「ヒマを生き抜く強さを持て」---國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読んで
本来 ヒトはヒマだった
そして それを受け入れる事が出来た
世界中のいたるところ その足あとを
見つける事が出来るだろう
大仏 ピラミッド
巨乳 万里の長城
この世の多くのデカいものの
発想自体 ヒマのたまもの
(スチャダラパー「ヒマの過ごし方」,Ki/oonSony,1993)
スムースにつながれる思想と思想
暇と退屈はどう違うのか?浪費と消費はどう違うのか?
労働とは何か、仕事とは何か、疎外とは何かについて矢継ぎ早に、かつスムースに論じながら、「退屈」の本質に迫っていく。
筆者はこれを論じるために、あらゆる哲学者の思想をどんどん引用していく。パスカル、ニーチェ、レオ・シュトラウスからラッセルの幸福論につなぐ。その後、ハイデッガーをカットインしたのち時間を一万年前に巻き戻し、考古学者西田正規の「定住革命」を引いて人類における「退屈」の誕生について明らかにする。
その後もラファルグやマルクスの「資本論」、フォーディズムとポスト・フォーディズムを取り上げて労働と閑暇について解説しつつ、ルソーやホッブスに戻ったり、アレントを批判しながらマルクスの疎外論を読み解く。
・・・って書くと、さも分かっているかのようですが、わたしは上に出したどの人の本の1冊も読み通したことがないし、読みたいと思ったこともないのです。むしろこういう話になると途端に眠くなってしまうのですが、「暇と退屈」を切り口にして、それぞれの哲学者の論じるところのエッセンスを手掛かりに、新しい論考を作り上げていくさまは、いろいろなレコードをスムーズに繋ぎ合わせてひと晩の流れをつくるDJのようで、脳と心が踊るようなたのしさがある。
それは偉い哲学者の教えをフムフムと説かれるのではなく、筆者である國分さんの思考や悩み、逡巡に伴走しているかのような読書だった。書いているのは國分さんなのに、いつの間にか自分が悩み、考えているような不思議な感覚に陥る。フロアの中央に5時間いた後みたいな、意外な静寂の中に意識はいたんだ。
退屈の第二形式を生きろ!
ハイライトはハイデッガーの3つの退屈の形式を論じているところで
第一形式:何かによって退屈させられること。
(ex.田舎の何もない駅で4時間電車を待たされる)
第二形式:何かに際して退屈すること。
(ex.料理も音楽も雰囲気もよいパーティに来ているが、
なんだか退屈してしまう)
第三形式:なんとなく退屈だ。
(状況に関わらず立ち上がる、安易な気晴らしの方法では
どーにもならない深い退屈)
ってなってるんだけど、人間は「第一形式」や「第三形式」の退屈に耐えられなくて、猛烈に仕事をしてみたり予定を詰め込んでみたり、とにかく「退屈」しないために自分を駆り立ててくれる何かを求めたりしてしまうんだという。(本書ではこれを「動物になる」と言っている)
超忙しくて もーヒマがなくて
とか言ってる人にかぎって
さらに忙しい休日を
過ごしていたりするのだろう
なぜいそがしくするのだろう
何もしないでいられないのだろう
何もしない不安それは何だ
恐いのはただただある時間
縮める事も のばす事も
ましてや 消すことも不可能
(スチャダラパー「ヒマの過ごし方」,Ki/oonSony,1993)
苦しむことはもちろん苦しい。しかし、自分を行為に駆り立ててくれる動機がないこと、それはもっと苦しいのだ。何をしてよいか分からないというこの退屈の苦しみ。それから逃れるためであれば、外から与えられる負荷や苦しみなどものの数ではない。自分が行動へと移るための理由を与えてもらうためならば、人は喜んで苦しむ。
実際、二〇世紀の戦争においては、祖国を守るとか、新しい秩序を作るとかいった使命を与えられた人間たちが、喜んで苦しい仕事を引き受け、命さえ投げ出したことを私たちはよく知っている。
(國分功一郎「暇と退屈の倫理学」朝日出版社,2011)
で、本書では、第二形式の「退屈」と「気晴らし」の間を生きることこそが「人間であることを楽しむ」ことなのではないか…と結論づけるんだけど、この結論の重みは結論だけ読んでもダメで、國分さんのロング・セットを体験してからでないとわからないと思います。夜明けにはビートが満ちるように、何かが変わっていくのです。(笑)
考えることは「受け取る」こと
それでもわたしが感動したことの1つを書いておくと、それは「考えること」は「受け取ること」であるということ。何かを自分から考えている!と思っている時は、往々にして第一または第三形式の退屈に捉われている時で、「動物」になっている時なのかもしれません。
しかし、第二形式の退屈に身を置いている時には、それまで自分が生きてきた環境に「不法侵入」してくる何かを「受け取り」、それについて何かを考えられる、つまり、また新しい世界を創造する契機を持っている時なのだといいます。
しばしば世間では、考えることの重要性が強調される。教育界では子どもに考える力を身に付けさせることが一つの目標として掲げられている。
だが、単に「考えることが重要だ」と言う人たちは、重要な事実を見逃している。それは、人間はものを考えないですむ生活を目指して生きているという事実だ。
人間は考えてばかりでは生きていけない。毎日、教室で会う先生の人柄が想像もできないものであったら、子どもはひどく疲労する。毎日買い物先を考えねばならなかったら、人はひどく疲労する。だから人間は考えないですむような習慣を想像し、環世界を獲得する。人間が生きていく中でものを考えなくなっていくのは必然である。
(國分功一郎「暇と退屈の倫理学」朝日出版社,2011)
人間はおおむね退屈の第二形式の構造を生きていると指摘することの重要性がここから出てくる。そこには投げやりな態度もある。だが同時に、自分に向き合う態度もある。つまりそこには、考えることの契機となる何かを受け取る余裕がある。
それに対し第三形式=第一形式への逃避は、非常に恐ろしい事態を招く。そこに逃げ込んでしまうと、ものを考えることを強いる対象を受け取れなくなってしまうからである。(同)
思考は強制されるものだと述べたジル・ドゥルーズは映画や音楽が好きだった。(中略)そのドゥルーズは「なぜあなたは毎週末、美術館に行ったり、映画館に行ったりするのか?(中略)」という質問に答えてこう言ったことがある。「私は待ち構えているのだ」。(中略)
彼が使った「待ち構える」という表現は、動物が獲物を待ち構えるという意味を持つ。動物はどこに行けば獲物が捕らえやすいかを知っている。本能によって、経験によってそれを知っている。人間の場合、ここでは本能をあてにすることはできない。少しずつ学んでいくしかない。(中略)楽しむことの訓練は日常生活のなかで果たしうる。(同)
さて、わたしはここに長々と書いたこと以外に、この本の最後の章を震えて読んだ。難しい哲学などまったく自分の生活に関係がないことだと思っていたけれど、最後の章でダイレクトにわたしの生と接続されたようで、えもいわれぬ感動がこみ上げてきた。このブログを読んでくれているわたしの友達や同僚には、暇も退屈も十分に味わうことから遠ざけられていたり、遠ざけられている人の応援をしている人が多い。そういう人にこそ、哲学など何の腹の足しにも支援のツールにもならないと思っている人にこそ、読んでほしいと思った。
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12月26日(金)
朝
コーヒー
昼
根菜(ごぼう、れんこん)とサニーレタスのサンドイッチ、ハッシュポテト、コーヒー、お茶
夜
ツナと大根の煮物(唐辛子を入れてピリ辛にした)、キャベツと大根の皮・玉ねぎと卵の炒め、大根の漬物、お茶、アミノバイタル
おやつ
コーヒー、カフェオレ、チョコパイ、ホームパイ、ピーナッツ
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おまけ:
ここまで読んでいただいた方にはお分かりいただいたと思うのですが「暇と退屈の倫理学」に書いてあることは、1993年にスチャダラパーが「ヒマの過ごし方」ということですでにほとんど全部同じようなことを言っているので、よかったら聞いてください。
この後スチャダラパーは「俺って何にも言ってねえ~」って歌う曲も出しているのですが、「ヒマの過ごし方」が入っている「WILD FANCY ALLIANCE」を聞いてみたら、全編「言ってる」ことばかりで、ライミングも攻撃的で力強く、長年持っていたスチャダラ感が覆されました。「社会に反逆 俺は歌うテロリスト」なんて言ってるんですよ。
ちなみに國分功一郎さんは猫町倶楽部の読書会のイベントで、名古屋のVioでDJをしたこともあるそうです。小室哲哉さんの曲をかけたとか!キャー!キャー!このエピソードだけでご飯7杯いけますね。
- 作者: 國分功一郎
- 出版社/メーカー: 朝日出版社
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- アーティスト: スチャダラパー
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