」の考え方が出てきた背景は容易に想像できます。患者のことを患者以外の別の誰かが決定して、それをパターナリスティックに押しつけるのはおかしい。他者による決定の押しつけを疑うことは当然です。
 だから患者自身に患者のことを決めさせようというわけでしょうが、これでは単に責任を押しつけることにしかならない。今までの関係が単に反転しただけです。(略)
 僕はむしろ「欲望形成の支援」という言い方をしたらどうだろうか、欲望形成を支援するような実践を考えたらどうだろうか、と思っています。「意思」というこのとても冷たく響く言葉は切断を名指ししていますから瞬間的です。それに対して「欲望」は過程であり、また、人の心の中で働いている力であるという意味で、どこか”熱い”過程です。
 欲望を意識するのはとても難しいことです。自分のことだからこそわからない。だから周囲に手助けしてもらったり、一緒に考えたり、話し合ったりしながら、自分の欲望に気付いていく必要がある。(同)


以前にこのブログ↓で「主体」についてチラっと疑ったんだけど、そういうことだったのかー!と思いました。
yoshimi-deluxe.hatenablog.com

この分科会では「支援する/される」の「関係」ばかりに気をとられていたけれど、それ以前に「支援する、とされている」側と「支援される、とされている」側、双方の「主体」のあやふやさについて思いを遣ったらどうかと考えました。
支援する側にもされる側にも、明確な「意思」または「欲望」があって、それらがせめぎ合っているのをどうしたらいいかーーではない、んだと。
もっとどちらもあやふやで、ダルちゃんみたいにふわふわ不定形で、支援したいようなサボリたいような、応援したいようなテキトーでいいような。仲良くしたいような逆らいたいような、怖いような腹が立つような。そんな、定まらないものなんじゃないか。それを勝手に「見えていない意志があるはずだ」とか決めて、それを探るようなことをしているからいつまでもたどりつかないんじゃないか、と思った。
何を欲望していいかわからない、欲望したくなるようなきっかけがない、そういう状態から探していくものかもしれないし、激しい欲望を「はいはい、これがニーズですね」と分かった気になるよりも、その欲望はその人のどんな歴史、どんな背景に裏付けられているかを考えるのが「その人らしさが発揮できる」支援につながるんじゃないか。そんなことを考えました。


「中動態の世界」では、何か悪いことをしたときに、どれだけ言葉を尽くして謝罪しても、「本当に自分が悪かった」という気持ちがその人のなかに現れていなければ(現れる、は中動態)、相手はその人を許さないだろうという話が出てきます。

じゃあ、どうやったらその気持ちが「現れる」のか?「意思」の力ではそれが不可能だとしたら、何が私たちの心にそれを呼び起こすのか。
私は、自分とつながっている「歴史や、人生や、過去や、周囲の環境」をよく考えてみて、自分が普段から「つい、抱いている」感情や欲望がどこから来ているのか、を考えることではないかと思います。
困った人を助けたいと思う気持ち、どこかに寄付したいと思う気持ち。事業で成功して一旗上げたいと思う気持ち、そんなのくだらないと思う気持ち。それらは全部当たり前のことではなくて、どんな要素が自分にそう思わせているのか。それを考えていくことではないかと思うんです。

でも、自分の欲望に向き合うってしんどいことじゃないですか。例えば「困っている人を助けたい」という欲望のルーツには「頼りがいがある男と思われたい」とか「社会を変えた人として注目されたい」とかもあるかもしれない。
だけど、そういう弱かったりズルかったりする自分から目をそらさないで、その上でどうしていくかを考える。その時に一人じゃなかったとしたら心強いし、大きく道を踏み外さないと思いませんか。それこそが「欲望形成支援」ではないでしょうか。そして、それは、いわゆる「支援される側」だけじゃなくて、「支援する側」とされている、立場の強い人にも必要な支援、ではないでしょうか。


「精神看護」には「欲望形成支援」についての犯罪加害者の立場の人の語りや、うつ病経験者の方の視点で書かれたコラムもあり、どちらも國分さんの講演録と同じかそれ以上に心打たれる素晴らしい言葉にあふれていました。(心打たれる、って中動態っぽい)。興味のある方はぜひー。

ダルちゃん: 1 (1) (コミックス単行本)

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*1:「自由」の概念については、國分功一郎「100分で名著 スピノザ エチカ」NHK出版、2018年の「第3回」の章もオススメ