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「人類学とは何か」を読んで、福祉とは、対人支援とは何かを考えた

ティム・インゴルド「人類学とは何か 他者と”ともに”学ぶこと」を(苦労して)読みました。

人類学とは何か

人類学とは何か

人類学者である著者が「人類学」をアップデート、というかリビルドしていくための提案をする本なのだけれど、読んでいて「人類学」を「福祉学」または「福祉」「対人支援」と言い換えてもほとんど全部あてはまるように思いました。

さまざまな研究者たちの間にあって人類学者が特別なのは、他の学では、教育のない、文盲、それどころか無知と簡単に片づけられてしまう人々から進んで学ぼうとするからである。こうした人々の声は主要なコミュニケーション・メディアで取り上げられることはほとんどなく、人類学者がいなければ聞かれることがないままであろう。人類学者が幾度となく示してきたように、こうした人々は、彼らよりも知識があるとされている優れた者たちよりも知恵がある。また、世界が変わりつつある時に、彼らの知恵は私たちがけっして無視できないものである。(ティム・インゴルド「人類学とは何か 他者と”ともに”学ぶこと」亜紀書房、2020年)

知的または精神的な障害者とか、認知症の患者とか言われている人たちと関わったことがある人の中には、同じように考える人もいるのではないかと思う。だけどそれは「障害のある人のほうがピュアで、ウソがなく、より本質的なんだ!だから彼らに学ぶべきなのだ!」ということでもないんだよな、と思うんです。

「福祉」「支援者」と呼ばれる人や、障害のある人に「理解がある」とされる/思っている人たちの中にも、そういうふうに言う人たちが少なくないし、マスコミでも同じように取り上げられることが多い。けれど、何かができない人をあからさまに貶めることも、聖者のようにあつかうことも、どちらも「自分たち」と同じ人間とは思っていない、という意味では同じではないかと。

インゴルドはカナダの先住民族の首長のべレンズが「『石』の中には生きているものがある」と語ったことを例に出しながら、「他者を真剣に受け取る」ことについて説きます。石が生きているなんて、それは未開の地の民族の特殊な信仰によるものではないのか?とか、患者の意味不明な言動は、精神病からくる妄想であろう、とか、私たちはすぐ思ってしまう。しかし、インゴルドは狩猟生活の先住民の「特殊な」生活や思想ではなく、妄想だと決めつけてしまう私たち自身の思想自体を振り返ってみることを提案します。

べレンズの言葉によって私たちは、それまではあたりまえと思ったまま疑いもしなかった多くの事柄を疑問視するようになる。動いたり、話したりする石というアイデアをそれほどあからさまに幻想的なものとする現実に対する私たち自身のアプローチとは、いったいどのようなものなのだろうか?(同)

人類学のパラドックスの一つは、人類学が、非西洋の人々の生と時間について多くのことを言う一方で、西洋の人々についてはほとんど何も言わないということである。(同)


福祉の人が発達障害者や精神障害者認知症の患者の人々の生と時間について多くのことを言う一方で、「健常者」の人々についてはほとんど何も言わないということは、ないでしょうか?

ただ、「他者を真剣に受け取る」からといって、自分の判断や思考をすべて相手に委ねてしまうのではない。自身の「あたりまえ」を揺さぶり、自らも変化しつつ、コミュニケーションを通してお互いに変容していくようなあり方こそが「人類学」の目的であるとインゴルドは言っているのです。それは狩猟や採集を生業にしている人たちとか、西洋の文化とは違う生活習慣を持った人たちを「特別な人」とか「未開の地」とか「文明が発達していない」として観察するようなフィールドワークや民族誌に対する厳しい批判でもありました。
ひるがえって「福祉」や「対人支援」のことを思うと、同じように「健常者」にとってあたりまえにできることが「普通」であり、その「普通」に乗らない人を「障害である」「支援の対象である」「困難ケースである」と決めつけて関わることのグロテスクさが浮き彫りになるように私は思いました。「健常者」に近づけようとすることはもちろん、「理解してあげよう」という、一見、差別がなくて良さげな態度すら、自身の人間観や世界観が全く変化しないのであれば同じなのではないかと思ってしまいました。

他者を真剣に受け取ることが、私の言わんとする人類学の第一の原則である。このことは、単に彼らの行動や言葉に対して注意を払えばよいという話ではない。それ以上に、物事がどうなっているのか、つまり私たちの住まう世界や私たちがどのように世界に関わっているのかについての私たちの考えに対して、他者が提起する試練に向き合わねばならないのである。先生に同意する必要などないし、先生が正しくて、私たちが間違っているとみなす必要も無い。私たちはそれぞれ違っていてかまわないのだ。だが、その試練から逃れることはできない。(同)

「他者」と「自分」がお互いに変容し続けることが大事だ、それが世界だとインゴルドは何度も繰り返し言うわけです。「人間とは、結果ではなく、一区切りなのである。人間は、人間が直面する条件--過去に自分自身と他者の行動によって累積的に形づくられた条件--に、あらゆる瞬間に反応しながらつくられる自らの生の産物である」とも。AはAである、BはBである、自分は自分である、あいつはあいつである。ではなく、つねに生々流転しているものなのだと…。このおぼつかなさ、不安定さ、諸行無常感、ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず感…、そんな状態で自分は生きていけるのだろうかと、不安にもなってしまいます。

だけど、いま現在の「AはAである、BはBである」状態が安心かというとそうでもないなと思ったんです。
「私は支援する側、あなたはされる側」「私は職業人、あなたは患者」という固定された関係が病院や施設での虐待を生むことはよく知られているし、「自分は給料出す側、あなたはもらう側」という権力関係が暴力を生むことも珍しくありません。「福祉の人は心がきれい、企業の人は金儲け」「トランプ支持者は」「左翼は」「エリートは」「地方在住者は」…みたいなレッテルが、他者も自分も縛り付けていることはないだろうか、とも思いました。

インゴルドは「会話」によって変容していくのは個人だけではなく、社会の仕組みや構造もそうではないかと書いています(と、私は読んだ)。人間が変われば構造も変わるのは当たり前なんじゃないかと思ったけど、人間が先か構造が先かじゃなくて、それは同時にじりじりと変わって行くものなのかなと思いました。

人は境界線を越えることなく、場所から場所へと渡り歩くことができる。差異をつまらない同一性に譲り渡すのではなく、ある場所を人から人へ手渡すこと―-つまり、人々が共通の場(コモンプレイス)〔ここでは〔ありふれた日常〕という意味で使われている〕をつくること―-は、同じく可能ではないのか。もし、あなたや私、そして私たち以外の残りのすべてがすでに同じだとしたら、私たちはどんな会話をすればいいのか?(略)私たちは異なるモノを、つまり経験や見解、技能などをテーブルに持ち寄るからこそ、それらは共有されるモノとなる。(同)

「community(共同体)」という言葉そのものが、ラテン語のcom(「共に」)とmunus(「贈り物」)からなり、「一緒に生きること」を表すだけでなく、「与え合うこと」をも意味する。私たちが共同体に属しているということは、私たちがそれぞれ違っていて、与えるものをもっているからである。(同)

人類学に限らず、「福祉」(とされる)フィールドでも、私たちは持ち寄ったり、与えあったりしているだろうか?と考えました。そうでなければ、どんなに美しい、よいことをしていると思っていても、「西洋化=人間の進歩」とのみ信じて、西洋文明とはちがう文化を持った人を虐げていたことと、同じではないでしょうか。*1

*1:「私たちが今日できるあらゆることをする能力を、狩猟採集民だった私たちの祖先たちに投影してみることで、歴史とはこうした能力が立派に遂行されてきた輝かしい過程であると立証されるわけだ。かくして、三万年ほど前の洞窟の壁に残る壁画は、ヨーロッパのルネサンスに絶頂期を迎えた美術の能力を明らかにしているし、同じ頃に同じ場所で出土した石器は、マイクロチップを用いて頂点に達したテクノロジーに対する能力を明らかにしているし、その壁画や石器を作った人々は、ニュートンアインシュタイン並みの能力をもっていたのだと主張される。しかし、「人間の進歩」と広くみなされている、この決定的にヨーロッパ中心主義的な見方は、たまたま近代の進化の神話に合致しない歴史をもつ人々の達成を脇に追いやってしまう。彼らにはできないけれど自分たちにできることを、種に対する普遍的な能力の、私たちのうちでの、より大きな達成に帰する一方で、その見方は、私たちにはできないけれど彼らにできることすべてを、文化的伝統の特異性へと格下げする。」(「人類学とは何か」より

ヨットヘヴン「グッタイムミュージック」

最近知ってよく聞いている曲
ヨットヘヴン / グッタイムミュージック


ヨットヘヴン / グッタイムミュージック (Audio)


どういうバンドなのかよく知らないけど、曲もいいし歌詞も沁みるしボーカルの人の声も歌い方もすばらしくて、夜ごと酒を飲みながら聴いています。
これは年末のパーティの明け方にかかって、感極まって全員泣くやつではないでしょうか。

なのに、Spotifyでは4700回、YouTubeでは1115回しか再生されていないんですよ!?(2020/11/7現在)こんなのうち100回くらいは私が再生しているんではないでしょうか!?信じられない!もったいない!そういうわけで皆さんも聴いて、一足早く年の瀬のエモい気分を味わってみてはいかがでしょうか。

物語のなかの貧困、あるいは貧困はどのように語られているか

今日、久しぶりに炊き出し会場に行ったら来てたおばちゃんが「最近は炊き出しより子ども食堂行った方がええもんが食べられていいわ〜」と言ってて、確かにそうだろうな、そういう子ども食堂だったらいいぞどんどんやれと思った。てか、「だったら」って何だよお前だれ目線だよって話なんだけど。

そこからいきなり話は変わって、今日読んだ面白いnote。「環境と人間との関係を中心に据えた文学研究“エコ批評(エコクリティシズム)」というのを初めて知った。
note.com

人の思考は、文学を含む文化、世の中に流布している物語の影響を受けます。地球が人間の力で変えられてしまっているにもかかわらず、自然環境が不変の背景である物語ばかりを摂取していたら、現実に起きている変化を消化しきれないのも無理はありません。
 実際、ゴーシュの指摘どおり、気候変動をはじめとする地球の変化についての物語の多くが、SFやファンタジーディストピア小説、災害映画、などの枠組みにとどまっていることと、気候危機を前にした人類がややぼんやりしていることのあいだには、深いつながりがあるのではないでしょうか。

これは環境問題の話なんだけど、貧困をどう文学が描いているのか、貧困にまつわるどんな物語が語られているのかっていうことをもっと考えていく、批評していくことが大事なんじゃないかなって思いました。自分もまた、ステレオタイプな物語ばかりを生み出しているのではないか?と…

ブルーインパルスと私

2020年5月29日
■東京上空に「ブルーインパルス」、 医療従事者に“不死鳥”の隊形で
news.tbs.co.jp

 私が育った市には航空自衛隊の基地がある。秋には基地で「航空祭」というイベントが催され、ブルーインパルスがアクロバット飛行をする。毎年タダで見ていたので、ニュースになるほどありがたみのあるものとは知らなかった。

 故郷は田舎だけれどそこそこ豊かな自治体だったと感じる。大都市や中核市へのアクセスが良い典型的なベッドタウンであることに加え、基地マネーや関連産業で潤っているのだと思う。国道沿いに新しいお店がどんどん建ち、親が自衛隊や航空機関連に勤めている同級生はみなきれいな二階建ての家に住み、車も夫婦で1台ずつ持っているのが普通だった。

 しかし物心がつく年齢まで育つと、航空祭の時期に限らず毎日飛んでいる飛行機は戦闘機であることに気づく。自分や友だちの暮らしは戦争のための道具に支えられているのだ、と思うと目に映る風景が急に暗くなった。
 
 飛行機がゴーゴーいうのは日常だった。飛び方や飛ぶ場所によっては授業が中断するくらいの騒音だった。私は生まれたときから聞いているので慣れてしまっていたが、転勤で新しく来た学校の先生はとても驚いていた。そして沖縄の話をしてくれた。小さな基地ですらこんなにうるさいのに、広大な米軍基地のある沖縄はいかばかりかというような話だった。

 大学生になって、電車で隣の市の繁華街に行ってお酒を飲むことが日常になった。あるお店で同じくらいの年齢の男の子と知り合った。九州出身で、自衛隊員だという。彼いわく「地元では高校を卒業して働こうと思ったら自衛隊くらいしかロクな働き口がない」とのことで、親の強い勧めで入隊したそうだ。本当は美容師になりたかったと言っていた。この辺(東海地方)だと大きな工場やその下請けのそこそこの規模の職場があり、高卒でもまあまあの給料をもらえることが珍しくないので彼の話は新鮮だった。自分もこんな何もないクソ田舎に居たくないと思い続けていたが、彼の故郷を想像すると胃の上のほうが締め付けられるように苦しくなった。

 いま、このブログでも貧困がどうとか社会問題がどうとか書くことが多いけれど、「誰かを貧困に陥らせているのは私だ」「私こそが社会課題を作り出しているのだ」という視点から書きがちなのは、小さい頃に感じた「自分の暮らしが戦争の道具に支えられている」という感覚なのではないか。と、今日ブルーインパルスのニュースを見て思った。

ひこうき雲

ひこうき雲

  • アーティスト:荒井由実
  • 発売日: 2000/04/26
  • メディア: CD

カーテン、散髪、アウティング

2020年5月14日
前の日記からだいぶ間が開いてしまった。
引越しをして、カーテンのない家で過ごして(昔の家で使っていた丈の合わないカーテンをかけ、足りない分は段ボールをあてがって)いる。まとめてやってもらったほうがよかろうと、自分で同じ日になるように頼んだんだけど、ガスやエアコンや電気の工事の人が次々にあわただしく来て落ち着かない。何もしていないのにぐったり疲れてソファで猫と一緒に昼寝をして、起きたら夜だった。

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すごいせまいと思うんだけど

2020年5月15日
美容院に行った。
最近は散髪のための外出を控えている人も多いと聞くけれど、くせ毛で広がる髪の毛多い族の私としては、定期的に整えないと手入れされていない洋館が蔦でいっぱいになるみたいに、自分の髪に全身を包みこまれてしまうので絶対に行くのだ。
まあそうじゃなくても行くけども。
美容師さんに「こんな時でも来ていただいてありがとうございます」と言われる。
こちらこそこんな時でも開けてくれてありがとうございますである。

どうしようかと思ったけれど、胸くらいまであった髪をばっさり、耳の下までのショートにしてもらった。
美容院に行ったことを隠したくなくて。

帰りに、通常は夜だけ営業だけど今はランチもやってますみたいなお店に入ってカレーを食べた。お店の人が来てくれてありがとうございます、みたいな感じでさかんに話しかけてくれたけど、普段からお店の人と親しくしたい気持ちがあまりないタイプの人間なので、緊張してしまいほとんど味がしなかった。

2020年5月17日
カーテンが届いた。

コロナウィルスの感染拡大が落ち着いて、ロックダウンが解除された韓国でまたクラスターが発生してしまったというニュースを見た。
感染源となった人が行っていたクラブはゲイの人たちが多く集まる場所だったという。

www.newsweekjapan.jp

ここに集まった人を対象に検査するとか、それはアウティング性的少数者であることを本人の意思とは関係なく公開すること)じゃないの?と思ったし、クレジットカードの利用履歴とか携帯電話の位置情報から感染した可能性のある人を調べているというのは怖いし嫌だな、私は絶対にしてほしくないなと思った。
私は今のところ異性愛者で、身体と精神の性別もいちおう一致しているけれど、コロナウィルスにかかったとき、行動履歴を根掘り葉掘り聞かれたら本当に嫌だなと思った。特にやましいこともないからいくらでも言ったっていいんだろうけど、人間には人には言えないことをする権利も自由もあると思っているし(できるだけ他人の権利や自由を侵害しないという範囲で)、言えなくないことだけど人には言わない権利や自由もあると思っている。だから私は何であれ言いたくない。

同時に、日本でマイナンバーの仕組みが機能していないのは、『人権派』の人たちが反対したから、本人確認とかのセキュリティを強固にしすぎて複雑なシステムになってしまったからなのだ、みたいなことを言っている人がいるのも見た。

blog.goo.ne.jp

でも私としては、マイナンバーそのものへの不信じゃなくて、人権を大事にしない政府への不信感がマイナンバーへの不信にもつながったのでは?と思う。

そりゃエストニアみたいに電子政府で納税も確定申告も手続きレスでラクラク!ってなったほうがいいなって思いますよ。

けど、大事なことを決めるのに議事録は残さない、書類はシュレッダーする、シュレッダーが遅れた理由を障害者雇用のせいにする、すぐバレるようなウソをつく、都合良く記録やデータを改ざんするみたいな国で、自分の個人情報を公のために差し出しますなんて思えないのは当然だと思うんだけどなあ。

でも、上記のようなことが全くなくなったとしても、自分がどこのクラブで遊んでたなんて誰にも言わされる必要は無いと思うんだけどなあ。

仕方ないなと思っていないし、どこもまったく割り切れないよ

2020年4月26日
 来月引越しをするのでカーテンを頼んだんだけど、モタモタして頼むのが遅すぎたのと連休があるのと工場がこのご時世でゆっくり操業なこともあり、引越し前にカーテンが届かないどころか、新居で2週間近くもカーテンなしで過ごすことが決まった。段ボールを立てかけておくなどしてなんとかやり過ごすことにする。学校ないし家庭もないし、暇じゃないしカーテンもないし・・・
 昨年度の報告書の提出があったり、ありがたいことにお仕事も色々お声がけいただいていいるし、書きたいと思うことも尽きず、毎日慌ただしく過ごすことができている。こういう毎日を幸せだと思わなきゃいけないんだろうなあという気持ちと(実際幸せだし)、幸せとかありがたいとか「思わされる」ものじゃないから思っても思わなくても私の自由だ、という気持ちの両方がある。
 他者からの批評やアドバイスをきちんと受け止める知性と素直さを持ちつつ、他人の勝手な評価からは自由でありたいと思う。私の場合はブスとかデブとかバカとか言われても気にしないで堂々としていたいっていう程度のことなんだけど・・・

2020年4月27日
 なんの罰則もなくても、業種によっては補償もなくても営業を控えて、でも家賃や従業員へのお給料はなんとか出したいと走り回っている人たちや、それもできなくて死にそうになっている人もいるのに、税金で意味わからんマスクをあやしげな会社に発注して儲けようとしていた人がいるんじゃないかと思うとほんと腹立つな。やめやめ!もう自粛なんかやめやめ!って思うわそんなん…。

 外国を見ると「先進国はいいなあ、うらやましいなあ」と思うことばかりだけど、でもどの国もそういう仕組みを、血のにじむような、という言葉では全然甘いくらいの努力をして作ってきた結果なんだよね。たとえばドイツなんてアーティストに「無制限の支援」をする、なんていち早く宣言してみんなを驚かせましたよね。
jazztokyo.org

 これをやるために「ドイツ国内の誰がアーティストなのか」をどうやって特定したんだろ?って思ってたんだけど、アーティストはだいたい組合に入ってるらしいのね。だから組合員=芸術家、だとして組合員全員に振り込めばokという。ベルリンなんかはアートが一大産業だから手厚いんだみたいなこと言ってる人もいたけど、それだって組合が普段から行政に働きかけたりしてきたからこそ、芸術家が活動しやすい環境が整ってますます面白いシーンが出てくる、といういい循環になっていたんじゃないかなと思う。

↓ベルリンのアーティスト協同組合についての記事
www.peeler.jp

概して社会的に立場の弱いアーティストは、団結した行動を通してしかその利益を獲得することができないという状況を鑑み、BBKは自らをアーティストの弁護人、スポンサー、サービス提供者と定義してアーティストの利益を代表し、広範囲にわたる情報、アドバイス、サポートの形で様々なサービスをメンバーに提供する。
具体的には、専門家による社会保険相談、年金相談、税金相談、スタジオレンタルに関する法律相談、職業上の法律相談窓口などを開設し、アーティストとして生きていくための生活基盤を整えることができるようサポートしている。会費は年間100ユーロで、現在2000人の会員がいる。

 
 台湾だって台湾だって韓国だって、民主化のためにすごい痛み、すごい努力をしてきた経験があるんだよなあと思った。どの国も完璧ではないにせよ、今までとは違う生活を送らざるを得ないとき、できるだけ多くの人が納得して行動できるようにするにはどうしたらいいか、という視点に立ったオペレーションができていたんじゃないかと思った。
 日本にも「組合を作って自分たちと社会を守ろう」とか、衝突をおそれず言いたいことを言いながら相手の意見も聞き、時にはクレバーに条件交渉をして全体としていい感じになるようにする・・・を繰り返してなんとかやっていこうみたいな気分や仕組みを作るにはどうしたらいいんだろうと思った。

 日中は仕事の打ち合わせ。その中で、今まで人は「集まる」ということにすごく価値をおいてきたよねという話になった。どんな宗教でも、神様と自分だけがいればいいというものではない。一人で部屋にこもって聖書を読む、ということだけではなくて、「教会」があって、みんなで集まって話を聞いたり歌ったりすることが大事だったわけで。
 組合もそうだし、選挙もそうだし、社会運動はだいたいそうだし、クラブとかディスコだってそうだし(一人で部屋で音楽を聴けばいいというものではない)、学校も会社も集団になることで何かを生み出してきたっぽい。3密makesサムシングだったのに、集まるなと言われたら、どうやって運動とか選挙とかやっていくんだろうか。
 …と思ったけど、すでに運動や選挙で「集まる」人ってだんだん少なくなってきているし、コロナがなくても瀕死の状態だったのでは…とも思った。

 集まることのしんどさとめんどくささと、楽しさや面白さの両方を、何か手垢のついていない、もっと実感を伴った言葉で整理できないものか。してみたい、と思った。

N.O.

N.O.

私が社会福祉士になれたのはクラブに行ってたから

2020年4月17日
様々な理由で名古屋のクラブも(名古屋以外もだけど)休業を余儀なくされて、クラファンやってない店のほうが珍しいくらい、どこもクラウドファンディングサイトで寄付を募っている。

そのまとめサイトがこちら
note.com

ちなみに休業中でもネットで配信をしている名古屋周辺のDJの情報まとめはこちら
note.com

このClubbers Guide Nagoya(twitterは@ClubbersNagoya)はハーシーちゃんという、名古屋をはじめ全国のクラブで遊びまくっているいちファンで(たまにDJもしているらしいけど)、DJやライブをやるいわゆる演者でもなく、クラブの経営者やスタッフでもなく、ほんとクラブが好きな客の一人という人が、コミュニティのことを考えてできることをすぐやる、ちゃんとやる、誰かに言われなくてもやる、自分ひとりでもやる。そういうところがクラブカルチャーの良心を体現しているとしか言えなくて、私は彼女をめちゃくちゃ尊敬している。

「金を払って楽しませてもらう側と、金をもらって楽しませる側」ではなくて、クラブって客もDJもお店の人もみんながその場を良くしようと思って楽しまないと、楽しくならない遊び場なのだ。それでいて、一人ひとりが自分なりの楽しみを見つけて楽しみ出すと、なぜかその楽しみがたまたま居合わせただけの他の人にも伝染して、結果としてその場全体がいい雰囲気になる、というミラクルが起こる場所でもあるのだ。

なのでクラブで払うお金は、利用料や酒代というよりもお寺のお布施みたいなものだと思って私は払ってきた。ディスカウントされると申し訳なかった。その場を維持するために必要な人が寄進しているようなものだと思うので。

しかし同時に、クラファンだけで本当にいいのかというモヤモヤも感じる。いつまでこの状況が続くか分からないのに、クラファンだけでどれだけ支えられるんだろう。それなりの金額を集めているクラブもあるけれど、小箱や若い人が中心に支えているクラブは、どんなに頑張っても厳しい面もあると思う。私は私が行ったことのないチャラ箱や小箱も含めてどのクラブも生き残ってほしい。だから破産してでも応援したいけど、いかんせんもともと財布が薄すぎるのである。
ここ↓でSaveOurSpaceが言っている通り『「持たざる者」が「持たざる者」を助ける状況』になっていると思う。それはお互いぎりぎりでもなんとか支えたいという純粋な思いの集合体だけれども、その切実さに図々しく乗っかって、絆だ連帯だ民間の力だという飴でくるんで美談に仕立て上げて、何かを覆い隠そうとしようとする動きから目をそらしてはいけないと思う。国や地方自治体による十分な休業補償を堂々と求めることと、私たちが自助努力でできることをすることはどちらも大事だと思う。
note.com


話は変わって、高円寺のEADレコードのヨウゾウさんのインタビュー記事を読みました。

音楽文化の底上げを図る高円寺のレコード店、「EAD RECORD」(DONUTS MAGAZINE )
https://donutsmagazine.com/store/shirahase-tatsuya-21/

「レコードだけが売れてもダメなんです。全部が繋がらないとコレクターの世界で完結してしまう。(略)結局みんなが潤わないとシーンが活性化していかないですから。」

これはヨウゾウさんがほんとに話したことだと思うけど、これをどこでどれくらい取り上げるかはライターや編集者の思いによるところが多いと思う。記事を書いた白波瀬さんは釜ヶ崎で厳しい生活を強いられた人と関わる活動や研究をしてきた人でもある。その経験が、シーンに対するまなざしにも表れているのではないかと感じた。


追伸:
長野県飯田市のクラブ「After5ive」も寄付を募っています。小さな町で、店長のみいなちゃんを筆頭にすごく頑張っているお店です。私も飯田にいたらAfter5iveがあることが希望だったと思います。(名古屋に住んでいても希望です)音響にもこだわったすごくいいクラブです。行ったことがない人もぜひ再開したら行ってほしいので応援してください。
camp-fire.jp