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成り上がらないヒップホップ-SR サイタマノラッパーを見て考えたこと

昨年、友人から「まだ見ていないのか!絶対に見た方がいい!」という話になり、わざわざAmazonのギフト券をくれてまですすめてくれた映画「SRサイタマノラッパー」を年末に見ました。


SR サイタマノラッパー(予告編)


初めて(日本語の)ラップを見聞きした時に「うわー、なんか恥ずかしい」と思ってしまったことはないでしょうか。見始めるとすぐ、そういういたたまれなさしかないシーンがこれでもか、これでもかと襲ってきて、シリーズ1作目の30分くらいで見続けるのがつらくてつらくてたまらない状況に。

でも、それが良かった。

今、またラップが流行っているけれど、当然ながらみんながBAD HOPみたいにかっこいいわけでもないし、ゆるふわギャングみたいに曲で歌ったことが実現できるわけでもない。マイク一本で成り上がる、ゲットーでも力強く生きていく、みたいなストーリーをついユースカルチャー/サブカルチャー/ストリートカルチャーとかに夢見てしまうけれど、現実にはうまくいくことの方が少ないんだよなあ。

ルックスも良くなく、ラップも下手で、そんなに音楽も聴いておらず、本も読んでない。友達も少なく、恋人もおらず、学歴も仕事もない。クラブもライブハウスもない地元から出ていくこともできない。イズムのないBボーイ、渋谷にいないロンリーガール。
でも、本当はそういうラッパーのほうが多いんじゃないか。


私はいちおう社会福祉士なのでそういう目線で見てしまうけど、登場人物はもしかしたら「福祉」の「支援」の対象になるような人たちばかりだ。働いていない「ニート」だったり、借金があったり、クズな男にひっかかって風俗で働いて中絶したりとかとか。

「福祉」の「支援」というと、オフィシャルにはこういう人たちを「まっとうな暮らし」に「引き上げる」ようなものばかりなことに、なんとなくうしろぐらいというか、こそばゆいというか…それこそ初めてラップを聞いたときのようなわざとらしさ、居心地の悪さ、恥ずかしさも感じていた。
いや、正しいんですよ?無理なく、きちんと稼げる仕事を見つけるとか、自己破産とか生活保護とかの制度をスムーズに使えるようにするとか。孤立していたり、家庭などの人間関係がハードすぎる人にはあたたかい交流の場を設けるとかとか。もっと具体的に言うと「相談支援」「就労支援」や「学習支援」は「まっとうな暮らし」へ導く手段だし、「子ども食堂」「居場所づくり」「地域のサロン」は交流の場づくりですよね。
でも、こそばゆくないですか?いや、こそばゆくないなら、いいんですけど…。

よく言われていることだけど、支援をする側の人(=公務員、教員、福祉施設の人など社会福祉士などのソーシャルワーカー、大学生や地域の心あるボランティアの人など)は「まっとうな暮らし」と「健康で文化的な交流の場」を得ていて、それによって自分たちは幸せだと感じられている人がほとんどだと思うんです。
その幸せは何ら責められるものではないし、幸せであることに何の疑いもないんです。
でも、それだけが幸せなのかな?とか、自分が幸せだからって、それを持っていない人をそれがある状態まで「引き上げる」ことが「支援」なのかな?というのが、自分の中で解消されない疑問だったんです。

たとえば学習支援は盛んですけど、もしもその支援が進学のためだけの支援だとしたら、なんか違うんじゃないかなって思うんです。それなら学習塾に任せればいいし…ということもあるけど*1、進学しない幸せ、進学しない生き方、進学しなくてもサバイブする方法ってあると思うし、なきゃいけないと思うし、そういう「多 様 な 生 き 方」を作っていくことがソーシャルワークじゃないかなって思うんです。
でも「支援する側」の想像力が欠けているせいで、つまり「支援する側」が高校や大学を卒業しないで幸せになる、というライフコースを想像できないままに「支援」をしていていいのかな、とは思うんです。就労支援や学習支援をするときに、自分が選んでこなかった生き方、自分のまわりの人にはいない職業や働き方を想像できるかということは、大切だと思うんです。

大学進学率はいま6割弱になったようですが、逆に言うとまだ4割、半分近くの人は大学進学しないわけです。でも「支援する側」の人は高学歴の人が多く、高学歴の人の友達もまた高学歴の人ばかりという現象は進みつつあるので、階層が違う人の生き方、気持ち、つまり文化を知ることが難しくなっているのではないかと思うんです。
私の中で消えない疑問というのは「高学歴の人や高収入の人や経済的人間関係的に「豊か(とされている)」な人の文化やライフスタイルに合わせていくこと=支援」と思われてはいないか?ということなんです。モヤモヤ。


話をサイタマノラッパーに戻すと、登場人物は本当にグダグダな人ばっかなんですよ。(「グダグダ」だと感じるのは、私が高学歴で健康で文化的で最低限度以上の生活をしているから、だけではないと思う…)
金もなく仕事もなく理解してくれる人もなく、八方ふさがりな状況を人のせいにしてばかり。それでも仲間とラップすることを通じて、何かを得ていく…というところもあるんだけど、この映画のいいところは、それでも全然現実は変わらない、ということだった。相変わらずラップは下手だし*2田舎はクソだし仕事はないし誰からもバカにされる状況はそのままなのだ。

でも映画のハイライトは、そのクソな状況のなかで無茶苦茶ヘタなラップをこれでもかと聞かせるところだ。彼ら彼女らのステージは、夢見たライブ会場ではなく、場末のバイト先であり、早く結婚しろとなじる親戚の前であり、刑務所の中なのだ。
成り上がるな、身の程を知れと言いたいわけではない。むしろ逆で、成り上がりとか、まともな暮らしとか、豊かなつながりとか、手垢のついた言葉に惑わされないしたたかさを、どんなしょうもない状況と思われているなかにいるひとたちも、持っているはずなのだ。ラップとも独り言ともアジテーションともつかない調子でがなり立てるのは、「ただ、ここに生きているんだ」という言葉だけだった。

誰が見ても正しいとしか思えない善行も、自分はただここにいるんだと言っているだけの叫びの声も、どちらも恥ずかしいと感じてしまう自分は何なんだろう、と思う。
でも、サイタマノラッパーでいちばんみんなに力を与えていたのは、いちばんかっこ悪くていちばん恥ずかしいことを、最後までやり続けている人だった。

*1:実際に学習塾に任せる「スタディクーポン」という方法を選んだ自治体もあるみたいですね  http://studycoupon.hatenablog.com/entry/project.summary

*2:主人公のIKKUだけ、3作の映画を経た後のテレビ編では実際にはラップが上手くなってしまっており、ストーリー上これでいいのかなってなんか変な気持ちになった。