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【後編】あいちコミュニティ財団総括シンポジウムから考えたこと

【前編】はこちらです。
yoshimi-deluxe.hatenablog.com

そもそもコミュニティ財団って必要なの?

寄付したい人 → コミュニティ財団 → NPO等の団体

上記がコミュニティ財団をめぐる大まかなお金の流れです。寄付したい人がいて、その人のお金をコミュニティ財団に預けて、コミュニティ財団からNPOなどお金が必要な団体にお渡しする。という流れです。でも、これを見て「?」と思いませんか?

寄付したい人 → NPO等の団体

この流れでよくないですか?
寄付したい人は、自分のお金を何かよいことに使ってほしいとか、NPO等の団体で困っていることがあればそれに使ってほしいとか、このNPOがホームレス状態にある人の家探しを手伝っている団体だとしたら、家がなくて困っている人のために使ってほしいと思っているわけですよね。ならば直接NPO(またはホームレス状態にある人)にお金が流れればそれでよくないですか?コミュニティ財団が間に入る理由って、何なのでしょうか?

これをお読みになっている人からしたら、今さら何言ってんだよ!っていう話だと思うんですけど、私は自分で考えたかったので私なりにその理由をひねり出してみました。

★寄付したい人にとってのメリット

  • どんな団体・人に寄付していいか分からない。コミュニティ財団が決める基準に合った団体に寄付してもらえるなら安心である。

NPO等の団体にとってのメリット

  • 自分たちの団体内には、寄付集め方ための知識や経験、人手が足りないので、代わりに集めてもらえるならば助かる。

他にも、財団にある程度まとまった金額をプールしておくと、大きな災害が起こった際にそこからすぐに必要な団体などに助成ができる(日本赤十字社義援金を送るみたいなイメージ)といったメリットも思いついたのですが、主には↑じゃないかと私は考えました。

中間支援の役割は「権利擁護」ではないか?

人や団体の間に立って、それぞれをつないだり応援したりする団体を「中間支援組織」というそうです。2月8日の総括シンポジウムでそのように言っていた方もいたので、あいちコミュニティ財団をはじめとするコミュニティ財団も中間支援組織なんだと思います。

それで私が思ったことは「中間支援組織の役割って権利擁護(アドボカシー)じゃないか?」ということです。寄付したい人と、NPO等の団体がやりたいことをする権利を護ることが、中間支援組織の仕事なのではないか?と。例えば、「どこに寄付すればいいのか分からない」は「自分が応援したい人や団体を応援する権利」が侵害されている状態、とも言えるのでは?と。どんな団体がどんな活動をしていて、活動のために何が必要なのか…といった情報にアクセスできない状態は、権利侵害の状態にあるとも言えるのではないでしょうか。同様に「お金がなくて活動が続けられない」も権利侵害の状態にあるのかもしれないと思ったんです。

なので、コミュニティ財団が「この地域にはこんな活動をしている団体があるんです」と紹介したり、寄付金をもとにお金が無くて困っている団体に助成することは「応援する権利」「活動する権利」を護る活動ではないか、と考えました。
逆に言うと、「寄付金の流用」は、本来応援したかった団体に助成ができなかった可能性を考えると、「応援する権利」を侵害した可能性がある、という点で問題であったとも言えるのではないかと思いました。

「権利擁護(アドボカシー)」は障害者や認知症の高齢者の支援でよく使われる言葉で、狭い意味では成年後見制度*1と同義で使われることも多いです。が、本当はあらゆる対人支援において通奏低音のように流れている考え方です。

権利擁護は、支援が必要な当事者の「〇〇したい」を最大化するための手段である。その際、手段であるはずの擁護者(an advocate)が、問題解決の主体なのではない。主体はあくまでも当事者であるはずだ。擁護者は、医師や弁護士を真似して、「問題を解決する上で必要なことなら何でもしてあげる擁護者」となってはならない。(竹端寛「権利擁護が支援を変える セルフアドボカシーから虐待防止まで」現代書館、2013年)

本人がやりたいことを叶える、権利侵害を防ぐ、人権をまもるというのが「支援」の一番大事なことだと私は思っています。財団であれば助成が支援なので、助成によって助成先のNPOとかがやりたいことを、NPO自身の力で叶えられるように援助すること(セルフアドボカシー)が大事なんだろうな、と思います。
上で引用した竹端氏の本によれば、セルフアドボカシーの目標は、当事者(助成先)が「自分のために発言し、自分の人生に影響を与える決定に参画できるよう力を付ける(empower)こと」とありました。また、セルフアドボカシーのステップとして(1)自分自身が望んでいるもの(課題)は何かを定める、(2)実践計画を立てる、(3)その計画を実行する、(4)得られた結果を評価する*2とあり、あっこれって中間支援っぽい!休眠預金の資金分配団体にJANPIAが求めてることっぽい!と思ったんですね。

だけどこれって コミュニティ財団 → NPO等の団体 という関係の中では行われているけれど「寄付したい人」と「コミュニティ財団」の関係の中ではどうなんだろう?と思いました。
コミュニティ財団って、支援のためにお金を「出す」団体でもあるけど、寄付者からお金を「もらう」団体でもあるわけですよね。しかも、寄付者の思いを代弁し、「したい」ことを叶えるという意味ではアドボカシーする団体でもある。
寄付の出し手が企業だったり、まとまった金額を寄付できる人であれば助成プログラムを一緒に作る過程を通して、上記のセルフアドボカシーの4つのステップみたいなことをしていると思います。
でも、少しずつお金を出してくれたたくさんの人たちに対してはどうなんだろう?と思ったんです。個人に対してもこれをやれよ!という意味ではないんだけど。だって寄付した先に自分がアセスメントされ、プランを立てられ、モニタリングされ評価されたいと思って寄付する人っていないと思うので。(笑)

中間支援も「社会モデル」であってほしい

自分が使いたいようにお金が使えない。自分の言いたいことが言えない、したいことができない。こうした「当たり前の権利」が奪われているのはなぜなのか。同じく竹端氏の本では「障害の医学モデルと社会モデル」という概念を使って説明されています。

例えば言葉によるコミュニケーションが難しい知的障害者の太郎さんが、ストレスがたまると壁に頭を打ち付ける自傷行為や、気に入らない職員への暴力行為を働いてしまうことがあるとします。このとき太郎さんをどう見るか?という視点です。

 一つ目の見立ては、「強度行動障害」「自閉症」などのレッテルを貼る見立てである。その人のIQは小学生以下であるとか(略)「ひどい自傷」や「著しいこだわり」「粗暴で恐怖感を与え、指導困難」などの評価基準で評価される。そういう「問題行動」をどう抑えることができるか、が支援における目標となる。
 もう一つの見立てとしては、太郎さんがそのような行為をする、「太郎さんの内側に内在する合理性(内在的論理)」を探すやり方である。「問題行動」とレッテルを貼られた行為が、どのような太郎さんの非言語的表現や、行為としてのSOSサインなのか。(略)それらを読み取ることなく、太郎さんの「問題行動」と矮小化して理解することは、社会的差別や本人への抑圧的支配につながりかねない、という視点である。
 前者の見立ては「障害の医学モデル」として、これまで支配的であった。これは、「病気は治せる」という二十世紀医学のモデルに準拠した考え方である。障害は個人の不幸であり、治療やリハビリテーションにより、「問題行動」の最小化や除去が目的とされる思想である。リハビリテーションや訓練によって「変わるべきは障害者」とされる視点である。
 一方、「問題行動」とは、本人ではなく支援する側にとっての「問題」である、とすると、「本人ではなく支援者がまず変わる」必然性が出てくる。その際、本人の内在的論理を理解し、その権利を護るために支援者が本人や社会にどう関わり、働きかけていくか、が重要になってくる。この視点は、「障害の社会モデル」と言われる。(略)障害を個人に起こった悲劇と捉えず、社会的差別や抑圧、不平等の問題と考え、「変わるべきは社会」とする点に特徴がある。(同)

お金や人が集められない、発信力がない、自らの活動を分かりやすく多くの人に説明できない。経営の知識や経験がない。こうしたNPOの不足を治そう、社会に適応できるように変えよう、という「医学モデル」で支援しようとする。私は「中間支援」を名乗る団体がしていることにこんなイメージを持っています。もちろん、そうではない中間支援もきっとあるとは思うんですけど。
でも「社会モデル」の支援は違うんです。障害を「治す」のではなく、障害者が障害者のままでも、社会変革の主体として生きていけるようにすることなんです。

「医学モデル」の支援は支援と言いつつ、本人を支援者の思うように変えようとすることは(それが心からの善意であったとしても)、本人の意志を無視し、権利を侵害することにもなりかねません。
「社会モデル」の支援をしようとすれば、まずは「本人の内在的論理」を知ろうと努め(その論理が、いかに「非常識」であっても)「支援者」側が変わることがまず求められます。

なので、私の最初の仮定が間違っていたんです。

      →        →
寄付したい人 コミュニティ財団 NPO等の団体
      ←        ←

  
矢印が両方向じゃなきゃいかんのではないか?と。やり取りされるものが、お金ではないかもしれないけれど。変わるべきはNPOとか、その先にいるNPOに支援されている人だけではなく、財団でもあり、寄付したい人自身でもあるはずなのです。

そして、この逆向きの矢印の力がはたらくためには、同書では「支援者(擁護者)」が「『自分の権力を行使しない』とはっきり表明」すること」が必要だと説かれています。これは難しいことです。寄付者や財団が「わたしたちは支援する/支援されるという関係を乗り越えていきたい」というお題目を唱えて、助成先やそのまた先にいる人と対等になった気になることではないと思うんです。これは難しいことです。だってどうしても「お金をあげる/もらう」「支援する/される」の間には権力関係が発生しますもの。「与えることができる」ことは権力ですもの。

エンパワメント支援とは、当事者が自分自身のために発言できない、自分の人生に影響を与える決定に参画できない「無力化」状態を乗り越える、セルフアドボカシーに向けた支援である。その際、支援者が自らの権力行使と決別し、当事者を「受け身」にさせず、共に権力という「ゲームの裏ルール」を乗り越えるためのパートナーシップの関係を築き、「批判的思考」の中から相互変容を行う必要がある。その中で、当事者が「問題を変革していく主体」としてパワーを取り戻していくことが可能になるのだ。(同)

どうやったって残ってしまう「与える/もらう」の権力構造から目をそらさないでやっていくためには「与える側」も自身の無力さを認め、自身も変わりゆくことを受け入れる(相互変容)ことが必要であると。「助成する時に立てた計画と違う結果や成果」と違うからどうこう言うんじゃダメなんですよね。お互いに、なぜその変化が訪れたのかを、頑なに責めるでも、いぎたなく甘え合うでもなく受け入れ、批評し、それまでになかった現実、持っていなかった価値に気付いて次のアクションを起こしていく…みたいなプロセスが必要なんじゃないでしょうか。それが結果として「社会が変わる」ってことなんじゃないでしょうか。

さっき私は「寄付した先に自分がアセスメントされ、プランを立てられ、モニタリングされ評価されたいと思って寄付する人っていない」と書いたのですが
財団→助成先 に対しては、「アセスメントし、プランを立て、モニタリングし評価する」ことって当然のように行われているんです。
さらに言うと、助成先であるNPOが障害者や高齢者を支援する団体だったとしたら、NPO→障害者(高齢者)に対しては「個別支援計画」というものが作られ、障害者が高齢者がどう変容するためにどんなことをしていきますって書いて、定期的にできたとかできなかったとかチェックするんです。
助成先→財団に対して、障害者→支援するNPOに対して、「個別支援計画」が立てられることがあるでしょうか?ほぼないですよね。それはやっぱり「支援される側」だけに変わることを求めていないか?と私は思うのです。


てかこの「エンパワメント支援」の対象者を、皆さんは障害者とか貧しい子どもとか働きたくても働けない若者とかっていう風に読んだかもしれないけど、「自分の人生に影響を与える決定に参画できない「無力化」状態」にあるのって、健康でバリバリ働けてて、ちょっとくらいなら寄付もできちゃう生活をしている人だってそうじゃないですか???長時間労働だって、子どもを育てにくいことだって、賃金が上がらないことだって、コロナウイルスをめぐるグダグダだって、本当に不安で困っているのに「まあどうしようもないよね」って「無力化」されているのは私たちではないでしょうか。それこそが「解決すべき社会課題」ではないでしょうか…。

役割が変わるしくみを取り入れては?

このブログを書き始めたときは、べ、別に、あいちコミュニティ財団のこれからについて何か提言しようなんて、ぜ、全然思ってなかったんですけどね!!!

でも、思いついちゃったので書きますと「寄付したい人・コミュニティ財団・NPO等の団体(助成先)」の役割をシャッフルするような仕組みができたらいいんじゃないかなって思いました。
「お金をあげる/もらう」の関係が固定化されると権力関係も固定されるけど、その時々で違った役割を与えられるような仕組みがあるといいんじゃないかと。助成の審査にホームレス状態にあるおじさんや、長くひきこもり状態にある人を入れるとか。財団の人がどっか他の財団から助成を受けてみるとか。以前にあいちコミュニティ財団は、子どもたち自身が「子ども支援の団体向け」の助成金をどこに使ったらいいかを考える、みたいな取り組みをやっていたけど、あれとか上手にやったらいいんじゃないですかね。(当然のことながら、子どもたちの意志と言いつつ大人の思い通りにするようなガイドを「しない」ことが前提だけど。権力を行使しない!!!)
私も含め、寄付者も財団の執行部も、自分たちの権力の使い方や使われ方にあまりにも無頓着だったと私は思うので、権力を持ってみたり手放してみたり、周りもそれをよく見てツッコんだりしながらやっていくしかないんじゃないかと思いました。


てかそれ以前に、やっぱりまずは「財団は要るのか」を考えてからだとは思うんです。6000字を超えるこのブログの記事を根本からひっくり返すような話で、すみません。
コミュニティ財団は「地域にお金が循環するしくみを作る」と言うけれど、私(たち)が欲しいのは「地域にお金が循環するしくみ」なのか?それとも単に「お金」が欲しいだけじゃないのか?ってずっと考えていたんです。でも、私ひとりでは答えが出ませんでした。
皆さんはどうお考えでしょうか。(おわり)

権利擁護が支援を変える -セルフアドボカシーから虐待防止まで

権利擁護が支援を変える -セルフアドボカシーから虐待防止まで

*1:自分の力で金銭管理とか生活に必要なことを他の人が助ける支援。悪徳商法に騙されてお金を取られないように、通帳を後見人と呼ばれる支援者がその人に代わって管理したりする。

*2:カリフォルニア州の障害者公的権利擁護機関DRC/Disability Rights Californiaのサイトより→今はリンク切れています https://www.disabilityrightsca.org/pubs/507001.htm 今のDRCのself advocacyに関する記事も実践に役立つ面白いことが書いてある気がする  https://www.disabilityrightsca.org/publications/self-advocacy

【前編】あいちコミュニティ財団総括シンポジウムレポート

2020年2月8日に開催された「あいちコミュニティ財団総括シンポジウム」に行ってきました。
2017年頃から様々な不祥事が明るみに出た財団のこれまでを総括(主に反省)しようとする会でした。
2017年からの財団の色々をご存知ない方はこちらの記事を読んでください。
headlines.yahoo.co.jp

どうしても財団を悪く言うような書き方になってしまったのですが、それはひとえに私の筆力のなさのたまものです。結論から書いてしまいますが、私がくさしたいのは主に財団にのっかって何かいいことがあるかも~とか思ってたり、私も寄付したから社会課題の解決にいっちょかみした側だし~と何もしなかった自分や、自分のような人であって、
決して有給無給を問わず財団のために働いていた/いる人や、財団から助成を受けた人や団体ではありません。私みたいに外側から何目線だよ?ってな感じでやいやい言うだけの人たちをよそに、皆さんは目の前のことに一生懸命打ち込み、できる範囲で精いっぱいのはたらきをされていた/いると思っています。図々しい言い方ですが、それを誇ってほしいです。

2017年以前の証憑類存在せず

最初に、昨年から新たに財団の常任理事となった戸枝陽基さん(社会福祉法人むそう理事長)が財団のこれまでの活動と、2017年のパワーハラスメント・残業代未払が明らかになった以降のことを説明されました。

戸枝さんによれば、財団は2013年に600人の出資者により1000万円近いお金と多くの期待を集めて発足。その後2016年までは「順風満帆だったと思われる」とのこと。運営に陰りが出てきたのは2017年頃からではないかと推測されていました。

推測されていた、というのは、2018年になり入れ替わったスタッフで調べたところ、なんと2017年以前の証憑類(領収書など支出の裏付けとなる書類)がごっそり無くなって所在が不明になっている(!)のだそうです。戸枝さんは、これだけきれいさっぱり無くなっているということは、何ものかが故意に持ち出した可能性も否定できないと説明され、会場はドン引き。いやいやこれ寄付金の流用よりもニュースになっていい事件ではないのでしょうか…。いつ、どうして紛失したのか分からないですが、毎年の監査とかどうやっていたのでしょうか。公益財団法人がこれでいいんでしょうか。私益無財産個人であるところの私だって確定申告の書類を5年は保管せよと言われているのに…。

ともあれ18年以降、新しく入られたスタッフさんがパソコンに残っていたデータ等を分析して経営状況を調査されたそうです。その結果分かったことは、資金繰り表もなく、事業別の収支も計算されておらず、経営的には場当たり的に新事業を起こしてはお金を集める自転車操業のような状態だったのではないかと。ゆえに、寄付金の流用に関しては起こるべくして起こってしまったのではないかと分析されていました。
これらをもとに戸枝さんは下記のように総括(反省)してお詫びされました。

★財団として

  • 当時の代表の木村真樹氏の経営者としての能力に不足があった
  • 財団に組織として運営を改善するしくみがなかった(理事・評議員の責任が重大)
★戸枝さん個人として
  • 2013年から評議員を務めていたが、理事会をチェックする機能を果たせなかった
  • 就任当初から運営の危うさを感じながら、会議を欠席することも多く、そのままにしてしまった
  • にも関わらず、自分(戸枝さん)が役員だからという理由で財団に寄付してくれた方がいたとしたら、申し訳ない。
★寄付者に対して
  • 寄付者(特に最初の出資者)は被害者でもあるが、情報公開をせまり実態をチェックすべき立場でもあったと思う。

本当は表に出したくなかったであろうことも、全部ではないと思うけれど公表され、関わり方に濃淡はあったにせよ、財団の設立当初から現在まで関わり続けてきた戸枝さんが自身と団体としての両方の立場から経緯をまとめ、公の場で真摯に謝罪されたということで、やっと財団はひと区切りつけられたと感じた方が多かったのではないでしょうか。

これからの財団のことなんか自分で考えろ

会場からも、ネット中継を見ていた人からも「それで、これから財団はどうしていきたいわけ?」みたいな声を聞きました。
でも私は、今回はそれは無くてもよかったと思います。ひとつは、この3年間、きちんとしたふりかえりもなくやってきてしまったのだから、まずはそれをちゃんとしてからだと思ったからです。

もう一つは、財団の新執行部の人の思いもあるでしょうけど、「コミュニティ財団」であるのならば、財団を支えるというか財団をとりまくというか、財団と何かしら関係を持っていきたいと考えている人の思いこそが、これからの方向性を決める時に大事だと思うからです。

財団は2017年に公になった色々の後、その対応のまずさも含めて急速に人々が離れていった状況があるので、はたしてあいちコミュニティ財団にとってのコミュニティとは何ぞや、誰からなるコミュニティなのかという話から始めないと意味がないんだと思います。というか、この問いは2013年の設立当初にもあまりされていなかったと思うので、もう一回した方がいいのではないかと思いました。そういう問いをテーマに話し合いたい人が今もいれば、ですが…。

要するに、財団の執行部としての経営上の総括はこのシンポジウムでなされたけれど、寄付者や、財団を支えていた、支えたかった、あわよくば財団から何かのメリットを享受したいと思っていた人(それは他ならぬ私なんですけど)による総括はまだなされていないのではないか?と私は思いました。

この日は戸枝さんの説明の後に、ずっと元代表木村真樹さんを応援していた萩原喜之さん(一般社団法人三河の山里課題解決ファーム理事)と、久野美奈子さん(NPO法人起業支援ネット)もそれぞれの視点からこれまでのことを総括されました。
萩原さんは権力を持ってしまったリーダーの傲慢さや、そのリーダーに依存してしまった周りの状況、SNSで指一本で簡単にシェアしたり寄付したりできることで、フワっとした「何か正しいことをしている感」のみが増幅し、市民活動にあったはずの自発性や批判精神が育たぬまま、発信力のある団体やリーダーの知名度や権威だけが高まり、ますます増長させてしまったのではないか…といった指摘をされていました。*1

久野さんからは「自らに都合の悪い意見を聞こうとしない元代表の木村さんにも確かに問題はあったが、周りが『木村さんさえ変われば財団は良くなる』と思ってしまったことも傲慢だった。もっと財団として目指すべき方向はなんなのか、今やっていることは目指すべき方向にとってどうなのか、という議論をするべきだった」という鋭い指摘がありました。

参加のしくみをどうつくるか

戸枝さんが最後にチラっと「財団に対して、自分はあれができますよ、これができますよ」って来てくれる人がいたらなー、そういう人を増やしていきたいなーみたいなことをおっしゃっていました。
いると思うんですよ、そういう人。
でも、今の状態だと「戸枝さんがいるから財団で働こう」みたいな人ばっかになるような気もするんですよ。その動機自体は決して悪くないと思うんですけど、そればかりだと「木村さんに任せておけば大丈夫だろう」となっていた、以前の財団と同じ状態になっちゃうんじゃないでしょうか。そういうコミュニティが、コミュニティ財団なんでしょうか。

新代表の佐藤真琴さん、そして戸枝さん、日本福祉大学の原田正樹先生、同じくNPO法人せき・まちづくりNPOぶうめらんの北村隆幸さん、NPO法人外国人就労支援センター理事の山本梢さんと、皆さん前例のない事業を切り拓き、難しい事業を軌道に乗せてきたパワーと発信力と力強いネットワークをお持ちの方ばかりが新しく理事に就任されています。

でも、自分がこの組織に入って事務局の仕事をするとしたらと考えると、大変勉強にはなると思うんですけどめちゃくちゃやりづらい気もしますもん。(笑)「お前は経営が分かっていない」と言われれば「ははあ、その通りでございます」だし、それぞれ地域の課題もよくご存知の方ばかりなので「お前は現場が分かっていない」と言われたらぐうの音も出ないと思います。もしかしたら、財団から助成を受ける側の団体だとしても、同じように感じてしまうかもしれません。「伴走支援しますよ」って言われたらちょっと怖い、みたいな…。…きっと私の根性がねじくれているだけだと思んですけど…。でも、社会を変えるためにそういう厳しさ/正しさも必要だ、って言われたらそうなんだろうけど…一歩間違えればパワハラの温床にもなってしまうのでは、とも思います。(違うかなあ~~~)

いや、でもこれはあくまで私個人の主観なんで、素晴らしい理事の皆さん(本当に素晴らしいと思っています、本当に)の意向と共に歩んでいくということで、寄付者やそれを取り巻く環境、便利な言葉で言えばステークホルダーの皆さんがそれでいいならそれで全然いいと思います。


でも、コミュニティ財団はそうじゃないんだ、というなら…
知識も経験も足りなくて、小さくて頼りなくておぼつかない声にも価値を見出して、ぐずつきながら進む団体を応援するんだということなら、そういう世論、そういうよわよわな人や団体を下支えするコミュニティが必要なのではないでしょうか。(それはパワフルなリーダーとしても反対するところではない、はず)

そして、やっぱり自分は、どんなに素晴らしい方がリーダーとなったとしても、それはそれとして、「私にとってコミュニティ財団は必要なのか」「自分はどんなコミュニティ財団だったらいいと思うのか」ということも考えてみたいなと思うので、それを後編に書こうと思います。つづく…。

【後編】はこちらです。
yoshimi-deluxe.hatenablog.com

*1:萩原さんの言葉そのままではなく、かなり私が意訳しています

誠実な強者でありたい

2018年の終わりに初めて東洋経済オンラインに名前入りの記事を載せていただいて、2019年はYahoo!ニュースに何本か書かせていただいた。私がフリーライターになったのは2016年の4月からで、短い期間でこんなにたくさんの人に読んでもらえる媒体で書かせてもらえたのはひとえになごやメディア研究会のおかげである。代表の関口さんはじめ皆さんには感謝しかない。もちろん、なメ研以外にもいつも好きにやらせてくれるNPOや企業や杉浦医院の皆さんにも感謝しかない。本当にありがとうございます。

Yahoo!に記事を書かせていただけるようになり、とても驚いたことがある。それは「Yahoo!ニュースです」と名のると大抵どの方もすぐに取材に応じてくれ、お話を聞かせていただけることである。

以前、別の小さなメディアで取材のお願いをしたときは、自分がいかに怪しくないかを誠心誠意お伝えしないといけなかった。「それは無料なんですか?広告じゃないの?」とか何回も聞かれる。取材と言って近づいて、後から「掲載してやるから金を出せ」みたいな商売をしている会社からの営業がよくあるらしい。なので「取材依頼書」を懇切丁寧に作って、いかに自分が怪しくないか、ちゃんとした媒体であるかを書面と電話の両方で説明していた。それでも取材できなかったこともある。

まだほんの数本しか書いてないのに「自分は権力を持ってしまった」と思った。この程度でそんな風に思うなんておこがましいと思うけれど、でも誰でも持っている、行使できる権利ではないことも確かなのだ。メディアは権力だ。

メディアだけではない。私はFacebookを見ていると知人が選挙に出て議員になったり、大学の先生だったり、会社を経営していたり、大きな企業に勤めていたりする。こういうタイムラインが「当たり前」の人には取るに足りないことなんだろうけど、日本で身近に議員や社長がいる人はどれくらいいるのだろうか。そうじゃない人のほうが圧倒的に多いんじゃないだろうか。だけど、メディアに取り上げられたりするのは議員や社長の方が多いし、法律や条例を決める時に影響力が大きいのはやっぱり議員・教授・社長・メディア関係者っていう現状があるのではないか。
そうじゃない人の方が多いのに。

リベラルを自称するメディア人や議員さんなどは「そうじゃない人」の声も聞いて、言説や法律に反映していきたい、と言う。それは嘘じゃないと思うし、私だってそうしたいと思っているし、「社会福祉士で、ライターです。ライティング・ソーシャルワークなんです」と恥ずかしげもなく公言している以上、そういうものを書かなければ意味がないと思っている。

だけど、チママンダ・ンゴスィ・アディーチェ「なにかが首のまわりに」と、それを訳したくぼたのぞみさんのインタビューを読んだら、果たしてそんなことは本当に可能なのだろうかと考え込んでしまった。

誰かが誰かに一方的に贈り物をするとき、贈る者と贈られる者の間に、ある力関係が生まれていきます。贈る方が上。もらう方は下。親子なら、いずれ関係は変わるけれど、贈る側と贈られる側が入れ替わることがなかったら? それも個人の力量や努力で超えられない理由によって。だとしたらその関係は「対等」ですか?

何かを贈られることによって、受け取る側に積もり積もっていくマイナスの心情があります。弱者がGiftによって受ける傷、屈辱、それをアディーチェは描いています。(略)

立場を逆にして同じことが起こらないのであれば、両者の関係は人間として対等ではありえません。これは、常に「与える側」にいる強者が、「そういうものだ」という先入観で、生まれながらに与えられた特権として見落としていることです。(「物語」が「イズム」を超えるとき。Torus 
https://torus.abejainc.com/n/n5f7b38ca79cf?fbclid=IwAR0GWJp1fuKpQUmp8ejLvnUqCCb1_KV_ZXy1v5Jz7z6ag3P20RjMjWjVjO8

私が今ライターをして生活できているのは、なメ研や冒頭にあげた皆さんのおかげなんだけど、遡れば生まれた家にたまたま借金を背負うことなく大学まで行けるお金と家族の理解があったからだし、偶然この年まで大した病気もせず、身体的にも知的にも精神的にも「健常」でいられたからだと思う。「生まれながらにして与えられた特権」だ。

さらにその特権に乗じて、私はこうして下手でも気持ちや考えを言葉にして表出する能力も持つことができた。Twitterか何かで誰かが「言語はコミュニケーションの通貨だ」と言っていたけれど、あらゆる表現方法の中で、今もっとも世渡りと密接に結びついているのが読んだり書いたりする能力だと思う。そしてこの能力も、持っている人にとっては呼吸をするくらい当然のことなのに、持っていない人にはすごく高いハードルになっていると思う。そしてそれは読み書きができる「強者」が見落としていることでもあるのではないだろうか。

私はいつも山崎ナオコーラさんの小説の一節を思い出す。

私は思う、自分は強者だと。弱者ぶって甘えながら小説を書くことはできない。
だから被害者になることは少ない。私には気力や知力がある。車と同じで、ぶつかれば私が加害者だ。世の中に対して、できることが多い。(山崎ナオコーラ「この世は二人組ではできあがらない」新潮文庫、2012年

私は自分が持った力をちゃんと使えているだろうかと思う。まだ知らないこと、陽の当たらないこと、大きな声に埋もれてしまいそうなことをあきらかにしたいと思って書いている。でも、取材させてもらった人や、読んでくれる人にぶつかっては傷つけているのではないかとも思う。実際に傷つけてしまったこともあるし、知らないうちに傷つけたことも多々あると思う。それに対しては本当に申し訳ない。

特に、社会的に弱い立場にある人たちのことを書くとき、どう書くべきかとずっと思っている。どうやっても「貧しい人たちの生活をぼんやりながめ」るだけの記事になってしまわないかと。(「そこの人たちは「私の」生活をぼんやりながめることなどできはしないのだから。」)しかも、くぼたさんのインタビュー記事に南北問題の話が出てくるけれど、私が強者でいられるのは私が意図せずともどこか・誰かから搾取している面があるからにほかならないのに。


とはいえ私は私以外の人にはなれないし、しかも書くことをやめようという気にもならないのだった…。


だから自分の立場や限界から逃げないで、異なる立場の人にも少しずつでも伝わるように、よく聞いてよく見てよく読んでよく考えて、失敗しながらでも書き続けていくしかないんだと思う。傲慢だと思われても、自分自身はできる限り謙虚に、自分を疑いながら、慎重に慎重に言葉を選んで、でも遠慮はしないで書くしかない。

またこれもくぼたさんがインタビューで言っていることだけど、「イズム」ではなく「物語」の言葉で書こうとするとき、書き手自身の限界(弱さ、と言ってもいいかもしれない)を入れずに書くことはできないんじゃないかなと思った。自分の足りなさごと世界に投げ出していくことなんてどうでもよくなるくらい、書くべきことに肉迫できる力をつけたいっすね。オラもっと強い奴と闘いてえ。

すぐれた文学作品というのは国や国境を越えて、個人と個人が対等に出会うための想像力を養うものなので、そのまま世界を見る窓にもなるんですよね。「物語」が「イズム」を超えるとき。Torus 
https://torus.abejainc.com/n/n5f7b38ca79cf?fbclid=IwAR0GWJp1fuKpQUmp8ejLvnUqCCb1_KV_ZXy1v5Jz7z6ag3P20RjMjWjVjO8

この世は二人組ではできあがらない (新潮文庫)

この世は二人組ではできあがらない (新潮文庫)

「まちづくり」とその外部

あいちトリエンナーレはいつか見に行こうかなと思いつつ、色々なゴタゴタで再開前もその後も、人も多そうだし抽選とかダルいしと思っているうちに気持ちが萎えてしまって、結局見に行かずじまいでいた。
最終日の鷲尾友公さんとCalmのイベントだけ、Shigetaさんが自前のサウンドシステムを提供しているということで行ってきました。
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会場になっている円頓寺商店街は、年月を経て灰色になった高いアーケードから垂らされた、真新しいトリエンナーレカラーの紫と金色の糸でデコレーションされていました。
手書きでレタリングされた看板のフォント、リノベーションしておしゃれになったカフェやボルダリングジム、揚げたてのコロッケを買う人が列をなす肉屋、何十年も前から時間が止まったみたいな和菓子屋や履物店。昔ながらの商店と今ふうのお店がモザイクみたいに並んで、展示よりも円頓寺商店街自体が大きなアートみたいで、私はわあわあ、あれ見て、味わいありすぎ、これ見て、すごいおしゃれーとか言っていました。
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けれどひと通り商店街を見た後で、一緒に行った彼氏が「円頓寺っていろいろお店はあるけど、ガラの悪い店はないね~」と言ったのでハッとした。確かにないのである。パチンコ屋とか風俗とか、安かろう悪かろうみたいなどうしようもない店とか、小汚くだらしなさそうな店とかはないのである。古いままの店はあるけど何だかなぁみたいな店はないのだ。

円頓寺は清くて正しい商店街だと思った。

私は円頓寺の歴史とかはよく知らないけれど、結果として今、あまり所得または文化的な素養が高めでない人が好んで集うような雰囲気はあんまないのかなと思った。レトロな雰囲気、キッチュな建物、名駅からも栄からもあえて離れた静かな場所で店を構える意味と余裕(または意地)、そういうものを共有できる人が集まる場所なのかなと思った。トリエンナーレやテレビ局、その他の団体が催すイベントを受け容れる経済的文化的な寛容さのある商店街なんだなと思った。

それが悪いわけではないし、そういう人たちが経済的文化的な余裕や寛容さ、教養の豊かでない人を殊更に排除しているとも思わない。

でも、結果として経済的文化的な余裕や寛容さがないヒトやモノはここにはいられないし、要するにゲットー的、ヤンキー的、下世話的、ベタ的な文化はこういう界隈では尊重されずに別の地域に移っていくのではないかなと思った。繰り返すけれどそれはお互いに、排除ではなく住み分けみたいなものとしてそうなっていくんじゃないかなって思う。


だけど、そういうところに私が普段「まちづくり」や「シティプロモーション」に感じているうそ寒さがあるのかなとも思った。

地方都市(または町・村)移住してくださいっていう宣伝って、なんか「リンネル」とか「ソトコト」とか、あるいはプリン体や糖質を控えめにしたヘルシーなビールの宣伝みたいなナチュラル志向で、肩の力は抜いてますけどおしゃれなんですよみたいな感じじゃないですか。生活はゆったり、だけどダサくはないですよみたいな。しかもそういうコットンのボーダーシャツとか着た若い夫婦、または若い夫婦と小さな子連れだけをあからさまに都会からの移住ターゲットにしてません?それって結局税収と労働力(および介護力)をアテにしているってことですよね?
と、私みたいな独身子無し、稼ぐ力無しの人は完全な蚊帳の外ですよね感を感じてしまうんですが、それって私の性格が妬み嫉みに満ち満ちて歪みまくったものだからなんでしょうか…。

私の性格の悪さはともかく、どんなにうまくいった「まちづくり」であってもオールマイティに万能ではない、という当たり前のことを忘れないでいることって大事なんじゃないかなって思うです。
おしゃれで清潔で、レイドバックした雰囲気はありつつ最新のテクノロジーにも目配りした町、みたいなまちづくりは全然悪くないと思うんです。でも、万能ではないっていうだけのことで。そして、万能ではない、ということも決して悪いことではないと思うんです。

でも「万能でない」ということを自覚しておくことは、まちづくりを仕掛ける行政の人も、NPO的な団体の人も、コンサルの人も、住民の人にとっても大事なんでないかと思うです。「万能でない」ということは、そのまちづくりの思想・哲学には乗れない人もいるという当たり前のことです。地理的な意味だけではない、その「まち」の「外部」を想像して意識し続けることが、日々の生活で生まれるコンフリクトに向き合っていくことにつながると思うのです。カタカナを使わずに言うと、経済的・文化的に異なる視点を持つ人(経済的・文化的に貧しい人とか)と、どちらも無理し過ぎず、かつ押しつけ過ぎず生きていくかということです。そして主には、経済的・文化的に豊かな人が「押し付けがち」な価値観に自覚的であるということだと私は思います。


「正しいまちづくり」「若くてセンスのいい世代にリーチするスタイリッシュでクリーンなまちづくり」が、万能ではない(そうではない価値観の人も地域には生きている)という想像力を、特に行政の人や、意識的に「まちづくり」を仕掛けていこうとする人は持たなければならないのでないか、と思います。外部を持たない「まちづくり」は、箱庭を作って楽しむようなものではないでしょうか。

戦場でサイケデリックなことばかり考えている人

夏の間はずっと暑くて、息をするのも暑くて暑くて、毎日毎日まるで溶けそうなトロントロンの天気だった。私は自由業なので、来る日も来る日も冷たい泡の酒を飲んではエアコンの効いた部屋で猫を撫で、好きな曲を聞いて寝ていた。地上7メートル、この部屋では音楽はマジックを呼ぶのである。

私は人間だからこういうことのために生きているのだと思っている。こういうこと、というのは快楽とか想像力とかのことだ。

だけど私のSNSのタイムラインに流れてくるのは、働き方、とか、学び方、とかばっかりなのだった。あるいは政治や「まちづくり」のことばっかりなのだ。それは私がそういう人たちが好きで、そういう人をフォローしているからなんだけど、私自身は労働や何かのためにする勉強は好きではない。
みんなが労働や勉強について発言することは特にイヤじゃないんだけど、「私は労働にも勉強にも特段の興味を感じない」と表明しづらい、と感じている自分がイヤだなとは思っていた。気にせず言えばいいのである。なので言うことにした。

会社員時代はまあまあの長時間労働をしていた。これといった能力に乏しく要領も悪いので、人より長く働かないと生き残れないと思っていたからだ。肉体的にしんどいことはあったけれど、頑張ったらいつかは報われるのではと思っていたので精神的にはそんなに苦にならなかった、と思う。

だけどずっと考えないようにしていたことがある。若い頃に読んだ岡崎京子の漫画のことだ。
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「時間が足りないんだよ みんな生きる時間がなくなってるんだ 働く時間なんてありゃしない」
「”労働は美しい、神聖だ”なんてハメられてさ 実は労働の果実を自分達で自由にしたことなんてないんだ」
岡崎京子「うたかたの日々」宝島社,2003年)

当時の私はこれが何を言わんとしているのかは全く分からなかったけれど、相当食らってずっと忘れられないでいた。忘れられないけれど、忘れていないと労働できないので考えないようにしていた。そのせいか40歳となった今でもこれが何を言わんとしているのか分からない。
でも、このページのセリフがしっくりきてしまい、どうにも反論できない自分はきっと精神が貴族なんだと思った。他にも楽しいことはあるのにね。音楽や美術や、散歩や登山や、ゲームやファッションや、文学やパーティのほうが楽しいし、そのために生きているんじゃないかしら。パンもお菓子もシャンパンもあたりまえに食べられることが、文化的な最低限度の生活ではありますまいか。

だけど、現実には私はプレカリアートで、働かなくていい機械を作る能力もないので食うために働くしかないのである。
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「生きることなんて召し使いにまかせろ」とリラダンは言ったわ
そのとおりね でも 現実には あたしが召し使いなんだわ
生きるって めんどうね
岡崎京子「でっかい恋のメロディ」(「私は貴兄のオモチャなの」宝島社,1995年所収))

ほんまにそーやで…。


だけど、私のこういう考えは21世紀も20年目となる昨今では時代遅れらしく、ビジネスや社会貢献といった「下部構造」のほうがビビッドなことだっていう風潮があるようだとは、うすうす感づいておりました。

――たしかに、現代の尖った若者は、文化的な活動ではなく起業やNPO活動などに従事している印象を受けます。

かつての若者がロックバンドを組んだのと同じように、現代の若者はスタートアップに踏み出す。経済的な活動だけでなく、NPO活動や差別反対運動のような社会・政治活動も同様です。

以前は、ビジネスや社会貢献といった「下部構造」はおじさんたちに任せ、若者は文化という「上部構造」で遊んでいました。しかし、もはや文化は死に、上部構造の可能性は尽きてしまった。もう「新しい文学を創り出す」「新しい音楽を創り出す」といった試み自体が成り立たなくなってしまっている。すると、経済、それを動かす人間関係、社会システムという下部構造で遊ぶしかなくなっているんです。

(千葉雅也「「新しい価値をつくる」のは、もう終わりにしよう。哲学者・千葉雅也氏が語る、グローバル資本主義“以後”を切り拓く「勉強」論」https://corp.netprotections.com/thinkabout/2404/

上の記事で千葉雅也さんは「上部構造」が見棄てられた原因を「文化のデータベース化」としているけれど、私はあまりこれにはピンときていない。

どちらかというと、バブル後に盤石だと思われていた大きな会社がつぶれたり、公務員の待遇も悪くなったりして、なんの職に就こうが「安定した生活」なんてないんだ(=この世はサバイバル)という意識が根付いたこと、
そして追い打ちをかけるように阪神大震災東日本大震災、その後も度重なる自然災害、リーマンショックなどなどを通じて「ふだんの、平穏な、当たり前の生活」がどれだけ得難く貴重なものであるかを感じた人が多いからでは、と私は思っている。
なんでもない毎日、安心できるひと時、それを豊かにしていく生活こそが「切実に欲しいもの」なんじゃないかと。実際、2010年代に入って流行ってるものって「コーヒー」「発酵」「梅仕事」「カレー」「マラソン」「サウナ」とか、日常をアップデートする系のものばかりな気がする。


しかし私がハマっていまだに抜け出せない90年代のカルチャーは「レイヴ」で、それは「クソな日常を吹っ飛ばす系」なのです。当時は「終わりなき日常を生きろ」とか言われていたんです。そこには日常=つまらないもの、という意識があったからだと思うんだけど、テン年代も終わりがけとなった今、日常はいつどこから撃たれるとも知れない戦場のようなものになっているわけで…。「ていねいな暮らし」とは、日常に平穏を取り戻すための祈りの儀式なのでは?と…。

そう考えると、イノベーションインパクトだと言いつつ、ソーシャルビジネスもまちづくりNPOも「自分たちが安心できる=把握できて不安要素の少ない」自分たちワールド(=社会、まち)を築いて安心を獲得しようとする取り組みなのかもしれない、と私は思うのです。


それでも、時代遅れだけど、私はサイケデリックなこと、つまり日常を吹っ飛ばす気持ちよさ、ここではない何かを、追い求めていきたいと思うのです。音楽とか、パーティとか、レイヴとか、そういった類の小説や芸術、思想とかです。

私にとってサイケデリックとは、見たことや聞いたことのないモノや体験に対する揺らぎ、不確実な何かに対する不安、そしてその両者によって既知の現実が粉々に砕けてしまい→しかしその後、破片がつぎはぎだらけだけどまた組み直されて再生する一連の流れです。
めためたに飲酒して前後不覚になり、翌朝起きた時のようなものです。破片の素材自体は前夜と変わらないけれど、再生した何かは新しい考えやものの見方ををなぜか得ているような…そういう体験をもたらす可能性のある、芸術や思想のことです。要するに、既存の自分が一回壊れてまた立ち上がってくるのが大事だと思っているのです。


けど、今や泥酔も喫煙も、アレもコレもいろいろかっこ悪いことになっているので、私が言っていることなんてただダサいだけなんだろうなーと思う。
けれど「健全なこと」「正しいこと」「誰かや何か(社会とか)の役に立つこと」によるうそ寒さ、コレジャナイ感、そしてそれを我慢することによる息苦しさにも、もう限界なのです。健康に気を付けろ、エシカルに消費しろ、主体的になれ、社会課題を知れ、自分ごとにしろ、寄付をしろ…などなど、強靭な正しさで殴られている気がするのは、私だけなのでしょうか…。


そういう暴力的な正しさに対して、私はどうしていったらいいのか分からないんだけど、とりあえず「そうではない別のやり方」として、ただ楽しいこと、美しいこと、うっとりすること、我を忘れるようなことに耽溺すること。そこから自分が計画したものではない発想や世界が生まれてくる可能性を、手放さないでいたいなと思うのです。

MELODY

MELODY

うたかたの日々

うたかたの日々

私は貴兄(あなた)のオモチャなの (フィールコミックスGOLD)

私は貴兄(あなた)のオモチャなの (フィールコミックスGOLD)

SDGsがわからないー取り残されたくない世界なのか

SDGs「誰ひとり取り残さない」というところからいきなりつまづいていて、17の目標とか169のターゲットとか全く入ってこない。

というのは「誰ひとり取り残さない」って「取り残す側」の発想ですよね?私たちが、取り残してるんですよね?
私たちがド安い賃金で服やら電子機器やら作らせてるから貧困があり、木を伐って汚水を垂れ流しまくってるから飢餓があり疾病があり、教育の機会がない人たちがあり、いちいち言ったらめんどくさいしめんどくさい奴だと思われるからまあいいかと思ってるからジェンダーの不平等が温存されているんですよね?

「持続可能な社会のために ナマケモノにもできるアクション・ガイド」というのを見ました。たしかに、やらないよりはきっとやったほうがいいんでしょうからどんどんやったらいいと思うんですけど、節電やリサイクルよりも、もっと怠けていることがあるんじゃないでしょうか。

「取り残される側」の人の意見や気持ちは考えられているのでしょうか。
ホームレス状態にある人と一緒に活動している北九州の奥田知志さんが昔、「(野宿生活から脱することなどを)社会復帰と言うが、復帰したくなるような社会なのか」と問いかけられたことがあります。
過重な労働に耐えることが美徳とされ、そうでなければ自己責任と責められ心身の健康を害してしまう。「生産性」のない人・モノ・コトは切り捨てられる。もともとお金のある家に生まれた人だけが代々トクをするし、その地位を手放すまいと必死になる。そういう世界に「取り残されたくない」と思うでしょうか?そういう世界こそが、そういう世界の人が言うところの「社会課題」を生み出しているのに?そういう世界に「包摂されたい」と思うのでしょうか。

持続可能な、とよく言われているけれど、持続するのは何なんでしょうか。取り残す側の人の生活は持続させたまま、かわいそうな人も取り残しませんよ、なんてことがあり得るのでしょうか。「取り残される側」への想像力が乏しいまま、「誰ひとり」とか「すべての人が」と言えてしまうことにも、私は大きな違和感を感じます。

だからといって何もしないわけじゃなくて、できるだけゴミを出さないとか差別に屈しないとかやっていくんだけど、それはSDGsのためではなくて自分が信じることをしたいと思うからなんだけどなあ。

ソトコト2019年 06月号 [雑誌]

ソトコト2019年 06月号 [雑誌]

岩波書店「世界」に岐阜大学地域科学部を取材した記事が載りました

4月8日発売の岩波書店の雑誌「世界」に、母校である岐阜大学地域科学部を取材した記事を載せていただきました。
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昨年末に地域科学部の存廃をめぐるゴタゴタがあり、激情のままに書いて東洋経済オンラインに掲載していただいた記事を読んだ「世界」編集部の方にお声がけいただいたものです。ありがたや~ありがたや~。
toyokeizai.net
www.iwanami.co.jp


あこがれの岩波書店
舞い上がった私は当日、ここぞとばかりに持っていた広辞苑クラッチで取材に赴きました。買ってよかった広辞苑バッグ。
https://www.instagram.com/p/Bn0-Xk6BrcF/
広辞苑型のクラッチバッグを買ったので見てほしい函入り、スピン付き


話を本題に戻すと、特集は「生きている大学自治
編集部の渕上さんは「大学改革の問題点はもう言葉が尽きるほどにどこでも指摘されている。けれど、指摘すればするほど『強大な財務省(お金)の力』と『無力な大学』というイメージを増強してしまってはいないか。もっと『大学ってこんなに面白い』『魅力的だ』ということを言っていかなければならないのでは」とおっしゃっていて、泣けました。

面白い、魅力的だ、って私が書くとゆるふわな感じになっちゃうんですが、そこは「世界」なので、法政大学学長の田中優子先生、ブラックバイト問題について問題提起をし続ける中京大学の大内裕和先生などなど、豪華かつ多彩な顔ぶれがゴリっとした言説を展開されており、読み応えしかない一冊となっております。

私は地域科学部学部長の富樫幸一先生と、准教授の南出吉祥さんにインタビューさせていただきました。学生が始めた署名活動、学部存続のためのアクションが学外の人からも広く支持されたのはなぜか…といった話題から、地域科学部ならではの文化や特徴にせまる内容となっています。特に「大学の”地域貢献”とは何か」についての富樫先生の返答や、「そもそも地域貢献って何なの」と根本的な問いを立てることと、実際に地域で泥臭くフィールドワークをしていくことの間をどうつないでいくか(あるいは、つないでいかないか)といった箇所は手前味噌ながら面白く、自分でまとめながら燃えました。


現実に押し流されそうになりながらも、理想を決して手放さないことがどんどん難しくなりつつあるように思います。同時に、今・ここにある自分と社会の現実に向き合わないで理想に逃げ続けることの危うさやセコさにももう、うんざりです。
理想と現実、志とお金、アカデミアとストリート・スマート。ネット右翼とエリート・リベラル、ワイドショーと電気グルーヴ、その両方の間をときに小賢しく、ときに頑固に編集しながら生き延びていくしたたかさ、そういう「知」が欲しいなあと思いました。


「世界」は大きい本屋さんか、近くの本屋さんで取り寄せてもらうか、図書館にいくかすると読めると思います。そのどれもダメだったらAmazonとかで買って読んでくださーい。

世界 2019年 05 月号 [雑誌]

世界 2019年 05 月号 [雑誌]