#レコーディングダイエット

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市民活動はアートだー【市民セクター全国会議2018】分科会9・資金提供

市民セクター全国会議2018の感想の続きです。
オープニングの記事はこちら→
いろんな問いがせめぎあっているー【市民セクター全国会議2018】オープニング - #レコーディングダイエット

分科会4(休眠預金)の記事はこちら→
矢印の向きをそろえないー【市民セクター全国会議2018】分科会4・休眠預金 - #レコーディングダイエット


で、次の分科会何に出ようかな~、正直どれもそんなに積極的に出たいと思うのないんだよね~と思い(ほんとごめんなさい)、消去法的に選んだ分科会9「新しい価値を生み出す資金提供」が大ヒット!!!めっちゃ面白かったな~。出てよかったな~。
www.jnpoc.ne.jp

特にセゾン文化財団理事長の片山正夫さんと、一般財団法人おおさか創造千島財団の北村智子さんという、アートをやる人たちに助成している二人のお話がしびれたので、そのあたりを中心に書きます。

何か課題か分からない、でも助成する

「『社会課題の解決』だけが助成の目的じゃない。助成金の目的は『価値の創造』であって、社会課題の解決はそのほんの一部にすぎない」

と、のっけから片山さんのパンチラインが炸裂。『価値の創造』には「新たな知見の獲得」「精神的価値の創出(アートや文化)」「社会への批判」なども含まれると。さらに、最前線では「そもそも何が課題か分からない」じゃん、とも。さらに休眠預金にも様々な思いがあるようで

「価値を創造する助成は「配分」ではありません。配分って、10個のお菓子を10人にひとつずつ配ります、みたいな感じでしょ。それは何も価値を生み出していないわけです。だから『資金分配団体』っていう名前はイメージがよくありませんね」

とも。さらに「前例にとらわれないことは大事だが、本当に大切なのは『ヴジャデ』だ」と。今までに全く見たことのないモノ=イノベーション、ではない。「しょっちゅう見ているありふれたものなのに、なんか新しい感じがする」ことが大事だと。(だから、デジャヴの逆でヴジャデ)つまり、いつもやっていること、コツコツやっていること、ありふれていると思われていることを「新しい目で見る」ことがイノベーティブなんだと。

おおさか創造千島財団の北村さんも同じようなことをおっしゃっていて、「新しい視座を与えてくれるもの」に助成しているという。中には「それってアートなの?」と思うようなプロジェクトもあるようなんですがそれすらも「こういうものがアートだ、というこちらの固定観念を揺さぶってくれるもの」だと考えているということだった。何が出てくるか分からないけれど、その人を信じて助成しているんだと。

さっきまでの分科会4では休眠預金の話で「具体的な社会の課題を抽出しろ!」「課題解決のための革新的な手法を開発しろ!」とか言ってたので*1そのギャップに驚きました。

課題解決じゃない、課題提示なんだ!

聞きながら、最近読んだ小松理虔さんの「新復興論」を思い出していました。小松理虔さんは福島の方で、震災/原発事故後の福島で、食・福祉・アートなど様々な活動をしている方です。

その中に、いわゆる被災地での「アートプロジェクト」について書かれた部分があるんです。みんなで絵を描いたり何かを作ったりすることを通して、人びとの心をいやしたり、交流の機会を作って地域のつながりを取り戻そうといった感じのものです。復興に資する面白い取り組みのように見えますが、小松さんはそこにこそ問題があると言います。

課題解決のためのアートプロジェクト。課題先進地区であるがゆえに、福島ではそれが主流になりつつある。これから課題が山積していく日本の地方でも、おそらく同じ現象が起こるだろう。課題を提示するアートではなく、解決するアート。(中略)課題が解決する方向に動くのであれば、自治体側としてもどんどん推進したいはずだ。文化行政と福祉行政が連携を取れるというメリットもある。課題解決型アートプロジェクトは、今後ますます増えていくのではないかと思う。
 ただ、やはり違和感が残る。アーティストは他にやることがあるはずだ。私はアーティストに介護をしてもらいたいわけではない。コミュニティ支援員をやってもらいたいわけではない。(小松理虔「新復興論」2018年、株式会社ゲンロン)

というわけです。アートには人と人をつなげる機能もある。けれど、アーティストにはもっと他にやることがあるだろうと。

もっと別の何か、さきほど紹介した古川日出男の言葉を借りれば、「事実を語るのではなく真実を翻訳する」ようなことをやってもらいたい。現実のリアリティから解き放ってくれるような作品を、私たちの暮らす地域のなかに提示してもらいたいのだ。徹底して馬鹿げたことをしてくれてもいい。確かにアートには人と人をつなぎ合わせる力はあるのだろう。しかし、それのみが、補助金を獲得する、あるいはアーティストと文化行政が強固な関係を作るために、その効能のみが強調され過ぎているのではないか、ということをしばしば感じるのだ。
 アートの行政サービス化が進めば、文化や芸術を自治体や国がコントロールしていく社会にもつながりかねない。食べていくことは重要だが、その食い扶持を行政に握られてしまっては表現の自由にも関わる。食べていくために自分たちの自立や理念を曲げなければいけないという社会は、食べていくために原発に依存する社会と何ら変わりがないではないか。アート、とりわけ地域で繰り広げられるアートに求められるのは、知らないうちに生まれてしまうその依存の構造を、それが当たり前になってしまった社会に突きつけるような批評性なのではないか。(同)

 この青字にした後半部分、思いっきりNPOの話と同じでは!?!?と思ったんですよ。

NPOの行政サービスの下請け化が進めば、市民活動を自治体や国がコントロールしていく社会にもつながりかねない。食べていくことは重要だが、その食い扶持を行政に握られてしまっては表現の自由にも関わる。食べていくために自分たちの自立や理念を曲げなければいけないというNPOは、食べていくために新自由主義に依存する社会と何ら変わりがないではないか。NPO、とりわけ地域で繰り広げられる市民活動に求められるのは、知らないうちに生まれてしまうその依存の構造を、それが当たり前になってしまった社会に突きつけるような批評性なのではないか。」

批評ですよ批評。片山さんも「社会への批判」も「価値の創造」のひとつとおっしゃってましたよね。*2

 社会課題の解決こそがNPOとかのミッションのように言われているけれど、それだけではないのではないか。考えてみれば、例えば貧しかったり病気だったりで「支援が必要な人」というのは、私たちに「社会の課題」を提示して分からせてくれる人ではないだろうか。そして、貧しかったり病気だったりで「支援が必要な人」の一番近くにいるNPOは、提示された課題を見えるかたちにして表現する「アーティスト」の役割を求められているのではないだろうか。あるいは、「支援が必要な人」こそが課題を提示してくれるアーティストで、NPOはそのアーティストに「助成(成長を助ける)」することが求められているのではないだろうか、そんなことを思いました。

アーティストとは、やはり課題を提示する人たちだ。課題を解決するのはアーティストではない。私たちの仕事である。(同)

(蛇足)
と、美しく終わりたかったのですが、最後に嫌味ったらしいことを書こうと思います。課題の提示。
分科会4(休眠預金)を引きずっていたので、分科会の最後に「お金を出す側ともらう側、という関係になると、どうしてももらう側が出す側の言うことを聞かなくては、と言いたいことが言えなくなってしまうこともあると思います。そういう関係にならないために『出す側』として気を付けていることはありますか?」と質問してみました。
セゾン文化財団の片山さんと、トヨタ財団の大野さんの答えはこうでした。「財団と助成先は対等なパートナーなのだから、上下関係ということはない」「財団と助成先は同じ目標を持って一緒に進むという関係なので、言うことを聞けということではない」。

確かにそうなんだと思います。。。
でも、お金に限らずだけど、「もらう側」はやっぱり自分を下に置いてしまいがちになると思うんです。程度の差はあれ。お二人がおっしゃられているような関係性をお互いに作っていくことが第一だとは思います。ですが、お金を出す側の人たちは、大なり小なり自分たちが権力を持ってしまう存在であるということに、敏感であって欲しいな、とも思いました。

つづく…。

新復興論 (ゲンロン叢書)

新復興論 (ゲンロン叢書)

*1:分科会4の人が言ってたわけじゃないですよ。「休眠預金等交付金に係る資金の活用に関する基本方針」(内閣府)」に書いてあることです。 http://www5.cao.go.jp/kyumin_yokin/kihonhoshin/kihonhoshin_1.pdf

*2:批評は批判だけにとどまるものではないけど