#レコーディングダイエット

毎日食べたものを書きます

誠実な強者a asでありたい asss

2018年の終わりに初めて東洋d 経済オンラインに名前入りの記事を載せていただいて、2019年はYahoo!ニュースに何本か書かせていただいた。私がフリーIOU's bライターになったのは2016年の4月からで、短い期間でこんなにたくさんの人に 読んでもらえる媒体で書かせてもらえたのはひとえになごやメディア研究会のおかげである。代表の関口さんはじめ皆さんには感謝しかない。もちろん、なメ研以外にもいつも好きにやらせてくれるNPOや企業や杉浦医院の皆さんにも 感謝しかない。本当にありがとうございます。

Yahoo!に記事を書かせていただけるようになり、とても驚いたことがある。それは「Yahoo!ニュースです」と名のると大抵どの方もすぐに取材に応じてくれ、お話を聞かせていただけることである。

以前、別の小さなメディアで取材のお願いをしたときは、自分がいかに怪しくないかを誠心誠意お伝えしないといけなかった。「それは無料なんですか?広告じゃないの?」とか何回も聞かれる。取材と言って近づいて、後から「掲載してやるから金を出せ」eみたいな商売をしている会社からの営業がよくあるらしい。なので「取材依頼書」を懇切丁寧に作って、いかに自分が怪しくないか、ちゃんとした媒体であるかを書面と電話の両方で説明していた。それでも取材できなかったこともある。

Oh まだほんの数本しか書いてないのに「自分は権力を持ってしまった」と思った。この程度でそんな風に思うなんておこがましいと思うけれど、でも誰でも持っている、行使できる権利ではないことも確かなのだ。メディアは権力だ。

メディアだけではない。私はFacebookを見ていると知人が選挙に出て議員になったり、大学の先生だったり、会社を経営していたり、大きな企業に勤めていたりする。こういうタイムラインが「当たり前」の人には取るに足りないことなんだろうけど、日本で身近に議員や社長がいる人はどれくらいいるのだろうか。そうじゃない人のほうが圧倒的に多いんじゃないだろうか。だけど、メディアに取り上げられたりするのは議員や社長の方が多いし、法律や条例を決める時に影響力が大きいのはやっぱり議員・教授・社長・メディア関係者っていう現状があるのではないか。
そうじゃない人の方が多いのに。

リベラルを自称するメディア人や議員さんなどは「そうじゃない人」の声も聞いて、言説や法律に反映していきたい、と言う。それは嘘じゃないと思うし、私だってそうしたいと思っているし、「社会福祉士で、ライターです。ライティング・ソーシャルワークなんです」と恥ずかしげもなく公言している以上、そういうものを書かなければ意味がないと思っている。

だけど、チママンダ・ンゴスィ・アディーチェ「なにかが首のまわりに」と、それを訳したくぼたのぞみさんのインタビューを読んだら、果たしてそんなことは本当に可能なのだろうかと考え込んでしまった。

誰かが誰かに一方的に贈り物をするとき、贈る者と贈られる者の間に、ある力関係が生まれていきます。贈る方が上。もらう方は下。親子なら、いずれ関係は変わるけれど、贈る側と贈られる側が入れ替わることがなかったら? それも個人の力量や努力で超えられない理由によって。だとしたらその関係は「対等」ですか?

何かを贈られることによって、受け取る側に積もり積もっていくマイナスの心情があります。弱者がGiftによって受ける傷、屈辱、それをアディーチェは描いています。(略)

立場を逆にして同じことが起こらないのであれば、両者の関係は人間として対等ではありえません。これは、常に「与える側」にいる強者が、「そういうものだ」という先入観で、生まれながらに与えられた特権として見落としていることです。(「物語」が「イズム」を超えるとき。Torus 
https://torus.abejainc.com/n/n5f7b38ca79cf?fbclid=IwAR0GWJp1fuKpQUmp8ejLvnUqCCb1_KV_ZXy1v5Jz7z6ag3P20RjMjWjVjO8

私が今ライターをして生活できているのは、なメ研や冒頭にあげた皆さんのおかげなんだけど、遡れば生まれた家にたまたま借金を背負うことなく大学まで行けるお金と家族の理解があったからだし、偶然この年まで大した病気もせず、身体的にも知的にも精神的にも「健常」でいられたからだと思う。「生まれながらにして与えられた特権」だ。

さらにその特権に乗じて、私はこうして下手でも気持ちや考えを言葉にして表出する能力も持つことができた。Twitterか何かで誰かが「言語はコミュニケーションの通貨だ」と言っていたけれど、あらゆる表現方法の中で、今もっとも世渡りと密接に結びついているのが読んだり書いたりする能力だと思う。そしてこの能力も、持っている人にとっては呼吸をするくらい当然のことなのに、持っていない人にはすごく高いハードルになっていると思う。そしてそれは読み書きができる「強者」が見落としていることでもあるのではないだろうか。

私はいつも山崎ナオコーラさんの小説の一節を思い出す。

私は思う、自分は強者だと。弱者ぶって甘えながら小説を書くことはできない。
だから被害者になることは少ない。私には気力や知力がある。車と同じで、ぶつかれば私が加害者だ。世の中に対して、できることが多い。(山崎ナオコーラ「この世は二人組ではできあがらない」新潮文庫、2012年

私は自分が持った力をちゃんと使えているだろうかと思う。まだ知らないこと、陽の当たらないこと、大きな声に埋もれてしまいそうなことをあきらかにしたいと思って書いている。でも、取材させてもらった人や、読んでくれる人にぶつかっては傷つけているのではないかとも思う。実際に傷つけてしまったこともあるし、知らないうちに傷つけたことも多々あると思う。それに対しては本当に申し訳ない。

特に、社会的に弱い立場にある人たちのことを書くとき、どう書くべきかとずっと思っている。どうやっても「貧しい人たちの生活をぼんやりながめ」るだけの記事になってしまわないかと。(「そこの人たちは「私の」生活をぼんやりながめることなどできはしないのだから。」)しかも、くぼたさんのインタビュー記事に南北問題の話が出てくるけれど、私が強者でいられるのは私が意図せずともどこか・誰かから搾取している面があるからにほかならないのに。


とはいえ私は私以外の人にはなれないし、しかも書くことをやめようという気にもならないのだった…。


だから自分の立場や限界から逃げないで、異なる立場の人にも少しずつでも伝わるように、よく聞いてよく見てよく読んでよく考えて、失敗しながらでも書き続けていくしかないんだと思う。傲慢だと思われても、自分自身はできる限り謙虚に、自分を疑いながら、慎重に慎重に言葉を選んで、でも遠慮はしないで書くしかない。

またこれもくぼたさんがインタビューで言っていることだけど、「イズム」ではなく「物語」の言葉で書こうとするとき、書き手自身の限界(弱さ、と言ってもいいかもしれない)を入れずに書くことはできないんじゃないかなと思った。自分の足りなさごと世界に投げ出していくことなんてどうでもよくなるくらい、書くべきことに肉迫できる力をつけたいっすね。オラもっと強い奴と闘いてえ。

すぐれた文学作品というのは国や国境を越えて、個人と個人が対等に出会うための想像力を養うものなので、そのまま世界を見る窓にもなるんですよね。「物語」が「イズム」を超えるとき。Torus 
https://torus.abejainc.com/n/n5f7b38ca79cf?fbclid=IwAR0GWJp1fuKpQUmp8ejLvnUqCCb1_KV_ZXy1v5Jz7z6ag3P20RjMjWjVjO8

「まちづくり」とその外部

あいちトリエンナーレはいつか見に行こうかなと思いつつ、色々なゴタゴタで再開前もその後も、人も多そうだし抽選とかダルいしと思っているうちに気持ちが萎えてしまって、結局見に行かずじまいでいた。
最終日の鷲尾友公さんとCalmのイベントだけ、Shigetaさんが自前のサウンドシステムを提供しているということで行ってきました。
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会場になっている円頓寺商店街は、年月を経て灰色になった高いアーケードから垂らされた、真新しいトリエンナーレカラーの紫と金色の糸でデコレーションされていました。
手書きでレタリングされた看板のフォント、リノベーションしておしゃれになったカフェやボルダリングジム、揚げたてのコロッケを買う人が列をなす肉屋、何十年も前から時間が止まったみたいな和菓子屋や履物店。昔ながらの商店と今ふうのお店がモザイクみたいに並んで、展示よりも円頓寺商店街自体が大きなアートみたいで、私はわあわあ、あれ見て、味わいありすぎ、これ見て、すごいおしゃれーとか言っていました。
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けれどひと通り商店街を見た後で、一緒に行った彼氏が「円頓寺っていろいろお店はあるけど、ガラの悪い店はないね~」と言ったのでハッとした。確かにないのである。パチンコ屋とか風俗とか、安かろう悪かろうみたいなどうしようもない店とか、小汚くだらしなさそうな店とかはないのである。古いままの店はあるけど何だかなぁみたいな店はないのだ。

円頓寺は清くて正しい商店街だと思った。

私は円頓寺の歴史とかはよく知らないけれど、結果として今、あまり所得または文化的な素養が高めでない人が好んで集うような雰囲気はあんまないのかなと思った。レトロな雰囲気、キッチュな建物、名駅からも栄からもあえて離れた静かな場所で店を構える意味と余裕(または意地)、そういうものを共有できる人が集まる場所なのかなと思った。トリエンナーレやテレビ局、その他の団体が催すイベントを受け容れる経済的文化的な寛容さのある商店街なんだなと思った。

それが悪いわけではないし、そういう人たちが経済的文化的な余裕や寛容さ、教養の豊かでない人を殊更に排除しているとも思わない。

でも、結果として経済的文化的な余裕や寛容さがないヒトやモノはここにはいられないし、要するにゲットー的、ヤンキー的、下世話的、ベタ的な文化はこういう界隈では尊重されずに別の地域に移っていくのではないかなと思った。繰り返すけれどそれはお互いに、排除ではなく住み分けみたいなものとしてそうなっていくんじゃないかなって思う。


だけど、そういうところに私が普段「まちづくり」や「シティプロモーション」に感じているうそ寒さがあるのかなとも思った。

地方都市(または町・村)移住してくださいっていう宣伝って、なんか「リンネル」とか「ソトコト」とか、あるいはプリン体や糖質を控えめにしたヘルシーなビールの宣伝みたいなナチュラル志向で、肩の力は抜いてますけどおしゃれなんですよみたいな感じじゃないですか。生活はゆったり、だけどダサくはないですよみたいな。しかもそういうコットンのボーダーシャツとか着た若い夫婦、または若い夫婦と小さな子連れだけをあからさまに都会からの移住ターゲットにしてません?それって結局税収と労働力(および介護力)をアテにしているってことですよね?
と、私みたいな独身子無し、稼ぐ力無しの人は完全な蚊帳の外ですよね感を感じてしまうんですが、それって私の性格が妬み嫉みに満ち満ちて歪みまくったものだからなんでしょうか…。

私の性格の悪さはともかく、どんなにうまくいった「まちづくり」であってもオールマイティに万能ではない、という当たり前のことを忘れないでいることって大事なんじゃないかなって思うです。
おしゃれで清潔で、レイドバックした雰囲気はありつつ最新のテクノロジーにも目配りした町、みたいなまちづくりは全然悪くないと思うんです。でも、万能ではないっていうだけのことで。そして、万能ではない、ということも決して悪いことではないと思うんです。

でも「万能でない」ということを自覚しておくことは、まちづくりを仕掛ける行政の人も、NPO的な団体の人も、コンサルの人も、住民の人にとっても大事なんでないかと思うです。「万能でない」ということは、そのまちづくりの思想・哲学には乗れない人もいるという当たり前のことです。地理的な意味だけではない、その「まち」の「外部」を想像して意識し続けることが、日々の生活で生まれるコンフリクトに向き合っていくことにつながると思うのです。カタカナを使わずに言うと、経済的・文化的に異なる視点を持つ人(経済的・文化的に貧しい人とか)と、どちらも無理し過ぎず、かつ押しつけ過ぎず生きていくかということです。そして主には、経済的・文化的に豊かな人が「押し付けがち」な価値観に自覚的であるということだと私は思います。


「正しいまちづくり」「若くてセンスのいい世代にリーチするスタイリッシュでクリーンなまちづくり」が、万能ではない(そうではない価値観の人も地域には生きている)という想像力を、特に行政の人や、意識的に「まちづくり」を仕掛けていこうとする人は持たなければならないのでないか、と思います。外部を持たない「まちづくり」は、箱庭を作って楽しむようなものではないでしょうか。

戦場でサイケデリックなことばかり考えている人

夏の間はずっと暑くて、息をするのも暑くて暑くて、毎日毎日まるで溶けそうなトロントロンの天気だった。私は自由業なので、来る日も来る日も冷たい泡の酒を飲んではエアコンの効いた部屋で猫を撫で、好きな曲を聞いて寝ていた。地上7メートル、この部屋では音楽はマジックを呼ぶのである。

私は人間だからこういうことのために生きているのだと思っている。こういうこと、というのは快楽とか想像力とかのことだ。

だけど私のSNSのタイムラインに流れてくるのは、働き方、とか、学び方、とかばっかりなのだった。あるいは政治や「まちづくり」のことばっかりなのだ。それは私がそういう人たちが好きで、そういう人をフォローしているからなんだけど、私自身は労働や何かのためにする勉強は好きではない。
みんなが労働や勉強について発言することは特にイヤじゃないんだけど、「私は労働にも勉強にも特段の興味を感じない」と表明しづらい、と感じている自分がイヤだなとは思っていた。気にせず言えばいいのである。なので言うことにした。

会社員時代はまあまあの長時間労働をしていた。これといった能力に乏しく要領も悪いので、人より長く働かないと生き残れないと思っていたからだ。肉体的にしんどいことはあったけれど、頑張ったらいつかは報われるのではと思っていたので精神的にはそんなに苦にならなかった、と思う。

だけどずっと考えないようにしていたことがある。若い頃に読んだ岡崎京子の漫画のことだ。
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「時間が足りないんだよ みんな生きる時間がなくなってるんだ 働く時間なんてありゃしない」
「”労働は美しい、神聖だ”なんてハメられてさ 実は労働の果実を自分達で自由にしたことなんてないんだ」
岡崎京子「うたかたの日々」宝島社,2003年)

当時の私はこれが何を言わんとしているのかは全く分からなかったけれど、相当食らってずっと忘れられないでいた。忘れられないけれど、忘れていないと労働できないので考えないようにしていた。そのせいか40歳となった今でもこれが何を言わんとしているのか分からない。
でも、このページのセリフがしっくりきてしまい、どうにも反論できない自分はきっと精神が貴族なんだと思った。他にも楽しいことはあるのにね。音楽や美術や、散歩や登山や、ゲームやファッションや、文学やパーティのほうが楽しいし、そのために生きているんじゃないかしら。パンもお菓子もシャンパンもあたりまえに食べられることが、文化的な最低限度の生活ではありますまいか。

だけど、現実には私はプレカリアートで、働かなくていい機械を作る能力もないので食うために働くしかないのである。
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「生きることなんて召し使いにまかせろ」とリラダンは言ったわ
そのとおりね でも 現実には あたしが召し使いなんだわ
生きるって めんどうね
岡崎京子「でっかい恋のメロディ」(「私は貴兄のオモチャなの」宝島社,1995年所収))

ほんまにそーやで…。


だけど、私のこういう考えは21世紀も20年目となる昨今では時代遅れらしく、ビジネスや社会貢献といった「下部構造」のほうがビビッドなことだっていう風潮があるようだとは、うすうす感づいておりました。

――たしかに、現代の尖った若者は、文化的な活動ではなく起業やNPO活動などに従事している印象を受けます。

かつての若者がロックバンドを組んだのと同じように、現代の若者はスタートアップに踏み出す。経済的な活動だけでなく、NPO活動や差別反対運動のような社会・政治活動も同様です。

以前は、ビジネスや社会貢献といった「下部構造」はおじさんたちに任せ、若者は文化という「上部構造」で遊んでいました。しかし、もはや文化は死に、上部構造の可能性は尽きてしまった。もう「新しい文学を創り出す」「新しい音楽を創り出す」といった試み自体が成り立たなくなってしまっている。すると、経済、それを動かす人間関係、社会システムという下部構造で遊ぶしかなくなっているんです。

(千葉雅也「「新しい価値をつくる」のは、もう終わりにしよう。哲学者・千葉雅也氏が語る、グローバル資本主義“以後”を切り拓く「勉強」論」https://corp.netprotections.com/thinkabout/2404/

上の記事で千葉雅也さんは「上部構造」が見棄てられた原因を「文化のデータベース化」としているけれど、私はあまりこれにはピンときていない。

どちらかというと、バブル後に盤石だと思われていた大きな会社がつぶれたり、公務員の待遇も悪くなったりして、なんの職に就こうが「安定した生活」なんてないんだ(=この世はサバイバル)という意識が根付いたこと、
そして追い打ちをかけるように阪神大震災東日本大震災、その後も度重なる自然災害、リーマンショックなどなどを通じて「ふだんの、平穏な、当たり前の生活」がどれだけ得難く貴重なものであるかを感じた人が多いからでは、と私は思っている。
なんでもない毎日、安心できるひと時、それを豊かにしていく生活こそが「切実に欲しいもの」なんじゃないかと。実際、2010年代に入って流行ってるものって「コーヒー」「発酵」「梅仕事」「カレー」「マラソン」「サウナ」とか、日常をアップデートする系のものばかりな気がする。


しかし私がハマっていまだに抜け出せない90年代のカルチャーは「レイヴ」で、それは「クソな日常を吹っ飛ばす系」なのです。当時は「終わりなき日常を生きろ」とか言われていたんです。そこには日常=つまらないもの、という意識があったからだと思うんだけど、テン年代も終わりがけとなった今、日常はいつどこから撃たれるとも知れない戦場のようなものになっているわけで…。「ていねいな暮らし」とは、日常に平穏を取り戻すための祈りの儀式なのでは?と…。

そう考えると、イノベーションインパクトだと言いつつ、ソーシャルビジネスもまちづくりNPOも「自分たちが安心できる=把握できて不安要素の少ない」自分たちワールド(=社会、まち)を築いて安心を獲得しようとする取り組みなのかもしれない、と私は思うのです。


それでも、時代遅れだけど、私はサイケデリックなこと、つまり日常を吹っ飛ばす気持ちよさ、ここではない何かを、追い求めていきたいと思うのです。音楽とか、パーティとか、レイヴとか、そういった類の小説や芸術、思想とかです。

私にとってサイケデリックとは、見たことや聞いたことのないモノや体験に対する揺らぎ、不確実な何かに対する不安、そしてその両者によって既知の現実が粉々に砕けてしまい→しかしその後、破片がつぎはぎだらけだけどまた組み直されて再生する一連の流れです。
めためたに飲酒して前後不覚になり、翌朝起きた時のようなものです。破片の素材自体は前夜と変わらないけれど、再生した何かは新しい考えやものの見方ををなぜか得ているような…そういう体験をもたらす可能性のある、芸術や思想のことです。要するに、既存の自分が一回壊れてまた立ち上がってくるのが大事だと思っているのです。


けど、今や泥酔も喫煙も、アレもコレもいろいろかっこ悪いことになっているので、私が言っていることなんてただダサいだけなんだろうなーと思う。
けれど「健全なこと」「正しいこと」「誰かや何か(社会とか)の役に立つこと」によるうそ寒さ、コレジャナイ感、そしてそれを我慢することによる息苦しさにも、もう限界なのです。健康に気を付けろ、エシカルに消費しろ、主体的になれ、社会課題を知れ、自分ごとにしろ、寄付をしろ…などなど、強靭な正しさで殴られている気がするのは、私だけなのでしょうか…。


そういう暴力的な正しさに対して、私はどうしていったらいいのか分からないんだけど、とりあえず「そうではない別のやり方」として、ただ楽しいこと、美しいこと、うっとりすること、我を忘れるようなことに耽溺すること。そこから自分が計画したものではない発想や世界が生まれてくる可能性を、手放さないでいたいなと思うのです。

MELODY

MELODY

うたかたの日々

うたかたの日々

私は貴兄(あなた)のオモチャなの (フィールコミックスGOLD)

私は貴兄(あなた)のオモチャなの (フィールコミックスGOLD)

SDGsがわからないー取り残されたくない世界なのか

SDGs「誰ひとり取り残さない」というところからいきなりつまづいていて、17の目標とか169のターゲットとか全く入ってこない。

というのは「誰ひとり取り残さない」って「取り残す側」の発想ですよね?私たちが、取り残してるんですよね?
私たちがド安い賃金で服やら電子機器やら作らせてるから貧困があり、木を伐って汚水を垂れ流しまくってるから飢餓があり疾病があり、教育の機会がない人たちがあり、いちいち言ったらめんどくさいしめんどくさい奴だと思われるからまあいいかと思ってるからジェンダーの不平等が温存されているんですよね?

「持続可能な社会のために ナマケモノにもできるアクション・ガイド」というのを見ました。たしかに、やらないよりはきっとやったほうがいいんでしょうからどんどんやったらいいと思うんですけど、節電やリサイクルよりも、もっと怠けていることがあるんじゃないでしょうか。

「取り残される側」の人の意見や気持ちは考えられているのでしょうか。
ホームレス状態にある人と一緒に活動している北九州の奥田知志さんが昔、「(野宿生活から脱することなどを)社会復帰と言うが、復帰したくなるような社会なのか」と問いかけられたことがあります。
過重な労働に耐えることが美徳とされ、そうでなければ自己責任と責められ心身の健康を害してしまう。「生産性」のない人・モノ・コトは切り捨てられる。もともとお金のある家に生まれた人だけが代々トクをするし、その地位を手放すまいと必死になる。そういう世界に「取り残されたくない」と思うでしょうか?そういう世界こそが、そういう世界の人が言うところの「社会課題」を生み出しているのに?そういう世界に「包摂されたい」と思うのでしょうか。

持続可能な、とよく言われているけれど、持続するのは何なんでしょうか。取り残す側の人の生活は持続させたまま、かわいそうな人も取り残しませんよ、なんてことがあり得るのでしょうか。「取り残される側」への想像力が乏しいまま、「誰ひとり」とか「すべての人が」と言えてしまうことにも、私は大きな違和感を感じます。

だからといって何もしないわけじゃなくて、できるだけゴミを出さないとか差別に屈しないとかやっていくんだけど、それはSDGsのためではなくて自分が信じることをしたいと思うからなんだけどなあ。

ソトコト2019年 06月号 [雑誌]

ソトコト2019年 06月号 [雑誌]

岩波書店「世界」に岐阜大学地域科学部を取材した記事が載りました

4月8日発売の岩波書店の雑誌「世界」に、母校である岐阜大学地域科学部を取材した記事を載せていただきました。
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昨年末に地域科学部の存廃をめぐるゴタゴタがあり、激情のままに書いて東洋経済オンラインに掲載していただいた記事を読んだ「世界」編集部の方にお声がけいただいたものです。ありがたや~ありがたや~。
toyokeizai.net
www.iwanami.co.jp


あこがれの岩波書店
舞い上がった私は当日、ここぞとばかりに持っていた広辞苑クラッチで取材に赴きました。買ってよかった広辞苑バッグ。
https://www.instagram.com/p/Bn0-Xk6BrcF/
広辞苑型のクラッチバッグを買ったので見てほしい函入り、スピン付き


話を本題に戻すと、特集は「生きている大学自治
編集部の渕上さんは「大学改革の問題点はもう言葉が尽きるほどにどこでも指摘されている。けれど、指摘すればするほど『強大な財務省(お金)の力』と『無力な大学』というイメージを増強してしまってはいないか。もっと『大学ってこんなに面白い』『魅力的だ』ということを言っていかなければならないのでは」とおっしゃっていて、泣けました。

面白い、魅力的だ、って私が書くとゆるふわな感じになっちゃうんですが、そこは「世界」なので、法政大学学長の田中優子先生、ブラックバイト問題について問題提起をし続ける中京大学の大内裕和先生などなど、豪華かつ多彩な顔ぶれがゴリっとした言説を展開されており、読み応えしかない一冊となっております。

私は地域科学部学部長の富樫幸一先生と、准教授の南出吉祥さんにインタビューさせていただきました。学生が始めた署名活動、学部存続のためのアクションが学外の人からも広く支持されたのはなぜか…といった話題から、地域科学部ならではの文化や特徴にせまる内容となっています。特に「大学の”地域貢献”とは何か」についての富樫先生の返答や、「そもそも地域貢献って何なの」と根本的な問いを立てることと、実際に地域で泥臭くフィールドワークをしていくことの間をどうつないでいくか(あるいは、つないでいかないか)といった箇所は手前味噌ながら面白く、自分でまとめながら燃えました。


現実に押し流されそうになりながらも、理想を決して手放さないことがどんどん難しくなりつつあるように思います。同時に、今・ここにある自分と社会の現実に向き合わないで理想に逃げ続けることの危うさやセコさにももう、うんざりです。
理想と現実、志とお金、アカデミアとストリート・スマート。ネット右翼とエリート・リベラル、ワイドショーと電気グルーヴ、その両方の間をときに小賢しく、ときに頑固に編集しながら生き延びていくしたたかさ、そういう「知」が欲しいなあと思いました。


「世界」は大きい本屋さんか、近くの本屋さんで取り寄せてもらうか、図書館にいくかすると読めると思います。そのどれもダメだったらAmazonとかで買って読んでくださーい。

世界 2019年 05 月号 [雑誌]

世界 2019年 05 月号 [雑誌]

能の「ワキ方」のようなライターでありたい

能楽師の安田登さんの講演を聞いてから、ずっと読みたいと思っていた本を読みました。

能  650年続いた仕掛けとは (新潮新書)

能 650年続いた仕掛けとは (新潮新書)

泥酔しては下品なダンスミュージックを聞いてウェーイとなることだけが趣味、という私にとって、お能など高尚すぎて無理と思っていました。が、この日のお話は居ながらにして別世界を見るような、自分の存在ごとぐわんぐわんと揺さぶられるような、サイケデリックな体験で忘れがたいものでした。

その後、娑婆に還ってからこの本を読み、特に気になった能のワキ方という役割の人について考えたことを書きたいと思います。

ワキ方」は「脇役」ではない

能にはシテ方ワキ方という役割の人がいるそうです。

シテ方」・・・幽霊とか神様とか、この世の者ではない人。
ワキ方」・・・「この世」に居ながら「シテ方」となぜか出会っちゃう人。

「夢幻能」と言われる能はふらっとどこかを歩いていた人(ワキ方)が、霊だったり神様だったり(シテ方)に出会ってその人のお話を聞くふしぎな体験をする…という内容のものだそうです。

ワキは物語を始める存在で、幽霊であるシテ方に出会う旅人として登場します。能のワキは、脇役の「ワキ」ではなく、「分ける」のワキです。つまりはあの世とこの世の分け目、境界にいる人物です。(安田登「能 650年続いた仕掛けとは」新潮新書、2017年)

ワキ方」は 「シテ方」の「念」を昇華させる

もうこれを読んでね、私は思いましたね、シテ方」=NPOの代表(創業者)ワキ方」=ライター・ジャーナリスト ではないかと。別に、NPOの代表が幽霊とか神様とか言いたいわけじゃないんです。でも、きっとNPOの代表って「この世」ではない世界を思い描いている人でしょう?今の、「この世」にはない価値、「この世」にはない社会を作ろうと思っている人でしょう?

でも、だからこそNPOの代表(創業者)=シテ方は、「この世」では「異形の者」と思われてしまう。「この世」にはないことばっか言うもんだから、「この世」の人には「何言ってるの?」「そんな夢みたいなことばっか言ってー」「ちゃんと働け(=この世で生きろ)」みたいな。

安田登さんのことを書いた松岡正剛さんの文章から引用しますね。

シテとは「仕手」や「為手」と綴るのだが、その正体は「残念の者」である。なんらかの理由や経緯で、この世に思いを残してしまった者をいう。(松岡正剛「千夜千冊1176夜『安田登 ワキから見る能世界』http://1000ya.isis.ne.jp/1176.html

NPOの人はこういう社会を作りたいんだ、こういう価値を生み出していきたいんだという理想を掲げて事業を立ち上げるんだと思います。でも、その裏には、自分が「おかしい」「くやしい」「さみしい」「つらい」と思ったことがスタートにあることがあるのではないでしょうか。学校でいじめられていた、産後に孤独で辛い思いをした、認知症になったおじいちゃんをどうしていいか分からなかった…だから「若者支援のNPOを立ち上げる」「産後のママを応援するNPOを作る」「高齢者のデイサービスを作る」みたいな。「残念の者」なんです。

でもその価値観は「この世」では必ずしも価値があると認められないものだったりします。
例えば「この世」の評価は「それは何の役に立つの?」とか「いいことだけど儲かるの?」とか「それで家族を養っていけるの?」「子どもを大学に行かせられるの?」とかだからです。

この時「シテ方」の取る反応は2つに分けられると私は思います。
一つは「この世」の評価などものともせず、ずんずん我が道を行くタイプ。
二つ目は「なんで『この世』の人は分かってくれないのよぅ」とジタバタし、思い悩むタイプ。

前者は孤高の人として、小さくとも汚れのないコミュニティを作っていくのでしょう。でも後者の人は、活動資金や仲間の獲得のために声を尽くして自分たちのことを訴え、それでもうまくいかないのはどうしてだろうと日々思い悩んでいるのではないでしょうか。

そんな時、「ワキ方」が現れて、シテ方の思いをこの世に伝えられたらいいんじゃないか?と思ったんです。

ワキ方は)あの世ととこの世の分け目、境界にいる人物です。だからこそ、あの世の存在である幽霊たちの無念の声に耳を傾け、その恨みを晴らすことができる。諸国をさまよい、幽霊に出会い、成仏させる、それがワキの役割です。(安田登「能 650年続いた仕掛けとは」新潮新書、2017年)

ワキとは、シテの残念や無念を晴らすための存在だったということになる。「晴らす」とは「祓う」ということでもあって、ワキはシテの思いを祓っていることになる。
 無念な思いを祓うとは、いいかえれば、思いを遂げさせるということでもあろう。(松岡正剛「千夜千冊1176夜『安田登 ワキから見る能世界』http://1000ya.isis.ne.jp/1176.html

「この世」とシテの語る「あの世」の間を行き来する世界。能ではワキが場面を整え、ワキがシテの思いを引き出し、思いが引き出されたことでシテは思う存分舞うことができる。つまり、観客は「ワキが見た世界(能)」を見ているのだと。

シテが言うことを通訳して「この世」の人にもわかりやすい表現で伝える、と言ってしまうと、あまりにもつまらなく、能の持つダイナミックさが失われてしまう気がする。でも、「ライター」って「そういうもの」だと思われていないか?「ライター」が「シテ方」を、手垢のついた言葉でつまらなくし、「この世」に軟着陸させようとするあまりダイナミズムを失わせていないだろうか?と。

自分がNPOの広報とか事務局を手伝っている上、NPOのことを書いてお金をもらうライターの仕事をしているので、つくづくそう思いました。
 

ワキ方的な支援とは

ではワキ方とは何でしょうか。シテの思いを遂げさせるには、何をすればいいのでしょうか。と考えたとき、私はますます分からなくなってしまったのです。

能のなかで、ワキはたいしたはたらきをしていない。ワキは舞台で最初に登場し、たいてい「次第」や「道行」という謡(うたい)を謡う。そして「あるところ」で正体があやしい者と出会う。これは大発見だ。それにもかかわらず、ワキはその後はほとんど活躍しない。ただ事態の推移を見守っているだけなのだ。(中略)
問いを発し、シテの語りを引き出したあとは、そのシテの物語を黙って聞くばかり。しかしながらそうであるがゆえに、ワキが異界や異類を見いだし、此岸と彼岸を結びつけ、思いを遂げられぬ者たちの思いを晴らしていくという役割を担う。いったい、これは何なのか。(松岡正剛「千夜千冊1176夜『安田登 ワキから見る能世界』http://1000ya.isis.ne.jp/1176.html

はたらかないのかよ!活躍しないのかよ!
でも、それがこの世とあの世を結びつけるとは、いったいこれは何なのでしょうか。

と考えたとき、そもそもシテとは何なのか?という疑問も持ちました。

能は「念が残る」「思いが残っている」といった「残念」を昇華させる物語構造になっています。(中略)世阿弥は夢幻能によって特に敗者の無念を見せる舞台構造を作ることに成功しました。(安田登「能 650年続いた仕掛けとは」新潮新書、2017年)

NPOの人は世のため人のため、こういう社会を作りたいんだ、こういう価値を生み出していきたいんだという理想を掲げて事業を立ち上げるんだと思います。なので、社会起業家だソーシャルベンチャーだというと、新しい時代のヒーロー、正義の味方、みたいに言われるけど本当にそうなんだろうか。
さっきも書いたけど、その原点には小さいころ貧しかったとか、いじめられたとか、報われなかったとか、話を聞いてもらえなかったとかいうルサンチマンや、そういう状況を目の当たりにして苦しかったとか、何もできなくて悔しかったとか、うしろめたかったとかいう思いがあるのではないでしょうかか。最初から華々しい理想を掲げていたのではなく、「負」の感情「不」の状況があったのではないかと思うんです。

人生がうまくいかなかったという事情に絡んだ者たちを主人公にした物語を、多くの能は主題にしてきたのである。
 つまりは自分の力を過信して失敗してしまった者たち、他人の恨みを買った者たち、ついつい勇み足をした者、みずから後ずさりしてしまった者たち、自分の能力がうまく発露できなかった者たち、そういう者たちを主人公にした。かれらは負けたというより「何かを負った」と解釈した。しかし、そこにも新たな再生がありうることを謡ったのが、多くの能の名曲なのである。(松岡正剛「千夜千冊1176夜『安田登 ワキから見る能世界』http://1000ya.isis.ne.jp/1176.html

ルサンチマンを自分の内部だけでこじらせるのではなく、社会構造の問題ととらえて事業なり活動なりを起こしていく。それがシテ方、残念の人、社会起業なのではと私は考えるのです。
怒りや苦しみという内発的な動機は活動の大きなエネルギー源となるので、それを持って起業した人の活動はターボがかかりスケールしやすい。言葉に熱がこもるので共感を集めやすい。「当事者性」という求めても手に入らないパワーも持っている。

しかし、これには両刃の剣のような扱いの難しさもある。
それは「個人的な鬱憤」と「事業」を混同してしまうことです。

ひきこもり支援のNPO若い人たちをたくさん勇気づけても、自分の幼少の頃の嫌な記憶が消えるとは限りません。(だって別物だもの)それはそれとして、今自分がなすべきことはこの仕事なのだ、と割り切って進んでいくものだと思います。

しかし事業に自分の思いが乗りすぎて、ルサンチマンの解消、自己肯定感の獲得が動機なのか、目的なのか分からなくなってしまうと危険ではないかと思います。「自分の事業が否定される、うまくいかない=自分自信が否定される」という思考回路に陥ってしまう。それは内部でなく「外部でこじらせてしまう」という状況になるわけです。

私は「社会起業家」と呼ばれる人にはこのこじらせを防ぐ人、「個人的な鬱憤」と「社会的なニーズ」を「分ける」サポートができるワキ方が必要ではないかと思っています。そう考えると、ライターだけでなく中間支援とか事務局とか代表をサポートする役割の人も「ワキ方」的であるといいのではないか、と思いました。

ここ数年の間に、名古屋のNPOで不祥事があり、新聞沙汰にもなった事件が数件ありました。そこに、代表の「念」を「外部でこじらせてしまった」ところはなかったか…?と私は感じています。しかしそれがこうした事態になるまでは、凄まじい推進力で事業を進めていた代表であったし、それを外部もすごいすごいともてはやしていたわけです。

シテの語る「あの世」の話は正しく新しく、パワフルで魅力的なので、この世の人もぐいぐい引き込まれて「一緒にあの世を目指そう」となるのだと思います。うまくいっているときはいいんでしょうが、「この世」のルール(倫理的、法的、経営的な)との齟齬が生まれた時に適切な対応ができないと破綻してしまうのかなと思いました。

でも、そのあの世の話を「黙って聞くばかり」でありながらも、そこに「異界や異類を見いだし、此岸と彼岸を結びつけ、思いを遂げられぬ者たちの思いを晴らしていく」、さふいふライターに私はなりたい、と思ったのでした。
がんばって書くぞー!

能  650年続いた仕掛けとは (新潮新書)

能 650年続いた仕掛けとは (新潮新書)

「意思決定支援」じゃなくて「欲望形成支援」じゃないか?っていう話ーー「精神看護」2019年1月号がすごい!

「精神看護」っていう、おそらく精神科の看護士さん向けの雑誌の2019年1月号がやばいからみんなに読んでほしい。
特集は「國分功一郎×斎藤環 オープンダイアローグと中動態の世界」。普段から、お前どんだけ國分さんファンなのかと周囲の人に呆れられている私ですが、冒頭の國分さんの中動態に関する講演録だけで1400円+税払って読む価値あるから取り寄せて読んで読んで。特に「中動態の世界」読んで、「分かったような分からないような」「ラテン語の意味はよく分からんがとにかくすごい労力だ」「意思はともかく、だったら責任はどうなるんだ」と思った人は読むとよいと思いますー。

意思決定じゃない、欲望形成をささえるのだ

國分さんは、昔は能動態と対立されていた「中動態」が消えて、「能動態(~する)」と「受動態(~される)」が対置されるようになった経緯を「行為の責任が誰にあるかを厳しく区別する言語になった」と説明します。「~する(能動態)」なら『私』の意思でやった行為だし、「~される、させられる(受動態)」なら、私ではない誰かの意志に沿って行われた行為だと言えるわけです。

だけどここで問題にされるのは、「意思」だけがその行為の原因といえるのか。「意思」とは本当に自分の心に固有な、オリジナルな、純粋な、自明のものなのかということです。

その子はお茶碗を割った。でも、その子はお母さんに怒られてむしゃくしゃしてやったかもしれない。また、お母さんが子どもに当たり散らしたのは、お父さんと喧嘩したからかもしれない。で、お父さんが喧嘩したのは、会社で何かもめごとがあったかもしれない。
 行為の原因というのは実際にはいくらでも遡っていけるのです。(略)
 ところが、意志という概念を使うと、その遡っていく線をブツッと切ることができる。「君からこの行為が始まっている」「君の意思がこの行為の出発点になっている」と言えるわけです。國分功一郎「中動態/意思/責任をめぐって」,「精神看護 2019年1月号」,医学書院,2018年)

意思はゼロからの出発点、純粋な自発性を指しているということです。そう思っていなくても、そういう意味で使われている。そういう意味で使われているから、責任を問うための根拠にされている。(略)
 意思が純粋なゼロからの自発性として考えられているということは、言い換えれば意思とは心の中での「無からの創造(creatio ex nihilio)」として捉えられているということです。しかし、そのようなことが心のなかにありうるでしょうか。もちろんあり得ません。
 人というのは、歴史を持っていて、人生を持っていて、過去とつながっている。そして人の心は、その周囲の環境とつながっている。完全に隔離された条件下の人間を考えることはできない以上、人間の心の中に、ゼロの出発点、「無からの創造」を置くことはできない。(同)

考えれば考えるほど「意思」とはあやしげであやふやな概念なのに、國分さんは現代では「意思」への依存が強まっていると語ります。

現代文明は意思の概念に強く依存しています。特に昨今の新自由主義体制においては、この依存は極限的に高まっている。「あなたには選択の自由がありますよ。選択はあなたの意思で行われることです。ですから選択の結果はすべてあなたの責任です」というわけです。今日は自由の話はしませんが、現代では「自由」は「選択の自由」にされてしまっている(自由の概念については『中動態の世界』の第8章をぜひ参照してください*1)。そしてその選択は、すべての責任を引き受ける主体を前提にしています(

これを踏まえて、たとえば医療の現場で言われている(福祉の現場でも言われていますが…)「意思決定支援」は、本人の意思を尊重するという建前のもと、単に責任の押し付け合いになっていないかと問題提起します。対して、本当に行われるべきは「欲望形成支援」ではないかと言うのです。

「意思決定支援」の考え方が出てきた背景は容易に想像できます。患者のことを患者以外の別の誰かが決定して、それをパターナリスティックに押しつけるのはおかしい。他者による決定の押しつけを疑うことは当然です。
 だから患者自身に患者のことを決めさせようというわけでしょうが、これでは単に責任を押しつけることにしかならない。今までの関係が単に反転しただけです。(略)
 僕はむしろ「欲望形成の支援」という言い方をしたらどうだろうか、欲望形成を支援するような実践を考えたらどうだろうか、と思っています。「意思」というこのとても冷たく響く言葉は切断を名指ししていますから瞬間的です。それに対して「欲望」は過程であり、また、人の心の中で働いている力であるという意味で、どこか”熱い”過程です。
 欲望を意識するのはとても難しいことです。自分のことだからこそわからない。だから周囲に手助けしてもらったり、一緒に考えたり、話し合ったりしながら、自分の欲望に気付いていく必要がある。(同)


以前にこのブログ↓で「主体」についてチラっと疑ったんだけど、そういうことだったのかー!と思いました。
yoshimi-deluxe.hatenablog.com

この分科会では「支援する/される」の「関係」ばかりに気をとられていたけれど、それ以前に「支援する、とされている」側と「支援される、とされている」側、双方の「主体」のあやふやさについて思いを遣ったらどうかと考えました。
支援する側にもされる側にも、明確な「意思」または「欲望」があって、それらがせめぎ合っているのをどうしたらいいかーーではない、んだと。
もっとどちらもあやふやで、ダルちゃんみたいにふわふわ不定形で、支援したいようなサボリたいような、応援したいようなテキトーでいいような。仲良くしたいような逆らいたいような、怖いような腹が立つような。そんな、定まらないものなんじゃないか。それを勝手に「見えていない意志があるはずだ」とか決めて、それを探るようなことをしているからいつまでもたどりつかないんじゃないか、と思った。
何を欲望していいかわからない、欲望したくなるようなきっかけがない、そういう状態から探していくものかもしれないし、激しい欲望を「はいはい、これがニーズですね」と分かった気になるよりも、その欲望はその人のどんな歴史、どんな背景に裏付けられているかを考えるのが「その人らしさが発揮できる」支援につながるんじゃないか。そんなことを考えました。


「中動態の世界」では、何か悪いことをしたときに、どれだけ言葉を尽くして謝罪しても、「本当に自分が悪かった」という気持ちがその人のなかに現れていなければ(現れる、は中動態)、相手はその人を許さないだろうという話が出てきます。

じゃあ、どうやったらその気持ちが「現れる」のか?「意思」の力ではそれが不可能だとしたら、何が私たちの心にそれを呼び起こすのか。
私は、自分とつながっている「歴史や、人生や、過去や、周囲の環境」をよく考えてみて、自分が普段から「つい、抱いている」感情や欲望がどこから来ているのか、を考えることではないかと思います。
困った人を助けたいと思う気持ち、どこかに寄付したいと思う気持ち。事業で成功して一旗上げたいと思う気持ち、そんなのくだらないと思う気持ち。それらは全部当たり前のことではなくて、どんな要素が自分にそう思わせているのか。それを考えていくことではないかと思うんです。

でも、自分の欲望に向き合うってしんどいことじゃないですか。例えば「困っている人を助けたい」という欲望のルーツには「頼りがいがある男と思われたい」とか「社会を変えた人として注目されたい」とかもあるかもしれない。
だけど、そういう弱かったりズルかったりする自分から目をそらさないで、その上でどうしていくかを考える。その時に一人じゃなかったとしたら心強いし、大きく道を踏み外さないと思いませんか。それこそが「欲望形成支援」ではないでしょうか。そして、それは、いわゆる「支援される側」だけじゃなくて、「支援する側」とされている、立場の強い人にも必要な支援、ではないでしょうか。


「精神看護」には「欲望形成支援」についての犯罪加害者の立場の人の語りや、うつ病経験者の方の視点で書かれたコラムもあり、どちらも國分さんの講演録と同じかそれ以上に心打たれる素晴らしい言葉にあふれていました。(心打たれる、って中動態っぽい)。興味のある方はぜひー。

ダルちゃん: 1 (1) (コミックス単行本)

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*1:「自由」の概念については、國分功一郎「100分で名著 スピノザ エチカ」NHK出版、2018年の「第3回」の章もオススメ