#レコーディングダイエット

毎日食べたものを書きます

この国で「好き」を貫くのは難しい―シン・ゴジラを見てきたよ!(ネタバレがあります)

シン・ゴジラを見てきました!
www.shin-godzilla.jp

ここからは大いにネタバレがありますが
あらすじがバレたところでこれから見る人にとって面白味が減る映画ではないと思うので(責任は持ちませんが…)遠慮なく書きますね。

もうね、いまの日本で見たらゴジラ原発としか思えない映画ですわ~。
そしてエヴァンゲリオン見てた人なら完全にエヴァとしか思えない映画ですわ~。
ていうか、そもそも「エヴァ」が、ゴジラのパロディというか、オマージュだったのかなあ、なんて見ながら思いました。

ガッジーラ(GODZILLA)、ゴジラと言う「想定外の」「これまでに経験のない」危機に対して何のマニュアルも、既存の法律で対処するすべもない、という状態の中で、政治家も中央官庁の行政マンも「民主主義の手続きを重視して」誰も責任を取ろうとせずオロオロしている間にゴジラが都内に上陸して、そのうち霞が関ゴジラの尻尾でバーン!バーン!ってやって主要な閣僚も全員一瞬で死ぬという展開。縦割り行政も慎重な判断も誰にも責任を押し付けないというのも、わたしはそれは必ずしも悪いことだとは思わないし、むしろ尊重すべき面も多々あると思うんです。でもゴジラがスゲー勢いでヤベー数の都市と人間を破壊しまくってる時に平時の対応だと全員死ぬわけで悲惨なんです。その「難しさ」を、重々しさと同時に、なんだか書き割りのような間抜なユーモア・どうしても現実として受け止められない状態としての「リアリティ」をもって描いているところ(緊急速報が流れるTVのメイン画面はのんびりしたアニメ番組とか)に好感を持った。


その危機を救うのは、今回はシンジ君でもなく、アスカちゃんでもなく、綾波でもなく、平時の、儀礼的だったり、空気をよんだりするコミュニケーションには全く不得手な「オタク」的な才能を持つ人たちでした。その分野だけにはものすごく尖った才能を持つけれど、人付き合いとか、交渉とか、愛想笑いとか、愛想とか、駆け引きとかそういうことには全く長けていない「オタク」的な人たちでした。
そしてその人たちを否定せず、仲間として才能を尊重し、うまくオタク的専門家とオタク的専門家の間を取り持ってファシリテートする人たちでした。そして、オタク的専門家の生み出したアウトプットを、持てる力で支える普通の人たち(自衛隊、言われなくてもボランタリーにおにぎりを差し入れてくれる掃除のオバちゃん、仕方なく総理を引き受けたおっさん等)でした。

そんで、これって庵野英明監督本人の物語なのかなあ、と思ったんです。
特撮が大好きで、しかし日常生活に大いに支障をきたすほどの才能の凸凹が余すところなくある。そういう庵野監督を支えてくれた人が誰だったか。それはガイナックスの人たちだったり、スタジオジブリの人たちだったり、妻である安野モヨコさんだったのではないだろうか。そういう経験が、このゴジラに込められたメッセージの中に垣間見られるのではないかと思った。オタクが素晴らしいのでもない。社会性のある普通の人たちが素晴らしいのでもない。エリート官僚、政治家が素晴らしいのでもない。それぞれの知恵を結集すること、それぞれが補い合って力を発揮することではないだろうか。「シン・ゴジラ」は、いわゆる「クール・ジャパン」ではない方法で、庵野監督自身が提案する「オタクの使い方」ではないか、そんな風に思った。


映画の中に「この国で『好き』を貫くのは難しい」というセリフが出てくる。わたしはそれをこの国で生まれた「オタク」と呼ばれる人の生きづらさのように感じた。「オタク」というと内側へ引きこもっていくように思われるけれども、「好き」を突き詰めていくとどうしてもその「好き」と隣接するジャンル、社会と接触していかなければならなくなる。(マーケットが大きくなったり、それこそ「エヴァ」がアニメファン以外にも大ヒットしたりね)そこで「社会」を拒絶して自分の殻を厚くして閉じこもっていくか、それとも「好き」の力で社会と触れ合い、巻き込み、大きなうねりを創り出していくか。庵野監督が、「ナウシカ」や「エヴァ」そして「ゴジラ」でしようとしていることは明らかに後者なのだけれども、そこには庵野監督の力を信じて排除せず、しっかと受け止め助言し励まし続けている、「普通の人」「オタクではない人」「違うジャンルのオ
タクの人」がいるはずなのだと思う。

監督不行届 (Feelコミックス)

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オチビサン 1巻

オチビサン 1巻

「家がないなら空き家に住めばいいじゃない」ってどうなのよ

自分もモヤモヤしたんでこれについて書くことにしました。

このモヤモヤの原因は何か?

・家が余っている。
・家がなくて困っている人がいる。
・ならば、余っている家に住めばよい。

筋道が立っていて、無駄が無くていいじゃん!と思うんだけど
これは「家が無くて困っている人自身」が、どうしたらいいか考えて
安い空き家を探して住むとか、不動産屋や大家に交渉するとかなら
モヤらないんですよ。

でも、これを政治家とか行政の人が言うのは
なんか違うんじゃないかなって思うんですよ。

安定して暮らせる家に住むとか
介護サービスを使って暮らすとか
何かの仕事をして働くとか
ちゃんとご飯が食べられるとか
そういう環境を整備するのって
国の役割だよね?
社会保障だよね?って思うんですよ。
それを単純に、安いから、手っ取り速いからといって「あまりもの」でなんとかしようとするのってどうなんかなあと思うわけです。余っていようと余っていなかろうとそれは保障されるべきものだと思うんですよね。その見地から検討してみて、たまたま空き家になっているところが利用できそうだとなったらそりゃいいと思うんですけど。

行政の役割と民間の役割

yoshimi-deluxe.hatenablog.com

以前のこの↑記事で
最低限の生命と暮らしの維持(パン)を保障するのは行政の役割で
民間の力は「なくても死なないけど、あると人生が楽しく豊かになる」(薔薇)
っていうところに発揮できるといいんでないか、と書いたんです。
空き家を改造してグループホームにしようとか
余った野菜をもらって子ども食堂しようとか
ボランティアの力で生活支援をしようとか
そういうのって、課題に気づいた市井の人たちが
今すぐ何とかしなきゃと思って緊急避難的にやってきた事でもあると思う。だから、それが上手くいったからと言って、じゃあ他もそれでやりましょ、やってくださいっていうことには慎重になってほしいなーと思う。「やる人」が自主的にやりたくてやるんならいいんだけど、そうじゃなければ「ボランティアをしてください」って命令するようなもので、なんか変だなって思う。

今日は特にオチはありません…

居住の貧困 (岩波新書)

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「ボランティア」の誕生と終焉 ?〈贈与のパラドックス〉の知識社会学?

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8/7(日)は内海に行きます

ほぼ日刊だけがとりえのブログだったのに
また5日ほど空けてしまいました。トホホ。
いろいろやることがある時ほど、ふだん通りの習慣を大事にしないといかんすね。そこからあらゆる日常生活がだらしなく崩れていくんだなあ。岡崎京子さんの「うたかたの日々」に、主人公の心が荒んでいくとあらゆる住環境が物理的に思いっきり荒んでいくシーンがあるんだけどまさに真理だわ。明日は掃除しよ。


なんで、今日は再開に向けて重い腰を上げるべく
楽しみなことを書きます。

先週も海で遊んでいましたが、今週も海で遊びます。

毎年恒例のwideloop@内海:亜細亜に行きます~
DJタカハシは今年から亜細亜にオープンした
浜辺のオーシャンテラスでレゲエとかダブをかける係をするそうです。
先週、吉良の海に行ったときも「いや~高橋さん、海が全然似合わないですね!」と友達に声をかけられていたほどの
筋金入りのインドア派DJですが、炎天下でレコードが曲がるのにビビりつつ、先週からいっぱい選んでおられます。
毎年とても楽しいパーティになるので、よかったら一緒に遊びましょう!

          • -

2016/8/7(sun)
wideloop seaside party@asia
亜細亜(愛知県知多郡南知多町大字山海高峰12-3)
START 15:00 CLOSE 1:00
DOOR \3,500- WEB RESERVE ¥2,800-
http://www.wideloop.info/

◆main floor
Guset Dj:Toshiyuki Goto
Live:J's Bee
Dj:ohtake(vinyl),TANAKADISCO(CISCO)
shigeta,ayapam D.J.

◆Ocean terrace
Takahashi(velvet sunday), Tsuyoshi.w(Kalakuta Disco), YAMICA(popipa)

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うたかたの日々

うたかたの日々

ふしぎな木の実をたべてみた

7月31日(日)
朝昼兼用
ツナじゃが、ちくわ天、鶏天、お茶

おやつ
アイスコーヒー、ガリガリ君、謎の木の実


タコのマリネ串、鶏の焼いたの
ビール、赤ワイン、テキーラ(これをやめておけばよかった)

吉良の海辺でビーチパーティがあったので行ってきました。
ライブとかあって面白かったです。
ほとんどロクに食べず酒ばかり飲んでしまいました。

https://www.instagram.com/p/BIhXeBqArHA/
Instagram

会場に生えていた大きな木にたくさん実がなっていて
これは何の木だろう?と気になり
酔っぱらっていたので思い切ってちょっとかじってみました。

べたべたして渋くて悲惨でした。
いい大人のやることではありません。

https://www.instagram.com/p/BIhXiCfg0z1/
Instagram
https://www.instagram.com/p/BIhbLwuglO_/
裸足なう

https://www.instagram.com/p/BIhctLPAG5F/
Instagram

あー、もう8月かあ~。あと一ヶ月で夏が終わると思うとさみしいな。

桜山にすごい果物屋さんがあるよ!

そういえばこの前、思いがけず桜山のすごい果物屋さんに行ったんですよ!

トップフルーツ八百文
retty.me

最近スムージーとかフルーツジュースとか流行ってるでしょ。
ここも生のフルーツだけを使ったジュースがとても美味しいお店と聞いて行ったんだけど、そういうおしゃれさは全くなく。正直「え?ここ、どこから入るの?ていうか、営業中?」みたいな…どう見ても年季の入りまくっためっちゃ小さい果物屋なんですよ。知らなかったらジュースが飲めるどころか、果物を売ってるかどうかすら分からなかったかもしれない…。

店に入るとギッチリと果物が並べられ、通路を「身体を横向きにして」通ります。(狭いのでまっすぐでは歩けない)バナナ、プラム、プルーン、みかん、西瓜、梨、そして店の奥の冷蔵庫にはメロンや葡萄がドーン!ドーン!ドーン!てな感じで並べてあります。

そんな中喫茶コーナーが机二つ分&カウンターという感じであります。椅子もぎっちぎちに並べてあります。適当に座るとお店のオバちゃんに「ここ詰めて!」「向かい合わせじゃなく隣同士にして!」などと指示されます。
このオバちゃんが果物ひと筋ウン十年みたいな方で、かつ、林家パー子さんとかアパホテルの方をほうふつとさせるトロピカルないでたちなんですわ。わたしが行った日はつばにぐるりとサクランボの装飾をあしらった麦わら帽子に、ショッキングピンクのブラウスでした。

で、メニューがフルーツジュースだけでもものすごくいっぱいある。50種類くらいはありそう…。選んでも、選べなくてオススメを聞いてもどちらでも、その果物に関するウンチクをオバちゃんから聞くことができます。そして当然名古屋の喫茶店マナーも外しておらず、ジュースを頼むとなんとフルーツの盛り合わせが付いてきます。すごいです。
わたしはプラムのジュースを頼みましたが、「スイカ・メロン・バナナ・ミカン・ブルーベリー・葡萄・パイナップル」を一切れずつ盛ったプレートが付いてきました。すごい。

しかも、ジュースも果物もどれもビックリするくらい味が濃くて甘くて美味しいんです~~~!!!
わたしは普段、好んで果物を食べることはないのですが、ここのはばくばくいきました。ジュースも、フルーツジュースというのはこんなに美味しいものなのかー!と感動しました。

ちなみにこんなに小さい果物屋なのに、メニューは他にフルーツのサンドイッチやパフェ、今の時期だとかき氷もあります。別のお客さんがかき氷を頼んでいたけど、パイナップルをくりぬいたのを器にして、その中に氷とパイナップルがこれでもかと盛られ、周りにフルーツが盛り付けられているというゴージャスなものでした。
かき氷は豪華すぎて腰が引けましたが、また行って違うジュースを飲みたいな~と思いました。友達と一緒に行くとあらゆることが面白いので行ってみてね。トーストとフルーツの盛り合わせが付いてくるモーニング(!)も大混雑らしいよ。

トップフルーツ八百文 | モーニング

Drink!

Drink!

若い頃に戻りたいなんて思わない

↓今日読んだはてなダイアリー
anond.hatelabo.jp

わたしも10代の頃、特に高校3年生以前には全然戻りたくないし、できるだけ思い出すこともしたくない。暗黒すぎる。

まず親に養われていることがとても嫌だった。親は自分のことを全然理解も信用もしてくれないし、全然大人としても尊敬できないし(と当時は思っていた)、それなのに「そういう人」に養ってもらわないと学校も行けないしご飯も食べられないという状態の自分がとても嫌だった。誰に食わせてもらっていると思っているんだ、と言われたこともあったけど、それを一番感じていたのは自分だった。好きで食わせてもらっているわけじゃねえし。*1

そして学校に居場所が無かった。「中学の時は成績が良かったけど高校に入ったら勉強ができることなんてフツー」というありふれた進学校で、テストで今までにとったことのないようなスコアをメイクするようになった。自分でも何が分からないのか分からなかった。クラスの友達とは何を話していいのか分からなかったし、話したいとも思わなかった。昼休みにクラスの子といっしょにお弁当を食べるのが苦痛で仕方がなく(話すことがないし友達の話すことにも興味が持てないので)、堪えられなくなって「生徒会の会議がある」と言って毎日生徒会室でひとりで昼食をとった。生徒会の役員をやっていなかったら、トイレで食べていたと思う。とにかく誰にも見られないところに居たかった。ちなみに生徒会をやったのも「自分みたいな者がこの学校にいていいんだろうか?」と悩んだ挙句、「生徒会長だから」という理由があれば学校に居てもいいかもしれない、と思った末のことだった。今思うと気が狂っていたとしか考えられない。毎日学校に行くのがつらくてつらくて、でも学校を一日でも休んだらますます授業についていけなくなる、授業についていけなくなると卒業できない・大学行けない、そうなったらお先真っ暗だと思うとその方がおそろしく、その恐ろしさからついつい登校していたら、結果として皆勤賞だった。

この自信のなさ、周囲への不信感はどこからきていたかというとものすごく自分がブスだったということがあると思う。今でも相当にブスだけど当時に比べるとだいぶマシなのだ。知らない人とすれ違って「うわっ、すげーブス」とか言われるくらいブサイクだったんですよ。(幻聴とかじゃないよ!)しかもモードな服が好きで(CUTIE少女だったのです)でもセンスはなくて着ている服とかも本当に滅茶苦茶だったんです。死にたい。でも10代の頃って性欲もメチャメチャに強くて、ものすごくモテたかったんです。男に媚びるような服とかクソだと思ってたんですけど、でも本当はすごくすごくモテたかったんです。男の人に必要とされたり欲情されたりしたかったんです。というか、誰にも欲情されない自分なんて価値がないんじゃないか?と思うとそれだけでまた死にたくなりました。援助交際がメディアを賑わせていた頃でした。でもわたしは売春することよりも、売春しようとして「お前なんかに金が払えるか」「お前なんかに勃起すると思ってんのか」と言われるんじゃないかと思ってその方がつらかった。別に売春したかったわけでも、しようとしたわけでもないし、誰からもそんなこと言われてないんだけど、そういう自動思考がはたらいて勝手にしんどかったです…。


でも大学に入ったらだいぶ変わったんですよね。
バイトしまくったので以前よりも親に遠慮せず好きなこと(主に夜に遊びに行くだけ)ができるようになったし、ゼミの先生は私のそういう過剰な自意識こそ研究に値するものがあるからと全面的に受け止めてくれた。そして「世の中でさも当たり前だと思われていることは、実はそうでもないんだよ」という授業ばかりで面白かった。大学自体にリベラルな雰囲気があったし、自分に興味のある授業ばっかりとれるというのも自分に合っていた。授業に来ても来なくてもよいというのも、制服が無いというのも、「クラス」というのがなく人間関係が自由なこともよかった。そして自分が楽しくなったら友達も増えた。色々なことが許せるようになっていった。世間に媚びた服なんかつまらないと思っていたけれど、身だしなみを整えることも悪くないと思えるようになった。社会人になって、良い上司に恵まれたことも大きい。


顔立ちや体型は、どんなに努力しても、整形手術でもしなければ劇的に変えることは難しい。でも、大人になるにつれて「美」の基準は多様になることを知った。
10代の頃は「10代のアイドルのような」見た目こそ可愛らしいと思われがちだ。でも、それは見た目のほかに差別化する要素が少ないからだと思う。
20代を過ぎ、仕事や恋愛や結婚や出産や趣味や友情や裏切りや、コツコツとした努力や不慮の事故や、思いがけない出会いや別れといった、画一的だった学生時代にはない「その人ならではの経験」が増えていく。そういう経験が、その人の外見と内面の両方に豊かな彩りを加えていくことを知った。キリッとして強くクールな美しさもあれば、ふんわりと柔らかく周囲を和ませる美しさもある。純粋で生き生きとした人に元気づけられることもあれば、どっしりと落ち着きのある人に憧れることもある。美しさは、多様なのだ。

そして、その多様な美を楽しむには知性が必要なのだ。食べるもの、身に着けるもの、部屋に置くもの、聴く音楽や出かける場所がその人の美しさを作っていく。本を読んだり音楽を聴いたり、人と会ったり知らない所へ旅したりした経験が、若い頃には閉じていた美を開花させる時がくる。それが外見の美しさに反映されるときもあるし、装いに派手さはなくても内側からにじみ出すような魅力になることもある。どういう風に自分を見せたいか、どんなふうに発信したいか、どのように他者と関わっていきたいかというプロデュース能力は、文化的な資本を充実させると自然についてくるものだと思う。

そしてそれは、年齢を重ねれば重ねるほど美しさを発揮すると思う。若さからくる肌や髪のハリやつやはどんどん失われていくけれど、経験や知性は重なるにつれ豊かになるものだからだ。
しかも、努力によってなんとかできるものなのだ。

若いときは、そんなものはババアの負け惜しみだと思っていた。でも、それはその当時の自分に美の多様性を感じられるだけの知性と経験が無かっただけなのだ。若くても若くなくてもそれぞれの人に美がある。それを感じられるかどうかなのだと思う。

そして若いときは、大人というのは何が楽しくて生きているのだろうと不思議だった。毎日毎日やりたくもない仕事をし、稼いだお金は家族に吸い取られ、顔も体もしわしわになっていく。
でも今、そう思っていた時から20年経って、今のほうが当時よりずっとずっと楽しくて、大人になってよかったと思った。顔はレーザーで消したいしみばかりだし、いい大学に入って一部上場企業に入ってマンション買って暮らすんだと思っていた未来からは遠くかけ離れているけれど、当時の自分よりも、当時の自分が描いていた未来よりもたぶん幸せだ。出会った人、読んだ本、聴いた音楽、やってきた仕事、書いた文章、そういうことの全部が、自分を縛っていたいろいろなものから自由にしてくれたおかげだと思う。

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7月29日(金)

ヴァーム、コーヒー、チョコチップクリームの入ったパン


カレーライス、鰆の焼いたのとオクラ、きゅうりのサラダ、コーンスープ、豆、漬物、お茶


ニラ玉、レタスのサラダ、鶏のから揚げ、ビール

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10代の時の自分に読ませたい1冊

女の子よ銃を取れ

女の子よ銃を取れ

10代の時はなんでこんなクソつまらん説教臭い本の読書感想文を書かねばならんのじゃーーーーと切れたけど最近また読み返したいなと思ってる1冊

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

10代の時たぶん一番何回も読んでた本

*1:しかしながら、当時の自分は「今親元を離れるよりも、堪え難きを耐え忍び難きを忍んで大卒という学歴を手に入れなければ『誰かに食わせてもらう』という状況からは抜け出せない」という判断ができる程度の打算的な考えを持てたことができたことが結果的にはラッキーであった。

相模原の事件を知った時の動揺を隠さないで伝えてくれたあなたへ

こんばんは。
昨日は相模原の事件を知った時の動揺を隠さないで伝えてくれてありがとう。朝起きてすぐにこのニュースを知って、わたしも、なんと言っていいか分からない気分の悪い中、出かけました。でも、一日中頭の周りに鉛のように重たい靄がかかっているようで、不安と悲しみと憤りと、そして何よりもそれを言葉にできないつらさと悔しさと、気持ちの悪さを抱えてぼうっと過ごしました。

だから、わたしが社会福祉士の資格取得のための実習を終えて、帰り道でスマホの画面を開いて、あなたがまっすぐに、不安と混乱と怒りを伝えてくれた時、わたしはその言葉の激しさ強さにも関わらず、心底ほっとしたのです。わたしの気分の悪さは、残念ながら、まだまだそのままだけれど(あなたも気持ちが切りかえられなくて苦しいと言ってくれましたね)。でも、同じように苦しく感じている人が身近にいるということを感じて、心を落ち着かせようという気にさせてくれました。

このブログでは、毎日自分が食べたもののことを書いています。昨晩は「こういう日だからこそ、いつもと同じことを書こう」とわたしは考えました。今日も、淡々と、自分が食べたものを書こうと。だって、悔しいじゃないですか。あんな卑劣なことに心を砕かれて、わたしの日常を変えざるをえないなんて。あんなことに負けたくないからこそ、いつもと同じ態度を貫きたかった。そんな卑劣なことに、決してわたし(たち)は屈しないぞということを示したかった。

でも、昨晩はぐったりして結局何も書けませんでした。あんなことのために心を乱したり、あんなことのために時間を使うことは嫌なんだけれど、やっぱり、わたしはあれについて書かなければ、先に進めない。そう思いました。


あなたもよくご存じだと思うけれど、わたしは物事に動じないほうの人間だと思っています。言いづらいですが、大きな地震津波が起こった時も、わたしは自分は他の人よりもずっとずっと「何も感じていない」と思っていました。悲惨なニュースも、それが遠くであれ身近なことであれ、どちらでも、どこか他人事というか、誰かの痛みを自分の痛みとして感じることが少ないタイプだと思います。
なのに、どうしてこの事件だけ、一日中ずっと頭を離れないのだろう、と思っていました。それはそれ、これはこれ、と、どうしても気持ちが切りかえられないのです。

あなたは、わたしのまわりに障害のある人がたくさんいて、これまでの仕事や活動でもたくさんそういう人に会ってきたからだろうと思っているかもしれませんね。障害者と呼ばれている友人や、障害者と呼ばれている人が身内にいる友人がいるからだろうと。たしかに、このニュースを聞いたとき、そうした友人たちの苦しみ、理不尽さはいかほどかということにも思いをはせました。


でも、ひと晩考えて、どうも、そうじゃないとわたしは思ったんです。
この事件は「障害者の問題」なんでしょうか。被害者が障害者だから、加害者が精神障害者である可能性があるから、これは「障害者」の事件なんでしょうか。わたしは、そうではないと思うんです。そして、決してこの事件を「障害者の事件だ=健常者(障害者ではない人)の事件ではない)」という風に片づけさせてしまっては、いけないと強く思っています。

わたしが気分の悪さを感じているのは「××ができないから」「××の役に立たないから」という理由で、誰かを排除することをよしとしたり、やむを得ないこととしたり、正当化したりすることです。
働いていないから、働いていても一人で食っていけるだけの稼ぎがないから。税金を払っていないから。生活保護を受けているから。親に養ってもらっているから。そういうことを理由にして、役に立っていないと言われている人が、残念だけれどたくさんいます。ちなみにわたしは、子どもを産んでいないからという理由でも、「社会の役に立っていない」と言われることもあります。

そしてさらに悲しいことは、働いてなかったり生活保護を受けていたりする上記のような人自身こそが、このような「××ができない人は社会の役に立たないからダメだ」という価値観を内面化していて、「自分ってダメだ」と遠慮して生きてしまっていることが少なくないことです。上記のような人たちは「人の役に立ちたくない」のではなく「人の役に立たなければならない」という規範意識を強く強く持っているがゆえに、自分に厳しくなり、自分が許せず苦しくなっていくのではないかと思っています。あなたの真面目さを見るにつけ、わたしはいつもそう思います。


でも「社会の役に立つ」というのは、どういうことなんでしょうか。労働して税金を払い、誰にも頼らず、家族を養って生きていくことなんでしょうか。もちろん、それもあると思います。でも、それは「社会」の中のほんの一部なのではないでしょうか。人間の生き方も、体つきも、持っている資産も、産まれたところや生活する場所もひとりひとり違います。人の生き方はだってひとりひとり違うのに、「社会との関係はこうあるべき」というものが一つだけ、というのは無理があると思います。

いまの日本では

・「日本人」で
・心身共に「健康」で
・「成人男性並み」に週5日・1日8時間以上くらい働けて
・四大卒で
・正社員で
・スピーディでムラのないコミュニケーションが得意で
・移り変わる情報やテクノロジーをキャッチアップできて
異性愛者で …

みたいな人しか「社会の役に立っている」とは言えない、と言われる状況がどんどん増えてきているように思えるのです。そうで
ない人は役に立っていない、だから社会に居なくてもいい…と…。

でも、上に挙げた条件に合う人は、ほんとうは日本にほんのひと握りしかいないはずなんです。
ほとんど不可能そうな規範に自分を合わせようとしたり、「規範」を作っている側の人間に認められようと媚を売ることは、結局は「規範に合っていない」自分を受けいれられずに、苦しくなっていくだけだと思うのです。
そして、こういうタイプの「自分への厳しさ」は、往々にして他人に向けるまなざしも厳しいものになるのではないでしょうか。


先ほどわたしは、あなたも「自分に厳しい」と書きました。でも、あなたには、自分の不安やおそれを包み隠さずわたしに話してくれる素直さがあります。そして、自分も混乱の中にあるにもかかわらず、同時に、身近にいる障害のある人のことも真っ先に心配する優しさがありますよね。そういう素直さや優しさが、わたしを勇気づけてくれたように、他の多くの人を支えるものであると思います。
でも、あなたは今までに、その繊細さや優しさを、様々に傷つけられたリ、裏切られたりしてきた経験があるので、役に立たないものだとか、弱いものだとか、こんなものを捨てて強くなりたいとよく言っていますね。
そして、そういうあなたの辛さを、わたしなんかには分からないでしょう、ともよく言いますね。確かにそうです。わたしは「日本人」で、女だけど「男並み」に働けるだけの気力と体力に恵まれた「健常者」で、大学を出てから色々な人やコトを蹴落としながら働いてきたヘテロセクシャルです。いまの日本社会において、わたしは強者です。

それでも、わたしはあなたに生きていて欲しいし、一緒に生きていきたいと心から思っています。

あなたやあなたの周りの人に障害があるから、かわいそうだから、弱い人を助けたいから、そう思うのではありません。あなたという人がかけがえのない友人だからです。

役に立つとか、立たないからではありません。あなたが素晴らしいからとか、ろくでもないからということでもありません。誰にでも何かに貢献できることがあり、できないことがあります。素晴らしいところもあり、どうしようもないところもあります。そして社会の「規範」と言われているようなものは、すぐに移り変わるはかないものだと思います。

「日本人でバリバリ働くマッチョなエリートビジネスマン」が激しい競争に明け暮れる裏には、「負けるのが怖い」「ここから落ちるのが怖い」という強烈な不安があるようにも思えます。わたしもそうです。強さ、とか、正しさ、とか、有用性、といったものだって、実はおそれや不安や劣等感に支えられているものなのかもしれません。

あなたにはできないことがある。わたしにはわからないことがある。強いことや正しいこと、役に立つことよりも、弱いことやできないこと、何の役にも立たないことに、わたしはあなたとつながれる契機を見出したいと思っているのです。そのためには、あなたがいてくれないと困るのです。テレビやインターネットでは色々なことを言っている人がいますが、わたしは生きていて欲しいと思っています。

まだ、残念ながら心がすっきりとはしませんが、明日からも、誰からも求められなくてもブログを書き、何の役にも立たなくても好きなものを食べ、若作りだと笑われても好きな服を着て、いい年してバカだと言われてもパーティを楽しむ、そういうふだんのくらしをこそ、大切にしていきたいと思っています。


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