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うしろめたさゆえの短絡的な寄付ー寄付は贈与か交換か

前回の記事の続きです。

あいちコミュニティ財団のおこぼれにあずかろうと思っていた自分、財団内の色々について知っていたのに何もしなかったといううしろめたさにさいなまれ、私は藁にもすがる思いでこの本を手にしました。

うしろめたさの人類学

うしろめたさの人類学

「うしろめたさの人類学」とありますが、手に取ってみると筆者自身のエチオピアでの経験と、モースの「贈与論」などを引きながら「贈与」や「交換」や「市場」「国家」なんかについて論じるというもの。これはやはり今の自分にピッタリではないかと思い、どんどん読みました。

うしろめたい中流階級の私

 エチオピアを訪れた日本人が最初に戸惑うのが、物乞いの多さだ。街の交差点で車が停まると、赤ん坊を抱えた女性や手足に障がいのある男性が駆け寄ってくる。生気のない顔で見つめられ、手を差し出されると、どうしたらよいのか、多くの日本人は困惑してしまう。
 「わたしたち」と「かれら」のあいだには、埋めがたい格差がある。かといって、みんなに分け与えるわけにもいかない。では、どうするべきなのか?これは途上国を訪れた旅行者の多くが抱く葛藤かもしれない。(松村圭一郎「うしろめたさの人類学」ミシマ社、2017年)

 ホームレス支援のボランティアをしていた時にキツかったことがある。
 夜回りをしてカイロや食べ物を渡し、少しお話をしてありがとうと言われる。野宿の人も一緒に炊き出しの準備をし、みんなであたたかいものを食べて、教えてもらいながら片付けをする。イベントに呼ばれてみんなでビッグイシューの出張販売に行き、打ち上げと称して飲みに行ったこともあった。
 その時はお互いに仲間になれた気がして楽しかったけど、帰りは別々になる。私があたたかい風呂と寝床のあるアパートでグースカ寝ている時に、さっきまで一緒にいた人たちは、屋根もなくいつ襲撃されるかもわからない冷たい地面の上で眠るのだ。それを思うと辛かった。私のやっていることって何なのかなと思った。

 最近、エチオピアでは、私もポケットに小銭があれば、誰かに渡している。なるべく収支の帳尻をゆるくして、お金が漏れていくようにしている。
 自分が彼らよりも不当に豊かだという「うしろめたさ」がある。つねに彼らからいろんなものをもらってきたという思いもある。*1そのうしろめたさに、できるだけ素直に従うようにしている。
 それは「貧しい人のために」とか「助けたい」という気持ちからではない。あくまでも自分が彼らより安定した生活を享受できているという、圧倒的な格差への「うしろめたさ」でしかない。
 この違いはとても大きい。善意の前者は相手を貶め、自責の後者は相手を畏れる。(同)

 私が寄付をしたりボランティアをするのは、何よりもこの「うしろめたさ」が原動力だったのではないか。そして、もしかして今、コミュニティ財団みたいなところや、NPOや、クラウドファンディングに寄付をしたい人や、被災地でボランティアをしたい人や、フェアトレードの商品を選びたい人の動機にも、この「うしろめたさ」があるのではないかと思った。なので、「うしろめたさをなんとかしたい」という目標(Mission)に対して「寄付」という行為(Activity)がどんな結果(Output)や成果(Outcome)をもたらすのだろうか、という疑問からスタートして、この記事を書いてみようと思います。

贈与と交換と再分配

 「うしろめたさの人類学」では、「他者とのモノや行為のやりとりが社会/世界を構築する作業である」として、そのやり取りの種類を「贈与」「交換」そして「再分配」に分けて論じられていたので、私なりに整理して紹介しますね。

贈与:

  • やり取りするモノやお金に「思い」や「感情」を付け加える
  • やり取りする人どうしの共感を増幅する
  • やり取りする人どうしのつながりを作る
  • 感情にあふれた、でも時に面倒な親密さを生む
  • 代替不可能なかげけがえのないものになる
  • 「贈与される側」は受け取ることが義務であり、欲しくないものが贈られることも。贈与は心温まるやりとりだが万能ではない(被災地にたくさん支援物資が送られてくるが、実は現地では必要な物ではなく山積みになっているような状態とか)

交換:

  • やり取りするモノやお金から「思い」や「感情」を差し引く
  • やり取りする人どうしの共感を抑圧する
  • やりとりの関係が一回で完結する
  • やり取りの中に感情は乏しい
  • いつでも誰とでも交換ができる
  • お互いの必要性を満たす最適値を目指して取引がなされるため、ニーズの多様性に対応しやすい。モノのやりとりの「自由さ」をもたらす「市場」を創造する。しかし市場の論理だけだと、不公平な配分の責任は「個人」にあるとされてしまう。

「贈与」をバレンタインとかクリスマス、結婚や誕生日祝いのギフトやプレゼント、「交換」を「お買い物」としてイメージしてもらうとわかりやすいのではないかなと思います。
これは贈与がハートウォーミングで人間らしくて良い、交換がカネを介した冷血なやりとりでケシカランというわけじゃないんです。そもそも「贈与」と「交換」はどちらがなくても今の世の中は成り立たないし、ここからは贈与!こっちは交換!とクッキリとした線が引けるものではないということなんです。筆者の言葉を借りればこれは「仮の区切り」であり、わたしたちは日々贈与と交換を巧みに使い分けたり、その間をユラユラ揺れ動きながらモノやコト、思いや感情をやりとりしているんだっていう話です。*2

ちなみにモノのやりとりのもう1つの形態として「再分配」も紹介されていました。

再分配:

  • 税金のように、いったん多くの人から徴収した財を特定の人や事業に振り分けること
  • 非市場的な財の移譲という意味では贈与に近い
  • 贈与と違い、お金の出所が匿名化され覆い隠される(贈与では、贈られた人は贈った人の顔を思い出せる)
  • 資金の出し手も自分が資金の提供者であるという意識を失いがち。例:税の再分配の失敗は政府の責任であり、納税者たる自分の責任ではない。
  • 贈与=人との関係をつなげる、交換=人との関係を解消する、再分配=あるべきつながりが途中で切れている

あいちコミュニティ財団の事業は贈与?交換?再分配?

ここからあいちコミュニティ財団の事業を見てみると、「贈与」「交換」「再分配」のいいところを組み合わせて、新たなお金と人の流れを作っていこうとしていたんだなと私は感じました。

できるだけお金だけでなく「寄付者の声」を寄付者の顔写真付き紹介しようとし*3、寄付だけでなく応援してくれるボランティアが伴走する仕組みを作ろうとしていました。(=「贈与」のよいところを生かす)

そして私が「あいちコミュニティ財団やるな~」と思ったのは、「交換」の良さを生かそうとしていたところです。
前の記事から私がねちっこくこだわっているセオリー・オブ・チェンジ(TOC)や、TOCの考えをベースに非営利活動を評価するSROIは、まさに「贈与」だけでは共感できなかった多くの人たちに「交換」の理屈を活用してメリットを謳うことで「寄付」を促すそうという取り組みだったのではないか、そしてそれは、一定の効果があった(たくさんの寄付金を集めることができた)のではないかと私は考えました。でも、これは特段あいちコミュニティ財団に限ったことでなく、今の日本のファンドレイジング全体の流行なのかもしれませんが。

「交換」のほうが分かりやすい

いま私たちは、100円玉は100円の価値があるものと交換されなければならないし、それが当然だと完全に思っているのではないでしょうか。
さらに、手取りの月給が20万円ならばひと月20万円以内で暮らさなければいけないし、作るのに20万円かかる商品であれば20万円かそれ以上で売るべきであるというのが常識なんじゃないでしょうか。

そりゃそうなんですけど「贈与」ってその仕組みの外側にもあるものなんですよね。例えば私がオギャーと生まれてから今まで、両親から「贈与された」有形無形のモノコトカネについて、等価で返すことなんて一生かかってもできないし、親だって全部返せよ~とは思ってないはずなんです。
しかも「贈与」ってクソめんどうなんです。冒頭で私は「自分が寄付をするのは『うしろめたさ』ゆえなんじゃないか」と書いたけど、もらった方はもらった方で『負い目』を感じることもあるわけです。もらってばかりいる、養われている、誰かのおかげでメシが食えている、そういう負い目。だから、贈与には「あげる側がエラくならず、もらう側も負い目を感じない」という工夫が要る、と同書にも書かれていました。出産祝いでも香典でもバレンタインでも、贈られたら「お返し」をする決まりがあるし、大昔の狩猟採集民もわざわざ他人の道具で狩りをして、道具の所有者にも獲物を渡すとか、誰もが一方的にあげるばかりもらうばかりにならないようにしていたんですと。
贈られたもの、もらったものは返せない。返せないけど報いたいと思う。返されたら返されたで、うわあこんなに返されちゃった、また贈ろう、みたいな、もやもやだらだらしたやり取りになるわけです。

それに対して「○○円の寄付で子どもへの学習支援が〇回開催できます」みたいな説明は「交換」的で、なるほど!とすぐに合点がいきやすいように思ったんです。お返しを期待して寄付するわけではないけど、自分の財や行為がどう役立てられているのかが分かると嬉しいし。

そして何よりも「交換的」なやりとりって「対等である」っぽい感じがすると思うんです。要するに「等価交換」だから「負い目」や「うしろめたさ」を感じにくいのではないか?という理屈です。かわいそうだからやっているんではないんです、対等なんです。出したお金の分だけ、私(や社会)もリターンを受け取っているから、対等なんです。助ける助けられるの関係じゃなくて、共に歩む仲間なんです、っていう。

誰のための対等か、何のための共感か

でも最初にかえって、本当に対等なんだっけ?と思うわけです。ていうか対等って何?
支出と収入がバランスしているから、助けると助けられるとの量が一致しているから、一方的に与えるだけではないから対等なのかなあ。対等だから、負い目やうしろめたさを感じずに堂々としていればいいのかなあ?
と、私は思ったわけです。

冒頭の「うしろめたさの人類学」から再び引用します。

物乞いが、ぼくらのために働いてくれるわけでも、なにかを代わりにくれるわけでもない。このとき「わたし」が彼らにお金を払う理由はない、となる。
「交換」において、「わたしのお金」は「わたしの利得」の代価として使われるものだ。そこえはきちんと収支の帳尻を合わせることが求められる。簡単にお金は渡せない。
 こうして、日本人の多くは物乞いに「なにもあげない」ことを選ぶ。(同)

基本的にはNPOへの「寄付」も、直接的には「私だけのために働いてくれるわけでも」「何かを代わりにくれるわけでも」ない、と言えます。(寄付を求めるNPO=物乞い と言ってるわけじゃないですよ!!!)
でも「○○円の寄付で子どもへの学習支援が〇回開催できます」→「学習支援を受けた結果、高校への進学率は〇パーセントアップ、学習意欲が増えた子どもは〇パーセントアップ、人への信頼感が増えた子どもは〇パーセントアップ」→「進学せず就職した場合の収入と高卒で進学した場合の収入の差はいくらで、納税額ではこれだけ変わります」ってなるとさらに交換的になりますよね。

交換を説明に使うのは悪くないと思うんです。
でも、本当に「交換」だけで世の中が渡っていけるなら、寄付じゃなくてそもそもいいはず。市場で売り買いすればいいんです。それが「ソーシャルビジネス」というものなのかもしれないけれど。

市場の原理ではできない、もらったものを返しきれないから寄付でお願いしているんじゃなかったっけ、と私は思ったんです。
そして、見てしまったものを放っておけない、なにかしなければいけないのではないか、そういう心の動きを作ったものの原動力って実は「うしろめたさ」だったのではないでしょうか。それを「交換」によって「解決」して、なかったことにしていいんでしょうか。私はいいことをしている、寄付もしているボランティアもしている、啓発もしている差別もしない対等だ、だからといって、自分には温かい風呂と寝床があり、ある人にはそれがないという現実、それを受け止められない自分から目をそらしていていいのかな。私は「寄付」を通じて、「私はよいことをしている」という物語を買っていたというか、消費していただけなのかな?持て余したうしろめたさを麻痺させるモルヒネを買っていたのではないか…とも思いました。

ぼくらは他者と対面すると、かならずなんらかの思いを抱く。無意識のうちに他者の感情や欲望に自己の思いを共鳴させている。泣いている赤ちゃんを目の前にすると、なんだか自分まで悲しくなってくる。何かしてあげねば、という気になる。人がタンスの角などに足の小指をぶつけるのを見ると、その「痛み」はひとごとには思えない。思わず「あいたたた」と声が出てしまう。
 この「共感」が、コミュニケーションを可能にする基盤である。
 身体の弱った老婆を目のあたりにして、何も感じないという人はいないだろう。でも「交換」のモードには、そんな共感を抑え込む力がある。(中略)交換のモードでは、モノを受け取らないかぎり、与える理由はないのだから。心にわきあがる感情に従う必要はないのだから。(中略)
 あるいは「与えることは彼らのためにならない」と言うかもしれない。これだって同じ正当化にすぎない。ためになるかどうかは、そもそも与える側が決められるものではないからだ。いろんな理由をつけて最初に生じたはずの「与えずにはいられない」という共感を抑圧している。(同)

与えずにはいられないから与える。その結果、避難所に段ボールが積み重なるように、それ自体は感謝されないかもしれない。役立たないかもしれない。だから寄付って難しいし、「交換」の論理からしたら、何やってんのバカじゃない?となるかもしれない。そして、もらう側も、いかに「正当な」理由があっても、やっぱりもらうだけでは負い目を感じると思う。これだけのインパクトが出せる活動なんですよ、堂々としていいんですよと言われても、どこか「返せない」気持ちはあるのではないか。また「寄付者(資金の出し手)」から「私たち、平等ですよねっ」と言われたら「は、はい…」と答える以外はないのではないか、とも思う。。。
 

とにかく贈与には割り切れないいろいろが付きまとう。でも、「うしろめたさ」が行為の源泉ならば、そこから目をそらしてはいけないと思う。うしろめたさがあれば「こんなにいいことをやっているんです!」と尊大な態度をとることはできなくなる。

私は社会福祉士なんですけど、数年前に福祉関係の仕事もしている大先輩から「福祉の仕事は、どんなに美しく価値があることだとしても『結局は、人の不幸でメシを食っているとも言える』ということを忘れてはいけない」と言われたことがある。不幸・不便・不満・不足…を解決したり解消したりする仕事は尊く、役に立ち、人に感謝されるけれど、不幸・不便・不満・不足があらかじめない方がいいように、その仕事自体も本当はない方がいいようなものなのだ。でも、ないといけない現状があるから、やむにやまれずやらせていただくものなのだ。だからといって過剰に卑屈になることも、偉そうにすることもしなくていい。

 たくさんの人の共感を得て、たくさんのお金を集めたとしても、それ自体で浮かれてしまうことはないようにしたい。いたたまれなくてうしろめたくて思わず募金してしまったとしても、一度の「交換」でスッキリしてしまうばかりではなく、うしろめたさを生み出す真因を変えていく一歩を踏み出せる個人でありたい。そして既存の「贈与」や「交換」や「再分配」の定義に縛られず、組み合わせたり、境界線をちょっとずらしたりしながら、失敗もしつつしたたかに枠組みを変えていく挑戦をおそれないソーシャルワーカーでありたい。

*1:yoshimi_deluxe注:この本の筆者はエチオピアでフィールドワークする文化人類学

*2:同書の中ではアメリカからアフリカへの「贈与」としてのODAが、そもそも穀物価格の調整(=「交換」のための価値の最適化)を動機として生まれていること、アフリカへ渡った援助物資が(禁止されているけど)売買されて「交換」のためのモノに変わっていることが紹介されています。交換によって入手したものを心をこめてラッピングして贈与し、贈与されたモノはメルカリに出品され…と、贈与と交換の間を旅するモノの動きって面白いですね。

*3:今はリンクが切れていますが、HP上の「寄付者の声」コーナーでは顔写真入りで寄付者のメッセージを公開していた