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#レコーディングダイエット

毎日食べたものを書きます

生活と編集を分けない

編集

ISIS編集学校というところで
師範代(コーチみたいな役割)を
2月までやらせていただいておりました。
身近にも師範代を経験した友人が2人いるので
GWを利用して皆で集まって +
東京の編集学校から(正確には静岡から?)もおひとり
豪華ゲストをお招きして、編集学校について濃く楽しく語り合う
という会がありました。楽しかった。

es.isis.ne.jp


編集学校は面白いし、とっても勉強になるんだけど
いざ知らない人にその良さを説明するとなると
何と言っていいか分からないし
勧めづらいね~とか思っていたんだけど
「自分がいいと思っているんなら人にもいいって言えばいいじゃん」
という至極まっとうな意見を耳にしたので

たまに「文章が上手くなるにはどうしたらいいか?」と
聞かれた時に、これからは
編集学校に入れ」と堂々と言おう。
と思いました。


しかしこの「自分がいいと思うものを人に言えない」
「なんか後ろめたい」「恥ずかしい」と思う気持ちは
何なんでしょうか?

売れない営業マンもそうだし
好きなアイドルやマンガや宝塚や音楽のことが言えないこともそうだし
どの政党を支持しているとかどんな神様を信仰しているとか
好きな人に「好き」って言えないのもそうじゃないですか!?!?!?
「良い」「好き」はポジティブな感情なのに
どうして言えないのでしょうか。

井上雄彦さんが「スラムダンク」第一巻のカバーの折り返しに

「自分が好きなもののことを『好き』というのは恥ずかしいけれど
 唯一バスケットボールだけは照れずに『好き』と言えるのだった」

と書いていたのだけれど、好きと堂々と言えることと
恥ずかしくて言えないことの違いは何なのかと思います。


昨日はなぜかちょっと宗教の話にもなったんだけど
最近わたしが思っているのは、宗教っていうのは
「わざわざやるもの」ではなくて
「生活に自然と溶けこんでいくもの」なんじゃないかなと。
「いただきます」と手を合わせるのは自然にやっていることだけど
もともとは宗教が起源のものでしょ。
だから、わざわざ読んだり祈ったり勉強したりお布施したりという修行は
それが修行じゃなくなるため、
それが習慣として、意識せずともやってしまうものとして
身体に沁みついていくことを目的としてやってることなんじゃないかなと。
信仰というのはそういうものなんじゃないかな~と考えていたところなのです。

なので「好きなもの」がもう呼吸のように生活の一部というか
自身の一部となっている場合は、素直に好きと言えるのではないか?
と思いました。
なんだか恥ずかしい、という気持ちの中には
自分とその対象の間に(好きなのに)
何らかの折り合いのつかなさを持っている状態なのかなあと思います。
(そう考えると「好きと言えない状態」もまた
 愛おしいなと感じますね。)


ちなみに編集学校でたまに言われることとして
「生活と編集を分けない」ということがあるのですが
そういうことなのかなあ?とも思いました。
生活があって、それとは別に編集がある。
ということではないんだろうなと思います。
…ただ、編集学校で学んでいると
出題される課題をやっていくのに精いっぱいになり
「生活と編集を分けようがない」という状態には
なってしまうのですが…。(でも面白いよ!)

                                    • -

5月6日(土)

朝昼兼用
昨日の残りのしろ菜と厚揚げの煮物に
煮汁とごはん(賞味期限の切れた非常食のパックのやつ)を
入れてたまごでとじたもの、お茶

おやつ
抹茶のぴよりん
プリン
コーヒー


焼肉(名駅の「ホルモンショウヤ」にて)
サラダ、生キャラメルアイス、ビール

ホルモンショウヤとはここです ↓
www.shoya.com

抹茶のぴよりんとはこれです ↓
苔のようだ。
https://www.instagram.com/p/BFEpd5uTKe7/
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知の編集術 (講談社現代新書)

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