#レコーディングダイエット

毎日食べたものを書きます

zoom越しに見る自分の顔がテカっていた

2020年4月15日
自分がいま子どもだったら学校もなく、図書館も閉まっていて、どこにも行けない状態で何か月もどうやって過ごすんだろう?と思う。子ども時代はまじめだったから、ちゃんと勉強したかなあ。国語は得意だったから自分ひとりでも教科書読んだりするだろうけど、数学や化学、物理なんか絶対に自分だけでは分からないし、する気も起きない気がするな。そのくせ見栄っ張りだから分からないことを分からないって認めたくなくて、認めたとして聞く人いないし、分からない自分がダメなんだと思ってひっそり泣いたり腐ったりするんだろうな。。。
自分が子どもの頃にはオンライン授業なんてなかったから想像がつかないけど、今の子は普通にYoutubeとか見てるから、環境さえ整えば平気なんだろな。

「クラッパーの限定効果説」というのを知った。いわゆるR18とかR15 のコンテンツが見た人に与える影響は、コンテンツの質だけによるものではなくて「コンテンツの質(c)×本人要因・資質(p)×環境要因(e)」といういくつかの要素の掛け合わせで決まるという話だった。
コンテンツのネガティブな影響だけじゃなくて、有用な情報を伝えたいという場合も同じじゃないかと思った。オンラインだけではpやeに介入することが難しいから、別のサポートが必要だと思った。いい環境でオンライン授業を見られる家に住んでいる子ばかりではないから…。やっぱり登校してもらうとか、各家庭に家庭教師みたいなティーチングアシスタントを派遣するとか…

クラッパーの限定効果説があります。暴力的ないし性的コンテンツがダイレクトに暴力や性を煽るという強力効果説は間違いで、本人要因(資質)と環境要因(対人ネットワーク)次第で影響が変わるとします。悪影響をy、コンテンツ要因をc、本人要因をp、環境要因をeとすると、強力効果説はy=f(c)、限定効果説はy=f(c,p,e)です。
 対人ネットワークとは、子どもがコンテンツを誰と一緒に観たかです。家族と観たのか。親しい友人と観たのか。親しくない知人と観たのか。知らない人と観たのか。濃密な関係の中で観るほど、コンテンツの影響は中和されます。一人ぼっちで観る場合はリスクが高まります。悪影響を気にするなら、こうした需要環境の制御こそがポイントです。(宮台真司 /磯部涼「踊ってはいけない国、日本 風営法問題と過剰規制される社会」河出書房新社、2012年 より)

多和田葉子さんの小説「献灯使」を思い出す。この小説で書かれた災厄は原発の事故を想像させるけど、このコロナ禍だと思うといよいよおそろしい。年寄りばかりが異様に元気にのさばっていて、子どもたちは肉体的にも精神的にも社会的にも育つ機会を奪われて生きているという話だった。


夜は2時間以上zoomで会議。画面に映った自分の額がニキビに悩む高校生かと思うほどテカテカに光っていた。でもいいの、私気にしないの。安達祐実さんも「化粧直しはしない、多少テカっても、にんげんだもの」と言っていた。私はこのメイク動画を見て「世界で一番かわいい『にんげんだもの』いただいちゃったよ」と感動し、以来、真似して拭き取り化粧水を使うようになった。

【安達祐実】セルフメイク動画を大公開!【スキンケア~メイクまで愛用コスメも紹介】

献灯使 (講談社文庫)

献灯使 (講談社文庫)

ファンタジーが現実をつくる

2020年4月13日
何となくだらだらモヤモヤして半日ほとんど何もせず過ごしたのち、気になっていたお店のペスカトーレを食べることにした。ちまちま読んでいる小説、柚木麻子さんの「BUTTER」で「その時、一番食べたいと思うものを好きなだけ食べるのよ。耳をよく澄まして、自らの心や身体に聞いてみるのよ。食べたくないものは決して食べないの。そう決心した瞬間から心も身体も変わり始めるわ」と、木嶋佳苗をモデルにした登場人物が言っていたので、雨の中わざわざ出かけた。寒かった。
スパイシーで贅沢に作ってあって、何もかも忘れてずっと食べていたいほど美味しかった。夕方からは冴えわたって、でも苦しみながら原稿をやった。
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2020年4月14日
何にでもミーハーで、変わり身の速さだけで世の中を渡ってきた。しかし今回はダメで、zoomの便利な機能を試してみようとか、remoをやってみようという気に全くならない。新しい技術を取り入れることに抵抗がない方なので、必要とあらばすぐに実装するんだけど、今回はとにかくwithコロナとかポストコロナとか、そういうことを考える気にならないし、正直自粛もバカバカしいなと思っているとこがある。思ってはいるけど出かけてませんよ、でも私は自粛が嫌だと思っていることだけは言っておきたい。嫌だ嫌だ、ほんとうに嫌だ。嫌だと言ったらそれだけで人殺し扱いされそうなのもほんとにヤダヤダヤダヤダ。感染するのもさせるのも嫌、でも自粛もファッキン嫌だ。

こうやって時流に乗っかれなくなるのが老いるということなのかな?と思う。あるいは、私は人生の躁鬱が激しいというか、バイオリズム的に世界の全てが嫌になる時期と、ガンガンいこうぜといろいろやろうぜを混ぜて1000倍増しにしたシーズンが交互に来るタイプなので、ダウンな時期と今がたまたま重なっただけなのかなあ?とも思う。

さいころから本が好きで「本に書いてあること」が「本当」だと思ってきた。
男女は平等です。国籍や肌の色で人を差別してはいけません。職業に貴賤はありません。おかしいことにはおかしいと言いましょう。そう思って堂々と生きて、発言して行動してきたのに、あれ…?なんか世間はそうではないみたいなのだ。みんな建前を生きていて、そうでない人はアホで下品な田舎者と思われ嘲笑されているみたいなのだ。
だけど私は本のほうが好きで、本みたいに生きたくて、本に書いてあるような世界になってほしかった。本のほうがリアルだった。だからいつも「なんで世界は本に書いてあることと違うの!?」と思って怒り狂っていた。本というイデア(理想)の世界に現実を近づけるべき、私の思いはいつもそうだった。というか、イデアのほうがリアルで、現実のほうがフェイクだった。いつまでもイデア、理想、ファンタジーのことを考えていたい。しかし、目に映る全てのことはクソ・メッセージ。

で、今のこのコロたんフィーバーの状態って、現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実ばかりの毎日なんじゃないか?と思ったんです。手を洗え。出歩くな。食うことと寝ることだけ考えろ。むちゃくちゃ現実である。

もともと衣食住だと「食・住」には興味がなかった。そこそこカロリーがとれて、寝られれば良い。でも「衣+それ以外」には湯水のごとくお金を使った。洋服、靴、化粧品、酒、酒、ダンス、音楽、本、酒、インターネット。さいきんは映画も少し。実用品(現実)ではなく、ファンタジーに関わるモノだからだ。
ひとつ前のブログで、「会社(公)がプライベート(私)に侵入するのが嫌だ」みたいなことを書いたけれど、自分にとっては「ファンタジーに現実が入り込んでくるのがイヤ」という面もあったのではないかと思った。

今の状況を戦時中に例えるのは嫌なんだけど、それでも戦争中なのに浮世離れしたことばっか考えて、空襲の警報が鳴ってるのに避難せず、ボーっとしてて死んでしまった人とかいたんじゃないかなって思う。自分もその時代に生きていたらきっとそうだっただろう。

ポーランド出身のカロリーナ・ステチェンスカさんという方がいる。漫画「NARUTO」を読んで将棋が大好きになり、来日して女流棋士となった人だ。大塚製薬カロリーメイト)がスポンサードしていたそうで、その時のアニメが素晴らしくて見るたびに泣いてしまう。彼女の挑戦を、現実を、香車銀将や歩兵が応援して、勇気づける。


カロリーメイトweb movie|「すすめ、カロリーナ。」本篇

私もそうだった。現実があって、その余剰でファンタジーを楽しんでいたわけじゃない。ファンタジーがあって、初めて現実に向き合う力が持てた。それを不要不急だという人は言えばいいと思う。その程度で揺らぐような文化ではない。

BUTTER (新潮文庫 ゆ 14-3)

BUTTER (新潮文庫 ゆ 14-3)

心理的なディスタンスがほしい

2020年4月11日

ウイルスに感染しないために、ソーシャル・ディスタンスをとりましょうと言われている。スーパーではレジに並ぶのにも距離を保つようテープが張られ、SNSで出回っている漫画だと「ペンギン2頭分くらい離れましょう」とか描いてある。知らんわ、ペンギンの大きさ…(ペンギンは好きです)

「ソーシャル(社会的)・ディスタンス」だと何もかも離れて孤立してしまうようなイメージがあるので、「フィジカル(身体的)・ディスタンス」という言い方がいいんじゃないかと言っている人を見て、なるほどと思った。ツバ(飛沫感染)をよけるためなら、身体さえ離れていればそれでいいわけで。

しかし出勤できない、会って話せないという、フィジカルが離れた状態になった今、それでも心理的サイコロジカル)な距離は決して離すまい、という風潮を強く感じるのは、私だけなのでしょうか。
それを特に感じるのはzoomなどリアルタイム・ビデオ通話の偏重されぶりである。いやzoomとかほんとに便利でいいんだけど、リアルの会議と同じくほんとにzoomつないでやんなきゃいけないミーティングなのかなとか。メールやslackで済まないのかなとか思うんですね。「zoomの会議が1日にいくつもあって疲れる」みたいな話を聞いていると。

自分が文字でのコミュニケーションの方が対面より10000倍得意だからそう感じるのかもしれないけれど(なのでみなさん、メールやメッセンジャーをください♡)特に今、在宅勤務でzoomを使う人が多いわけで、やっぱり「会社が家を侵食してくる」感がメールよりもやっぱ強いじゃないかと思うんですよね。
私はフリーランスなので好きで家で働いてるし、以前からzoomも使っていたけどやっぱ気は遣いますよね。メールと違って時間も合わせなきゃいけないし。よほど気を強く持たないと、家で仕事をしているのか、職場で寝ているのか分からなくなっちゃいますよね。職場のコミュニケーションの雰囲気にもよると思うけど。

余談だけど(このブログに余談じゃない話があるのか?)「zoom飲み会」も私にはちょっとキツい。やったことないんだけど、やることを考えるだけでひるんでしまう。なんでそんなに嫌なのか?と考えたんだけど、自分にとって飲み会は「店でわーわー飲む(気が大きくなって往々にしてデカいことを言う)→家に帰る(ひとり反省してふりかえり飲みをし、泣きながら寝る)」までがセットなのだと気づいた。「外→内」「公→私」の移動までが私の飲みによるキマり方なのではないかと。zoomだとずっと家だし、帰るとこないし、ソトがウチまでやってくるのがつらいし…ウチモードでソト対応できないし…家でも毎日ひとりで飲んでるけどそんな姿は誰かに見せられる/見せたいようなものではないし…みたいな…

最近は「住み開き」(自分の家を開放して、気軽に色んな人が寄って交流できるスペースを作ること)も流行っている(?)ようなので、私みたいに「家=プライベート、私的空間」とガチガチにとらえて他者の侵入を阻んでいるのは、これまた時代遅れなのかもしれない…とも思う。

でも、そんなにいつでも人とつながり続けること、感情の機微までも共有し続けることって本当に大事なのかな?とも思う。考えていることが完全に分かり合えなくても、心理的にもたれあわなくても、一緒に生き続けることは可能なんじゃないだろうか。一人ひとりの孤独を大切にすることと、お互いに弱った時に助け合うことは両立するんじゃないだろうか。社会的・身体的な距離はどうあれ、心理的な距離を縮めすぎず、離れすぎずに心地よい状態を保っていくことを、私は学びたいと思う。

明治から昭和にいたるまで、文壇を支配したのは、主義主張を持つ党派であり、師匠と弟子の集団であり、同世代の若者が結ぶ独特の友情の関係であった。(略)
 それらは、たんに外に向かって排他的であるだけでなく、内の仲間にたいして強い心理的な拘束力を持ち、粘っこい、湿潤な共通感情を分け合うことを求めあったが、その場合の誠実さとは、それぞれの私的な感情の真実を吐露しあうことであった。
 ひょっとすると、日本の近代精神史を解明するひとつの鍵は、明治末年から昭和の前半までつづいた、あの「友情」という特殊な観念の君臨だったかもしれない。それは、漱石の『こころ』の「先生」と友人「K」を支配し、無数の旧制高等学校の生徒たちの感情を呪縛し、反族と無頼を誇る文士たちの精神を支えてきた。(略)
 最大の皮肉は(略)その新たな拠り所として、一見、近代的にみえて、じつはきわめて古い社会集団に頼ったことであった。師弟や友情の集団は、それを個人が選びとるという点で近代的にみえるが、いったん選んでしまえば、その先は一元的で全身的な帰属を要求するという点で、古めかしい。社交の場合のように、個人が複数の関係に距離をおいて関わり、そのどれにも属しながら属さないという自由な立場は、この集団では許されない。いいかえれば、それは青年たちに、自由に選びとったという自己満足は許すものの、実質的には、彼らが捨てた家族や地縁の絆と同質の集団だったのである。(山崎正和森鷗外 人と作品ー不党と社交」,1968年)

これは私が好きな文章なんだけど、いま読むと「党派・師弟や友情の集団」あたりを今は「企業」に置き換えたほうがしっくりくるような気がする。特に「正社員」の人の場合は…。コロナ対応のためにどれくらい行動を「自粛」するかって、「会社から言われているかどうか」がすごく大きいなと感じていて。会社が在宅勤務や外出禁止を命じているタイプの人は私生活でも危機感が強く行動を自ら制限しがちなのに対して、通常通りの仕事の人はやや弱めな気が。(特に根拠はないです。私の観察範囲での感想だけど…)企業福祉は強いなという思いを新たにしたのでした。

運動の言葉と生活の言葉をつなぐ―田島ハルコさん大好き日記

2020年4月10日

嫌だなーと思っていたzoomでの遠隔インタビューも、そうも言っていられる状態じゃなくなってきたのでやってみたら意外とできて、とても面白かった。やっていくうちに色々コツとかもつかめるしこれはこれでいいかも。
こうして新しいツールを使いこなしていくことってカッコいいように見える反面、システムに馴致されていくだけなんじゃないか…とか、ますますテクノロジーの奴隷になっていくだけなんじゃないか?という不安も感じる。

でも以前、宇川直宏さんがDOMMUNEで「アートはテクノロジーに縛られている面もあるけど、テクノロジー(の開発者)が思いもよらなかったような使い方をすることですごい表現を生むこともある」というようなことを言っていたのを覚えている。録音物の再生機として生まれたレコードプレーヤーを2台同時に使う人たちが現れて、それ自体が新しい音楽を生み出すようになったように。なので、もっと技術を想像力を広げるような方向で使えるようになりたいな。そういえば、今日のインタビューもそういう話だったような気がする。


話は変わって、最近の私は「運動の言葉と生活の言葉をつなげる」というテーマを発見しまして。私は昔から左翼というか、世の中の矛盾に対して「これはおかしい!」と声をあげて変えていこう!と、真っ赤な血を熱くたぎらせるタイプなんです。だから反貧困運動とかめちゃめちゃ共感してきたし。
でも同時に、今までの運動のやり方でいいのか?という気もモヤモヤ持ち続けていて、でもどうしたらいいのか分からない、みたいな。正しいことを言いたい、でもそれだけでは伝わらないし、伝わっても変わらない。
最近何人かの方と「運動の言葉(イデオロギーとか)」だけでなく、もっと普段の生活に根差した「生活の言葉」で社会の仕組みを変えていく必要性を発信していく必要があるのではないか、ということを話しました。例えば、「人権を守るために連帯しよう」とだけ呼びかけるよりも「バイト先で理不尽なシフトを組まれて困っている同僚が居たら、店長のところに一緒に行ってあげるとか、その同僚が店長に話しているときに同じ部屋にいるだけで、一人で訴えるより効果がある」と話すほうが「連帯の必要性」にリアリティを感じられるのではないか、とか。
原発をやめよう!」と声を上げる運動も大切だけど、並行して「地域で電気の会社(発電とか小売りとかをやる)を作って、地域の人がそこから電気を買うようにする。電気の会社の利益を地域の福祉や産業に還元する」という仕組みづくりをすれば(実際にやっている地域が何カ所かある)ゆくゆくは原発も必要とされなくなるのでは…みたいな。

貧困や差別の問題についても「生活の実感に根差した、リアルな言葉」を増やしていくことで理解を広げられないか…と思っていたんだけど、田島ハルコさんというラッパーは、すでにそんなことばかりを曲にしていたのでした。「人権」という言葉を歌詞に入れまくる人なんだけど、それと安くてかわいい指輪や服や化粧品を愛すること、音楽やライブを楽しむことは地続きなんだってことがストレートに分かるし面白い。

ちふれGANG

田島ハルコ「ちふれGANG」(feat.ワッショイサンバ)

日本国銀行券
(政府のコロナ政策に対して作られた曲。マスクに名前をつけ出すところが最高)

田島ハルコ「日本国銀行券」(prod.田島ハルコ)

HAPPY税(消費税が上がった時の曲)

田島ハルコ/HAPPY税 (MV)


kawaiiresist [HRC-002]

kawaiiresist [HRC-002]

力なき私(たち)の力

地域福祉、というのは「近隣に住む人同士の助け合い(いわゆる共助)」というものにとどまるものではなくて、自身の生活圏に根差したコミュニティにおいて/コミュニティを作りながら、行政、国や市町村(公助)に堂々と意見していく市民を育てていくことでなければならないのではないか、と最近強く感じるようになりました。そうでなければこのコロナ禍において人が死んでいくばかりではないか?と思ったためです。

静岡県立大学の津富先生が勧めていた、チェコの戯曲家/政治家のヴァーツラフ・ハヴェルの「力なき者の力」を解説した「100分で名著」を読みました。「100分~」の方、薄い本で3時間くらいあれば読めるからぜひ読んでほしい。ちくさ正文館でも堂々の平積み。全体主義下の70~80年代のチェコで、血の通った言葉とロックバンド、アンダーグラウンド出版(サミズダート)が民主化運動にどれだけ大きな役割を果たしたかということが私にもよーく分かるように書いてありました。

かつての支配者や指導者は具体的な顔を有しており、みずからが行った良いことにせよ、悪いことにせよ、何らかの責任を有していました。ですが、かれらは今日、官僚、統治と操作と定型句の専門家、特定の役割に拘束された国家の部品となり、「罪を担うことのない」装置に代替されたとし、近代の政治家は「透明」になっている、政治家の人工的な言語の陰には、愛や情熱といった自然世界の秩序の根ざす人間の姿を見ることはできない。そこにいるのは「権力の技術者」だとします。(阿部賢一「100分de名著 ヴァーツラフ・ハヴェル 力なき者たちの力 無力な私たちの可能性」NHK出版、2020年)

ハヴェルの言葉には、ある種の「ためらい」が感じられました。それは、断言することの「ためらい」、約束することの「ためらい」です。それは、私たちがよく耳にする「ワンフレーズ・ポリティクス」とは正反対に位置する思考手順でした。一つの事柄を徹底的に探求しようとするその姿勢は、時に読者や聴き手を置いていくことがあります。
ハヴェルは明言を避けるかわりに、問いを投げかけます。実は、『力なき者たちの力』の結びの一文も「どうなのだろうか?」という問いかけで終わっています。かれの問いかけを受け止めるか流すかは、受け取る側の問題です。しかし、かれの言葉に引っかかった者は、考える機会をみずから設けることになります。(同)

ただ、政治的な言説にせよ、アンダーグラウンドカルチャーにせよ、私(たち)の運動も文化も経済も「人が集うこと」をベースに動くことが前提となっていて、たとえば現在のように人と人が会うことが生命の危機と隣りあわせかもしれない、という状況において、運動や文化や活動をどうしていくのか?というのが私の目下の関心でありまして
それについて考えたことは、明日以降のブログで書きたいと思います。(つづく)

力なき者たちの力

力なき者たちの力

【後編】あいちコミュニティ財団総括シンポジウムから考えたこと

【前編】はこちらです。
yoshimi-deluxe.hatenablog.com

そもそもコミュニティ財団って必要なの?

寄付したい人 → コミュニティ財団 → NPO等の団体

上記がコミュニティ財団をめぐる大まかなお金の流れです。寄付したい人がいて、その人のお金をコミュニティ財団に預けて、コミュニティ財団からNPOなどお金が必要な団体にお渡しする。という流れです。でも、これを見て「?」と思いませんか?

寄付したい人 → NPO等の団体

この流れでよくないですか?
寄付したい人は、自分のお金を何かよいことに使ってほしいとか、NPO等の団体で困っていることがあればそれに使ってほしいとか、このNPOがホームレス状態にある人の家探しを手伝っている団体だとしたら、家がなくて困っている人のために使ってほしいと思っているわけですよね。ならば直接NPO(またはホームレス状態にある人)にお金が流れればそれでよくないですか?コミュニティ財団が間に入る理由って、何なのでしょうか?

これをお読みになっている人からしたら、今さら何言ってんだよ!っていう話だと思うんですけど、私は自分で考えたかったので私なりにその理由をひねり出してみました。

★寄付したい人にとってのメリット

  • どんな団体・人に寄付していいか分からない。コミュニティ財団が決める基準に合った団体に寄付してもらえるなら安心である。

NPO等の団体にとってのメリット

  • 自分たちの団体内には、寄付集め方ための知識や経験、人手が足りないので、代わりに集めてもらえるならば助かる。

他にも、財団にある程度まとまった金額をプールしておくと、大きな災害が起こった際にそこからすぐに必要な団体などに助成ができる(日本赤十字社義援金を送るみたいなイメージ)といったメリットも思いついたのですが、主には↑じゃないかと私は考えました。

中間支援の役割は「権利擁護」ではないか?

人や団体の間に立って、それぞれをつないだり応援したりする団体を「中間支援組織」というそうです。2月8日の総括シンポジウムでそのように言っていた方もいたので、あいちコミュニティ財団をはじめとするコミュニティ財団も中間支援組織なんだと思います。

それで私が思ったことは「中間支援組織の役割って権利擁護(アドボカシー)じゃないか?」ということです。寄付したい人と、NPO等の団体がやりたいことをする権利を護ることが、中間支援組織の仕事なのではないか?と。例えば、「どこに寄付すればいいのか分からない」は「自分が応援したい人や団体を応援する権利」が侵害されている状態、とも言えるのでは?と。どんな団体がどんな活動をしていて、活動のために何が必要なのか…といった情報にアクセスできない状態は、権利侵害の状態にあるとも言えるのではないでしょうか。同様に「お金がなくて活動が続けられない」も権利侵害の状態にあるのかもしれないと思ったんです。

なので、コミュニティ財団が「この地域にはこんな活動をしている団体があるんです」と紹介したり、寄付金をもとにお金が無くて困っている団体に助成することは「応援する権利」「活動する権利」を護る活動ではないか、と考えました。
逆に言うと、「寄付金の流用」は、本来応援したかった団体に助成ができなかった可能性を考えると、「応援する権利」を侵害した可能性がある、という点で問題であったとも言えるのではないかと思いました。

「権利擁護(アドボカシー)」は障害者や認知症の高齢者の支援でよく使われる言葉で、狭い意味では成年後見制度*1と同義で使われることも多いです。が、本当はあらゆる対人支援において通奏低音のように流れている考え方です。

権利擁護は、支援が必要な当事者の「〇〇したい」を最大化するための手段である。その際、手段であるはずの擁護者(an advocate)が、問題解決の主体なのではない。主体はあくまでも当事者であるはずだ。擁護者は、医師や弁護士を真似して、「問題を解決する上で必要なことなら何でもしてあげる擁護者」となってはならない。(竹端寛「権利擁護が支援を変える セルフアドボカシーから虐待防止まで」現代書館、2013年)

本人がやりたいことを叶える、権利侵害を防ぐ、人権をまもるというのが「支援」の一番大事なことだと私は思っています。財団であれば助成が支援なので、助成によって助成先のNPOとかがやりたいことを、NPO自身の力で叶えられるように援助すること(セルフアドボカシー)が大事なんだろうな、と思います。
上で引用した竹端氏の本によれば、セルフアドボカシーの目標は、当事者(助成先)が「自分のために発言し、自分の人生に影響を与える決定に参画できるよう力を付ける(empower)こと」とありました。また、セルフアドボカシーのステップとして(1)自分自身が望んでいるもの(課題)は何かを定める、(2)実践計画を立てる、(3)その計画を実行する、(4)得られた結果を評価する*2とあり、あっこれって中間支援っぽい!休眠預金の資金分配団体にJANPIAが求めてることっぽい!と思ったんですね。

だけどこれって コミュニティ財団 → NPO等の団体 という関係の中では行われているけれど「寄付したい人」と「コミュニティ財団」の関係の中ではどうなんだろう?と思いました。
コミュニティ財団って、支援のためにお金を「出す」団体でもあるけど、寄付者からお金を「もらう」団体でもあるわけですよね。しかも、寄付者の思いを代弁し、「したい」ことを叶えるという意味ではアドボカシーする団体でもある。
寄付の出し手が企業だったり、まとまった金額を寄付できる人であれば助成プログラムを一緒に作る過程を通して、上記のセルフアドボカシーの4つのステップみたいなことをしていると思います。
でも、少しずつお金を出してくれたたくさんの人たちに対してはどうなんだろう?と思ったんです。個人に対してもこれをやれよ!という意味ではないんだけど。だって寄付した先に自分がアセスメントされ、プランを立てられ、モニタリングされ評価されたいと思って寄付する人っていないと思うので。(笑)

中間支援も「社会モデル」であってほしい

自分が使いたいようにお金が使えない。自分の言いたいことが言えない、したいことができない。こうした「当たり前の権利」が奪われているのはなぜなのか。同じく竹端氏の本では「障害の医学モデルと社会モデル」という概念を使って説明されています。

例えば言葉によるコミュニケーションが難しい知的障害者の太郎さんが、ストレスがたまると壁に頭を打ち付ける自傷行為や、気に入らない職員への暴力行為を働いてしまうことがあるとします。このとき太郎さんをどう見るか?という視点です。

 一つ目の見立ては、「強度行動障害」「自閉症」などのレッテルを貼る見立てである。その人のIQは小学生以下であるとか(略)「ひどい自傷」や「著しいこだわり」「粗暴で恐怖感を与え、指導困難」などの評価基準で評価される。そういう「問題行動」をどう抑えることができるか、が支援における目標となる。
 もう一つの見立てとしては、太郎さんがそのような行為をする、「太郎さんの内側に内在する合理性(内在的論理)」を探すやり方である。「問題行動」とレッテルを貼られた行為が、どのような太郎さんの非言語的表現や、行為としてのSOSサインなのか。(略)それらを読み取ることなく、太郎さんの「問題行動」と矮小化して理解することは、社会的差別や本人への抑圧的支配につながりかねない、という視点である。
 前者の見立ては「障害の医学モデル」として、これまで支配的であった。これは、「病気は治せる」という二十世紀医学のモデルに準拠した考え方である。障害は個人の不幸であり、治療やリハビリテーションにより、「問題行動」の最小化や除去が目的とされる思想である。リハビリテーションや訓練によって「変わるべきは障害者」とされる視点である。
 一方、「問題行動」とは、本人ではなく支援する側にとっての「問題」である、とすると、「本人ではなく支援者がまず変わる」必然性が出てくる。その際、本人の内在的論理を理解し、その権利を護るために支援者が本人や社会にどう関わり、働きかけていくか、が重要になってくる。この視点は、「障害の社会モデル」と言われる。(略)障害を個人に起こった悲劇と捉えず、社会的差別や抑圧、不平等の問題と考え、「変わるべきは社会」とする点に特徴がある。(同)

お金や人が集められない、発信力がない、自らの活動を分かりやすく多くの人に説明できない。経営の知識や経験がない。こうしたNPOの不足を治そう、社会に適応できるように変えよう、という「医学モデル」で支援しようとする。私は「中間支援」を名乗る団体がしていることにこんなイメージを持っています。もちろん、そうではない中間支援もきっとあるとは思うんですけど。
でも「社会モデル」の支援は違うんです。障害を「治す」のではなく、障害者が障害者のままでも、社会変革の主体として生きていけるようにすることなんです。

「医学モデル」の支援は支援と言いつつ、本人を支援者の思うように変えようとすることは(それが心からの善意であったとしても)、本人の意志を無視し、権利を侵害することにもなりかねません。
「社会モデル」の支援をしようとすれば、まずは「本人の内在的論理」を知ろうと努め(その論理が、いかに「非常識」であっても)「支援者」側が変わることがまず求められます。

なので、私の最初の仮定が間違っていたんです。

      →        →
寄付したい人 コミュニティ財団 NPO等の団体
      ←        ←

  
矢印が両方向じゃなきゃいかんのではないか?と。やり取りされるものが、お金ではないかもしれないけれど。変わるべきはNPOとか、その先にいるNPOに支援されている人だけではなく、財団でもあり、寄付したい人自身でもあるはずなのです。

そして、この逆向きの矢印の力がはたらくためには、同書では「支援者(擁護者)」が「『自分の権力を行使しない』とはっきり表明」すること」が必要だと説かれています。これは難しいことです。寄付者や財団が「わたしたちは支援する/支援されるという関係を乗り越えていきたい」というお題目を唱えて、助成先やそのまた先にいる人と対等になった気になることではないと思うんです。これは難しいことです。だってどうしても「お金をあげる/もらう」「支援する/される」の間には権力関係が発生しますもの。「与えることができる」ことは権力ですもの。

エンパワメント支援とは、当事者が自分自身のために発言できない、自分の人生に影響を与える決定に参画できない「無力化」状態を乗り越える、セルフアドボカシーに向けた支援である。その際、支援者が自らの権力行使と決別し、当事者を「受け身」にさせず、共に権力という「ゲームの裏ルール」を乗り越えるためのパートナーシップの関係を築き、「批判的思考」の中から相互変容を行う必要がある。その中で、当事者が「問題を変革していく主体」としてパワーを取り戻していくことが可能になるのだ。(同)

どうやったって残ってしまう「与える/もらう」の権力構造から目をそらさないでやっていくためには「与える側」も自身の無力さを認め、自身も変わりゆくことを受け入れる(相互変容)ことが必要であると。「助成する時に立てた計画と違う結果や成果」と違うからどうこう言うんじゃダメなんですよね。お互いに、なぜその変化が訪れたのかを、頑なに責めるでも、いぎたなく甘え合うでもなく受け入れ、批評し、それまでになかった現実、持っていなかった価値に気付いて次のアクションを起こしていく…みたいなプロセスが必要なんじゃないでしょうか。それが結果として「社会が変わる」ってことなんじゃないでしょうか。

さっき私は「寄付した先に自分がアセスメントされ、プランを立てられ、モニタリングされ評価されたいと思って寄付する人っていない」と書いたのですが
財団→助成先 に対しては、「アセスメントし、プランを立て、モニタリングし評価する」ことって当然のように行われているんです。
さらに言うと、助成先であるNPOが障害者や高齢者を支援する団体だったとしたら、NPO→障害者(高齢者)に対しては「個別支援計画」というものが作られ、障害者が高齢者がどう変容するためにどんなことをしていきますって書いて、定期的にできたとかできなかったとかチェックするんです。
助成先→財団に対して、障害者→支援するNPOに対して、「個別支援計画」が立てられることがあるでしょうか?ほぼないですよね。それはやっぱり「支援される側」だけに変わることを求めていないか?と私は思うのです。


てかこの「エンパワメント支援」の対象者を、皆さんは障害者とか貧しい子どもとか働きたくても働けない若者とかっていう風に読んだかもしれないけど、「自分の人生に影響を与える決定に参画できない「無力化」状態」にあるのって、健康でバリバリ働けてて、ちょっとくらいなら寄付もできちゃう生活をしている人だってそうじゃないですか???長時間労働だって、子どもを育てにくいことだって、賃金が上がらないことだって、コロナウイルスをめぐるグダグダだって、本当に不安で困っているのに「まあどうしようもないよね」って「無力化」されているのは私たちではないでしょうか。それこそが「解決すべき社会課題」ではないでしょうか…。

役割が変わるしくみを取り入れては?

このブログを書き始めたときは、べ、別に、あいちコミュニティ財団のこれからについて何か提言しようなんて、ぜ、全然思ってなかったんですけどね!!!

でも、思いついちゃったので書きますと「寄付したい人・コミュニティ財団・NPO等の団体(助成先)」の役割をシャッフルするような仕組みができたらいいんじゃないかなって思いました。
「お金をあげる/もらう」の関係が固定化されると権力関係も固定されるけど、その時々で違った役割を与えられるような仕組みがあるといいんじゃないかと。助成の審査にホームレス状態にあるおじさんや、長くひきこもり状態にある人を入れるとか。財団の人がどっか他の財団から助成を受けてみるとか。以前にあいちコミュニティ財団は、子どもたち自身が「子ども支援の団体向け」の助成金をどこに使ったらいいかを考える、みたいな取り組みをやっていたけど、あれとか上手にやったらいいんじゃないですかね。(当然のことながら、子どもたちの意志と言いつつ大人の思い通りにするようなガイドを「しない」ことが前提だけど。権力を行使しない!!!)
私も含め、寄付者も財団の執行部も、自分たちの権力の使い方や使われ方にあまりにも無頓着だったと私は思うので、権力を持ってみたり手放してみたり、周りもそれをよく見てツッコんだりしながらやっていくしかないんじゃないかと思いました。


てかそれ以前に、やっぱりまずは「財団は要るのか」を考えてからだとは思うんです。6000字を超えるこのブログの記事を根本からひっくり返すような話で、すみません。
コミュニティ財団は「地域にお金が循環するしくみを作る」と言うけれど、私(たち)が欲しいのは「地域にお金が循環するしくみ」なのか?それとも単に「お金」が欲しいだけじゃないのか?ってずっと考えていたんです。でも、私ひとりでは答えが出ませんでした。
皆さんはどうお考えでしょうか。(おわり)

権利擁護が支援を変える -セルフアドボカシーから虐待防止まで

権利擁護が支援を変える -セルフアドボカシーから虐待防止まで

*1:自分の力で金銭管理とか生活に必要なことを他の人が助ける支援。悪徳商法に騙されてお金を取られないように、通帳を後見人と呼ばれる支援者がその人に代わって管理したりする。

*2:カリフォルニア州の障害者公的権利擁護機関DRC/Disability Rights Californiaのサイトより→今はリンク切れています https://www.disabilityrightsca.org/pubs/507001.htm 今のDRCのself advocacyに関する記事も実践に役立つ面白いことが書いてある気がする  https://www.disabilityrightsca.org/publications/self-advocacy

【前編】あいちコミュニティ財団総括シンポジウムレポート

2020年2月8日に開催された「あいちコミュニティ財団総括シンポジウム」に行ってきました。
2017年頃から様々な不祥事が明るみに出た財団のこれまでを総括(主に反省)しようとする会でした。
2017年からの財団の色々をご存知ない方はこちらの記事を読んでください。
headlines.yahoo.co.jp

どうしても財団を悪く言うような書き方になってしまったのですが、それはひとえに私の筆力のなさのたまものです。結論から書いてしまいますが、私がくさしたいのは主に財団にのっかって何かいいことがあるかも~とか思ってたり、私も寄付したから社会課題の解決にいっちょかみした側だし~と何もしなかった自分や、自分のような人であって、
決して有給無給を問わず財団のために働いていた/いる人や、財団から助成を受けた人や団体ではありません。私みたいに外側から何目線だよ?ってな感じでやいやい言うだけの人たちをよそに、皆さんは目の前のことに一生懸命打ち込み、できる範囲で精いっぱいのはたらきをされていた/いると思っています。図々しい言い方ですが、それを誇ってほしいです。

2017年以前の証憑類存在せず

最初に、昨年から新たに財団の常任理事となった戸枝陽基さん(社会福祉法人むそう理事長)が財団のこれまでの活動と、2017年のパワーハラスメント・残業代未払が明らかになった以降のことを説明されました。

戸枝さんによれば、財団は2013年に600人の出資者により1000万円近いお金と多くの期待を集めて発足。その後2016年までは「順風満帆だったと思われる」とのこと。運営に陰りが出てきたのは2017年頃からではないかと推測されていました。

推測されていた、というのは、2018年になり入れ替わったスタッフで調べたところ、なんと2017年以前の証憑類(領収書など支出の裏付けとなる書類)がごっそり無くなって所在が不明になっている(!)のだそうです。戸枝さんは、これだけきれいさっぱり無くなっているということは、何ものかが故意に持ち出した可能性も否定できないと説明され、会場はドン引き。いやいやこれ寄付金の流用よりもニュースになっていい事件ではないのでしょうか…。いつ、どうして紛失したのか分からないですが、毎年の監査とかどうやっていたのでしょうか。公益財団法人がこれでいいんでしょうか。私益無財産個人であるところの私だって確定申告の書類を5年は保管せよと言われているのに…。

ともあれ18年以降、新しく入られたスタッフさんがパソコンに残っていたデータ等を分析して経営状況を調査されたそうです。その結果分かったことは、資金繰り表もなく、事業別の収支も計算されておらず、経営的には場当たり的に新事業を起こしてはお金を集める自転車操業のような状態だったのではないかと。ゆえに、寄付金の流用に関しては起こるべくして起こってしまったのではないかと分析されていました。
これらをもとに戸枝さんは下記のように総括(反省)してお詫びされました。

★財団として

  • 当時の代表の木村真樹氏の経営者としての能力に不足があった
  • 財団に組織として運営を改善するしくみがなかった(理事・評議員の責任が重大)
★戸枝さん個人として
  • 2013年から評議員を務めていたが、理事会をチェックする機能を果たせなかった
  • 就任当初から運営の危うさを感じながら、会議を欠席することも多く、そのままにしてしまった
  • にも関わらず、自分(戸枝さん)が役員だからという理由で財団に寄付してくれた方がいたとしたら、申し訳ない。
★寄付者に対して
  • 寄付者(特に最初の出資者)は被害者でもあるが、情報公開をせまり実態をチェックすべき立場でもあったと思う。

本当は表に出したくなかったであろうことも、全部ではないと思うけれど公表され、関わり方に濃淡はあったにせよ、財団の設立当初から現在まで関わり続けてきた戸枝さんが自身と団体としての両方の立場から経緯をまとめ、公の場で真摯に謝罪されたということで、やっと財団はひと区切りつけられたと感じた方が多かったのではないでしょうか。

これからの財団のことなんか自分で考えろ

会場からも、ネット中継を見ていた人からも「それで、これから財団はどうしていきたいわけ?」みたいな声を聞きました。
でも私は、今回はそれは無くてもよかったと思います。ひとつは、この3年間、きちんとしたふりかえりもなくやってきてしまったのだから、まずはそれをちゃんとしてからだと思ったからです。

もう一つは、財団の新執行部の人の思いもあるでしょうけど、「コミュニティ財団」であるのならば、財団を支えるというか財団をとりまくというか、財団と何かしら関係を持っていきたいと考えている人の思いこそが、これからの方向性を決める時に大事だと思うからです。

財団は2017年に公になった色々の後、その対応のまずさも含めて急速に人々が離れていった状況があるので、はたしてあいちコミュニティ財団にとってのコミュニティとは何ぞや、誰からなるコミュニティなのかという話から始めないと意味がないんだと思います。というか、この問いは2013年の設立当初にもあまりされていなかったと思うので、もう一回した方がいいのではないかと思いました。そういう問いをテーマに話し合いたい人が今もいれば、ですが…。

要するに、財団の執行部としての経営上の総括はこのシンポジウムでなされたけれど、寄付者や、財団を支えていた、支えたかった、あわよくば財団から何かのメリットを享受したいと思っていた人(それは他ならぬ私なんですけど)による総括はまだなされていないのではないか?と私は思いました。

この日は戸枝さんの説明の後に、ずっと元代表木村真樹さんを応援していた萩原喜之さん(一般社団法人三河の山里課題解決ファーム理事)と、久野美奈子さん(NPO法人起業支援ネット)もそれぞれの視点からこれまでのことを総括されました。
萩原さんは権力を持ってしまったリーダーの傲慢さや、そのリーダーに依存してしまった周りの状況、SNSで指一本で簡単にシェアしたり寄付したりできることで、フワっとした「何か正しいことをしている感」のみが増幅し、市民活動にあったはずの自発性や批判精神が育たぬまま、発信力のある団体やリーダーの知名度や権威だけが高まり、ますます増長させてしまったのではないか…といった指摘をされていました。*1

久野さんからは「自らに都合の悪い意見を聞こうとしない元代表の木村さんにも確かに問題はあったが、周りが『木村さんさえ変われば財団は良くなる』と思ってしまったことも傲慢だった。もっと財団として目指すべき方向はなんなのか、今やっていることは目指すべき方向にとってどうなのか、という議論をするべきだった」という鋭い指摘がありました。

参加のしくみをどうつくるか

戸枝さんが最後にチラっと「財団に対して、自分はあれができますよ、これができますよ」って来てくれる人がいたらなー、そういう人を増やしていきたいなーみたいなことをおっしゃっていました。
いると思うんですよ、そういう人。
でも、今の状態だと「戸枝さんがいるから財団で働こう」みたいな人ばっかになるような気もするんですよ。その動機自体は決して悪くないと思うんですけど、そればかりだと「木村さんに任せておけば大丈夫だろう」となっていた、以前の財団と同じ状態になっちゃうんじゃないでしょうか。そういうコミュニティが、コミュニティ財団なんでしょうか。

新代表の佐藤真琴さん、そして戸枝さん、日本福祉大学の原田正樹先生、同じくNPO法人せき・まちづくりNPOぶうめらんの北村隆幸さん、NPO法人外国人就労支援センター理事の山本梢さんと、皆さん前例のない事業を切り拓き、難しい事業を軌道に乗せてきたパワーと発信力と力強いネットワークをお持ちの方ばかりが新しく理事に就任されています。

でも、自分がこの組織に入って事務局の仕事をするとしたらと考えると、大変勉強にはなると思うんですけどめちゃくちゃやりづらい気もしますもん。(笑)「お前は経営が分かっていない」と言われれば「ははあ、その通りでございます」だし、それぞれ地域の課題もよくご存知の方ばかりなので「お前は現場が分かっていない」と言われたらぐうの音も出ないと思います。もしかしたら、財団から助成を受ける側の団体だとしても、同じように感じてしまうかもしれません。「伴走支援しますよ」って言われたらちょっと怖い、みたいな…。…きっと私の根性がねじくれているだけだと思んですけど…。でも、社会を変えるためにそういう厳しさ/正しさも必要だ、って言われたらそうなんだろうけど…一歩間違えればパワハラの温床にもなってしまうのでは、とも思います。(違うかなあ~~~)

いや、でもこれはあくまで私個人の主観なんで、素晴らしい理事の皆さん(本当に素晴らしいと思っています、本当に)の意向と共に歩んでいくということで、寄付者やそれを取り巻く環境、便利な言葉で言えばステークホルダーの皆さんがそれでいいならそれで全然いいと思います。


でも、コミュニティ財団はそうじゃないんだ、というなら…
知識も経験も足りなくて、小さくて頼りなくておぼつかない声にも価値を見出して、ぐずつきながら進む団体を応援するんだということなら、そういう世論、そういうよわよわな人や団体を下支えするコミュニティが必要なのではないでしょうか。(それはパワフルなリーダーとしても反対するところではない、はず)

そして、やっぱり自分は、どんなに素晴らしい方がリーダーとなったとしても、それはそれとして、「私にとってコミュニティ財団は必要なのか」「自分はどんなコミュニティ財団だったらいいと思うのか」ということも考えてみたいなと思うので、それを後編に書こうと思います。つづく…。

【後編】はこちらです。
yoshimi-deluxe.hatenablog.com

*1:萩原さんの言葉そのままではなく、かなり私が意訳しています