#レコーディングダイエット

毎日食べたものを書きます

SDGsがわからないー取り残されたくない世界なのか

SDGs「誰ひとり取り残さない」というところからいきなりつまづいていて、17の目標とか169のターゲットとか全く入ってこない。

というのは「誰ひとり取り残さない」って「取り残す側」の発想ですよね?私たちが、取り残してるんですよね?
私たちがド安い賃金で服やら電子機器やら作らせてるから貧困があり、木を伐って汚水を垂れ流しまくってるから飢餓があり疾病があり、教育の機会がない人たちがあり、いちいち言ったらめんどくさいしめんどくさい奴だと思われるからまあいいかと思ってるからジェンダーの不平等が温存されているんですよね?

「持続可能な社会のために ナマケモノにもできるアクション・ガイド」というのを見ました。たしかに、やらないよりはきっとやったほうがいいんでしょうからどんどんやったらいいと思うんですけど、節電やリサイクルよりも、もっと怠けていることがあるんじゃないでしょうか。

「取り残される側」の人の意見や気持ちは考えられているのでしょうか。
ホームレス状態にある人と一緒に活動している北九州の奥田知志さんが昔、「(野宿生活から脱することなどを)社会復帰と言うが、復帰したくなるような社会なのか」と問いかけられたことがあります。
過重な労働に耐えることが美徳とされ、そうでなければ自己責任と責められ心身の健康を害してしまう。「生産性」のない人・モノ・コトは切り捨てられる。もともとお金のある家に生まれた人だけが代々トクをするし、その地位を手放すまいと必死になる。そういう世界に「取り残されたくない」と思うでしょうか?そういう世界こそが、そういう世界の人が言うところの「社会課題」を生み出しているのに?そういう世界に「包摂されたい」と思うのでしょうか。

持続可能な、とよく言われているけれど、持続するのは何なんでしょうか。取り残す側の人の生活は持続させたまま、かわいそうな人も取り残しませんよ、なんてことがあり得るのでしょうか。「取り残される側」への想像力が乏しいまま、「誰ひとり」とか「すべての人が」と言えてしまうことにも、私は大きな違和感を感じます。

だからといって何もしないわけじゃなくて、できるだけゴミを出さないとか差別に屈しないとかやっていくんだけど、それはSDGsのためではなくて自分が信じることをしたいと思うからなんだけどなあ。

ソトコト2019年 06月号 [雑誌]

ソトコト2019年 06月号 [雑誌]

岩波書店「世界」に岐阜大学地域科学部を取材した記事が載りました

4月8日発売の岩波書店の雑誌「世界」に、母校である岐阜大学地域科学部を取材した記事を載せていただきました。
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昨年末に地域科学部の存廃をめぐるゴタゴタがあり、激情のままに書いて東洋経済オンラインに掲載していただいた記事を読んだ「世界」編集部の方にお声がけいただいたものです。ありがたや~ありがたや~。
toyokeizai.net
www.iwanami.co.jp


あこがれの岩波書店
舞い上がった私は当日、ここぞとばかりに持っていた広辞苑クラッチで取材に赴きました。買ってよかった広辞苑バッグ。
https://www.instagram.com/p/Bn0-Xk6BrcF/
広辞苑型のクラッチバッグを買ったので見てほしい函入り、スピン付き


話を本題に戻すと、特集は「生きている大学自治
編集部の渕上さんは「大学改革の問題点はもう言葉が尽きるほどにどこでも指摘されている。けれど、指摘すればするほど『強大な財務省(お金)の力』と『無力な大学』というイメージを増強してしまってはいないか。もっと『大学ってこんなに面白い』『魅力的だ』ということを言っていかなければならないのでは」とおっしゃっていて、泣けました。

面白い、魅力的だ、って私が書くとゆるふわな感じになっちゃうんですが、そこは「世界」なので、法政大学学長の田中優子先生、ブラックバイト問題について問題提起をし続ける中京大学の大内裕和先生などなど、豪華かつ多彩な顔ぶれがゴリっとした言説を展開されており、読み応えしかない一冊となっております。

私は地域科学部学部長の富樫幸一先生と、准教授の南出吉祥さんにインタビューさせていただきました。学生が始めた署名活動、学部存続のためのアクションが学外の人からも広く支持されたのはなぜか…といった話題から、地域科学部ならではの文化や特徴にせまる内容となっています。特に「大学の”地域貢献”とは何か」についての富樫先生の返答や、「そもそも地域貢献って何なの」と根本的な問いを立てることと、実際に地域で泥臭くフィールドワークをしていくことの間をどうつないでいくか(あるいは、つないでいかないか)といった箇所は手前味噌ながら面白く、自分でまとめながら燃えました。


現実に押し流されそうになりながらも、理想を決して手放さないことがどんどん難しくなりつつあるように思います。同時に、今・ここにある自分と社会の現実に向き合わないで理想に逃げ続けることの危うさやセコさにももう、うんざりです。
理想と現実、志とお金、アカデミアとストリート・スマート。ネット右翼とエリート・リベラル、ワイドショーと電気グルーヴ、その両方の間をときに小賢しく、ときに頑固に編集しながら生き延びていくしたたかさ、そういう「知」が欲しいなあと思いました。


「世界」は大きい本屋さんか、近くの本屋さんで取り寄せてもらうか、図書館にいくかすると読めると思います。そのどれもダメだったらAmazonとかで買って読んでくださーい。

世界 2019年 05 月号 [雑誌]

世界 2019年 05 月号 [雑誌]

能の「ワキ方」のようなライターでありたい

能楽師の安田登さんの講演を聞いてから、ずっと読みたいと思っていた本を読みました。

能  650年続いた仕掛けとは (新潮新書)

能 650年続いた仕掛けとは (新潮新書)

泥酔しては下品なダンスミュージックを聞いてウェーイとなることだけが趣味、という私にとって、お能など高尚すぎて無理と思っていました。が、この日のお話は居ながらにして別世界を見るような、自分の存在ごとぐわんぐわんと揺さぶられるような、サイケデリックな体験で忘れがたいものでした。

その後、娑婆に還ってからこの本を読み、特に気になった能のワキ方という役割の人について考えたことを書きたいと思います。

ワキ方」は「脇役」ではない

能にはシテ方ワキ方という役割の人がいるそうです。

シテ方」・・・幽霊とか神様とか、この世の者ではない人。
ワキ方」・・・「この世」に居ながら「シテ方」となぜか出会っちゃう人。

「夢幻能」と言われる能はふらっとどこかを歩いていた人(ワキ方)が、霊だったり神様だったり(シテ方)に出会ってその人のお話を聞くふしぎな体験をする…という内容のものだそうです。

ワキは物語を始める存在で、幽霊であるシテ方に出会う旅人として登場します。能のワキは、脇役の「ワキ」ではなく、「分ける」のワキです。つまりはあの世とこの世の分け目、境界にいる人物です。(安田登「能 650年続いた仕掛けとは」新潮新書、2017年)

ワキ方」は 「シテ方」の「念」を昇華させる

もうこれを読んでね、私は思いましたね、シテ方」=NPOの代表(創業者)ワキ方」=ライター・ジャーナリスト ではないかと。別に、NPOの代表が幽霊とか神様とか言いたいわけじゃないんです。でも、きっとNPOの代表って「この世」ではない世界を思い描いている人でしょう?今の、「この世」にはない価値、「この世」にはない社会を作ろうと思っている人でしょう?

でも、だからこそNPOの代表(創業者)=シテ方は、「この世」では「異形の者」と思われてしまう。「この世」にはないことばっか言うもんだから、「この世」の人には「何言ってるの?」「そんな夢みたいなことばっか言ってー」「ちゃんと働け(=この世で生きろ)」みたいな。

安田登さんのことを書いた松岡正剛さんの文章から引用しますね。

シテとは「仕手」や「為手」と綴るのだが、その正体は「残念の者」である。なんらかの理由や経緯で、この世に思いを残してしまった者をいう。(松岡正剛「千夜千冊1176夜『安田登 ワキから見る能世界』http://1000ya.isis.ne.jp/1176.html

NPOの人はこういう社会を作りたいんだ、こういう価値を生み出していきたいんだという理想を掲げて事業を立ち上げるんだと思います。でも、その裏には、自分が「おかしい」「くやしい」「さみしい」「つらい」と思ったことがスタートにあることがあるのではないでしょうか。学校でいじめられていた、産後に孤独で辛い思いをした、認知症になったおじいちゃんをどうしていいか分からなかった…だから「若者支援のNPOを立ち上げる」「産後のママを応援するNPOを作る」「高齢者のデイサービスを作る」みたいな。「残念の者」なんです。

でもその価値観は「この世」では必ずしも価値があると認められないものだったりします。
例えば「この世」の評価は「それは何の役に立つの?」とか「いいことだけど儲かるの?」とか「それで家族を養っていけるの?」「子どもを大学に行かせられるの?」とかだからです。

この時「シテ方」の取る反応は2つに分けられると私は思います。
一つは「この世」の評価などものともせず、ずんずん我が道を行くタイプ。
二つ目は「なんで『この世』の人は分かってくれないのよぅ」とジタバタし、思い悩むタイプ。

前者は孤高の人として、小さくとも汚れのないコミュニティを作っていくのでしょう。でも後者の人は、活動資金や仲間の獲得のために声を尽くして自分たちのことを訴え、それでもうまくいかないのはどうしてだろうと日々思い悩んでいるのではないでしょうか。

そんな時、「ワキ方」が現れて、シテ方の思いをこの世に伝えられたらいいんじゃないか?と思ったんです。

ワキ方は)あの世ととこの世の分け目、境界にいる人物です。だからこそ、あの世の存在である幽霊たちの無念の声に耳を傾け、その恨みを晴らすことができる。諸国をさまよい、幽霊に出会い、成仏させる、それがワキの役割です。(安田登「能 650年続いた仕掛けとは」新潮新書、2017年)

ワキとは、シテの残念や無念を晴らすための存在だったということになる。「晴らす」とは「祓う」ということでもあって、ワキはシテの思いを祓っていることになる。
 無念な思いを祓うとは、いいかえれば、思いを遂げさせるということでもあろう。(松岡正剛「千夜千冊1176夜『安田登 ワキから見る能世界』http://1000ya.isis.ne.jp/1176.html

「この世」とシテの語る「あの世」の間を行き来する世界。能ではワキが場面を整え、ワキがシテの思いを引き出し、思いが引き出されたことでシテは思う存分舞うことができる。つまり、観客は「ワキが見た世界(能)」を見ているのだと。

シテが言うことを通訳して「この世」の人にもわかりやすい表現で伝える、と言ってしまうと、あまりにもつまらなく、能の持つダイナミックさが失われてしまう気がする。でも、「ライター」って「そういうもの」だと思われていないか?「ライター」が「シテ方」を、手垢のついた言葉でつまらなくし、「この世」に軟着陸させようとするあまりダイナミズムを失わせていないだろうか?と。

自分がNPOの広報とか事務局を手伝っている上、NPOのことを書いてお金をもらうライターの仕事をしているので、つくづくそう思いました。
 

ワキ方的な支援とは

ではワキ方とは何でしょうか。シテの思いを遂げさせるには、何をすればいいのでしょうか。と考えたとき、私はますます分からなくなってしまったのです。

能のなかで、ワキはたいしたはたらきをしていない。ワキは舞台で最初に登場し、たいてい「次第」や「道行」という謡(うたい)を謡う。そして「あるところ」で正体があやしい者と出会う。これは大発見だ。それにもかかわらず、ワキはその後はほとんど活躍しない。ただ事態の推移を見守っているだけなのだ。(中略)
問いを発し、シテの語りを引き出したあとは、そのシテの物語を黙って聞くばかり。しかしながらそうであるがゆえに、ワキが異界や異類を見いだし、此岸と彼岸を結びつけ、思いを遂げられぬ者たちの思いを晴らしていくという役割を担う。いったい、これは何なのか。(松岡正剛「千夜千冊1176夜『安田登 ワキから見る能世界』http://1000ya.isis.ne.jp/1176.html

はたらかないのかよ!活躍しないのかよ!
でも、それがこの世とあの世を結びつけるとは、いったいこれは何なのでしょうか。

と考えたとき、そもそもシテとは何なのか?という疑問も持ちました。

能は「念が残る」「思いが残っている」といった「残念」を昇華させる物語構造になっています。(中略)世阿弥は夢幻能によって特に敗者の無念を見せる舞台構造を作ることに成功しました。(安田登「能 650年続いた仕掛けとは」新潮新書、2017年)

NPOの人は世のため人のため、こういう社会を作りたいんだ、こういう価値を生み出していきたいんだという理想を掲げて事業を立ち上げるんだと思います。なので、社会起業家だソーシャルベンチャーだというと、新しい時代のヒーロー、正義の味方、みたいに言われるけど本当にそうなんだろうか。
さっきも書いたけど、その原点には小さいころ貧しかったとか、いじめられたとか、報われなかったとか、話を聞いてもらえなかったとかいうルサンチマンや、そういう状況を目の当たりにして苦しかったとか、何もできなくて悔しかったとか、うしろめたかったとかいう思いがあるのではないでしょうかか。最初から華々しい理想を掲げていたのではなく、「負」の感情「不」の状況があったのではないかと思うんです。

人生がうまくいかなかったという事情に絡んだ者たちを主人公にした物語を、多くの能は主題にしてきたのである。
 つまりは自分の力を過信して失敗してしまった者たち、他人の恨みを買った者たち、ついつい勇み足をした者、みずから後ずさりしてしまった者たち、自分の能力がうまく発露できなかった者たち、そういう者たちを主人公にした。かれらは負けたというより「何かを負った」と解釈した。しかし、そこにも新たな再生がありうることを謡ったのが、多くの能の名曲なのである。(松岡正剛「千夜千冊1176夜『安田登 ワキから見る能世界』http://1000ya.isis.ne.jp/1176.html

ルサンチマンを自分の内部だけでこじらせるのではなく、社会構造の問題ととらえて事業なり活動なりを起こしていく。それがシテ方、残念の人、社会起業なのではと私は考えるのです。
怒りや苦しみという内発的な動機は活動の大きなエネルギー源となるので、それを持って起業した人の活動はターボがかかりスケールしやすい。言葉に熱がこもるので共感を集めやすい。「当事者性」という求めても手に入らないパワーも持っている。

しかし、これには両刃の剣のような扱いの難しさもある。
それは「個人的な鬱憤」と「事業」を混同してしまうことです。

ひきこもり支援のNPO若い人たちをたくさん勇気づけても、自分の幼少の頃の嫌な記憶が消えるとは限りません。(だって別物だもの)それはそれとして、今自分がなすべきことはこの仕事なのだ、と割り切って進んでいくものだと思います。

しかし事業に自分の思いが乗りすぎて、ルサンチマンの解消、自己肯定感の獲得が動機なのか、目的なのか分からなくなってしまうと危険ではないかと思います。「自分の事業が否定される、うまくいかない=自分自信が否定される」という思考回路に陥ってしまう。それは内部でなく「外部でこじらせてしまう」という状況になるわけです。

私は「社会起業家」と呼ばれる人にはこのこじらせを防ぐ人、「個人的な鬱憤」と「社会的なニーズ」を「分ける」サポートができるワキ方が必要ではないかと思っています。そう考えると、ライターだけでなく中間支援とか事務局とか代表をサポートする役割の人も「ワキ方」的であるといいのではないか、と思いました。

ここ数年の間に、名古屋のNPOで不祥事があり、新聞沙汰にもなった事件が数件ありました。そこに、代表の「念」を「外部でこじらせてしまった」ところはなかったか…?と私は感じています。しかしそれがこうした事態になるまでは、凄まじい推進力で事業を進めていた代表であったし、それを外部もすごいすごいともてはやしていたわけです。

シテの語る「あの世」の話は正しく新しく、パワフルで魅力的なので、この世の人もぐいぐい引き込まれて「一緒にあの世を目指そう」となるのだと思います。うまくいっているときはいいんでしょうが、「この世」のルール(倫理的、法的、経営的な)との齟齬が生まれた時に適切な対応ができないと破綻してしまうのかなと思いました。

でも、そのあの世の話を「黙って聞くばかり」でありながらも、そこに「異界や異類を見いだし、此岸と彼岸を結びつけ、思いを遂げられぬ者たちの思いを晴らしていく」、さふいふライターに私はなりたい、と思ったのでした。
がんばって書くぞー!

能  650年続いた仕掛けとは (新潮新書)

能 650年続いた仕掛けとは (新潮新書)

「意思決定支援」じゃなくて「欲望形成支援」じゃないか?っていう話ーー「精神看護」2019年1月号がすごい!

「精神看護」っていう、おそらく精神科の看護士さん向けの雑誌の2019年1月号がやばいからみんなに読んでほしい。
特集は「國分功一郎×斎藤環 オープンダイアローグと中動態の世界」。普段から、お前どんだけ國分さんファンなのかと周囲の人に呆れられている私ですが、冒頭の國分さんの中動態に関する講演録だけで1400円+税払って読む価値あるから取り寄せて読んで読んで。特に「中動態の世界」読んで、「分かったような分からないような」「ラテン語の意味はよく分からんがとにかくすごい労力だ」「意思はともかく、だったら責任はどうなるんだ」と思った人は読むとよいと思いますー。

意思決定じゃない、欲望形成をささえるのだ

國分さんは、昔は能動態と対立されていた「中動態」が消えて、「能動態(~する)」と「受動態(~される)」が対置されるようになった経緯を「行為の責任が誰にあるかを厳しく区別する言語になった」と説明します。「~する(能動態)」なら『私』の意思でやった行為だし、「~される、させられる(受動態)」なら、私ではない誰かの意志に沿って行われた行為だと言えるわけです。

だけどここで問題にされるのは、「意思」だけがその行為の原因といえるのか。「意思」とは本当に自分の心に固有な、オリジナルな、純粋な、自明のものなのかということです。

その子はお茶碗を割った。でも、その子はお母さんに怒られてむしゃくしゃしてやったかもしれない。また、お母さんが子どもに当たり散らしたのは、お父さんと喧嘩したからかもしれない。で、お父さんが喧嘩したのは、会社で何かもめごとがあったかもしれない。
 行為の原因というのは実際にはいくらでも遡っていけるのです。(略)
 ところが、意志という概念を使うと、その遡っていく線をブツッと切ることができる。「君からこの行為が始まっている」「君の意思がこの行為の出発点になっている」と言えるわけです。國分功一郎「中動態/意思/責任をめぐって」,「精神看護 2019年1月号」,医学書院,2018年)

意思はゼロからの出発点、純粋な自発性を指しているということです。そう思っていなくても、そういう意味で使われている。そういう意味で使われているから、責任を問うための根拠にされている。(略)
 意思が純粋なゼロからの自発性として考えられているということは、言い換えれば意思とは心の中での「無からの創造(creatio ex nihilio)」として捉えられているということです。しかし、そのようなことが心のなかにありうるでしょうか。もちろんあり得ません。
 人というのは、歴史を持っていて、人生を持っていて、過去とつながっている。そして人の心は、その周囲の環境とつながっている。完全に隔離された条件下の人間を考えることはできない以上、人間の心の中に、ゼロの出発点、「無からの創造」を置くことはできない。(同)

考えれば考えるほど「意思」とはあやしげであやふやな概念なのに、國分さんは現代では「意思」への依存が強まっていると語ります。

現代文明は意思の概念に強く依存しています。特に昨今の新自由主義体制においては、この依存は極限的に高まっている。「あなたには選択の自由がありますよ。選択はあなたの意思で行われることです。ですから選択の結果はすべてあなたの責任です」というわけです。今日は自由の話はしませんが、現代では「自由」は「選択の自由」にされてしまっている(自由の概念については『中動態の世界』の第8章をぜひ参照してください*1)。そしてその選択は、すべての責任を引き受ける主体を前提にしています(

これを踏まえて、たとえば医療の現場で言われている(福祉の現場でも言われていますが…)「意思決定支援」は、本人の意思を尊重するという建前のもと、単に責任の押し付け合いになっていないかと問題提起します。対して、本当に行われるべきは「欲望形成支援」ではないかと言うのです。

「意思決定支援」の考え方が出てきた背景は容易に想像できます。患者のことを患者以外の別の誰かが決定して、それをパターナリスティックに押しつけるのはおかしい。他者による決定の押しつけを疑うことは当然です。
 だから患者自身に患者のことを決めさせようというわけでしょうが、これでは単に責任を押しつけることにしかならない。今までの関係が単に反転しただけです。(略)
 僕はむしろ「欲望形成の支援」という言い方をしたらどうだろうか、欲望形成を支援するような実践を考えたらどうだろうか、と思っています。「意思」というこのとても冷たく響く言葉は切断を名指ししていますから瞬間的です。それに対して「欲望」は過程であり、また、人の心の中で働いている力であるという意味で、どこか”熱い”過程です。
 欲望を意識するのはとても難しいことです。自分のことだからこそわからない。だから周囲に手助けしてもらったり、一緒に考えたり、話し合ったりしながら、自分の欲望に気付いていく必要がある。(同)


以前にこのブログ↓で「主体」についてチラっと疑ったんだけど、そういうことだったのかー!と思いました。
yoshimi-deluxe.hatenablog.com

この分科会では「支援する/される」の「関係」ばかりに気をとられていたけれど、それ以前に「支援する、とされている」側と「支援される、とされている」側、双方の「主体」のあやふやさについて思いを遣ったらどうかと考えました。
支援する側にもされる側にも、明確な「意思」または「欲望」があって、それらがせめぎ合っているのをどうしたらいいかーーではない、んだと。
もっとどちらもあやふやで、ダルちゃんみたいにふわふわ不定形で、支援したいようなサボリたいような、応援したいようなテキトーでいいような。仲良くしたいような逆らいたいような、怖いような腹が立つような。そんな、定まらないものなんじゃないか。それを勝手に「見えていない意志があるはずだ」とか決めて、それを探るようなことをしているからいつまでもたどりつかないんじゃないか、と思った。
何を欲望していいかわからない、欲望したくなるようなきっかけがない、そういう状態から探していくものかもしれないし、激しい欲望を「はいはい、これがニーズですね」と分かった気になるよりも、その欲望はその人のどんな歴史、どんな背景に裏付けられているかを考えるのが「その人らしさが発揮できる」支援につながるんじゃないか。そんなことを考えました。


「中動態の世界」では、何か悪いことをしたときに、どれだけ言葉を尽くして謝罪しても、「本当に自分が悪かった」という気持ちがその人のなかに現れていなければ(現れる、は中動態)、相手はその人を許さないだろうという話が出てきます。

じゃあ、どうやったらその気持ちが「現れる」のか?「意思」の力ではそれが不可能だとしたら、何が私たちの心にそれを呼び起こすのか。
私は、自分とつながっている「歴史や、人生や、過去や、周囲の環境」をよく考えてみて、自分が普段から「つい、抱いている」感情や欲望がどこから来ているのか、を考えることではないかと思います。
困った人を助けたいと思う気持ち、どこかに寄付したいと思う気持ち。事業で成功して一旗上げたいと思う気持ち、そんなのくだらないと思う気持ち。それらは全部当たり前のことではなくて、どんな要素が自分にそう思わせているのか。それを考えていくことではないかと思うんです。

でも、自分の欲望に向き合うってしんどいことじゃないですか。例えば「困っている人を助けたい」という欲望のルーツには「頼りがいがある男と思われたい」とか「社会を変えた人として注目されたい」とかもあるかもしれない。
だけど、そういう弱かったりズルかったりする自分から目をそらさないで、その上でどうしていくかを考える。その時に一人じゃなかったとしたら心強いし、大きく道を踏み外さないと思いませんか。それこそが「欲望形成支援」ではないでしょうか。そして、それは、いわゆる「支援される側」だけじゃなくて、「支援する側」とされている、立場の強い人にも必要な支援、ではないでしょうか。


「精神看護」には「欲望形成支援」についての犯罪加害者の立場の人の語りや、うつ病経験者の方の視点で書かれたコラムもあり、どちらも國分さんの講演録と同じかそれ以上に心打たれる素晴らしい言葉にあふれていました。(心打たれる、って中動態っぽい)。興味のある方はぜひー。

ダルちゃん: 1 (1) (コミックス単行本)

ダルちゃん: 1 (1) (コミックス単行本)

*1:「自由」の概念については、國分功一郎「100分で名著 スピノザ エチカ」NHK出版、2018年の「第3回」の章もオススメ

なぜ社会福祉士なのにライターをやっているのかーーレコードを2枚同時にかけろ

少し前に母校である岐阜大学地域科学部を取材した記事を東洋経済オンラインに掲載していただきました。
toyokeizai.net

ちなみに記事では2018年12月20日に学部をどうするか大学として決定するとありますが、実際にはなぜか当日の会議で議題に取り上げないことになったそう。結論は先送りされたようです。


この記事はヤフーにも掲載されておりまして、その中のコメントに「記事の内容よりも、地域科学を学んだのに社会福祉士の国家資格を取り、そしていまはライターをしている著者に興味がわいてしまう…w 卒業生のその後が全てを物語ってる気がするなぁ。」というものがあり、「本当にその通りやで…w」と思って笑ってしまいました。

なぜ社会福祉士なのにライターをやっているのか

特に福祉関係の人に社会福祉士なのになぜライターなんですか」とよく言われるので*1自分の考えを書いておこうと思います。

社会福祉士は役所の窓口とか、障害のある人やお年寄り、子どもの施設などで、何か困ったことの相談を受ける仕事に就いている人が多いです。フリーランス社会福祉士という人もたまにいますがとても珍しいうえ、ライターというとさらに少ないのかもしれません。

私が社会福祉士を目指したのは、10年ほど前にホームレス状態にある人と関わるボランティアを始めたことがきっかけでした。人がホームレス状態になるのは仕事がない、お金がないというだけでなく、心身に障害や病気がある、教育を受けられていない、家族がいないなどなど様々な理由が背景にあることを知ったからでした。障害や疾病、労働に関すること、心理、成年後見、更生保護など社会福祉士の勉強をするといろいろなことを広く学べると思ったんですね。また、当時就いていた仕事がキツく、自分の能力の限界も感じていたため「福祉系の資格を持っていれば食いっぱぐれることはないんじゃないか…」と甘く考えていたことも事実です。

でも資格の勉強をしたり、実際に相談の仕事を通じて気づいたのは「私って全然相談の仕事向いてないな」「っていうかあんまり相談の仕事したくないんだな」ということでした。社会福祉士が受ける相談の内容はその人の生活や人生に直接深く関わるものなので、生半可なことでやってはいかんなとも。

ただ、社会福祉士が担うべきとされている仕事は「ソーシャルワーク」と呼ばれており、その内容は相談だけではないんですね。

ソーシャルワーク専門職のグローバル定義
ソーシャルワークは、社会変革と社会開発、社会的結束、および人々のエンパワメントと解放を促進する、実践に基づいた専門職であり学問である。社会正義、人権、集団的責任、および多様性尊重の諸原理は、ソーシャルワークの中核をなす。ソーシャルワークの理論、社会科学、人文学、および地域・民族固有の知を基盤として、ソーシャルワークは、生活課題に取り組みウェルビーイングを高めるよう、人々やさまざまな構造に働きかける。
この定義は、各国および世界の各地域で展開してもよい。

ソーシャルワークは困った人の相談にのるだけじゃなく、「生活課題に取り組みウェルビーイングを高めるよう、人々やさまざまな構造に働きかける。」ことなのです。だから、直接的な対人援助はしなくても、ものを書くことで「社会変革と社会開発、社会的結束、および人々のエンパワメントと解放を促進」したり、「人々やさまざまな構造に働きかける」ことができるならば、それはソーシャルワークのひとつと言っていいのではないか。と思って「ライター/社会福祉士」という肩書でやっています。

なぜ地域科学部なのに社会福祉士でライターをやっているのか

冒頭の記事の内容ともちょっと関わるんですけど、私が最初に出た大学は岐阜大学の地域科学部なんですね。文理融合とか学際的とか言われている学部って色々あるんですけど、記事を書くにあたり「学際的って何だろう?」と思ったのでWikipediaで調べてみました。wikiかよ。

最先端の研究の進展の方向性を考えるとき、従来とは異なった観点、発想、手法、技術などが新たな成果を生み出す例は非常に多い。これは従来はあまり結びつかなかった複数の学問分野にわたって精通している研究者や、複数の学問分野の研究者らが共同で研究に当たる、などによってもたらされる。これが学際的研究と呼ばれる。(学際-Wikipedia 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E9%9A%9B

これを読んで学際的な学問ってDJみたいなものなのかなーって思ったんです。
DJという手法でジャズとかロックとか既存のジャンルの音楽をミックスしたりエディットしたりことで、ヒップホップとかテクノとかいう新しいジャンルの音楽が生まれたみたいに、既存の「○○学」と「〇〇学」いう学問をときにスムーズに、時に強引にカットインしながらつないでいくような手法なのかなって。

実際に地域科学部では、世の中のお金の流れに興味のある「産業・まちづくりコース」の学生と、自然豊かな環境を守りたいと考えて勉強している「環境政策コース」の学生が同じまちづくりのゼミで出会うことがあります。そこでの議論には、2枚のレコードが同時にかかってフロアの熱気が高まっていくような、スリリングな興奮があります。

DJするときの最初の基本スタイルは、二枚のレコードを混ぜて合わせて、第三のものを作り出すってことなんだけど、書くってのも、目の前のテキストを混ぜ合わせるってことなのかもしれない。思想家は、目の前の思想理論をフュージョンさせてるんだ。(ウルフ・ポーシャルト、原克〔訳〕「DJカルチャー ポップカルチャーの思想史」三元社、2004年)

なので、DJがレコード(原曲)をリスペクトしていないといいミックスができないように、学際的と言われる学問も既存の学問分野をより尊重していないとできないなって思いました。自分が学生だった頃のことを思い切り棚に上げ切って言いますが、文理融合とか学際的といわれる、「何やってるか分からない」と言われる系の学部の学生こそ、それこそDJがレコードを聞きまくるように、めっちゃくちゃ勉強しないといけないんじゃないかと思いました。

ヴァルター・ベンヤミンだってカール・マルクスだって、リミックスできるんだ。というのもリミックスってのは、決して新しい文脈に順応させるってことだけじゃない。元の(ブリリアントな)思想を活性化させることだってあるからだ。リミックスは、大抵の場合、オリジナルを愛していないとできない。元の作品を新しい角度から見直し、バリエーションを作り豊かにする。(略)リミックスってのは、オリジナルに新しい生命を与える手助けをすることなんだ。オリジナルのコンセプトを救い出し、プッシュするってことだ。リミックスってのは、自分の関心を忘れることなく、オリジナルに奉仕することだ。いや、それだけじゃない。オリジナルに奉仕しながらも、自分の関心をハッキリ表明することだ。(略)愛情のないリミックスは、貧弱で退屈で色あせたものになってしまう。(同)

DJだって最初は(今でも?)そんなの音楽じゃないと言われていたけれど、今ではれっきとしたひとつのアート・フォームだって認められていますよね。

私はライターとしても社会福祉士としても中途半端だけど、だからこそライティングとソーシャルワークの先人に敬意を払っていきたい。
いいミックス、いいエディット、いいエフェクトができるようちゃんと勉強していきたい。
そんな感じで、2019年もよろしくお願いいたします。


おまけ)
私はDJにインタビューするサイト↓もやっているのでよかったら見てください。今年はもうちょっと更新したい…。
「人々のエンパワメントと解放を促進する」って、パーティのことでもあるような気がしてきました。
whatdjsaves.com

DJカルチャー―ポップカルチャーの思想史

DJカルチャー―ポップカルチャーの思想史

*1:福祉関係じゃない人にはそもそも社会福祉士が何なのかあまり知られていないので聞かれない

どっちつかずの頼りない私でありたいー【市民セクター全国会議2018】分科会14・支援における関係性

市民セクター全国会議2018の感想の続きです。
オープニングの記事はこちら→
いろんな問いがせめぎあっているー【市民セクター全国会議2018】オープニング - #レコーディングダイエット

分科会4(休眠預金)の記事はこちら→
矢印の向きをそろえないー【市民セクター全国会議2018】分科会4・休眠預金 - #レコーディングダイエット

分科会9(資金提供)の記事はこちら→
市民活動はアートだー【市民セクター全国会議2018】分科会9・資金提供 - #レコーディングダイエット

市民セクター全国会議の1日目が終わりまして、いよいよ私が登壇する「分科会14・支援における関係性を考える ~“してあげる”支援から“共にある”支援へ~」の日となりました。
www.jnpoc.ne.jp

昨日実況できなかったことを意外と根に持っていた私は、始まる前の打合せで一緒に登壇する地星社の布田さんNukiitoの高山さんNPOセンターの担当の方にも許可を取り、分科会の始まりに写真OK、実況OKをアナウンス。会場にも写真を撮っていいか聞きました。そして登壇中にも関わらずツイート。どんだけ実況したかったのか。


分科会では私たちが一方的に話すのではなく、会場の皆さんともやりとりしたかったので、最初に参加してくれた方にも一人ずつ自己紹介をしてもらいました。

どうしてこの分科会を選んだのか?という質問には…

他の分科会の方が有名な人が多いしね…。でも「中間支援組織が現場NPOにマウンティングし、現場NPOが当事者を搾取する構造はいい加減にしろ(自戒を込めて)という関心」で参加された方や、私のこのブログを見てきてくれた方もいたんですよ!!!すごいですよ。インターネットドリームですよ。…というのは置いといて、福祉関係の人や中間支援のNPO社会福祉協議会の人などが多かったです。

NPOをはじめとしたさまざまな領域で支援を行っている支援組織の“支援”に潜む問題点について立ち止まって考えます。“支援する側”(NPO)と “支援される側”(当事者)の関係性にある格差の問題、“してあげる” 支援によって当事者の自己決定力が奪われるという矛盾とどう向き合えば良いのでしょうか。このような問題をきちんと理解しつつ、寄り添い共にある“支援”のあり方、“市民的”専門性をもつ支援とは何なのかを一緒に考えていきましょう。

というのがこの分科会のテーマでした。

最初に布田さんにお話ししていただいた時のスライドがこちらです。

www.slideshare.net

これに対して、私がツッコミというか、かっこよく言うと問いを立てる係をやりまして、出した問いが下記の3つです。

1)「主体性を引き出す」とか「主体性を生かす」支援とはどんな支援か?
2)「してあげる/しなさい」ではない「支援」とはどんなものか?
 その「支援」のあり方を、「支援」という言葉を使わないで表現すると?
3)「してあげる/しなさい」ではない「支援」が実現したとき、「支援者」は何をするのが仕事なのか?(それで食えるのか)

このお題に対してみんなでやり取りをしたのですが、細かい内容は書ききれないので、分科会を通して私が思ったことや、分科会で話し切れなかったことを書きますね。

両輪でできないのかな?

これはちょっと反省なんですけど、「してあげる/しなさい支援」と「そうではない支援」の対立構造をつくって、後者の方がいいんだ!っていう論調で進めてしまったなーと思いました。
それは悪いことではないんだけど、「そうではない支援」が良いので、みんなこれを目指そう!!!ではないなと思ったので。支援の中では当然してあげたり、しなさいということも出てくると思うんです。だけど「してあげる/しなさい」だけが「支援」だと思ってやってる状況が非常にマズいんだということなので。

「支援」とは呼ばれないような、友だちとか恋人とか家族とか、同僚とか上司との間にも「してあげてばっかり」「されてばっかり」のもたれあいの関係ってときに発生すると思うんです。
それがいつもいけないわけじゃないし、ずっとその関係が続いてしまうこともあると思います。でも、それを乗り越えたことで新しい仲間の在り方とか、仕事のやり方とかが生まれることもあると思うんです。支援のなかでもそういう関係を目指せないかなと私は思いました。

AさんとBさんが車輪の両輪として、Aさんばかりが馬力を出してもその場をぐるぐる回るだけになる。AさんとBさんがお互いのパワーやスピードを調整しながら、ゆっくりでも目指す方向に進める関係づくりをすること、それが「してあげる/しなさい」ではない支援、なのではないかと思いました。

いま「主体であれ」「市民であれ」というのは、すごくマッチョなことかもしれない

布田さんのスライドでは最後に加藤哲夫さんの言葉を引いて「主体である」ことが語られました。
それで、分科会でも主体性をめぐっていろいろな話をしたんですが、ある参加者の方が

「現在は、自己決定と言っても、そもそも自己決定のための選択の幅がすごく狭められている時代だと思う。例えば被災した人が、危険だけどここにとどまりますか、家族や友人と離れて遠くに住みますか、それとも死にますか、なんていう『選択肢』から『自己決定』したとしても、何の充実感も得られないではないですか」

と言われたのがとても心に残った。
過労死するまで働くかひきこもるか。借金して進学するかあきらめるか。男に媚びるか女を捨てるか。デリヘルで働くか生活保護か…みたいな、そんな中での自己決定って何なんだという…。その選択肢を広げることがソーシャルワーカーの仕事なのかもしれないなーと思ったり。でも実際にはソーシャルワーカーの力量では全然現実に追いついていないし、ソーシャルワーカーだけでどうかなるもんでもないしと思ったり。

「主体的」な「市民である」ということは、どういうことなのか?
日々の暮らしや社会のことに興味があり、積極的に情報収集して意思決定し、「対話」を重んじてソーシャルなアクションを起こしていくような人?
「主体的」な「市民」って、そんなにまじめで、強くて、頭がよくてアクティブな人のことだったんだろうか。
そういう人に、私たちはなりたかったんだろうか。そういう人たちばかりの社会にしたかったんだろうか。
もっと「主体」や「市民」のイメージを、本当にありたい姿にアップデートしていったほうがいいんじゃないかと思いました。

主体ってのは、すべてが流れ込むフォーラムなんだ。オープンスペースなのさ。流れ込んだものが、そのつどミックスしたり合体して、その時々の主体の状態とでもいえるようなものが、出来上がってくるだけなんだ。固定的な性格とか特徴なんてものがあるわけじゃない。主体ってのは、自由に組み立てられ、ヘテロで脆いプロジェクトにすぎなくて、しかも、それがいつだってどんどん変化していってしまう。そんなものなのさ。個人と言っても、だから、その都度いろんなヤツであり、いろんなものなんだよ。(ウルフ・ポーシャルト、原克〔訳〕「DJカルチャー ポップカルチャーの思想史」三元社、2004年)

ともに書いていくこと

今回の分科会では、呼んでいただいたはいいものの、俺は何だ、何者だ、何をすりゃいいのと気がつきゃ自分に問いかけては自己嫌悪する日々でした。
Facebookメッセンジャーを使った打合せのなかで、布田さんと高山さん、NPOセンターのツチヤさんがうまいこと私の役割を決めていただき、それに乗っからせていただくことでなんとかできました。さらに、いざ開会してみたら参加者の方が登壇したほうが良かったのでは?みたいな人ばかりで良かったです。(登壇する/話を聞かされるではない関係…)


そして分科会以外でも、私のブログを読んでいますという方に会場でたくさんお会いしました。知り合い以外でブログの読者にお会いしたことがなかったので、すごく驚いたしうれしかったです。
あいちコミュニティ財団のことは、僕も今でも引きずっているくらい悩んだんです」と言われた東京の方もいました。その方は「石黒さん(=私です)のブログは、受け入れがたい社会と自分の矛盾や葛藤を、どうにか言葉にしようとのたうちまわっている姿が伝わってきて、いいなあと思うんです」とも言ってくれました。

私は小さい頃、フェミニズムについて書かれた本を読んで「私のまわりにはこういう考えの人はいないけど、世界のどこかには私の怒りや苦しみを分かってくれる人がいるんだぁ」と思うと、夜空の星を眺めるような気持ちになりました。希望だったんです。
でも今は、私のブログや書いた記事を読んでくれる人が私の星です。

わたしが3年前にフリーランスになった大きな理由のひとつは、人間関係に煩わされず自分ひとりで仕事をしたいというものでした。部屋にこもってあれこれ考えるのは全く苦にならないので気楽です。同時に、何の後ろ盾もなく、何の専門性もない自分が、ライターとして何を書いていくべきなのかさっぱり分からず、暗中模索の日々でもありました。

だけど私に必要なのは、自分に何が書きたいかとか、書けるかということではないのかもしれないと思いました。人との関係の中で役立てることを見つけていくこと。今ここで起きていることに目を凝らし、たくさんの人の声に耳をすませ、一緒に書いていくこと。それが自分にとっての自立ではないかと気づきました。

ものを書くとき、誰でも大抵ひとりでコンピュータに向かうものだけど、デスクには書物や雑誌が積み上げられている。それら書物を通じて、書き手は他の書き手と会話するんだ。そうすることで、書き手は少しずつ独りぼっちではなくなってゆく。自分と同じ考えを見つけたり、新しく考え直させられたりするからだ。すべては自分自身の中から生まれてくるという、貧しくて古い考えは、一九九五年、哀れにも終わりを告げた。ものを書くときには、世界全体が必要なんだ。(同)

質的社会調査の方法 -- 他者の合理性の理解社会学 (有斐閣ストゥディア)

質的社会調査の方法 -- 他者の合理性の理解社会学 (有斐閣ストゥディア)

DJカルチャー―ポップカルチャーの思想史

DJカルチャー―ポップカルチャーの思想史

市民活動はアートだー【市民セクター全国会議2018】分科会9・資金提供

市民セクター全国会議2018の感想の続きです。
オープニングの記事はこちら→
いろんな問いがせめぎあっているー【市民セクター全国会議2018】オープニング - #レコーディングダイエット

分科会4(休眠預金)の記事はこちら→
矢印の向きをそろえないー【市民セクター全国会議2018】分科会4・休眠預金 - #レコーディングダイエット


で、次の分科会何に出ようかな~、正直どれもそんなに積極的に出たいと思うのないんだよね~と思い(ほんとごめんなさい)、消去法的に選んだ分科会9「新しい価値を生み出す資金提供」が大ヒット!!!めっちゃ面白かったな~。出てよかったな~。
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特にセゾン文化財団理事長の片山正夫さんと、一般財団法人おおさか創造千島財団の北村智子さんという、アートをやる人たちに助成している二人のお話がしびれたので、そのあたりを中心に書きます。

何か課題か分からない、でも助成する

「『社会課題の解決』だけが助成の目的じゃない。助成金の目的は『価値の創造』であって、社会課題の解決はそのほんの一部にすぎない」

と、のっけから片山さんのパンチラインが炸裂。『価値の創造』には「新たな知見の獲得」「精神的価値の創出(アートや文化)」「社会への批判」なども含まれると。さらに、最前線では「そもそも何が課題か分からない」じゃん、とも。さらに休眠預金にも様々な思いがあるようで

「価値を創造する助成は「配分」ではありません。配分って、10個のお菓子を10人にひとつずつ配ります、みたいな感じでしょ。それは何も価値を生み出していないわけです。だから『資金分配団体』っていう名前はイメージがよくありませんね」

とも。さらに「前例にとらわれないことは大事だが、本当に大切なのは『ヴジャデ』だ」と。今までに全く見たことのないモノ=イノベーション、ではない。「しょっちゅう見ているありふれたものなのに、なんか新しい感じがする」ことが大事だと。(だから、デジャヴの逆でヴジャデ)つまり、いつもやっていること、コツコツやっていること、ありふれていると思われていることを「新しい目で見る」ことがイノベーティブなんだと。

おおさか創造千島財団の北村さんも同じようなことをおっしゃっていて、「新しい視座を与えてくれるもの」に助成しているという。中には「それってアートなの?」と思うようなプロジェクトもあるようなんですがそれすらも「こういうものがアートだ、というこちらの固定観念を揺さぶってくれるもの」だと考えているということだった。何が出てくるか分からないけれど、その人を信じて助成しているんだと。

さっきまでの分科会4では休眠預金の話で「具体的な社会の課題を抽出しろ!」「課題解決のための革新的な手法を開発しろ!」とか言ってたので*1そのギャップに驚きました。

課題解決じゃない、課題提示なんだ!

聞きながら、最近読んだ小松理虔さんの「新復興論」を思い出していました。小松理虔さんは福島の方で、震災/原発事故後の福島で、食・福祉・アートなど様々な活動をしている方です。

その中に、いわゆる被災地での「アートプロジェクト」について書かれた部分があるんです。みんなで絵を描いたり何かを作ったりすることを通して、人びとの心をいやしたり、交流の機会を作って地域のつながりを取り戻そうといった感じのものです。復興に資する面白い取り組みのように見えますが、小松さんはそこにこそ問題があると言います。

課題解決のためのアートプロジェクト。課題先進地区であるがゆえに、福島ではそれが主流になりつつある。これから課題が山積していく日本の地方でも、おそらく同じ現象が起こるだろう。課題を提示するアートではなく、解決するアート。(中略)課題が解決する方向に動くのであれば、自治体側としてもどんどん推進したいはずだ。文化行政と福祉行政が連携を取れるというメリットもある。課題解決型アートプロジェクトは、今後ますます増えていくのではないかと思う。
 ただ、やはり違和感が残る。アーティストは他にやることがあるはずだ。私はアーティストに介護をしてもらいたいわけではない。コミュニティ支援員をやってもらいたいわけではない。(小松理虔「新復興論」2018年、株式会社ゲンロン)

というわけです。アートには人と人をつなげる機能もある。けれど、アーティストにはもっと他にやることがあるだろうと。

もっと別の何か、さきほど紹介した古川日出男の言葉を借りれば、「事実を語るのではなく真実を翻訳する」ようなことをやってもらいたい。現実のリアリティから解き放ってくれるような作品を、私たちの暮らす地域のなかに提示してもらいたいのだ。徹底して馬鹿げたことをしてくれてもいい。確かにアートには人と人をつなぎ合わせる力はあるのだろう。しかし、それのみが、補助金を獲得する、あるいはアーティストと文化行政が強固な関係を作るために、その効能のみが強調され過ぎているのではないか、ということをしばしば感じるのだ。
 アートの行政サービス化が進めば、文化や芸術を自治体や国がコントロールしていく社会にもつながりかねない。食べていくことは重要だが、その食い扶持を行政に握られてしまっては表現の自由にも関わる。食べていくために自分たちの自立や理念を曲げなければいけないという社会は、食べていくために原発に依存する社会と何ら変わりがないではないか。アート、とりわけ地域で繰り広げられるアートに求められるのは、知らないうちに生まれてしまうその依存の構造を、それが当たり前になってしまった社会に突きつけるような批評性なのではないか。(同)

 この青字にした後半部分、思いっきりNPOの話と同じでは!?!?と思ったんですよ。

NPOの行政サービスの下請け化が進めば、市民活動を自治体や国がコントロールしていく社会にもつながりかねない。食べていくことは重要だが、その食い扶持を行政に握られてしまっては表現の自由にも関わる。食べていくために自分たちの自立や理念を曲げなければいけないというNPOは、食べていくために新自由主義に依存する社会と何ら変わりがないではないか。NPO、とりわけ地域で繰り広げられる市民活動に求められるのは、知らないうちに生まれてしまうその依存の構造を、それが当たり前になってしまった社会に突きつけるような批評性なのではないか。」

批評ですよ批評。片山さんも「社会への批判」も「価値の創造」のひとつとおっしゃってましたよね。*2

 社会課題の解決こそがNPOとかのミッションのように言われているけれど、それだけではないのではないか。考えてみれば、例えば貧しかったり病気だったりで「支援が必要な人」というのは、私たちに「社会の課題」を提示して分からせてくれる人ではないだろうか。そして、貧しかったり病気だったりで「支援が必要な人」の一番近くにいるNPOは、提示された課題を見えるかたちにして表現する「アーティスト」の役割を求められているのではないだろうか。あるいは、「支援が必要な人」こそが課題を提示してくれるアーティストで、NPOはそのアーティストに「助成(成長を助ける)」することが求められているのではないだろうか、そんなことを思いました。

アーティストとは、やはり課題を提示する人たちだ。課題を解決するのはアーティストではない。私たちの仕事である。(同)

(蛇足)
と、美しく終わりたかったのですが、最後に嫌味ったらしいことを書こうと思います。課題の提示。
分科会4(休眠預金)を引きずっていたので、分科会の最後に「お金を出す側ともらう側、という関係になると、どうしてももらう側が出す側の言うことを聞かなくては、と言いたいことが言えなくなってしまうこともあると思います。そういう関係にならないために『出す側』として気を付けていることはありますか?」と質問してみました。
セゾン文化財団の片山さんと、トヨタ財団の大野さんの答えはこうでした。「財団と助成先は対等なパートナーなのだから、上下関係ということはない」「財団と助成先は同じ目標を持って一緒に進むという関係なので、言うことを聞けということではない」。

確かにそうなんだと思います。。。
でも、お金に限らずだけど、「もらう側」はやっぱり自分を下に置いてしまいがちになると思うんです。程度の差はあれ。お二人がおっしゃられているような関係性をお互いに作っていくことが第一だとは思います。ですが、お金を出す側の人たちは、大なり小なり自分たちが権力を持ってしまう存在であるということに、敏感であって欲しいな、とも思いました。

つづく…。

新復興論 (ゲンロン叢書)

新復興論 (ゲンロン叢書)

*1:分科会4の人が言ってたわけじゃないですよ。「休眠預金等交付金に係る資金の活用に関する基本方針」(内閣府)」に書いてあることです。 http://www5.cao.go.jp/kyumin_yokin/kihonhoshin/kihonhoshin_1.pdf

*2:批評は批判だけにとどまるものではないけど