#レコーディングダイエット

毎日食べたものを書きます

若い頃に戻りたいなんて思わない

↓今日読んだはてなダイアリー
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わたしも10代の頃、特に高校3年生以前には全然戻りたくないし、できるだけ思い出すこともしたくない。暗黒すぎる。

まず親に養われていることがとても嫌だった。親は自分のことを全然理解も信用もしてくれないし、全然大人としても尊敬できないし(と当時は思っていた)、それなのに「そういう人」に養ってもらわないと学校も行けないしご飯も食べられないという状態の自分がとても嫌だった。誰に食わせてもらっていると思っているんだ、と言われたこともあったけど、それを一番感じていたのは自分だった。好きで食わせてもらっているわけじゃねえし。*1

そして学校に居場所が無かった。「中学の時は成績が良かったけど高校に入ったら勉強ができることなんてフツー」というありふれた進学校で、テストで今までにとったことのないようなスコアをメイクするようになった。自分でも何が分からないのか分からなかった。クラスの友達とは何を話していいのか分からなかったし、話したいとも思わなかった。昼休みにクラスの子といっしょにお弁当を食べるのが苦痛で仕方がなく(話すことがないし友達の話すことにも興味が持てないので)、堪えられなくなって「生徒会の会議がある」と言って毎日生徒会室でひとりで昼食をとった。生徒会の役員をやっていなかったら、トイレで食べていたと思う。とにかく誰にも見られないところに居たかった。ちなみに生徒会をやったのも「自分みたいな者がこの学校にいていいんだろうか?」と悩んだ挙句、「生徒会長だから」という理由があれば学校に居てもいいかもしれない、と思った末のことだった。今思うと気が狂っていたとしか考えられない。毎日学校に行くのがつらくてつらくて、でも学校を一日でも休んだらますます授業についていけなくなる、授業についていけなくなると卒業できない・大学行けない、そうなったらお先真っ暗だと思うとその方がおそろしく、その恐ろしさからついつい登校していたら、結果として皆勤賞だった。

この自信のなさ、周囲への不信感はどこからきていたかというとものすごく自分がブスだったということがあると思う。今でも相当にブスだけど当時に比べるとだいぶマシなのだ。知らない人とすれ違って「うわっ、すげーブス」とか言われるくらいブサイクだったんですよ。(幻聴とかじゃないよ!)しかもモードな服が好きで(CUTIE少女だったのです)でもセンスはなくて着ている服とかも本当に滅茶苦茶だったんです。死にたい。でも10代の頃って性欲もメチャメチャに強くて、ものすごくモテたかったんです。男に媚びるような服とかクソだと思ってたんですけど、でも本当はすごくすごくモテたかったんです。男の人に必要とされたり欲情されたりしたかったんです。というか、誰にも欲情されない自分なんて価値がないんじゃないか?と思うとそれだけでまた死にたくなりました。援助交際がメディアを賑わせていた頃でした。でもわたしは売春することよりも、売春しようとして「お前なんかに金が払えるか」「お前なんかに勃起すると思ってんのか」と言われるんじゃないかと思ってその方がつらかった。別に売春したかったわけでも、しようとしたわけでもないし、誰からもそんなこと言われてないんだけど、そういう自動思考がはたらいて勝手にしんどかったです…。


でも大学に入ったらだいぶ変わったんですよね。
バイトしまくったので以前よりも親に遠慮せず好きなこと(主に夜に遊びに行くだけ)ができるようになったし、ゼミの先生は私のそういう過剰な自意識こそ研究に値するものがあるからと全面的に受け止めてくれた。そして「世の中でさも当たり前だと思われていることは、実はそうでもないんだよ」という授業ばかりで面白かった。大学自体にリベラルな雰囲気があったし、自分に興味のある授業ばっかりとれるというのも自分に合っていた。授業に来ても来なくてもよいというのも、制服が無いというのも、「クラス」というのがなく人間関係が自由なこともよかった。そして自分が楽しくなったら友達も増えた。色々なことが許せるようになっていった。世間に媚びた服なんかつまらないと思っていたけれど、身だしなみを整えることも悪くないと思えるようになった。社会人になって、良い上司に恵まれたことも大きい。


顔立ちや体型は、どんなに努力しても、整形手術でもしなければ劇的に変えることは難しい。でも、大人になるにつれて「美」の基準は多様になることを知った。
10代の頃は「10代のアイドルのような」見た目こそ可愛らしいと思われがちだ。でも、それは見た目のほかに差別化する要素が少ないからだと思う。
20代を過ぎ、仕事や恋愛や結婚や出産や趣味や友情や裏切りや、コツコツとした努力や不慮の事故や、思いがけない出会いや別れといった、画一的だった学生時代にはない「その人ならではの経験」が増えていく。そういう経験が、その人の外見と内面の両方に豊かな彩りを加えていくことを知った。キリッとして強くクールな美しさもあれば、ふんわりと柔らかく周囲を和ませる美しさもある。純粋で生き生きとした人に元気づけられることもあれば、どっしりと落ち着きのある人に憧れることもある。美しさは、多様なのだ。

そして、その多様な美を楽しむには知性が必要なのだ。食べるもの、身に着けるもの、部屋に置くもの、聴く音楽や出かける場所がその人の美しさを作っていく。本を読んだり音楽を聴いたり、人と会ったり知らない所へ旅したりした経験が、若い頃には閉じていた美を開花させる時がくる。それが外見の美しさに反映されるときもあるし、装いに派手さはなくても内側からにじみ出すような魅力になることもある。どういう風に自分を見せたいか、どんなふうに発信したいか、どのように他者と関わっていきたいかというプロデュース能力は、文化的な資本を充実させると自然についてくるものだと思う。

そしてそれは、年齢を重ねれば重ねるほど美しさを発揮すると思う。若さからくる肌や髪のハリやつやはどんどん失われていくけれど、経験や知性は重なるにつれ豊かになるものだからだ。
しかも、努力によってなんとかできるものなのだ。

若いときは、そんなものはババアの負け惜しみだと思っていた。でも、それはその当時の自分に美の多様性を感じられるだけの知性と経験が無かっただけなのだ。若くても若くなくてもそれぞれの人に美がある。それを感じられるかどうかなのだと思う。

そして若いときは、大人というのは何が楽しくて生きているのだろうと不思議だった。毎日毎日やりたくもない仕事をし、稼いだお金は家族に吸い取られ、顔も体もしわしわになっていく。
でも今、そう思っていた時から20年経って、今のほうが当時よりずっとずっと楽しくて、大人になってよかったと思った。顔はレーザーで消したいしみばかりだし、いい大学に入って一部上場企業に入ってマンション買って暮らすんだと思っていた未来からは遠くかけ離れているけれど、当時の自分よりも、当時の自分が描いていた未来よりもたぶん幸せだ。出会った人、読んだ本、聴いた音楽、やってきた仕事、書いた文章、そういうことの全部が、自分を縛っていたいろいろなものから自由にしてくれたおかげだと思う。

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7月29日(金)

ヴァーム、コーヒー、チョコチップクリームの入ったパン


カレーライス、鰆の焼いたのとオクラ、きゅうりのサラダ、コーンスープ、豆、漬物、お茶


ニラ玉、レタスのサラダ、鶏のから揚げ、ビール

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10代の時の自分に読ませたい1冊

女の子よ銃を取れ

女の子よ銃を取れ

10代の時はなんでこんなクソつまらん説教臭い本の読書感想文を書かねばならんのじゃーーーーと切れたけど最近また読み返したいなと思ってる1冊

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

10代の時たぶん一番何回も読んでた本

*1:しかしながら、当時の自分は「今親元を離れるよりも、堪え難きを耐え忍び難きを忍んで大卒という学歴を手に入れなければ『誰かに食わせてもらう』という状況からは抜け出せない」という判断ができる程度の打算的な考えを持てたことができたことが結果的にはラッキーであった。