#レコーディングダイエット

毎日食べたものを書きます

「まちづくり」とその外部

あいちトリエンナーレはいつか見に行こうかなと思いつつ、色々なゴタゴタで再開前もその後も、人も多そうだし抽選とかダルいしと思っているうちに気持ちが萎えてしまって、結局見に行かずじまいでいた。
最終日の鷲尾友公さんとCalmのイベントだけ、Shigetaさんが自前のサウンドシステムを提供しているということで行ってきました。
f:id:yoshimi_deluxe:20191024004446j:plain

会場になっている円頓寺商店街は、年月を経て灰色になった高いアーケードから垂らされた、真新しいトリエンナーレカラーの紫と金色の糸でデコレーションされていました。
手書きでレタリングされた看板のフォント、リノベーションしておしゃれになったカフェやボルダリングジム、揚げたてのコロッケを買う人が列をなす肉屋、何十年も前から時間が止まったみたいな和菓子屋や履物店。昔ながらの商店と今ふうのお店がモザイクみたいに並んで、展示よりも円頓寺商店街自体が大きなアートみたいで、私はわあわあ、あれ見て、味わいありすぎ、これ見て、すごいおしゃれーとか言っていました。
f:id:yoshimi_deluxe:20191024002941j:plain

けれどひと通り商店街を見た後で、一緒に行った彼氏が「円頓寺っていろいろお店はあるけど、ガラの悪い店はないね~」と言ったのでハッとした。確かにないのである。パチンコ屋とか風俗とか、安かろう悪かろうみたいなどうしようもない店とか、小汚くだらしなさそうな店とかはないのである。古いままの店はあるけど何だかなぁみたいな店はないのだ。

円頓寺は清くて正しい商店街だと思った。

私は円頓寺の歴史とかはよく知らないけれど、結果として今、あまり所得または文化的な素養が高めでない人が好んで集うような雰囲気はあんまないのかなと思った。レトロな雰囲気、キッチュな建物、名駅からも栄からもあえて離れた静かな場所で店を構える意味と余裕(または意地)、そういうものを共有できる人が集まる場所なのかなと思った。トリエンナーレやテレビ局、その他の団体が催すイベントを受け容れる経済的文化的な寛容さのある商店街なんだなと思った。

それが悪いわけではないし、そういう人たちが経済的文化的な余裕や寛容さ、教養の豊かでない人を殊更に排除しているとも思わない。

でも、結果として経済的文化的な余裕や寛容さがないヒトやモノはここにはいられないし、要するにゲットー的、ヤンキー的、下世話的、ベタ的な文化はこういう界隈では尊重されずに別の地域に移っていくのではないかなと思った。繰り返すけれどそれはお互いに、排除ではなく住み分けみたいなものとしてそうなっていくんじゃないかなって思う。


だけど、そういうところに私が普段「まちづくり」や「シティプロモーション」に感じているうそ寒さがあるのかなとも思った。

地方都市(または町・村)移住してくださいっていう宣伝って、なんか「リンネル」とか「ソトコト」とか、あるいはプリン体や糖質を控えめにしたヘルシーなビールの宣伝みたいなナチュラル志向で、肩の力は抜いてますけどおしゃれなんですよみたいな感じじゃないですか。生活はゆったり、だけどダサくはないですよみたいな。しかもそういうコットンのボーダーシャツとか着た若い夫婦、または若い夫婦と小さな子連れだけをあからさまに都会からの移住ターゲットにしてません?それって結局税収と労働力(および介護力)をアテにしているってことですよね?
と、私みたいな独身子無し、稼ぐ力無しの人は完全な蚊帳の外ですよね感を感じてしまうんですが、それって私の性格が妬み嫉みに満ち満ちて歪みまくったものだからなんでしょうか…。

私の性格の悪さはともかく、どんなにうまくいった「まちづくり」であってもオールマイティに万能ではない、という当たり前のことを忘れないでいることって大事なんじゃないかなって思うです。
おしゃれで清潔で、レイドバックした雰囲気はありつつ最新のテクノロジーにも目配りした町、みたいなまちづくりは全然悪くないと思うんです。でも、万能ではないっていうだけのことで。そして、万能ではない、ということも決して悪いことではないと思うんです。

でも「万能でない」ということを自覚しておくことは、まちづくりを仕掛ける行政の人も、NPO的な団体の人も、コンサルの人も、住民の人にとっても大事なんでないかと思うです。「万能でない」ということは、そのまちづくりの思想・哲学には乗れない人もいるという当たり前のことです。地理的な意味だけではない、その「まち」の「外部」を想像して意識し続けることが、日々の生活で生まれるコンフリクトに向き合っていくことにつながると思うのです。カタカナを使わずに言うと、経済的・文化的に異なる視点を持つ人(経済的・文化的に貧しい人とか)と、どちらも無理し過ぎず、かつ押しつけ過ぎず生きていくかということです。そして主には、経済的・文化的に豊かな人が「押し付けがち」な価値観に自覚的であるということだと私は思います。


「正しいまちづくり」「若くてセンスのいい世代にリーチするスタイリッシュでクリーンなまちづくり」が、万能ではない(そうではない価値観の人も地域には生きている)という想像力を、特に行政の人や、意識的に「まちづくり」を仕掛けていこうとする人は持たなければならないのでないか、と思います。外部を持たない「まちづくり」は、箱庭を作って楽しむようなものではないでしょうか。