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どっちつかずの頼りない私でありたいー【市民セクター全国会議2018】分科会14・支援における関係性

市民セクター全国会議2018の感想の続きです。
オープニングの記事はこちら→
いろんな問いがせめぎあっているー【市民セクター全国会議2018】オープニング - #レコーディングダイエット

分科会4(休眠預金)の記事はこちら→
矢印の向きをそろえないー【市民セクター全国会議2018】分科会4・休眠預金 - #レコーディングダイエット

分科会9(資金提供)の記事はこちら→
市民活動はアートだー【市民セクター全国会議2018】分科会9・資金提供 - #レコーディングダイエット

市民セクター全国会議の1日目が終わりまして、いよいよ私が登壇する「分科会14・支援における関係性を考える ~“してあげる”支援から“共にある”支援へ~」の日となりました。
www.jnpoc.ne.jp

昨日実況できなかったことを意外と根に持っていた私は、始まる前の打合せで一緒に登壇する地星社の布田さんNukiitoの高山さんNPOセンターの担当の方にも許可を取り、分科会の始まりに写真OK、実況OKをアナウンス。会場にも写真を撮っていいか聞きました。そして登壇中にも関わらずツイート。どんだけ実況したかったのか。


分科会では私たちが一方的に話すのではなく、会場の皆さんともやりとりしたかったので、最初に参加してくれた方にも一人ずつ自己紹介をしてもらいました。

どうしてこの分科会を選んだのか?という質問には…

他の分科会の方が有名な人が多いしね…。でも「中間支援組織が現場NPOにマウンティングし、現場NPOが当事者を搾取する構造はいい加減にしろ(自戒を込めて)という関心」で参加された方や、私のこのブログを見てきてくれた方もいたんですよ!!!すごいですよ。インターネットドリームですよ。…というのは置いといて、福祉関係の人や中間支援のNPO社会福祉協議会の人などが多かったです。

NPOをはじめとしたさまざまな領域で支援を行っている支援組織の“支援”に潜む問題点について立ち止まって考えます。“支援する側”(NPO)と “支援される側”(当事者)の関係性にある格差の問題、“してあげる” 支援によって当事者の自己決定力が奪われるという矛盾とどう向き合えば良いのでしょうか。このような問題をきちんと理解しつつ、寄り添い共にある“支援”のあり方、“市民的”専門性をもつ支援とは何なのかを一緒に考えていきましょう。

というのがこの分科会のテーマでした。

最初に布田さんにお話ししていただいた時のスライドがこちらです。

www.slideshare.net

これに対して、私がツッコミというか、かっこよく言うと問いを立てる係をやりまして、出した問いが下記の3つです。

1)「主体性を引き出す」とか「主体性を生かす」支援とはどんな支援か?
2)「してあげる/しなさい」ではない「支援」とはどんなものか?
 その「支援」のあり方を、「支援」という言葉を使わないで表現すると?
3)「してあげる/しなさい」ではない「支援」が実現したとき、「支援者」は何をするのが仕事なのか?(それで食えるのか)

このお題に対してみんなでやり取りをしたのですが、細かい内容は書ききれないので、分科会を通して私が思ったことや、分科会で話し切れなかったことを書きますね。

両輪でできないのかな?

これはちょっと反省なんですけど、「してあげる/しなさい支援」と「そうではない支援」の対立構造をつくって、後者の方がいいんだ!っていう論調で進めてしまったなーと思いました。
それは悪いことではないんだけど、「そうではない支援」が良いので、みんなこれを目指そう!!!ではないなと思ったので。支援の中では当然してあげたり、しなさいということも出てくると思うんです。だけど「してあげる/しなさい」だけが「支援」だと思ってやってる状況が非常にマズいんだということなので。

「支援」とは呼ばれないような、友だちとか恋人とか家族とか、同僚とか上司との間にも「してあげてばっかり」「されてばっかり」のもたれあいの関係ってときに発生すると思うんです。
それがいつもいけないわけじゃないし、ずっとその関係が続いてしまうこともあると思います。でも、それを乗り越えたことで新しい仲間の在り方とか、仕事のやり方とかが生まれることもあると思うんです。支援のなかでもそういう関係を目指せないかなと私は思いました。

AさんとBさんが車輪の両輪として、Aさんばかりが馬力を出してもその場をぐるぐる回るだけになる。AさんとBさんがお互いのパワーやスピードを調整しながら、ゆっくりでも目指す方向に進める関係づくりをすること、それが「してあげる/しなさい」ではない支援、なのではないかと思いました。

いま「主体であれ」「市民であれ」というのは、すごくマッチョなことかもしれない

布田さんのスライドでは最後に加藤哲夫さんの言葉を引いて「主体である」ことが語られました。
それで、分科会でも主体性をめぐっていろいろな話をしたんですが、ある参加者の方が

「現在は、自己決定と言っても、そもそも自己決定のための選択の幅がすごく狭められている時代だと思う。例えば被災した人が、危険だけどここにとどまりますか、家族や友人と離れて遠くに住みますか、それとも死にますか、なんていう『選択肢』から『自己決定』したとしても、何の充実感も得られないではないですか」

と言われたのがとても心に残った。
過労死するまで働くかひきこもるか。借金して進学するかあきらめるか。男に媚びるか女を捨てるか。デリヘルで働くか生活保護か…みたいな、そんな中での自己決定って何なんだという…。その選択肢を広げることがソーシャルワーカーの仕事なのかもしれないなーと思ったり。でも実際にはソーシャルワーカーの力量では全然現実に追いついていないし、ソーシャルワーカーだけでどうかなるもんでもないしと思ったり。

「主体的」な「市民である」ということは、どういうことなのか?
日々の暮らしや社会のことに興味があり、積極的に情報収集して意思決定し、「対話」を重んじてソーシャルなアクションを起こしていくような人?
「主体的」な「市民」って、そんなにまじめで、強くて、頭がよくてアクティブな人のことだったんだろうか。
そういう人に、私たちはなりたかったんだろうか。そういう人たちばかりの社会にしたかったんだろうか。
もっと「主体」や「市民」のイメージを、本当にありたい姿にアップデートしていったほうがいいんじゃないかと思いました。

主体ってのは、すべてが流れ込むフォーラムなんだ。オープンスペースなのさ。流れ込んだものが、そのつどミックスしたり合体して、その時々の主体の状態とでもいえるようなものが、出来上がってくるだけなんだ。固定的な性格とか特徴なんてものがあるわけじゃない。主体ってのは、自由に組み立てられ、ヘテロで脆いプロジェクトにすぎなくて、しかも、それがいつだってどんどん変化していってしまう。そんなものなのさ。個人と言っても、だから、その都度いろんなヤツであり、いろんなものなんだよ。(ウルフ・ポーシャルト、原克〔訳〕「DJカルチャー ポップカルチャーの思想史」三元社、2004年)

ともに書いていくこと

今回の分科会では、呼んでいただいたはいいものの、俺は何だ、何者だ、何をすりゃいいのと気がつきゃ自分に問いかけては自己嫌悪する日々でした。
Facebookメッセンジャーを使った打合せのなかで、布田さんと高山さん、NPOセンターのツチヤさんがうまいこと私の役割を決めていただき、それに乗っからせていただくことでなんとかできました。さらに、いざ開会してみたら参加者の方が登壇したほうが良かったのでは?みたいな人ばかりで良かったです。(登壇する/話を聞かされるではない関係…)


そして分科会以外でも、私のブログを読んでいますという方に会場でたくさんお会いしました。知り合い以外でブログの読者にお会いしたことがなかったので、すごく驚いたしうれしかったです。
あいちコミュニティ財団のことは、僕も今でも引きずっているくらい悩んだんです」と言われた東京の方もいました。その方は「石黒さん(=私です)のブログは、受け入れがたい社会と自分の矛盾や葛藤を、どうにか言葉にしようとのたうちまわっている姿が伝わってきて、いいなあと思うんです」とも言ってくれました。

私は小さい頃、フェミニズムについて書かれた本を読んで「私のまわりにはこういう考えの人はいないけど、世界のどこかには私の怒りや苦しみを分かってくれる人がいるんだぁ」と思うと、夜空の星を眺めるような気持ちになりました。希望だったんです。
でも今は、私のブログや書いた記事を読んでくれる人が私の星です。

わたしが3年前にフリーランスになった大きな理由のひとつは、人間関係に煩わされず自分ひとりで仕事をしたいというものでした。部屋にこもってあれこれ考えるのは全く苦にならないので気楽です。同時に、何の後ろ盾もなく、何の専門性もない自分が、ライターとして何を書いていくべきなのかさっぱり分からず、暗中模索の日々でもありました。

だけど私に必要なのは、自分に何が書きたいかとか、書けるかということではないのかもしれないと思いました。人との関係の中で役立てることを見つけていくこと。今ここで起きていることに目を凝らし、たくさんの人の声に耳をすませ、一緒に書いていくこと。それが自分にとっての自立ではないかと気づきました。

ものを書くとき、誰でも大抵ひとりでコンピュータに向かうものだけど、デスクには書物や雑誌が積み上げられている。それら書物を通じて、書き手は他の書き手と会話するんだ。そうすることで、書き手は少しずつ独りぼっちではなくなってゆく。自分と同じ考えを見つけたり、新しく考え直させられたりするからだ。すべては自分自身の中から生まれてくるという、貧しくて古い考えは、一九九五年、哀れにも終わりを告げた。ものを書くときには、世界全体が必要なんだ。(同)

質的社会調査の方法 -- 他者の合理性の理解社会学 (有斐閣ストゥディア)

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DJカルチャー―ポップカルチャーの思想史

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