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勝手に解決するな社会の課題ーソーシャルビジネス以前

「なくそう!子どもの虐待プロジェクト2018」が6月15日から1か月あまりの期間で10万5千人の署名をネットで集め東京都知事や厚労大臣に署名とともに施策の充実を訴えたものの、そのもともとも署名ページの施策内容が署名をした人にも、発起人となった人たちにもきちんとした報告連絡相談のいずれもなく書き換えられていた、ということが分かりました。
ネット上ではたくさんの人がこの書き換えと、書き換えに当たって署名をした人に全く事前の説明がなかったこと等が問題であると述べられています。私も大きな問題だと思います。

news.yahoo.co.jp

この件について公開質問状も出されましたが、それに対する回答(下記の署名サイトの報告が回答であるとのこと)も十分な説明責任を果たしているとは、現時点(2018年8月1日)では私は思えません。

★公開質問状の内容

★公開質問状への回答とされたページ
goo.gl

同じくネット上ではこの回答に対する疑問や、発起人・共同発起人の方の意見を求めたり、責任を問う声が上がっています。(何名かの発起人および共同発起人の方は書き換えの事実を知らなかったことを述べ、署名された方に謝罪されている方もいます。)私は「署名をする側」の立場の人として今回の事件をどう考えたらよいのか、これからどう行動していったらよいのかも考えてみたいと思います。

署名で救われたのは誰か

キャンペーンがSNSでシェアされまくって勢いよく広まり、すごい速さで多くの署名を集めていくのを見て、わたしは最初「すごいな」「他の社会活動もこういうふうにやれば、もっと多くの人の賛同を得られたんじゃないか」と、その手法にちょっと嫉妬というか…なんで今までコレやらなかったんだろう、とも思っていました。今回は小さな女の子が巻き込まれた痛ましい事件がきっかけになりましたが、例えばこれまでにも生活保護が利用できず、暖房のない寒い部屋で餓死してしまった方とか、親子で心中を図ってしまった方などが大きなニュースになり、私はそのたびごとに心を痛めたからです。あんなにひどい事件があったのに何もできず、同じように生活に行き詰って命を落とす人が今も絶えないのに、相変わらず自分は何もできないでいる…。私(たち)も色んな団体や、会社や、有名人やインフルエンサーに声をかけて連帯して、生活保護ケースワーカーの増員を求めたり、保護費の引き下げに反対したりすればよいのではないか…そんなふうにも思いました。

で、私は署名したかというとしませんでした…。なぜしなかったかというとやっぱり警察との全件共有の部分が気になって。書き換え前は全件共有となっていたし、Twitterとかでも全件共有推しの論調だったので、それには賛成できないなあと。でも、すんなりあきらめたわけじゃなくて「全件共有は嫌だけど、児相の予算や人員を増やすことはいいことだから署名してもいいのかなあ…」とか悩んだんですよ。もしかしてキャンペーン中に「全件共有は問題が大きいので書き替えました」というアナウンスがあったら、私は署名していたかもしれません…。逆に、全件共有しなかったら署名した意味ないわ!と思う人もいたかもしれませんが。
いずれにせよ、署名集めって「賛成する/賛成しない」の意思しか示せないのが難しいところだなと。今回、署名した人にも「この部分はどうかと思ったけど、署名した」という考えの人って多いと思うんだけど、そういう思いは署名だけでは汲み取れないんですよね。なので、そこはキャンペーン前の設計段階から、キャンペーン中の説明から、その後の運動に至るまで丁寧にフォロー&コミュニケーションが必要なんだろうなと思いました。

今回の「書き換え」は、署名した人の心の「複雑さ」への想像力に著しく欠けたふるまいではないか、と私は思います。同時に、署名した側にも「正直キャンペーンページにある「児童虐待八策」の内容全部を理解したわけではないけれど、これだけ多くの専門家や責任ある立場の人(発起人や共同発起人)が言っていることなんだから、きっと実現すればいいことが起こるだろう」という思いがなかったとは言い切れないのではないでしょうか。
連日、テレビから流れるあの女の子の「お手紙」の内容を聞いて、胸が張り裂けるような思いをした人は多いはず。私もそうです。なぜ、こんなことが…、もう、こんなことは絶対に起こってほしくない。そう思ったけれど、自分には「何もできない」「どうしていいかわからない」と思うとさらに絶望は深くなりました。そんな時、これに署名することで、何か少しでも役に立てたら、と思わずにはいられなかった人は、私だけではなかったのでは、と思いました。

自分の苦労を丸投げしない

考えてみると、私(たち)は何か社会で理不尽なこと、心が痛むこと、なんとかしなきゃと思ったときに、寄付やクラウドファンディングや署名やSNSでのシェアやらを通じて、NPOやソーシャルビジネスの団体に「なんとかしてもらう」ことに慣れすぎたというか、疑問を感じなさ過ぎるようになったのではないか、と思います。

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この図のように、寄付や署名を託してそれを原資にNPOやソーシャルビジネスを標榜する団体に「課題解決」を「担ってもらう」。自分はそんなイメージを持っていなかったかと思います。
けれど「社会課題」や「困っている人」は、私たちと切り離されたところにあるものでしょうか。例えば「子どもを叩く家庭」は、叩かないでいる家の人から見たら、何万キロも離れた遠い場所にいるものでしょうか?「私も育児でいっぱいいっぱいの時は叩きそうになる」と思う人は少なくないのではないでしょうか。では、育児がいっぱいいっぱいになるのはなぜでしょうか。保育園がない?仕事が休めない?ほかに協力してくれる人がいない?では、それはなぜかとまた考えると「子どもは家で親がみるのが当たり前という価値観」「長時間労働を前提とする会社」「過剰なサービスを安く欲しがる消費者」といった理由が思い浮かぶわけで、要するに「社会課題」と「私たちの生活」って思いっきりつながってるんですよね。子どもに当たってしまうことと、働いても働いても給料が上がらないこと、しかもそれを「お前の努力が足りない」と言われてしまうことは、本当に密接につながっていると私は思うんです。

だから「社会課題」をなんとかしようと思ったら、私たちが変わらなければいけない。私たちだけが動かず変わらないでいて、課題だけ変わって(=解決して)欲しい、はあり得ないのではないかと。なぜなら課題と私たちはつながっているので、どちらかが変わらなければもう一方も変わるわけがない、そう思ったんです。

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それで思い出したのが、北海道の浦河町精神障害のある人のリカバリーに取り組む「べてるの家」のことです。
べてるでは医師などの専門職が病気を「治してあげる」のではなく、病いを抱えた人自身が仲間と共に自分に向き合い、失敗を重ねながらなんとか死なずに生きていく具体的な手立てを考えていく。病気のせいで自暴自棄になって暴れてしまう人に、専門職が先回りして薬を飲ませたり世話を焼いたりするのではなく、失敗して後始末の方法を考え、仲間に手伝ってもらいながら少しずつでも取り返していく。べてるの言葉ではこれを「自分が苦労の主人公になる」と言うそうです。

私(たち)はもしかして、「社会課題」に対して「自分が苦労の主人公」になる体験をしたことがなく、自分の苦労を自分で助ける方法を知らないのかもしれない、と私は考えました。自分の不安、絶望、葛藤、焦燥、無力感…といったものを「なんとかしてくれそうな」人や団体に丸投げしてはいなかっただろうか。

もちろんすべての人が「いわゆる社会問題」を解決するために生きているわけではないので、NPOやソーシャルビジネス企業に何らかの役割を果たしてもらうべくお願いすることは、何ら悪いことではないと思うんです。しかし、託すことは全権を委任することではないはず。べてるには「みんなと治そう自分の病気」「勝手に治すな自分の病気」という理念もあり、これは仲間とともに自分の苦労にとことん向き合うからこそ、うわべではない確かな回復が生まれるということだそうです。なので、思いを託されたNPO/ソーシャルビジネス側もまた課題と寄付者を切り離す活動ではなく、自団体を含めた全てのステークホルダーが「共に変わっていく」ような活動を期待したいなと思いました。

共に考えること、それは当事者と共に現実の困難に連帯しながら、同じ苦労の目線で”同労者”として歩もうとするあり方である。私は、この「聴く」という関係のもつ可能性の一つに、「共に弱くなること」があるような気がしている。別な言い方をするならば、聴くという行為は当事者のかかえるさまざまな困難な現実に「共に降りていく」プロセスとしてある。その降りていくことを具体的に実現するうえで大切なのが、「共に考える」関係ー研究的な対話関係ーである。
 ≪開かれた聴き方≫が、誰かがそばにいる感覚を自らのなかに具体的に取り戻すためのプロセスの入り口として重要だとしたら、≪研究的な対話関係≫は、聴くという行為を、具体的に人と人を結び付ける手立てとして役立てるばかりではなく、「悩み」という形で個人のなかに取り込まれた生きることの課題を、いまを生きている人たちとの意味ある共通のテーマとして時代に開いていく契機となる。(向谷地生良「技法以前 べてるの家のつくりかた」医学書院,2009)

大きな社会の矛盾、不公平、理不尽さに対して私たちは胸を痛め、何もできない自分や動かない状況に苛立ちを感じる。でもそこで、自身の不安や焦りをスッと解決してくれそうな人や団体や方法に簡単に委ねてしまっていいのだろうか。
今回の署名のことに限らず、その葛藤や無力感から逃げないできちんと向き合うことー「苦労の主人公」になり「みんなと治す」ことこそが、誰かに治してもらったのではない、確かな回復があるのではないか、それこそが真に「社会が変わる」ことではないかと私は考えました。
虐待されたことのない人には虐待された人の気持ちはわからないし、生まれてからずっと貧しく暮らしてきたひとのことを、そうでない人が同じように感じることは難しい。でも、「この状況はおかしいけど自分にはどうすることもできない」「何もできなくて苦しい」という自分の苦しみ、できなさ、行き詰まり感から目を背けずにいることこそ、「弱さ」でつながり、共に活動していく契機になるのではないかと考えました。(苦しみを丸投げしては、この連帯ができない。)

「問題の物語」は「つながりと和解の物語」へと紡ぎなおされる。人のかかえる「問題=弱さ」は、内在化されたままでは問題として深刻化するが、外在化され仲間と語りを通して共有された瞬間に、場を癒す力として人々のあいだに浸透していく。(同)

私はソーシャルセクターでも「問題=弱さ」が開かれることなくむしろ隠され、「成果・インパクト(できたこと)」や「速さ」「大きさ」「失敗しないこと」が疑問なくもてはやされ過ぎなことに危うさを感じます。
若く聡明なリーダーがサクサクと「社会を変えてくれる」ーそこに関与している「私」と、「社会課題」を解決する「プロジェクト」をやればやるほど褒められ、期待され、仲間が増えていく「ソーシャルセクター」のリーダーたちー、私たちと「NPO/ソーシャル企業」との共依存関係が「ない」と言えるでしょうか。その嗜癖が私たちから「自分で治す」力を失わせ、みんなの苦労を抱え込むことがやりがいになってしまったリーダーを追い詰めたり、思い上がらせたりしてしまうことがなかったでしょうか。

「何も知らない素人の私がこんなこと言っていいんだろうか」といろいろな発言がためらわれることが多いけど、でも「わからない」「おかしい」「こわい」「なんとなくいや」ということを、勇気を出して言っていけるようにしたいなと思う。インターネットとかで大々的に公言しなくても、安心できる場で少しずつでも、発言していくことが大切だと思う。そしてソーシャルセクターは、そういう小さな声を決して見くびらないで、活動につなげていくことが大事じゃないかなと思いました。

外在化とは、外部の人間がその人の内面に入り込んでいく作業でも、本人がそれをさらけ出すような作業でもない。当事者自身が抱えている≪問題≫を、新しい意味をもった経験として、目に見えるかたちで語りだすプロセスなのだ。それは自己否定的な「とらわれ」や「こだわり」を、もっと楽しい≪関心≫や≪探求心≫へと変えていく作業でもある。こうして内部に滞った問題が、新たな可能性を持った物語として立ち現れる。(同)

技法以前―べてるの家のつくりかた (シリーズ ケアをひらく)

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