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「人類学とは何か」を読んで、福祉とは、対人支援とは何かを考えた

ティム・インゴルド「人類学とは何か 他者と”ともに”学ぶこと」を(苦労して)読みました。

人類学とは何か

人類学とは何か

人類学者である著者が「人類学」をアップデート、というかリビルドしていくための提案をする本なのだけれど、読んでいて「人類学」を「福祉学」または「福祉」「対人支援」と言い換えてもほとんど全部あてはまるように思いました。

さまざまな研究者たちの間にあって人類学者が特別なのは、他の学では、教育のない、文盲、それどころか無知と簡単に片づけられてしまう人々から進んで学ぼうとするからである。こうした人々の声は主要なコミュニケーション・メディアで取り上げられることはほとんどなく、人類学者がいなければ聞かれることがないままであろう。人類学者が幾度となく示してきたように、こうした人々は、彼らよりも知識があるとされている優れた者たちよりも知恵がある。また、世界が変わりつつある時に、彼らの知恵は私たちがけっして無視できないものである。(ティム・インゴルド「人類学とは何か 他者と”ともに”学ぶこと」亜紀書房、2020年)

知的または精神的な障害者とか、認知症の患者とか言われている人たちと関わったことがある人の中には、同じように考える人もいるのではないかと思う。だけどそれは「障害のある人のほうがピュアで、ウソがなく、より本質的なんだ!だから彼らに学ぶべきなのだ!」ということでもないんだよな、と思うんです。

「福祉」「支援者」と呼ばれる人や、障害のある人に「理解がある」とされる/思っている人たちの中にも、そういうふうに言う人たちが少なくないし、マスコミでも同じように取り上げられることが多い。けれど、何かができない人をあからさまに貶めることも、聖者のようにあつかうことも、どちらも「自分たち」と同じ人間とは思っていない、という意味では同じではないかと。

インゴルドはカナダの先住民族の首長のべレンズが「『石』の中には生きているものがある」と語ったことを例に出しながら、「他者を真剣に受け取る」ことについて説きます。石が生きているなんて、それは未開の地の民族の特殊な信仰によるものではないのか?とか、患者の意味不明な言動は、精神病からくる妄想であろう、とか、私たちはすぐ思ってしまう。しかし、インゴルドは狩猟生活の先住民の「特殊な」生活や思想ではなく、妄想だと決めつけてしまう私たち自身の思想自体を振り返ってみることを提案します。

べレンズの言葉によって私たちは、それまではあたりまえと思ったまま疑いもしなかった多くの事柄を疑問視するようになる。動いたり、話したりする石というアイデアをそれほどあからさまに幻想的なものとする現実に対する私たち自身のアプローチとは、いったいどのようなものなのだろうか?(同)

人類学のパラドックスの一つは、人類学が、非西洋の人々の生と時間について多くのことを言う一方で、西洋の人々についてはほとんど何も言わないということである。(同)


福祉の人が発達障害者や精神障害者認知症の患者の人々の生と時間について多くのことを言う一方で、「健常者」の人々についてはほとんど何も言わないということは、ないでしょうか?

ただ、「他者を真剣に受け取る」からといって、自分の判断や思考をすべて相手に委ねてしまうのではない。自身の「あたりまえ」を揺さぶり、自らも変化しつつ、コミュニケーションを通してお互いに変容していくようなあり方こそが「人類学」の目的であるとインゴルドは言っているのです。それは狩猟や採集を生業にしている人たちとか、西洋の文化とは違う生活習慣を持った人たちを「特別な人」とか「未開の地」とか「文明が発達していない」として観察するようなフィールドワークや民族誌に対する厳しい批判でもありました。
ひるがえって「福祉」や「対人支援」のことを思うと、同じように「健常者」にとってあたりまえにできることが「普通」であり、その「普通」に乗らない人を「障害である」「支援の対象である」「困難ケースである」と決めつけて関わることのグロテスクさが浮き彫りになるように私は思いました。「健常者」に近づけようとすることはもちろん、「理解してあげよう」という、一見、差別がなくて良さげな態度すら、自身の人間観や世界観が全く変化しないのであれば同じなのではないかと思ってしまいました。

他者を真剣に受け取ることが、私の言わんとする人類学の第一の原則である。このことは、単に彼らの行動や言葉に対して注意を払えばよいという話ではない。それ以上に、物事がどうなっているのか、つまり私たちの住まう世界や私たちがどのように世界に関わっているのかについての私たちの考えに対して、他者が提起する試練に向き合わねばならないのである。先生に同意する必要などないし、先生が正しくて、私たちが間違っているとみなす必要も無い。私たちはそれぞれ違っていてかまわないのだ。だが、その試練から逃れることはできない。(同)

「他者」と「自分」がお互いに変容し続けることが大事だ、それが世界だとインゴルドは何度も繰り返し言うわけです。「人間とは、結果ではなく、一区切りなのである。人間は、人間が直面する条件--過去に自分自身と他者の行動によって累積的に形づくられた条件--に、あらゆる瞬間に反応しながらつくられる自らの生の産物である」とも。AはAである、BはBである、自分は自分である、あいつはあいつである。ではなく、つねに生々流転しているものなのだと…。このおぼつかなさ、不安定さ、諸行無常感、ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず感…、そんな状態で自分は生きていけるのだろうかと、不安にもなってしまいます。

だけど、いま現在の「AはAである、BはBである」状態が安心かというとそうでもないなと思ったんです。
「私は支援する側、あなたはされる側」「私は職業人、あなたは患者」という固定された関係が病院や施設での虐待を生むことはよく知られているし、「自分は給料出す側、あなたはもらう側」という権力関係が暴力を生むことも珍しくありません。「福祉の人は心がきれい、企業の人は金儲け」「トランプ支持者は」「左翼は」「エリートは」「地方在住者は」…みたいなレッテルが、他者も自分も縛り付けていることはないだろうか、とも思いました。

インゴルドは「会話」によって変容していくのは個人だけではなく、社会の仕組みや構造もそうではないかと書いています(と、私は読んだ)。人間が変われば構造も変わるのは当たり前なんじゃないかと思ったけど、人間が先か構造が先かじゃなくて、それは同時にじりじりと変わって行くものなのかなと思いました。

人は境界線を越えることなく、場所から場所へと渡り歩くことができる。差異をつまらない同一性に譲り渡すのではなく、ある場所を人から人へ手渡すこと―-つまり、人々が共通の場(コモンプレイス)〔ここでは〔ありふれた日常〕という意味で使われている〕をつくること―-は、同じく可能ではないのか。もし、あなたや私、そして私たち以外の残りのすべてがすでに同じだとしたら、私たちはどんな会話をすればいいのか?(略)私たちは異なるモノを、つまり経験や見解、技能などをテーブルに持ち寄るからこそ、それらは共有されるモノとなる。(同)

「community(共同体)」という言葉そのものが、ラテン語のcom(「共に」)とmunus(「贈り物」)からなり、「一緒に生きること」を表すだけでなく、「与え合うこと」をも意味する。私たちが共同体に属しているということは、私たちがそれぞれ違っていて、与えるものをもっているからである。(同)

人類学に限らず、「福祉」(とされる)フィールドでも、私たちは持ち寄ったり、与えあったりしているだろうか?と考えました。そうでなければ、どんなに美しい、よいことをしていると思っていても、「西洋化=人間の進歩」とのみ信じて、西洋文明とはちがう文化を持った人を虐げていたことと、同じではないでしょうか。*1

*1:「私たちが今日できるあらゆることをする能力を、狩猟採集民だった私たちの祖先たちに投影してみることで、歴史とはこうした能力が立派に遂行されてきた輝かしい過程であると立証されるわけだ。かくして、三万年ほど前の洞窟の壁に残る壁画は、ヨーロッパのルネサンスに絶頂期を迎えた美術の能力を明らかにしているし、同じ頃に同じ場所で出土した石器は、マイクロチップを用いて頂点に達したテクノロジーに対する能力を明らかにしているし、その壁画や石器を作った人々は、ニュートンアインシュタイン並みの能力をもっていたのだと主張される。しかし、「人間の進歩」と広くみなされている、この決定的にヨーロッパ中心主義的な見方は、たまたま近代の進化の神話に合致しない歴史をもつ人々の達成を脇に追いやってしまう。彼らにはできないけれど自分たちにできることを、種に対する普遍的な能力の、私たちのうちでの、より大きな達成に帰する一方で、その見方は、私たちにはできないけれど彼らにできることすべてを、文化的伝統の特異性へと格下げする。」(「人類学とは何か」より