#レコーディングダイエット

毎日食べたものを書きます

なぜ社会福祉士なのにライターをやっているのかーーレコードを2枚同時にかけろ

少し前に母校である岐阜大学地域科学部を取材した記事を東洋経済オンラインに掲載していただきました。
toyokeizai.net

ちなみに記事では2018年12月20日に学部をどうするか大学として決定するとありますが、実際にはなぜか当日の会議で議題に取り上げないことになったそう。結論は先送りされたようです。


この記事はヤフーにも掲載されておりまして、その中のコメントに「記事の内容よりも、地域科学を学んだのに社会福祉士の国家資格を取り、そしていまはライターをしている著者に興味がわいてしまう…w 卒業生のその後が全てを物語ってる気がするなぁ。」というものがあり、「本当にその通りやで…w」と思って笑ってしまいました。

なぜ社会福祉士なのにライターをやっているのか

特に福祉関係の人に社会福祉士なのになぜライターなんですか」とよく言われるので*1自分の考えを書いておこうと思います。

社会福祉士は役所の窓口とか、障害のある人やお年寄り、子どもの施設などで、何か困ったことの相談を受ける仕事に就いている人が多いです。フリーランス社会福祉士という人もたまにいますがとても珍しいうえ、ライターというとさらに少ないのかもしれません。

私が社会福祉士を目指したのは、10年ほど前にホームレス状態にある人と関わるボランティアを始めたことがきっかけでした。人がホームレス状態になるのは仕事がない、お金がないというだけでなく、心身に障害や病気がある、教育を受けられていない、家族がいないなどなど様々な理由が背景にあることを知ったからでした。障害や疾病、労働に関すること、心理、成年後見、更生保護など社会福祉士の勉強をするといろいろなことを広く学べると思ったんですね。また、当時就いていた仕事がキツく、自分の能力の限界も感じていたため「福祉系の資格を持っていれば食いっぱぐれることはないんじゃないか…」と甘く考えていたことも事実です。

でも資格の勉強をしたり、実際に相談の仕事を通じて気づいたのは「私って全然相談の仕事向いてないな」「っていうかあんまり相談の仕事したくないんだな」ということでした。社会福祉士が受ける相談の内容はその人の生活や人生に直接深く関わるものなので、生半可なことでやってはいかんなとも。

ただ、社会福祉士が担うべきとされている仕事は「ソーシャルワーク」と呼ばれており、その内容は相談だけではないんですね。

ソーシャルワーク専門職のグローバル定義
ソーシャルワークは、社会変革と社会開発、社会的結束、および人々のエンパワメントと解放を促進する、実践に基づいた専門職であり学問である。社会正義、人権、集団的責任、および多様性尊重の諸原理は、ソーシャルワークの中核をなす。ソーシャルワークの理論、社会科学、人文学、および地域・民族固有の知を基盤として、ソーシャルワークは、生活課題に取り組みウェルビーイングを高めるよう、人々やさまざまな構造に働きかける。
この定義は、各国および世界の各地域で展開してもよい。

ソーシャルワークは困った人の相談にのるだけじゃなく、「生活課題に取り組みウェルビーイングを高めるよう、人々やさまざまな構造に働きかける。」ことなのです。だから、直接的な対人援助はしなくても、ものを書くことで「社会変革と社会開発、社会的結束、および人々のエンパワメントと解放を促進」したり、「人々やさまざまな構造に働きかける」ことができるならば、それはソーシャルワークのひとつと言っていいのではないか。と思って「ライター/社会福祉士」という肩書でやっています。

なぜ地域科学部なのに社会福祉士でライターをやっているのか

冒頭の記事の内容ともちょっと関わるんですけど、私が最初に出た大学は岐阜大学の地域科学部なんですね。文理融合とか学際的とか言われている学部って色々あるんですけど、記事を書くにあたり「学際的って何だろう?」と思ったのでWikipediaで調べてみました。wikiかよ。

最先端の研究の進展の方向性を考えるとき、従来とは異なった観点、発想、手法、技術などが新たな成果を生み出す例は非常に多い。これは従来はあまり結びつかなかった複数の学問分野にわたって精通している研究者や、複数の学問分野の研究者らが共同で研究に当たる、などによってもたらされる。これが学際的研究と呼ばれる。(学際-Wikipedia 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E9%9A%9B

これを読んで学際的な学問ってDJみたいなものなのかなーって思ったんです。
DJという手法でジャズとかロックとか既存のジャンルの音楽をミックスしたりエディットしたりことで、ヒップホップとかテクノとかいう新しいジャンルの音楽が生まれたみたいに、既存の「○○学」と「〇〇学」いう学問をときにスムーズに、時に強引にカットインしながらつないでいくような手法なのかなって。

実際に地域科学部では、世の中のお金の流れに興味のある「産業・まちづくりコース」の学生と、自然豊かな環境を守りたいと考えて勉強している「環境政策コース」の学生が同じまちづくりのゼミで出会うことがあります。そこでの議論には、2枚のレコードが同時にかかってフロアの熱気が高まっていくような、スリリングな興奮があります。

DJするときの最初の基本スタイルは、二枚のレコードを混ぜて合わせて、第三のものを作り出すってことなんだけど、書くってのも、目の前のテキストを混ぜ合わせるってことなのかもしれない。思想家は、目の前の思想理論をフュージョンさせてるんだ。(ウルフ・ポーシャルト、原克〔訳〕「DJカルチャー ポップカルチャーの思想史」三元社、2004年)

なので、DJがレコード(原曲)をリスペクトしていないといいミックスができないように、学際的と言われる学問も既存の学問分野をより尊重していないとできないなって思いました。自分が学生だった頃のことを思い切り棚に上げ切って言いますが、文理融合とか学際的といわれる、「何やってるか分からない」と言われる系の学部の学生こそ、それこそDJがレコードを聞きまくるように、めっちゃくちゃ勉強しないといけないんじゃないかと思いました。

ヴァルター・ベンヤミンだってカール・マルクスだって、リミックスできるんだ。というのもリミックスってのは、決して新しい文脈に順応させるってことだけじゃない。元の(ブリリアントな)思想を活性化させることだってあるからだ。リミックスは、大抵の場合、オリジナルを愛していないとできない。元の作品を新しい角度から見直し、バリエーションを作り豊かにする。(略)リミックスってのは、オリジナルに新しい生命を与える手助けをすることなんだ。オリジナルのコンセプトを救い出し、プッシュするってことだ。リミックスってのは、自分の関心を忘れることなく、オリジナルに奉仕することだ。いや、それだけじゃない。オリジナルに奉仕しながらも、自分の関心をハッキリ表明することだ。(略)愛情のないリミックスは、貧弱で退屈で色あせたものになってしまう。(同)

DJだって最初は(今でも?)そんなの音楽じゃないと言われていたけれど、今ではれっきとしたひとつのアート・フォームだって認められていますよね。

私はライターとしても社会福祉士としても中途半端だけど、だからこそライティングとソーシャルワークの先人に敬意を払っていきたい。
いいミックス、いいエディット、いいエフェクトができるようちゃんと勉強していきたい。
そんな感じで、2019年もよろしくお願いいたします。


おまけ)
私はDJにインタビューするサイト↓もやっているのでよかったら見てください。今年はもうちょっと更新したい…。
「人々のエンパワメントと解放を促進する」って、パーティのことでもあるような気がしてきました。
whatdjsaves.com

DJカルチャー―ポップカルチャーの思想史

DJカルチャー―ポップカルチャーの思想史

*1:福祉関係じゃない人にはそもそも社会福祉士が何なのかあまり知られていないので聞かれない

どっちつかずの頼りない私でありたいー【市民セクター全国会議2018】分科会14・支援における関係性

市民セクター全国会議2018の感想の続きです。
オープニングの記事はこちら→
いろんな問いがせめぎあっているー【市民セクター全国会議2018】オープニング - #レコーディングダイエット

分科会4(休眠預金)の記事はこちら→
矢印の向きをそろえないー【市民セクター全国会議2018】分科会4・休眠預金 - #レコーディングダイエット

分科会9(資金提供)の記事はこちら→
市民活動はアートだー【市民セクター全国会議2018】分科会9・資金提供 - #レコーディングダイエット

市民セクター全国会議の1日目が終わりまして、いよいよ私が登壇する「分科会14・支援における関係性を考える ~“してあげる”支援から“共にある”支援へ~」の日となりました。
www.jnpoc.ne.jp

昨日実況できなかったことを意外と根に持っていた私は、始まる前の打合せで一緒に登壇する地星社の布田さんNukiitoの高山さんNPOセンターの担当の方にも許可を取り、分科会の始まりに写真OK、実況OKをアナウンス。会場にも写真を撮っていいか聞きました。そして登壇中にも関わらずツイート。どんだけ実況したかったのか。


分科会では私たちが一方的に話すのではなく、会場の皆さんともやりとりしたかったので、最初に参加してくれた方にも一人ずつ自己紹介をしてもらいました。

どうしてこの分科会を選んだのか?という質問には…

他の分科会の方が有名な人が多いしね…。でも「中間支援組織が現場NPOにマウンティングし、現場NPOが当事者を搾取する構造はいい加減にしろ(自戒を込めて)という関心」で参加された方や、私のこのブログを見てきてくれた方もいたんですよ!!!すごいですよ。インターネットドリームですよ。…というのは置いといて、福祉関係の人や中間支援のNPO社会福祉協議会の人などが多かったです。

NPOをはじめとしたさまざまな領域で支援を行っている支援組織の“支援”に潜む問題点について立ち止まって考えます。“支援する側”(NPO)と “支援される側”(当事者)の関係性にある格差の問題、“してあげる” 支援によって当事者の自己決定力が奪われるという矛盾とどう向き合えば良いのでしょうか。このような問題をきちんと理解しつつ、寄り添い共にある“支援”のあり方、“市民的”専門性をもつ支援とは何なのかを一緒に考えていきましょう。

というのがこの分科会のテーマでした。

最初に布田さんにお話ししていただいた時のスライドがこちらです。

www.slideshare.net

これに対して、私がツッコミというか、かっこよく言うと問いを立てる係をやりまして、出した問いが下記の3つです。

1)「主体性を引き出す」とか「主体性を生かす」支援とはどんな支援か?
2)「してあげる/しなさい」ではない「支援」とはどんなものか?
 その「支援」のあり方を、「支援」という言葉を使わないで表現すると?
3)「してあげる/しなさい」ではない「支援」が実現したとき、「支援者」は何をするのが仕事なのか?(それで食えるのか)

このお題に対してみんなでやり取りをしたのですが、細かい内容は書ききれないので、分科会を通して私が思ったことや、分科会で話し切れなかったことを書きますね。

両輪でできないのかな?

これはちょっと反省なんですけど、「してあげる/しなさい支援」と「そうではない支援」の対立構造をつくって、後者の方がいいんだ!っていう論調で進めてしまったなーと思いました。
それは悪いことではないんだけど、「そうではない支援」が良いので、みんなこれを目指そう!!!ではないなと思ったので。支援の中では当然してあげたり、しなさいということも出てくると思うんです。だけど「してあげる/しなさい」だけが「支援」だと思ってやってる状況が非常にマズいんだということなので。

「支援」とは呼ばれないような、友だちとか恋人とか家族とか、同僚とか上司との間にも「してあげてばっかり」「されてばっかり」のもたれあいの関係ってときに発生すると思うんです。
それがいつもいけないわけじゃないし、ずっとその関係が続いてしまうこともあると思います。でも、それを乗り越えたことで新しい仲間の在り方とか、仕事のやり方とかが生まれることもあると思うんです。支援のなかでもそういう関係を目指せないかなと私は思いました。

AさんとBさんが車輪の両輪として、Aさんばかりが馬力を出してもその場をぐるぐる回るだけになる。AさんとBさんがお互いのパワーやスピードを調整しながら、ゆっくりでも目指す方向に進める関係づくりをすること、それが「してあげる/しなさい」ではない支援、なのではないかと思いました。

いま「主体であれ」「市民であれ」というのは、すごくマッチョなことかもしれない

布田さんのスライドでは最後に加藤哲夫さんの言葉を引いて「主体である」ことが語られました。
それで、分科会でも主体性をめぐっていろいろな話をしたんですが、ある参加者の方が

「現在は、自己決定と言っても、そもそも自己決定のための選択の幅がすごく狭められている時代だと思う。例えば被災した人が、危険だけどここにとどまりますか、家族や友人と離れて遠くに住みますか、それとも死にますか、なんていう『選択肢』から『自己決定』したとしても、何の充実感も得られないではないですか」

と言われたのがとても心に残った。
過労死するまで働くかひきこもるか。借金して進学するかあきらめるか。男に媚びるか女を捨てるか。デリヘルで働くか生活保護か…みたいな、そんな中での自己決定って何なんだという…。その選択肢を広げることがソーシャルワーカーの仕事なのかもしれないなーと思ったり。でも実際にはソーシャルワーカーの力量では全然現実に追いついていないし、ソーシャルワーカーだけでどうかなるもんでもないしと思ったり。

「主体的」な「市民である」ということは、どういうことなのか?
日々の暮らしや社会のことに興味があり、積極的に情報収集して意思決定し、「対話」を重んじてソーシャルなアクションを起こしていくような人?
「主体的」な「市民」って、そんなにまじめで、強くて、頭がよくてアクティブな人のことだったんだろうか。
そういう人に、私たちはなりたかったんだろうか。そういう人たちばかりの社会にしたかったんだろうか。
もっと「主体」や「市民」のイメージを、本当にありたい姿にアップデートしていったほうがいいんじゃないかと思いました。

主体ってのは、すべてが流れ込むフォーラムなんだ。オープンスペースなのさ。流れ込んだものが、そのつどミックスしたり合体して、その時々の主体の状態とでもいえるようなものが、出来上がってくるだけなんだ。固定的な性格とか特徴なんてものがあるわけじゃない。主体ってのは、自由に組み立てられ、ヘテロで脆いプロジェクトにすぎなくて、しかも、それがいつだってどんどん変化していってしまう。そんなものなのさ。個人と言っても、だから、その都度いろんなヤツであり、いろんなものなんだよ。(ウルフ・ポーシャルト、原克〔訳〕「DJカルチャー ポップカルチャーの思想史」三元社、2004年)

ともに書いていくこと

今回の分科会では、呼んでいただいたはいいものの、俺は何だ、何者だ、何をすりゃいいのと気がつきゃ自分に問いかけては自己嫌悪する日々でした。
Facebookメッセンジャーを使った打合せのなかで、布田さんと高山さん、NPOセンターのツチヤさんがうまいこと私の役割を決めていただき、それに乗っからせていただくことでなんとかできました。さらに、いざ開会してみたら参加者の方が登壇したほうが良かったのでは?みたいな人ばかりで良かったです。(登壇する/話を聞かされるではない関係…)


そして分科会以外でも、私のブログを読んでいますという方に会場でたくさんお会いしました。知り合い以外でブログの読者にお会いしたことがなかったので、すごく驚いたしうれしかったです。
あいちコミュニティ財団のことは、僕も今でも引きずっているくらい悩んだんです」と言われた東京の方もいました。その方は「石黒さん(=私です)のブログは、受け入れがたい社会と自分の矛盾や葛藤を、どうにか言葉にしようとのたうちまわっている姿が伝わってきて、いいなあと思うんです」とも言ってくれました。

私は小さい頃、フェミニズムについて書かれた本を読んで「私のまわりにはこういう考えの人はいないけど、世界のどこかには私の怒りや苦しみを分かってくれる人がいるんだぁ」と思うと、夜空の星を眺めるような気持ちになりました。希望だったんです。
でも今は、私のブログや書いた記事を読んでくれる人が私の星です。

わたしが3年前にフリーランスになった大きな理由のひとつは、人間関係に煩わされず自分ひとりで仕事をしたいというものでした。部屋にこもってあれこれ考えるのは全く苦にならないので気楽です。同時に、何の後ろ盾もなく、何の専門性もない自分が、ライターとして何を書いていくべきなのかさっぱり分からず、暗中模索の日々でもありました。

だけど私に必要なのは、自分に何が書きたいかとか、書けるかということではないのかもしれないと思いました。人との関係の中で役立てることを見つけていくこと。今ここで起きていることに目を凝らし、たくさんの人の声に耳をすませ、一緒に書いていくこと。それが自分にとっての自立ではないかと気づきました。

ものを書くとき、誰でも大抵ひとりでコンピュータに向かうものだけど、デスクには書物や雑誌が積み上げられている。それら書物を通じて、書き手は他の書き手と会話するんだ。そうすることで、書き手は少しずつ独りぼっちではなくなってゆく。自分と同じ考えを見つけたり、新しく考え直させられたりするからだ。すべては自分自身の中から生まれてくるという、貧しくて古い考えは、一九九五年、哀れにも終わりを告げた。ものを書くときには、世界全体が必要なんだ。(同)

質的社会調査の方法 -- 他者の合理性の理解社会学 (有斐閣ストゥディア)

質的社会調査の方法 -- 他者の合理性の理解社会学 (有斐閣ストゥディア)

DJカルチャー―ポップカルチャーの思想史

DJカルチャー―ポップカルチャーの思想史

市民活動はアートだー【市民セクター全国会議2018】分科会9・資金提供

市民セクター全国会議2018の感想の続きです。
オープニングの記事はこちら→
いろんな問いがせめぎあっているー【市民セクター全国会議2018】オープニング - #レコーディングダイエット

分科会4(休眠預金)の記事はこちら→
矢印の向きをそろえないー【市民セクター全国会議2018】分科会4・休眠預金 - #レコーディングダイエット


で、次の分科会何に出ようかな~、正直どれもそんなに積極的に出たいと思うのないんだよね~と思い(ほんとごめんなさい)、消去法的に選んだ分科会9「新しい価値を生み出す資金提供」が大ヒット!!!めっちゃ面白かったな~。出てよかったな~。
www.jnpoc.ne.jp

特にセゾン文化財団理事長の片山正夫さんと、一般財団法人おおさか創造千島財団の北村智子さんという、アートをやる人たちに助成している二人のお話がしびれたので、そのあたりを中心に書きます。

何か課題か分からない、でも助成する

「『社会課題の解決』だけが助成の目的じゃない。助成金の目的は『価値の創造』であって、社会課題の解決はそのほんの一部にすぎない」

と、のっけから片山さんのパンチラインが炸裂。『価値の創造』には「新たな知見の獲得」「精神的価値の創出(アートや文化)」「社会への批判」なども含まれると。さらに、最前線では「そもそも何が課題か分からない」じゃん、とも。さらに休眠預金にも様々な思いがあるようで

「価値を創造する助成は「配分」ではありません。配分って、10個のお菓子を10人にひとつずつ配ります、みたいな感じでしょ。それは何も価値を生み出していないわけです。だから『資金分配団体』っていう名前はイメージがよくありませんね」

とも。さらに「前例にとらわれないことは大事だが、本当に大切なのは『ヴジャデ』だ」と。今までに全く見たことのないモノ=イノベーション、ではない。「しょっちゅう見ているありふれたものなのに、なんか新しい感じがする」ことが大事だと。(だから、デジャヴの逆でヴジャデ)つまり、いつもやっていること、コツコツやっていること、ありふれていると思われていることを「新しい目で見る」ことがイノベーティブなんだと。

おおさか創造千島財団の北村さんも同じようなことをおっしゃっていて、「新しい視座を与えてくれるもの」に助成しているという。中には「それってアートなの?」と思うようなプロジェクトもあるようなんですがそれすらも「こういうものがアートだ、というこちらの固定観念を揺さぶってくれるもの」だと考えているということだった。何が出てくるか分からないけれど、その人を信じて助成しているんだと。

さっきまでの分科会4では休眠預金の話で「具体的な社会の課題を抽出しろ!」「課題解決のための革新的な手法を開発しろ!」とか言ってたので*1そのギャップに驚きました。

課題解決じゃない、課題提示なんだ!

聞きながら、最近読んだ小松理虔さんの「新復興論」を思い出していました。小松理虔さんは福島の方で、震災/原発事故後の福島で、食・福祉・アートなど様々な活動をしている方です。

その中に、いわゆる被災地での「アートプロジェクト」について書かれた部分があるんです。みんなで絵を描いたり何かを作ったりすることを通して、人びとの心をいやしたり、交流の機会を作って地域のつながりを取り戻そうといった感じのものです。復興に資する面白い取り組みのように見えますが、小松さんはそこにこそ問題があると言います。

課題解決のためのアートプロジェクト。課題先進地区であるがゆえに、福島ではそれが主流になりつつある。これから課題が山積していく日本の地方でも、おそらく同じ現象が起こるだろう。課題を提示するアートではなく、解決するアート。(中略)課題が解決する方向に動くのであれば、自治体側としてもどんどん推進したいはずだ。文化行政と福祉行政が連携を取れるというメリットもある。課題解決型アートプロジェクトは、今後ますます増えていくのではないかと思う。
 ただ、やはり違和感が残る。アーティストは他にやることがあるはずだ。私はアーティストに介護をしてもらいたいわけではない。コミュニティ支援員をやってもらいたいわけではない。(小松理虔「新復興論」2018年、株式会社ゲンロン)

というわけです。アートには人と人をつなげる機能もある。けれど、アーティストにはもっと他にやることがあるだろうと。

もっと別の何か、さきほど紹介した古川日出男の言葉を借りれば、「事実を語るのではなく真実を翻訳する」ようなことをやってもらいたい。現実のリアリティから解き放ってくれるような作品を、私たちの暮らす地域のなかに提示してもらいたいのだ。徹底して馬鹿げたことをしてくれてもいい。確かにアートには人と人をつなぎ合わせる力はあるのだろう。しかし、それのみが、補助金を獲得する、あるいはアーティストと文化行政が強固な関係を作るために、その効能のみが強調され過ぎているのではないか、ということをしばしば感じるのだ。
 アートの行政サービス化が進めば、文化や芸術を自治体や国がコントロールしていく社会にもつながりかねない。食べていくことは重要だが、その食い扶持を行政に握られてしまっては表現の自由にも関わる。食べていくために自分たちの自立や理念を曲げなければいけないという社会は、食べていくために原発に依存する社会と何ら変わりがないではないか。アート、とりわけ地域で繰り広げられるアートに求められるのは、知らないうちに生まれてしまうその依存の構造を、それが当たり前になってしまった社会に突きつけるような批評性なのではないか。(同)

 この青字にした後半部分、思いっきりNPOの話と同じでは!?!?と思ったんですよ。

NPOの行政サービスの下請け化が進めば、市民活動を自治体や国がコントロールしていく社会にもつながりかねない。食べていくことは重要だが、その食い扶持を行政に握られてしまっては表現の自由にも関わる。食べていくために自分たちの自立や理念を曲げなければいけないというNPOは、食べていくために新自由主義に依存する社会と何ら変わりがないではないか。NPO、とりわけ地域で繰り広げられる市民活動に求められるのは、知らないうちに生まれてしまうその依存の構造を、それが当たり前になってしまった社会に突きつけるような批評性なのではないか。」

批評ですよ批評。片山さんも「社会への批判」も「価値の創造」のひとつとおっしゃってましたよね。*2

 社会課題の解決こそがNPOとかのミッションのように言われているけれど、それだけではないのではないか。考えてみれば、例えば貧しかったり病気だったりで「支援が必要な人」というのは、私たちに「社会の課題」を提示して分からせてくれる人ではないだろうか。そして、貧しかったり病気だったりで「支援が必要な人」の一番近くにいるNPOは、提示された課題を見えるかたちにして表現する「アーティスト」の役割を求められているのではないだろうか。あるいは、「支援が必要な人」こそが課題を提示してくれるアーティストで、NPOはそのアーティストに「助成(成長を助ける)」することが求められているのではないだろうか、そんなことを思いました。

アーティストとは、やはり課題を提示する人たちだ。課題を解決するのはアーティストではない。私たちの仕事である。(同)

(蛇足)
と、美しく終わりたかったのですが、最後に嫌味ったらしいことを書こうと思います。課題の提示。
分科会4(休眠預金)を引きずっていたので、分科会の最後に「お金を出す側ともらう側、という関係になると、どうしてももらう側が出す側の言うことを聞かなくては、と言いたいことが言えなくなってしまうこともあると思います。そういう関係にならないために『出す側』として気を付けていることはありますか?」と質問してみました。
セゾン文化財団の片山さんと、トヨタ財団の大野さんの答えはこうでした。「財団と助成先は対等なパートナーなのだから、上下関係ということはない」「財団と助成先は同じ目標を持って一緒に進むという関係なので、言うことを聞けということではない」。

確かにそうなんだと思います。。。
でも、お金に限らずだけど、「もらう側」はやっぱり自分を下に置いてしまいがちになると思うんです。程度の差はあれ。お二人がおっしゃられているような関係性をお互いに作っていくことが第一だとは思います。ですが、お金を出す側の人たちは、大なり小なり自分たちが権力を持ってしまう存在であるということに、敏感であって欲しいな、とも思いました。

つづく…。

新復興論 (ゲンロン叢書)

新復興論 (ゲンロン叢書)

*1:分科会4の人が言ってたわけじゃないですよ。「休眠預金等交付金に係る資金の活用に関する基本方針」(内閣府)」に書いてあることです。 http://www5.cao.go.jp/kyumin_yokin/kihonhoshin/kihonhoshin_1.pdf

*2:批評は批判だけにとどまるものではないけど

矢印の向きをそろえないー【市民セクター全国会議2018】分科会4・休眠預金

市民セクター全国会議2018の感想の続きです。
(前の記事はこちら↓)
yoshimi-deluxe.hatenablog.com


お昼からは分科会4「休眠預金等の活用は社会課題の解決につながるか?」に参加しました。
http://www.jnpoc.ne.jp/ss2018/2018/08/22/bun14/www.jnpoc.ne.jp

10年以上出入りのない預金を原資に、民間団体が実施するの公益活動に700億円が支出されるといわれている休眠預金制度。700億円というのがどれだけの金額かと言うと、現在の日本の民間資金を元に設立された20団体の助成額と、中央共同募金(赤い羽根)を足した金額(524億円弱)よりもデカいということです。

休眠預金制度はパブリックコメントの内容が審議会で全く議論されないなど、成立までのプロセスに大きな疑問が残るほか、これだけの額のお金の運用を1つの団体(指定活用団体)に任されていたりとその内容にも様々な問題が指摘されています。にもかかわらず制度はあまり知られておらず、NPOも中間支援団体もその内容をほとんど知らないという状況になっています。そのため、分科会の10日前には参加者に制度の概要と問題点をまとめた資料がメールで送られてきました。

「民間公益活動を促進するための休眠預金等に係る資金の活用に関する法律 説明資料」
内閣府
http://www5.cao.go.jp/kyumin_yokin/setsumeisiryou/siryoshu.pdf

「休眠預金等交付金に係る資金の活用に関する基本方針」(内閣府
http://www5.cao.go.jp/kyumin_yokin/kihonhoshin/kihonhoshin_1.pdf
http://www5.cao.go.jp/kyumin_yokin/kihonhoshin/kihonhoshin_2.pdf (概要版)

「現場視点で休眠預金を考える会」意見書
https://peraichi.com/landing_pages/view/kyuminnyokinnpo

登壇者のおひとり、奥田裕之さんに寄稿いただいた記事
「休眠預金の問題を通して、もう一度『市民社会』を考えたい」
http://npocross.net/538/

また、実況は禁止って書いてあったんですけど、登壇者の許可をとってこの分科会を実況された方がいました。私も許可取ればよかった。。。
togetter.com

なので、私は特に印象に残った「福岡すまいの会」の服部さんの問題提起に絞って書きたいと思います。

支給決定と「伴走支援」が同じ人でいいのか?

福岡すまいの会の服部広隆さんは、ホームレス状態にある人や生活保護を受けている人などへの支援活動をされています。
現在の仕組みでは、その人に生活保護費を支給するかどうかの「支給決定」と、生活面での支援を生活保護を担当するケースワーカーと呼ばれる市町村の福祉事務所の職員の人が担当することになっています。

f:id:yoshimi_deluxe:20181123064830j:plain
(服部さんの資料をもとにyoshimi_deluxeが泊まったホテルのメモ帳に手書きで作成)

お金の出し手と生活の支援を担当する人が同じだと「働きなさい」とか「××はやめなさい」とかケースワーカーに言われたら、「はい」と言って従わざるをえないのではないでしょうか。でも働けと言われてすぐ働けるならば、生活保護が必要な状態にはそもそもならないわけです。
その人には様々な事情があり、自分でもなんとかしたいんだけどどうにもならなくて困っている。そういうことを一緒に考えていくことが支援だと思うんですが、お金をあげるーもらうという関係性が固定されている中で、ぶっちゃけた相談が果たしてできるものでしょうか。

f:id:yoshimi_deluxe:20181123065743j:plain

服部さんが提案したのが、一対一の関係でなくそこに介入するソーシャルワーカーに相談援助の機能を持たせ、三角形の関係をつくることです。生活保護を利用している人のまわりに一方的ではない力関係をつくることで、その人の権利を守り支えていくことができるのではないかと。

休眠預金は、

全国で一つの指定活用団体 → 地域ごとに選ばれるといわれている資金分配団体 → 実際に助成を受ける団体(NPOなど)

という方向にお金が流れ、かつ「資金分配団体」はお金を挙げるだけでなく、助成を受ける団体に「伴走支援」するーつまり活動に口出ししたりするーことも求められるようです。NPOが資金分配団体や指定活用団体の意向を気にして、自分たちの活動に無理をきたすことがないといえるでしょうか。

服部さんが提案したのは、資金分配を受ける資金分配団体と、伴走支援をする資金分配団体を分けて助成を受ける側が選べるようにできないかとか、どの資金分配団体にでも助成を受ける側の団体が応募できる(愛知県の団体は、愛知県のこの資金分配団体にしか応募できない、とかじゃなくて)ようにするとか。矢印の向きを一方向にしないで、支援が支配にならない構造を作れないかということでした。

NPOが「休眠預金を使って」活動をする意味とは

ちなみに休眠預金というのは「民間団体がおこなう公益活動」のために使われるのであって、助成を受けるのはNPO法人などに限らず株式会社でもOKなんだそうです。

だけど休眠預金って、知れば知るほどモヤっとする制度です。

どこの誰とも知らない人が、うっかり忘れてそのままになっているお金。それを使わせていただいたところで誰も困らないし*1、財源に困っている団体に新しい資金ができるならいいじゃないですか。

…とは単純に思えない私がいまして。
そもそもNPOって、もともとは自分がこれはおかしいな、とか、こうしたいな、と思った人が、同じ思いの人と一緒にやっていくものじゃなかったでしょうか。人もお金も共感してくれる人から少しずつでも集める。誰に言われるのでもなく、自分たちのことを自分たちで決めて行動する。それが「市民社会」というものではないのでしょうか。

富国というのはまさにビジネスを大きくすること、商売を繁盛させることですね。強兵というのはまさに行政セクターを大きくして支配しようということなんです。軍隊だけのことじゃなくて、近代化というのは、結局この二つのことをなるべく最短距離でやりましょうというのが東アジアの特徴的な近代化です。
 そこでは、この二つが主になるというのは、まさに「公=パブリック」ということがこの行政と企業という二つにセクターに独占されるといってもいいのです。特に、国に独占されたわけですから、人々が力を合わせて助け合うとか、地域のために行動する、社会のために行動するという行為そのものが、社会的に評価されない。(中略)
けれども、もうそろそろグローバルスタンダードで外からぶち壊されているわけです。(中略)もう一つはグローバルスタンダードではなくて、「そういうことはおかしいよ」という市民自身が、自分たちのことや社会全体のこと、あるいはこの地域で寝たきり老人のこととか、まさに「社会」のことなんですが、そのことを市民が自分で担って考えましょうと言い出した。つまり「公共的なことをやる市民」というのがこの間非常に増えたわけです。(加藤哲夫「市民の日本語」2002年,ひつじ書房

「人々が力を合わせて助け合うとか、地域のために行動する、社会のために行動するという行為」を社会的に評価するために、NPO法というのが20年前に施行されたのではなかったのでしょうか。そういうことに、「あるから」という理由で、誰の意思も入っていない、もやっとしたお金を使ってもいいものなんでしょうか。もしも「よい」ということであれば、もともと誰かのものだったお金をその人の意思に関係なく使ってでも「公益」のためにやらなければいけない事業とは何なのか。そういうことを考えなければいけないと思いました。

 そして、「革新的な」事業案を出して、「大きな成果」を出すことで大きなお金を獲得していく活動だけでなく、なけなしのお金と、少しずつのボランティアの力でも、コツコツと自分たちにとって本当に大切だと思える活動の価値を、きちんと認識して尊重していかなければならないなと思いました。それは、清貧だとかピュアだからという理由ではありません。自分や自分たちの社会を支配するーされるの関係で苦しくしないための、ラディカルな手段でもあるのではないかと考えるからです。

つづく…。

(2018/11/26追記)
分科会4に登壇された実吉さん、藤枝さん、奥田さんもメンバーの「現場視点で休眠預金を考える会」が署名を集めています。
休眠預金がより民主的に使われるための意見書に賛同される方は、ぜひ署名をお願いします。
peraichi.com



*1:休眠預金は公益活動に使われたとしても、本人が申し出ればいつでも本人に戻ってきます

いろんな問いがせめぎあっているー【市民セクター全国会議2018】オープニング

このブログを読んでいただいた方がきっかけで
11/22、23に開催される「市民セクター全国会議」にお声がけいただいたので
東京に来ています。

準備のために色々本を読んだりしていたのですが
私がこの会にできることとして、Twitterで実況をしては!?と
前日の夜に突如思いつきました。

私は11/23の分科会14「支援における関係性を考える」に登壇させていただく予定なんですが、前乗りしてオープニングから参加し、出られる分科会などなど全部出てこようと思います。

こんな感じで、めったにしない早起きをして新幹線に乗ってやってまいりました。
寝不足と緊張とでテンションが上がっています。


それで、よっしゃやったるでー!私のキーボード&iPhoneが火を噴くぜー!と、実況のために会場の最前列のセンターを確保したところ、


まさかの実況禁止!!!
えー、なんでー、それって市民社会的にどうなのよ、広がるよ?と思ったんだけど、有料のイベント(【両日参加】10,000円 (日本NPOセンター正会員 8,000円)【1日参加】 8,000円(日本NPOセンター正会員 7,000円))だしなあ、と。今までも無料のイベント以外は実況しないようにしてきたんだけど、でも実況ってどんなに上手にやっても会場に来て聞くのと比べたら1%くらいしか伝わらないからいいのでは?と、緊張と寝不足とで軽躁ぎみになっているせいで無駄にイラっとしました。

しかし編集は不足から生まれるといいますので、これを機に実況ではできない方法で会場の様子をお伝えしようと思い、ブログにまとめてみることにしました。

「問い」を共有するというチャレンジ

市民セクター全国会議では2日間の分科会の前に全体セッションというか、オープニングイベントがありました。この会全体のねらいとか、それぞれの分科会の位置づけについて主催者であるNPOセンターの方から説明がありました。

過去に開催された全国会議では、オープニングでは基調講演みたいな感じでゲストを呼んで話してもらっていたそうなんです。が、今回は「参加者みんなで問いを出し合って共有し、対話していこう」というコンセプトだそう。

それで、今回は sli.do というツールを使って参加者の皆さんから問いを出してもらうということに。
sli.do ってイベントではよく使われるんですかね?私は初めて知りました。
(参考)
イベント運営に便利なsli.do の使いこなしかた – Shunya Ueta – Medium

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(写真は加工しています)

スマホとかからsli.doのサイトにアクセスして質問を投稿するというものです。最初「これだったらTwitterハッシュタグ使ってやればいいのでは?」と思ったんですが、Twitterアカウントを持っていない人でもできるし、会場にいる人に限定してできるのでそれはそれでいいのかな?と。

とはいえ、やはり使い慣れていない人も多い上、大量の投稿が集まるのに検索やカテゴリ分けができなかったり、感想や使い方に関する質問、会場付近の美味しいランチ情報も投稿されるなどカオスな雰囲気に。カオス自体は悪いことではないし、それが可視化されるのも面白いと思ったんですが、これをもとに議論しようとするときついものがありました。

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たくさんの「いいね!」がついた投稿をした人の名前が分かれば会場であてて、その人にその問いを出した思いや補足なんかをしゃべってもらうんですが、スライドに投影している最中にも新しい投稿が入ると画面が更新されてしまったりして大変そうでした。

また、100人くらいいる会場でのディスカッションって難しいなと思いました。進行役の人が手を上げた人やsli.doに書き込みをした人を当てながら話していく、という方法なんですが
100人もいると言葉の定義もいちいち確認できないし、色んな立場の人がいるし、せっかくみんながいろんなことを言ったり思ったりしているのに、深めるよりも流れていってしまうような感じがしました。オープニングなので深めなくてもいろいろな問いが出ることが大事だし、たくさんの人が集まるカンファレンスではこうなりがちなんだと思うので全国会議だけに限ったことではないと思うんですが。

でも、せっかくの機会なので「NPOは行政の下請けになってはいけないですよね」「異なる立場の人の間での対話が大事ですよね」という、いつも聞いている話ではない話を聞きたいなあ、という期待もあったのでちょっと物足りなく感じました。「答え」でなく「問い」を出すというのはナイスアプローチだと思ったので、ある程度の人数でもそれを実現できる仕組みや場をつくるアイデアが足りていないんだなと感じました。

今インターネットの時代になって、メーリングリストだったり、電子会議室だったりするものが、そういうことを技術的にはサポートしているんですけど、理念的にそういうことを誰もサポートしていないもんだから、そこが単なる相手をやっつける場になったりとか、いろんなことが起きるだろうと思うんです。だからまさにそういうことは文化とか作法とかで保障されていかないといけない。でないと技術が単なる技術で終わっちゃうんだろうという気がします。(加藤哲夫「市民の日本語」2002年,ひつじ書房

市民セクターというのは、小さな声や参加型の議論を尊重してきた、と私は思っています。今ではときに陳腐で退屈なもの、となってしまったワークショップとか、参加型の議論を可能にしてきたテクノロジーを分析したり批評したりしながらアップデートして、色んな場(リアルでもインターネットでも)で使えるようにしていくこと。それこそが「市民社会」を豊かにしていくことではないか、と思いました。

つづく

私がやって良かったと思ったSROI測定ーー「新しい価値」はあなたを揺るがす

NPO界隈で物議を醸しているSROI測定ですが、私が実際にやってみて「良かったな~」と思ったSROI測定について書きたいと思います。なお、このブログでは「SROIとは何か」については書かないので、ご存知でない方はググるなどして調べてから読んでいただけると幸いです。いちおうめっちゃ短くまとめられていたサイトも載せますが、超概要なのでそれぞれ調べてください。
andomitsunobu.net

私とSROIとの出会いは2014年頃。NPO等の非営利活動の「成果」を数値で測る新たな手法として注目され始めた頃だったと思います。私はこのイギリスからやってきた黒船がどんなものか知りたくて、また、ライターとして独立を考え始めた時でもあり、「これは知っておくとメシの種になるかもしれない」というヨコシマな気持ちから、名古屋で開催されたセミナーに参加したり*1、英国SROI NetworkのJeremy Nicholls(ジェレミー・ニコルズ)さんが来日した際には東京まで行って2日間、SROIの手法を学ぶトレーニングを受講したこともあります。*2

新しいものさしをつくる

そんなこんなで、実際に理解しているかどうかはともかく「多少SROIが分かるらしい人」ということで、2015年にコミュニティ・ユース・バンクmomoさんが実施した「NPOの社会的価値「見える化」プログラム」に参加させていただくことになりました。
これはmomoの融資先のあるNPOの事業が社会に与えたインパクトをSROIを使って測ってみよう、そしてNPOの事業の次の打ち手を考えてみようという実験的なプロジェクトでした。メンバーとして地元の信用金庫など地域の金融機関の若手職員の人たちが何名も参加されており、SROIという手法をNPOのスタッフの皆さんとともに学びつつ進めていくというものでした。

私が入ったチームは、障害児向けの放課後等デイサービスなどを行っているNPOの事業を考えることになりました。
しかし、SROI以前に金融機関の職員さんたちはそもそも「放課後等デイサービス」が分からないのです。今ほどメディアで取り上げられることもなかったため「発達障害」も分からない人がほとんど。障害とは何か、誰が何に困っているのか。それでどんなサービスが必要なのか。誰がお金を出しているのか。そんなところからのスタートでした。

SROI測定ではインパクトマップというものを作るのですが、それは机上で考えているだけではできないんですね。このNPOの場合は児童デイに来ている子の親御さんとか、通っている養護学校の先生とか、NPOの職員とかにヒアリングしないと作れません。私はサボって全然行きませんでしたが、チームの皆さんは仕事が終わった後や休みの日に現地に足を運び、色々な人のお話を聞きに行っていました。
そのヒアリングの内容を持ち寄って、「あの人がこう言っていたことが事業の価値なんじゃないか」「この人がこういうことで変わったんじゃないか」といろんな面からこの事業って何なのか、みたいなことをみんなで話し合って考えていきました。仕事が終わってから集まることもあり、手軽な値段で借りられる会議室がなく、なぜか金山駅前のカラオケボックスでミーティングをしたこともありました。

そんな中で、みるみる金融機関の職員の方が変わっていくのが分かりました。日々の暮らしに常に苦労を抱えている子がいること、親御さんの不安、それらの受け皿の少ない社会。それを何とかしたくて土日も休みなく働いているのに、本当にこれでいいのかと自信を持てないでいるNPOのスタッフ。普段の融資やテラーの業務では出会わなかった人や考え方にふれ、彼女ら彼らの社会の見かた、地域の金融機関の役割とはなにか、自分の仕事とは何かについて、深みと広がりをもって考え直していったようなのでした。
同じくNPOの職員の方も、金融機関の方から「それの何がいいの?」「何がダメなの?」と率直な質問をされることで、これまでの自分たちの世界にはなかった視点から、事業を見かえすことができたのではないかと思います。

そんな人たちが集まって、そのNPOの「価値」を考えられたことが一番の「成果」であって、結果的にはそのNPOのSROIが何点だとかはもうどうでもいいんじゃないか、と私はプロジェクトの終盤になって思うようになりました。
一つのものさしでは、一つの価値しか測れません。定規なら長さ、体重計なら重さしか測れないんです。でも、普段の「融資をしてほしいNPOと銀行員」の立場では「私たちの事業はこんなに重たいから、価値があるんです」「いやいや、これだけの長さしかないじゃないですか。それではお金は貸せません」となりがち。でも、今回のプロジェクトでは、NPOと銀行の人が一緒になって、どちらも納得ができる「新しいものさし」を開発できたことにこそ、意味があったのではないかと思いました。
私が「やって良かったと思ったSROI測定」の概要は以上です。

なぜSROIを受け入れがたいのか

ここからは、NPOの中になぜ根強いSROIへの拒絶感があるのか、私なりの考えを書きたいと思います。

やってきた事業の「成果」をあきらかにする。その「成果」を「誰が見ても明らかな」「客観的な」、「数値」にして示す。いいじゃないですか、公正じゃないですか、わかりやすいじゃないですか。それの何が嫌なのでしょうか。

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いきなりたとえ話になるんですが、あるところにサッカーがすごく得意な人たちがいるとします。
この人たちはサッカーが大好きで、サッカーを通じて国内外問わずたくさんの友人を得ることもできました。サッカー選手として活躍する人もいれば、サッカーのクラブチームを経営したり、サッカー場でグッズを売ったり、サッカー教室の先生をしたり、サッカーを通じた地域おこしでお金を稼いだりしてピースフルに暮らしています。

ある時、この人たちは、サッカーが上手じゃない人たちを発見します。この人たちはサッカーが苦手なために、うまいことお金を稼いだり、仲間を集めたりすることができずに困っていました。
サッカーが得意な人たちは、「全くの親切心から」、サッカーが苦手な人たちにサッカーを教え始めました。こういうテクニックを使うと得点しやすくなるよ。こんなトレーニングがおすすめだよ。チームはこういう風にマネジメントするものなんだ。ファンサービスはこうしよう。得意な人たちは苦手な人たちがサッカー文化に適応しやすくなるよう、様々なアドバイスをしてくれました。

それでサッカーがうまくなり、幸せになった人たちもいました。
しかしその反面、このやり方ではどうにもダメな人たちもたくさんいるのです。

たとえばある団体は「ずーっと絵を描いていたい」という団体でした。自分たちは絵が描きたくてこの団体を作ったのに、やれもっと筋肉をつけろとか、このスパイクを履けとか言われても戸惑ってしまいます。そもそもこの団体には、以前にサッカーのカルチャーにどうしてもなじめず、落ちこぼれだと責められ続け、傷ついてきた人も集まってきているのでした。

けれども、サッカーが得意な人たちは、このお金が無くて存続の危機にある絵の団体を心配してこう言いました。
「絵を続けるためには、たくさんの人に共感してもらって、資金を集める必要があるでしょう。そのために、絵の活動の価値を数値にして、みんなにわかってもらおうよ」。
活動を広く理解してもらうために、サッカーのフィールドにおいでよと呼びかけているのです。

これを聞いて、絵の団体の人は言いました。

「私たちは、サッカーがうまくなりたいと思って活動しているのではありません。
 むしろ『サッカーってどうして手を使ってはダメなんだろう?』とか
 『後ろ向きにしか走れないサッカーを作ったらどうだろう?』とか
 『得点が多い方が勝ちなのはなぜ?』とか
 『勝ち負けを決めないと楽しめないんだっけ?』
 ということを考えるために始めた団体なんです。
 つまり、サッカー以外の文化をつくるためにやっている活動を、
 サッカーのルールで評価されることに、違和感を感じているんです
」。

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…というわけなんです。
例えばボブスレーをやっている人に、サッカーのルールでもって「そんなソリなんか乗ったらダメじゃん」って言ったら「はあ?」って言われますよね。
ところが、「SROIで測られたくない」という人たちは、「競技スポーツですらない」わけなんですよ。ボブスレーとサッカーなら、多少ルールは違ってもオリンピックで勝つとか同じ目標が持てたりするかもしれないけれど、サッカーと絵画とか、サッカーと演劇とか、サッカーとシャボン玉づくりとかだと価値の「ものさし」自体が違いすぎるわけです。
サッカーの人も絵の人も「もっと社会で楽しくラクに暮らせる人が増えたらいいな」と思っているのに、なんでこんなにずれてしまうんでしょうか。

例えば、このようなずれがあるとは考えられないでしょうか。

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問い:『社会課題の解決』とは何でしょうか?

Aさんの答え:社会課題の解決に取り組む団体がきちんと評価され、勝ち残っていける新しい市場(準市場含む)を作ることです。
Bさんの答え:社会課題を生み出す「市場」自体の仕組みを疑い、違った仕組みを作り出すことです。

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「社会を変える」という時、ある団体は「誰でもサッカーを楽しめるようにすること」を目標にしているのに対し、ある団体は「サッカー以外にも楽しくチャレンジできる文化を増やしていくこと」を目指しているんです。

ルールにないものをどう讃えるか

もちろん私はサッカーに何の恨みもないんです。(サッカーというのは喩えなので…でもサッカーファンの皆さんすみません)
ただ、サッカーなら「嫌ならやめろ」で済むのですが、これが「資本主義」とか「効率主義」とか、「公金は正しく公平にムダなく有意義に使いましょう主義」だと、ここから降りたら生きられなくなってしまうのではないか、と思ってしまいます。

いくら市場の矛盾が「社会課題」を生み出しているんだよ!と叫んでも、当面は絵を描くための筆や絵の具は市場から調達しなければいけないし、NPOのスタッフには生活していけるだけのお給料を払わないといけません。
中にはこうした疑問に正直に生きるため、山奥とかで完全に自給自足のコミューンを作って資本主義との関わりを断って理想を実現していくタイプの人もいますが、別にすべての団体がそうしたいと思っているわけでも、そうしなきゃいけないわけでもないし、それこそこうした活動は限られた人にしか「インパクト」を与えていないよなあとも思います。

だからすごく「サッカー」の誘惑って魅力的なんです。サッカーはすでに人気があるし、認められやすいし、分かりやすいルールもあるし、スタッフのお給料も上げられるかもしれない。

対して「サッカーじゃない文化」って、具体的にはどうやって作ったらいいか分からないし、色々やってみても認められないどころかキモがられたり怪しまれたりするし、自分が生きている間に実現するかもわからない。

だけどそれこそが、オルタナティブを作っていくことこそが、残念ながらNPOの最大の魅力でもあるんだと思います。それは後ろ向きに走るとか、歌を歌うと1点入るみたいなルールのサッカーを作ることでもあるので、「サッカー」の世界の「ものさし」ではキモいし、意味が分からないし、役立たないもので当たり前なんだけど、もしかしたらサッカーでは苦しかった人が楽しくなるものかもしれない。うまくいけばサッカーの人にも「こういうのも悪くないじゃん」と思ってもらえるかもしれない。

少なくとも私は、「伴走支援」というのはゼイゼイと走っている人の横で、車の中から『正しいサッカーのルール』を説くことではなくて、一緒に走って転んだり、ドブに落ちたりしているうちに『支援者だった自分の価値観(ものさし)も変わってしまう』ということだよね?『社会が変わる』ってそういうことだよね?と思うので、やすやすとサッカーのコートには立たないぞというやせ我慢も大事かなと思っています。

だから、NPOの経営ってかっこいいものでも清いものでもなくて、「サッカーのルールに目配せしつつ、サッカーじゃない価値を確かに作っていく」っていう、アスリートでもありアーティストでもあるような、肉をずったずたに切られながらもじわじわと対戦相手の骨をもろくしていくようなしたたかさが必要な、難しい仕事だなと思いました。
(繰り返すけど、でも、それが面白いんじゃないの?)


最後に、最初に戻ってSROI測定について。これが休眠預金とか、公的なお金の分配に使われるようになるとして、それがいいかどうかの議論はとりあえず置いといて、「絵を描きたい」派のNPOはどうしたらいいかについて、私の思いつきを書きます。

1)「サッカーのルール」にのっとらないロジックモデルやインパクトマップを作ってみよう

「アウトプット(結果)」や「アウトカム(成果)」を、「サッカーのルール」とは違う視点で考えてみましょう。税収が増えるとか社会保障費が抑えられるとかの視点は「サッカーの得意な人」に任せて、そうじゃない面白い価値がきっとあるはずです。*3
ただ、結果として「貨幣価値に換算する」というプロセスでは「サッカーのルール」の影響を大いに受けることになりますので、ここで皆さんが出したアウトカムは最終的な点数を上げることにはたぶん寄与しないと思われます。(笑)でもきっと、一緒にSROI測定をした人が持っている「ものさし」を揺さぶるものにはなると思います。

2)「技術点」だけじゃなくて「芸術点」を加えませんか

これはSROIに限らずだけど、「サッカーのルール」を採用したほうがいいなと思うこともあるんです。例えば休眠預金がNPOに分配されるとして、そのNPOが不正な経理を行っていないかとか、「指定活用団体」と「資金分配団体」が癒着していないかとか、NPOの内部にパワハラがあって新たな社会課題を生み出していないかとかっていう、まあ当たり前のチェックはしたほうがいいと思うんですよ。これと、「税収が増える」「社会保障費が抑えられる」というのも、「既存のサッカーのルール」として受け入れてもいいということにします。これら、既存のルールに関する得点を「技術点」と呼ぶことにします。

でも「社会を変える」とゆーのは、「新しい市場をつくる」とか「市場競争に参加できる人を増やす」とか、ましてや「現状の政治や経済の枠組みをそのまま延命する」という小さなスケールだけにとどまるものではないですよね?

「変わってしまった社会」を、「変わる前」のものさしで測ることって、あんまり意味ないと私は思うんです。だからここで、サッカーのルールは最低限押さえつつも、新たな楽しいゲームの仕組みを考えて実践したNPOがあれば、それを評価する、という「芸術点」を併せて採用してはどうかと思います。
今までにない価値をはかる「ものさし」はまだ開発されていないので、どう加算していくか謎なんですけど、ひとつは科学技術の世界で行われているように、「専門家どうしの相互評価に重きを置く」というのはありかなと思っています。ただ、科学技術と違って非営利/ソーシャルセクターの分野では、こうした相互評価、相互批評の文化がまだほとんどないので、ここをヘンな権威にしないで健全に、できるだけ多くの人が面白く読めるようなシーンに育てていくことが大事なのではないかと私は思います。

ちなみにこの「芸術点」の考え方は、下記の現代ビジネスの記事と、昨年度までに一般社団法人CSRコミュニティが行ってきた「愛知型 地域から愛される企業」の認定/表彰制度のプロトタイプ作りの活動(私も少しお手伝いしました)に大いに影響を受けました。よかったら見てください。
gendai.ismedia.jp

www.csr-com.jp

今回も長くなりましたが、私がこの記事を書くうえで多大な絶望と希望とインスピレーションを与えてくれた2冊を紹介して終わります。

資本主義リアリズム

資本主義リアリズム

0円で生きる: 小さくても豊かな経済の作り方

0円で生きる: 小さくても豊かな経済の作り方

*1:受講料が27000円くらいかったと思う

*2:これも受講料だけで8万くらいかかった

*3:抽象的な議論というか、出来事を抽象化するのが苦手な人にはこれがハードルになるのですが、そういう時は得意な人に手伝ってもらおう!

社会運動は大人になれるのかー『レッド』とユリイカの山本直樹特集を読んで

山本直樹さんが連合赤軍事件と浅間山荘事件を描いた大作「レッド」が遂に完結しました。

なんと12年にもわたる長期連載!
徹底した取材でほぼ事実に基づいて描かれ、連合赤軍メンバーだった植垣康博氏をして「この作品のすごいところは、事実を無視した創作が持ち込まれていないことである」とまで言わしめています。

さらに期を同じくして「ユリイカ」でも山本直樹特集が組まれました。

この中で山本直樹氏自身は何度も「『良いことをしたい、この世界を少しでもまともにしたい』と思ってアレコレがんばった末に、いつのまにかとんでもないことになっていた という人たちに興味がある」と言っています。
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連合赤軍事件、そして先月実行犯の死刑が執行されたオウム真理教事件にも氏は興味があったと述べているんですが、「この世界を少しでもまともにしたい」という熱意ある若者のピュアネス、葛藤、危なっかしさという意味では、現在私が関わっているNPO/ソーシャルビジネス業界にも共通するところがあるのではないかと感じてしまいました。

人殺しをした集団と一緒にするな!という意見もあるでしょうが(ごめんなさい)、人殺し以外では非常に似通ったものを感じてしまいます。「ユリイカ」によれば日本赤軍は殺人事件が明るみに出る前までは「人気」があった、ゴールデン街でカンパを募るとどんどん集まったということですし(飲み屋ファンディング!)、「レッド」を読んでも多くの支持者が資金や隠れ家を提供しながら活動を続けていたことが分かります。オウム真理教も、サリン事件の前まではゴールデンタイムのとんねるずの番組とか普通に出てたし…。

『社会を変えてくれそうな存在』として期待されていた、というもてはやされ方に加えて、今までにない/その界隈の人以外にはそんなに通用しない/それでいて何だか良さそうな「新しい言葉」を使って、自分たちこそ「多くの人を巻き込んで」「社会を変えていかねばならない」という正しさに突き動かされているさまは、現代のわたし(たち)もオウムも連合赤軍の人たちも似ているんじゃないか、と感じずにはいられないのです。

では、どうしてそういう団体が「とんでもないこと」になってしまうのか。それが分かっていたらオウム事件も起こらなかったのかもしれませんが、今でもはっきり分かっていないような気もします。
私は「ユリイカ」の富永京子さんの論考を読んで、こうした「社会を変えたい運動」の「書かれ方」「語られ方」を考え、変えていくことが、もしかしたら暴走を止めうる一つの方法になるかもしれない、と考えました。

社会運動を描くことには、特有の困難がつきまとうのではないかと筆者は考える。第一に、当事者が生きていて完全に「歴史」化されていない以上、どんな第三者よりも、当事者のほうが事実をよく知っているという前提(しばしば誤解)がある。このことは、「当事者の発言が最も彼らの意味世界をよく表している」という読み手の認識を生み出してしまう。第二に、社会運動という対象そのものがもつ劇的さである。自らの正しいと思う理念や規範を達成しようとする集団行動の魅力ゆえに、書き手も読み手も強い共感(あるいは忌避感)を持って受け止めることが少なくない。本作は、二つ目の困難を冷静に退けながら、抑制の利いた記述を積み重ねることで、社会運動の記述にまつわる第一の困難があくまで我々の誤解にすぎないと証明してくれる。(富永京子「組織と個人を透徹に描く 合理的な個人による不合理な集合行動としての『レッド』」ユリイカ総特集「山本直樹」2018年,青土社 ※強調はyoshimi_deluxeによる)

「当事者」へのフォーカスのしかた*1、「強い共感(あるいは忌避感」を押し出すところは、まさに現在のNPO/ソーシャル界隈をめぐる言説にも言えることではないでしょうか。そしてこれこそが「正しいけれど、なんか窮屈」な感じ、モヤモヤとした違和感を口に出すことをためらわせてしまう原因ではないかしら、と私は考えました。

こうした事件の叙述の在り方としてよく見られるのは、まず「頭のおかしい人びとの逸脱行動」として描くか、あるいは「理想に生きた若き活動家たち」に対して、過度に共感的な描き方をするかのどちらかとなるだろう。しかし『レッド』はそのどちらでもない。本書で描かれているのは、それなりに他者と共有可能な生活の背景や人生の経緯を有する人びとであるにもかかわらず、殺人やリンチを伴うおかしな集団行動に傾倒してしまうというその過程だ(同)

NPO/ソーシャルビジネスがマスコミで取り上げられるとき、私たちがその活動をSNSでシェアする時(賛成の時も反対の時も)、「過度に共感的」な取り上げ方をしていないだろうか、と思いました。
ちなみに私は『レッド』を読んで、主人公たちが拠点を山岳ベースに移していくにつれ外からの情報が入らなくなり、自分たちの信じる「正しさ」で自分たちを追い込んでいくところと、SNSで似た意見の人・同じ階層/業界/セクターの人ばかりで盛り上がっていくところは似ているなと感じました。

他者の行動を解釈しようとするとき、私たちはしばしば共感や同調を前面に押し出そうとする。社会運動のように、強い理想や信念に満ちた行動であれば、なおさらその傾向は大きい。しかし、そうではない他者に対する理解の仕方があることを、本作を描く作者の目線が教えてくれる。近年、社会運動や政治運動はますます外部から「理解不能な」「不合理な」ものとして、あるいは内部から共感が当然のものとして論じられることが少なくない。明確に参与者と非参与者の境界が分けられ、「完全に共感はできないが、理解はできる」という態度を取りづらくなっているようにも思う。(同)

私はNPO/ソーシャル界隈でよく言われる「自分ごとにする」という言葉になんとなく違和感を感じていたんだけど、そこに「共感を押し付ける」ようなニュアンスを感じていたからかもしれない、と思いました。社会問題はたくさんあって、そのどれもが私個人の生活と結びついているものだとは思うんです。でも、その全部を何とかする具体的な活動に対してコミットできるほど、私は「自分」を拡大できないなあ…と思うのも事実で。

むしろ「他人ごとだけど、尊重する」という姿勢のほうが大事なんじゃないか?と考えました。自分ごとだから大切にして、他人ごとだからほっておく、じゃなくて。自分ごとじゃないけど「へえ~そうなんだ。じゃあそれも大事にしよう」という姿勢とか、他人ごとどうしの関係を調整していこう、という方法だって私たちは選択できるんじゃないかなと。それこそが「私とは直接関係ないけどそういうのもいいんじゃな~い」という、広くてゆるい合意形成とか、色んな人の居心地を悪くしない多様性を生むんではないか、と。


山本直樹さんのような卓越した表現はできなくても、私はNPO/ソーシャルセクターをその内部からも外部からも書いたり語ったりするうえで、『レッド』から学ぶ手法は多いのではないかと感じました。共感でも敵視でもなく、一つ一つの事実や言説を丁寧に観察すること。誰しも食欲や性欲や自己顕示欲や、人に優しくしたい気持ちやずるしたいという気持ちを持つ生活者であるということを忘れないこと。イデオロギーやカテゴリーについて深く学び考えたうえで、それにとらわれないで事象を批評すること。
要するに決めつけないでつねに「ほんとかな?」って思い続けるっていうことなんだけど。エマーソン北村さんみたいに「他者」と関わっていくっていうことなんだけど。そのためには、安易に「共感」の快さに流されないこと、自分や他者の小さな声を軽んじないこと、要するに「個人」であることがまず大事なんじゃないかなって思いました。(こういう考え方ってもう古いのかな。でも、とりあえず古くてもいいや…)

だって「私」や「誰か」という一人ひとり、ひとりの人のために「社会」や「社会運動」や「市民活動」があるのであって、その逆では決してない、と思うからです。
だけど「私」という一人はあまりにも小さく、弱く、たよりなく、だらしなく、そのどうしようもなさに耐えられなくてつい「劇的」で「正しく」て「良さ」が感じられる物語にすがって自分を預けたくなってしまうけれど、
本当に社会が変わるということ、成熟するということは、一人ひとりの小ささ、弱さ、たよりなさ、だらしなさ、どうしようもなさが「しょうがないなー」「まあいいんじゃない」って感じで受け入れられることなんじゃないかなって思いました。

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*1:これは過去に「当事者」を置き去りにした活動が展開されたことへの反省によるものだと思う。でも「当事者」を絶対視して特別扱いすることもまた、「当事者」を「私たち」とは違う存在に閉じ込めることにもならないだろうか。