#レコーディングダイエット

毎日食べたものを書きます

つながるけどつるまない---ネットワークについて

私、いちおう社会福祉士なんですけど、業界関係者が集まる勉強会とかイベントに行って必ず聞くのが「つながりが大事」「つながることが大事」というやつなんです。ネットワークが大事だと。
でも、大事大事といいながら、どうもいっこうに満足のいくネットワークができている人や団体がないようなんです。それは理想が高すぎていつまでも実現されないものである、という意味でもあるのかもしれないけど、どっちかというと相変わらずのセクショナリズム、いわゆる縦割り行政/縦割り民間団体、困ったときに頼れる社会資源がない、みたいな感じなんです。これだけみんながつながりつながり、ネットワークネットワークと言いながら、それが実現されないのはなぜなのでしょうか。そんなに求めているのになぜ得られないのでしょうか。

一方、SNSなどで華やかなパーティーかなんかの写真と一緒に「出会いに感謝」「ご縁に感謝」「いろんな人とつながれた」とか言ってるのを見るとイラっとしたりモヤっとしたりオエっとしたりしてしまうのは、なぜなんでしょうか。いいじゃないですか、つながり上等じゃないですか。…こういうことで嫌な気分になるのって、やっぱり私に友達が少ないから?妬んでいるだけなんじゃないか?と常々思ってきました。

そもそもつながりとは何のため?

でもなんで社会福祉士がつながらないといけないかというと、それはソーシャルワークのためですよね?仕事のため。命にかかわるような緊急の状態に介入してその人の生活をなんとかマシにするためとか、認知症の人が家で暮らすためのサポート体制をつくるとか、生活保護基準の引き下げを阻止する運動を起こすとか。そのために「つながり」が必要なんですよね?

そう考えると、その仕事、その問題の解決に必要なのはパーティでウェーイってなってる「つながり」とか、勉強会で「つながりが大事ですよね~」「大事ですよね~」「つながりたいですね~」とか言ってることではないということは明白ですよね。

それはネットワークじゃなくて仲良しグループじゃないの?

「つながり」とか「ネットワーク」、あるいは「協働」「連携」って「私たち同じ目標を持った仲間よね、チーム一丸となって力を合わせて頑張っていこっ(キラキラ)」みたいなものだと私は思ってたんです。
そして、それが気持ち悪いと思ってたんだな、と気が付きました。

もちろんそういうチームで頑張って、危機介入やサポートネットワークができて生活保護基準が道理の通らない理由で下がるのを阻止できるなら、どんどんやればいいと思うんです。でも、それだけでは物事が前に進んでいないから、変わらずネットワークネットワークと言っているのではないかと思うんです。

私は、目標を成し遂げるための、社会福祉士のネットワーキングとは「気持ちが同じ」「分かり合える」「仲の良い」人や団体と一緒にやっていくだけではなく、「嫌だなと思う」「あいつの気が知れない」「やり方がいけ好かない」と思う団体とこそ、うまくやっていくことではないかと気づきました。
「あいつ」とは、困難事例はスルーしてうまく金だけ儲けてるっぽいあの団体かもしれないし、異動してきたばかりの担当者が分かったような口をきく行政かもしれないし、たいしたエビデンスもなく自分の正しさだけを訴えてくるNPOかもしれません。「社会問題に興味を持ってくれない一般市民」かもしれません。

ガマンして仲良くするのが「ネットワーク」か?

この「うまくやっていく」の「うまく」が大事で、それは「ネットワーク」のために耐え難きを耐え忍び難きを忍んで「嫌な人とも仲良くする」ことではないと思うんです。それが苦なくできる人はやればいいと思うんだけど、苦ならやめたほうがいいと思うんですよ。「意見が違う人とも話し合えば分かり合える」とか言いますよね。粘り強く話し合いを続けることが大事な時や、それが苦にならない方は話し合いを続ければいいんですけど、残念だけどそうじゃない、ということも現実には多々あるので、解決にはいろんなバリエーションを持っていていいんではないかと思います。

どうするかというと「ベッタリ仲良くはしないけど『ココ』は組めるな」と思うところだけは組む、みたいな方法とか。いけ好かないから「あいつには金輪際頼らない」とか子どもみたいなこと言ってないで、どんな状況でも最適な手を打てるように手持ちのカードをしたたかにそろえておくこと、それが専門職のネットワークではないかと思うんです。誰とでも仲良くなって仕事をする、というだけじゃないと思うんです。それでうまくいく人はいいけど、多くの人はそれでは甘えが出てしまう。危機介入の例でいえばその人に最適な支援機関につなぐんじゃなくて「頼みやすいから」という理由だけでリファーしてしまう、とか。生活保護の引き下げの例で言えば、内輪だけで反対派の悪口を言うだけで終わってしまうとか。大事なのは「好きじゃないな」と思っても「この人にはここで相談してもらうとよさそう」と思ったら紹介できるとか、生活保護を受給している人に生まれてこの方一度も会ったことがないという階層の人とも、意味の通じる会話ができることではないでしょうか。

それは難しいことですよ。だからこそ、それが「専門職」に求められることなんじゃないでしょうか。

つるんでるほど暇じゃない

私が「つながり」や「ネットワーク」に感じていた気持ち悪さって、つまりはそれって「つるんでいる」ことに対する気持ち悪さだったのかなと。。。誰とでも仲良くできる人ならそれでいいけど、そういう人はあまりいないと思うし。自分だってそんなの無理なのに「仲良くしなきゃ」「相手の背景を理解すれば…きちんとした対話を重ねれば…分かりあえるはず…」みたいに思っちゃってたんですよね。でもやだなって思うことってあるしー、しかたないしー、そんなにすぐにわかんないしー。

「好きだから一緒に」「嫌いだから会わない」って子どもかよって話ですけど「嫌いだけどガマンしなきゃ」も同じくらいガキっぽい考え方ですよね。仕事なんだから、プロなんだからもっと賢くしたたかに、サスティナブルにやらないと。コミュニケーション力って「友達が多いこと」じゃなくて「好きとか嫌いとかの感情に左右されずにプロジェクトの結果を出せること」じゃないかなって思うし。

「嫌いなんだけど、自分も相手も不快じゃない」くらいのニュートラルさで付き合う。必要な時に、必要なぶんだけ、協力しあう。ゆずれないところまで折れることはないけど、目的のために必要なことは譲歩しあう。そういう細かな調整、冷静な状況分析ができるからこそ難しい課題にあたれるのであって、…近しい団体が「こうだよねー」「そうだよねー」って言ってるのはただつるんでるだけであって、ましてやそれでコレクティブ・インパクトとか無理なんじゃないかなって思います。

もちろん本当にダメな団体、ダメな行政にはダメってちゃんと言って「つながらない」ことも当たり前に大事なんだけど、ベッタリかバッサリかの二択、0か100かじゃなくて、自分がラクで相手も傷つけない割合で付き合えばいいんだと思う。何かの「つながり」を期待して気の進まない飲み会に行ったり、気に入らない団体の悪口を言ってるヒマがあったらもっとできることがあるはずだし。
(なんだか専門職の話だかふだんの人間関係の話だかわかんなくなってきたわ。)

つるまないほうがラクかも

ただ「つるみ」が必要な時もあると思うんです。わかるわかるとなんでも受け入れてくれて、安心して愚痴が言えるような。でも、それだけで悦に入ってるのって専門職の仕事なのかなって。もしかすると社会福祉専門職は孤独すぎて「つるみ」の場すら得られていないので、つながり以前に自分のベースとなる、あたたかな巣のようなつるみの関係を求めているのでしょうか…。って皮肉で書こうと思ってたんだけど、はた、と考えると案外そうなのかもしれない。とも思ってしまった。。。昨今の「居場所づくり」の流行って、みんなが「つるみ」を求めているということではないか、とか。

逆に言うと、私みたいに「誰ともつるめない」のが長年の悩みだった人には、そうじゃない人との「つながり方」で頑張れるフィールドがあるんだと思えるのはちょっと希望かもしれない。つるみとつるみの間をつないだり、批評したり、編みなおしたりするような。

MADARA2回目レポート&モリーダ・カーロの青い家を見てきました

9月23日に第一回を開催した「NPOのための情報発信講座MADARA」の第2回を11月23日に開催しました。ご参加いただいた皆さん、お手伝いいただいた皆さん、本当にありがとうございました~!

今回は宿題として調べてきた自分の団体の歴史を、社会や世界の歴史と重ねてみる「クロニクル編集」というお稽古をやってみました。
編集学校の課題でも「クロニクル編集」は本当に面白くて、感動して、私は何でもすぐ泣くタイプなのでこの日もつい参加された方のクロニクルを見ただけで涙してしまいました。特にドラマチックな出来事があるわけじゃないんだけど、クロニクルを見るだけでいつも感極まってしまう。。。他人の歴史なのに。。。

とはいえこの「クロニクル編集」はNPOだけじゃなくて、学生や若いソーシャルワーカーが「メゾ/マクロレベルのソーシャルワークを学ぶ」入り口になる教材、プログラムとして開発できるんじゃないかなと気づきました。


藤田孝典さんがおっしゃるのはもっともなことだと思うんだけど「読みたくないけど勉強のためにする読書」のつらさ、身につかなさ、地獄みは半端ないので、その前段階の「資本論が読みたくなるような」「ミクロ以外のソーシャルワーク/ソーシャルアクションをやりたくなるような」内発的な動機付けを促す教育プログラムがあるといいんじゃないかと。
クロニクル編集は「自分」と「世界/社会」との関係をぐっと近づけたり、違う方向からとらえたりできる簡単で面白い方法だと思ったのです。大学の先生とかといっしょにプログラム開発できないかなあと思ったんだけど、何から始めればいいのかわからない。

***

17時過ぎには終わったので、帰りに矢場町のギャラリーに寄って「モリーダ・カーロの青い家」を見てきました。
【名古屋】森村泰昌「モリーダ・カーロの青い家」MoriP100/06-014

「ギャラリー」なんて初めて行ったけど、ギャラリーの人がいろいろ教えてくれて楽しくみることができました。

これは森村泰昌さんが100種類の「マルチプル作品」を100個ずつ(合計10,000個)つくって売るというプロジェクトなんだそーです。
森村さん自身がこのプロジェクトについて語っていたことが印象に残った。

「『作品』はひとつとか、ほんの少数しかなくて、届けられる人が少ない。でも『自分のやりたいこと』を深く深く追求することができる。
 『商品』はたくさん作って多くの人に届けられるけど、多くの人が欲しいと思うものの最大公約数をとった表現になる。
 このプロジェクトでは『作品』と『商品』のあいだにあることをやりたい」

自分はライターとして『作品』として深められるような文章を書く覚悟もなく、かといってバカ売れする『商品』を提供することもできていない。何をどうしてどうやって書いていくのがいいんだろう、とつねづね思っていたけれど、「作品でも商品でもないあいだにあるもの」が、マーケットの中でも自分の中でも、意外に求められているのではないかしら、と感じました。

そして「ギャラリー」とは、美術館と違って絵を見に行くところじゃなくて絵を買いにいくところなんだ、と38歳にして初めて気づいたこともあり、いちばん「商品っぽい」マルチプルをひとつ買いました。バッヂと小さい鏡のセット。パチンコ屋の新装開店の花輪のようだわ。。。
https://www.instagram.com/p/BcCiGovldPB/
#モリーダカーロ

本当はお花のついた髑髏のがイカスわ、うちの和室につるしたらかっこいいんじゃないかと思ったけど値段を見てあきらめました。このくらいポンと買えるようになりたい。もっと書いてもっとメイクマネーしなければ。

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

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池上彰の講義の時間 高校生からわかる「資本論」

池上彰の講義の時間 高校生からわかる「資本論」

いま生きる「資本論」 (新潮文庫)

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森村泰昌 (ヴァガボンズ・スタンダート)

森村泰昌 (ヴァガボンズ・スタンダート)

まねぶ美術史

まねぶ美術史

誰がワーキング・クラスの味方なのか

いま、子どもの貧困、とか、貧困の問題についていろいろ言われているけれど、子ども食堂をしたり学習支援をしたり病児保育をしたりしているひとのほとんどはホワイトカラーというか、大卒で、健康で、経済的な資本にも社会関係資本にも恵まれた人たちだと思う。
それがまったく悪いこととは思わないけれど。

しかし、昔は、というか私が生きていないころの話なので確かめられないんだけど、昔は「ワーキング・クラス」という呼び方があったそうじゃないですか。「ワーキング・クラス・ヒーロー」とかね。大卒のインテリじゃなくても、ブルーカラーでもその「クラス(階層)」に対する敬意というか、そういうものがその階層内にも、階層外にもあったんじゃないか。そう想像するんです。それは文化的社会的経済的援助を与えて「ホワイトカラー層並み」に、文化的社会的レベルを「引き上げよう」とするものだけではなく、ワーキングクラスの文化をそのままで受け入れようとするものではなかったのだろうか、と私は想像するんです。

でも、いまやワーキング・クラスという呼び名はすたれ切ってしまったみたいで「ヒルビリー」とか「CHAVS」とか、日本語で言うと「DQN」みたいな。「スマートフォンとPCの両方を使いこなし、SNSで意識の高い議論を交わし、テレビもユーチューバーも全然見ない」みたいな層「以外」の人をそう呼ぶみたいなんですけど、それをかわいそうとかそれゆえに貧しいんだみたいな思い上がりがあると思うんです。(「ワーキング・クラス」の文化の弱体化という原因もあるんだろうけど。)自分は大卒でホワイトカラーでオバマ立憲民主党支持者だけど、そのことにモヤモヤモヤモヤするんです。

このブログ↓に「オバマ民主党やブレアの労働党が、いかに労働者階級の人の意見を代表する党ではなくなっていくのかを鮮やかに描いた二冊。」という記述がある。

「困ったら何でも相談してください」「誰もが来ていいところです」と呼びかけるNPOよりも

「1万円札を1万5000円で売ります」とメルカリで呼びかける人や、「お給料の前払いができますよ」というアプリ(Paymeとか)のほうがずっと「当 事 者 の ニ ー ズ」に合っているのではないか、わかっているのではないかと思うたびに無力感にさいなまれるけれど、
私はあきらめない。

階級格差の自覚化 – surume blog

チャヴ 弱者を敵視する社会

チャヴ 弱者を敵視する社会

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

5000人の友だち

引越しをするので、毎日少しずつ本を新居に運び入れている。
重たくて重たくて、こんなに重たいわ場所をとるわではそりゃあみんな電子書籍にするよな~、と思う。
思っていたら、スーザン・ソンタグさんがこんなことを言っていたと知り、ジーンときてしまった。

本は沢山ありますよ。
下の階にも。でも、本を減らすべきだとは思わない。友だちが5千人もいるようなものですから。しかもこれらの友だちは、とても控え目で、私が声をかけるまで邪魔はしない。
 ときには、D・H・ロレンスの本の前に立っただけで、本をとり出しもしないことがある。出さなくてもわかるんですよ。そこに何があるのかが。かれがそこに居てくれると思うと、それだけで満足なんです。しかも私は図書館嫌いときているので、わざわざ出かけて行かなくとも、かれがそこに居るということがとても嬉しい。好きな作品はそばに置いておきたい。これは敬意の表明でもある。本を沢山もっているということは、キーが沢山ある楽器をもっているようなもので、その時どきに合わせてキーが選べる。ただ眺めて、どんな音かを思い出すだけで充分なこともあります。本やレコードは物質的というより、もっと別なものを与えてくれるものとしてある。

(『objet magazine 遊』2期:1006・1007 スーザン・ソンタグ3 727「ラディカル・ウィルの速度に乗って <前篇>・<後篇>スーザン・ソンタグ松岡正剛」通訳翻訳=村田恵子・木幡和枝)

そうなんだ、本は友だちだったんだ、と思うと泣けてきた。
高野文子さんの「黄色い本」の中で、主人公が「チボー家の人々」の登場人物と、まるで生きている人間とするように会話するシーンがある。いや、「まるで生きているように」と書いたけれども、主人公にとっては「生きている」人なんじゃないか。まさに生きているのではないか。
本を読んでいて、そこに登場する人が、それを書いている作者が、それについて語っている人が、ありありと現れてくるように感じることがある。励まされたり、ひどく傷ついたり、憧れたり、眠くなったり、ドキドキしたりする。手で触れたり声を出して話し合ったりするよりも、ずっと確かなものを感じて心や体が動かされることがある。
ソンタグは「控え目な友だち」と言っているけれど、私にとって本は、私の孤独を尊重してくれる優しさのある友だちだと感じた。

最近はネットばかり見て、たいして読まなくなってしまったんだけど、ほとんどの本が新居に行ってしまってさびしい。そうか、このさびしさは友だちと離れたさびしさなんだなあと思った。(それでも、数十冊の本は売ったりあげたりしてお別れした)

写真は、とはいえ家に何も読むものがないのは嫌だと思って残しておいた3冊と、運び忘れていただけのWIREDのアフリカ特集*1。比較的あたらしいお友だちばかりなのは、心があたらしい方向に向かっているからなのでしょーか。

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東京を生きる

東京を生きる

日本の夜の公共圏:スナック研究序説

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チャヴ 弱者を敵視する社会

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黄色い本 (KCデラックス アフタヌーン)

黄色い本 (KCデラックス アフタヌーン)

この時代に想うテロへの眼差し

この時代に想うテロへの眼差し

*1:写真がとてもかっこいい。買ってよかった

「地」と「図」のあいだを編集するーー「NPOのための情報発信講座MADARA」第一回ふりかえり

↓こちらのブログでエモエモしく告知し「情報発信講座の情報発信がこんなんでいいのか?」と脳内世論を巻き起こした「NPOのための情報発信講座MADARA」を2017年9月18日に無事、満員御礼で終えました。お越しいただいた皆様、ご協力をいただいた皆様、本当にありがとうございました!

yoshimi-deluxe.hatenablog.com

「この会のふりかえりを書かないことには前に進めない」という呪いにかかっているので、もう一週間経ってしまいましたが書きます。時間が経つのが一瞬だなあ…。

「地」が広がらない

参加者の方に好評だったワークの一つに「地」と「図」を考える、というのがありました。

例えば「りんご」というモノは同じでも、「地」に「スーパーマーケット」を置けばりんごは「商品」と言い替えられる(=図)し、「地」に「仏壇」を置けばりんごは「お供え」になります。食卓に置けば「デザート」だし、アトリエを地に置けば「静物画のモデル」、ドコモショップならば「iPhone」になります。

では、同じように自分の団体(NPO)を「図」として、「地」を「将来の仲間(になって欲しい人)」と考えて、「地」を動かして自分の団体の在り方を色々考えてみましょう、というのをやりました。

「地」を動かす、つまり視点を変えると自分の団体の様子がダイナミックに動いて見える、捉え方が変わる、新しい見方を発見できるというわけです。これはなかなかに新鮮な体験で「面白かった」「持ち帰って団体メンバーの皆で一緒にやってみたい」(←社員研修などにオススメです!)などといった感想をいただきました。


でも、私が参加者の方のテーブルを見て思ったのは「あまり『地』が広がらないなあ」ということでした。NPOの「地」=将来の仲間って「団体スタッフ」「ボランティア」「寄付してくれる人」「利用者(お客さん)」「行政」だけなのかなあって。そういう風に書いてる人が多かったんだけど、それだけなのかなあって。

今日買物をしたコンビニの店員さんにとって、あなたの団体とは?
あなたの家族にとって、あなたの団体とは?
隣に座っている参加者の人にとって、あなたの団体とは?

っていう風に広がらないのは何故なんだろー、と思いながら見ていました。『誰もが○○な社会~』というのを標榜しているのに、それだけの人が『地』でいいの?「行政」とか「市民」ってざっくりしすぎでは?普段は『障害者』とか『外国人』ではなく『その人』をみる、という視点で活動しているのでは?など、小姑のようにイヤらしく観察してしまいました。そうです、私が「何もしない割に文句ばっかり言う、ヤなおばさん」です。


しかし、終了後のスタッフふりかえりの場で「あのお題ってどうだったのかなあ」という話が出まして。
「将来の仲間」=「地」って、NPOにとってそんなに無尽蔵に広げればいいってもんじゃないのでは?という意見があったんです。何のための団体か、理念に基づいた活動をしていれば、活動の影響の届く範囲は広く大きくなくても、確実に届けたいところに届くことや、仲間の数が限られてもいいのではないか。そういう団体にとって、「地」を動かす、という「方法」は学びになるとしても、やたらに振り幅を大きくすることにさほど意味はないのではないか?概念の遊びになってしまうのではないか?ということです。*1

それを聞いて私は「ああ、自分は『自分の持っている世界の殻を破ってどんどん新しい出会いを求めていくべき』」というフィルターで物事を見がちなんだな」ということに気づきました。

参加者アンケートでも「地」が全然広がらなかった、という感想があったのですが「できなかった」ことが悪いのではなく、むしろそこがチャンスなのだと思います。どんなフィルターを使って思考したから限界があったのか。フィルターを切り替えるために必要なことは何か。それを考えることがスタートなんじゃないかなあと思います。「編集が不足から生まれる」ってこういうことかー、と。

なんでMADARAという名前にしたのか

講座を始めるにあたり「NPOのための情報発信講座」というネーミングでは「長い・言いづらい・堅い・つまらない」の悲惨カルテットだと思ったので、何かよいニックネームを付けたほうがいいと考えました。

NPOのための情報発信講座」は東京など他の地域では何年も前からやっていたものでもあり、何か名古屋らしい意味を加えたいなと思っていました。どんなミクロな活動をしている人でも、グローバルな活動をしている人でも「名古屋(とその距離的な周辺)という地区」が「地」になりうる団体が参加者だと思ったからです。

でも「金シャチ」とか「味噌煮込み」とかベタな名古屋のイメージもなんか違うと思ったんですね。金シャチや味噌煮込みも好きだけど、NPOのイメージとは違うと思ったんです。私はNPOに「既存の価値観を超越していくようなもの」を勝手に期待しているので、誰でもすぐ思いつくような名古屋のイメージは使いたくなかった。

そんなとき、ある打合せで編集学校の名古屋チーム(曼名伽組といいます)の組長であり、名古屋の良心「面影座」の座長でもある小島さんが「名古屋って、どこかに確固たる中心があるのではなくて、各地に独特の歴史や文化があって'まだら’みたいになっているんですよね」と言ったことを思い出し、この名前をいただこうと決めました。(小島さんありがとうございます)


確固たる中心がなく、濃いところも薄いところもある。かたちも配置も不揃いである。でも、そういうところにこそ価値やつながりを見出していく。わたしはそういう世界(名古屋)に住みたいと思うし、NPOが目指す社会はそうであってほしいと思って「MADARA」という名前にしました。

また「まだら(斑)」の語源を調べたら、どうやら「(ま)がある」または「がない」という「」、あいだ、に関するものだったんで、これはイシス編集学校っぽさもあるなと嬉しくなって付けました。「地」に対する「図」が大事なのではなく、「地」と「図」の関係をたえず編集し続けていくという姿勢でいたいものです。


さらに後付けですが、「マダラ神」という神様がいることを知りました。『煩悩の神様』でもあり『後戸の神』といって、教義の本質的な所を守る神でもあり、芸術や芸能の神でもある、というのもいいなあと思って、悦に入っています。


で、MADARAはさらに掘り下げたい方のために、第一回の参加者限定ですが、二回・三回とある連続講座となっております。次からは少人数(10団体限定)となり、さらに濃いフィードバック(指南)もできると思いますので、ぜひ続けてのご参加も検討くださいませ。



★同じ講座のふりかえりとは思えない、きむらさん(スタッフ)のブログはこちら↓
meta-kimura.hatenablog.com

知の編集術 (講談社現代新書)

知の編集術 (講談社現代新書)

*1:もちろん「地」は、この場合は「将来の仲間」としましたが、どのようにでも変えられるものなんですが。

ウチに子ども用の百科事典があった話

私は小さい頃から本が好きで、母が「この子は家の中にばかりいて健康に悪いんじゃないか」と心配して庭に連れ出すと、外で勝手に遊んでいるので、よしよしと思って洗濯物を干したりしていると瞬く間に居なくなり、探しに行くとまた部屋で本を読んでいたそうです。

子ども用の本や絵本がたくさんあった記憶は全くないのですが、当時あった小学館の学習雑誌「めばえ」とか「幼稚園」とか「小学●年生」を毎月読んでいました。「めばえ」時代は記憶にないのですが、「小学●年生」になってからは毎月ねだって買ってもらっていたことを覚えています。当時は一年生から六年生まで、毎月学年ごとに違う雑誌が出ていたんですよ。次の号が出るころにはもうボロボロで、背表紙が剥がれバラバラになりそうでした。

父が本好きだったので、大人の本はたくさんありました。
漫画もあったので「こち亀」「キン肉マン」とかを読んで漢字を覚えました。好きな超人はステカセキングです。
父は子どもでも読めそうな本をたまに教えてくれ(芥川龍之介とか)、蜘蛛の糸の話とか幼な心に超~怖いと思ってトラウマになっていたんですが、ある日「アルジャーノンに花束を」を勧められ、読んでみたら面白かったんだけど、これをしょうがくせいのわたしによませるのわなぜなんだろう。と、戸惑いました。


なので、うちの子ども用の本棚に、子ども用の百科事典があってもあまり不思議に思いませんでした。
子ども用の百科事典というのはどういうものかというと、B4くらいの大きさで、厚さ3センチほど。ハードカバーで、ケース付き。歴史・文学・地理(アジア、ヨーロッパ、アフリカ、日本とか地域ごとで1冊ずつ)・数学・科学・昆虫・植物・動物・海洋生物とかとかそんな感じで全20巻くらいあるんですわ。で、内容を子ども用にやわらかくまとめてあり、もちろんオールカラー。厚くてつるつるの光沢のある紙に印刷してあるんです。

本棚から出すだけでも重たくて、ケースから出したり、またしまったりするのもクソ面倒で。私は歴史(「おはなし」みたいで面白かった)と植物の図鑑だけは好きでよく見ていたんだけど、他はあまり見ないでいました。昆虫、きもいし…。


わたしは長年、この百科事典は父が道楽で買ったものだと思っていたんですが、そうではなかったんです。


それは母が、わたしがまだ産まれたばかりで、1歳にもなっていない頃に、あやしげな訪問販売の人にそそのかされて、びっくりするような高いお金を出して買ったものだったというのです。

母は父と違って、全くと言っていいほど本を読まない人でした。高校も卒業したようだったけど、学校の勉強を一生懸命したほうではなかったようでした。私も母から勉強しろとかいい学校に行けとか言われたことは一度もありません。家事を覚えて早く嫁に行けとは言われたけど…。

それでも、母は訪問販売のセールスマンに、小さい頃から本を読むと頭が良くなりますよ、とか、すごく知識がつきますよ、とか、いい成績が取れる子になりますよ、とか言われて、大きく心が動いたのだろうと思います。
それは生まれたばかりの我が子を思う気持ちだったとも思うし、自分が生きられなかった人生への憧れでもあったと思います。

また、母は遊びが好きな父と違って、全然お金を使わない人でした。私は世の中のことが少しずつ分かるようになると、母はもう少しよい服や家電を買って贅沢しても家計は痛まないのではないかと思っていましたが、いつまでも古いものを使い続け、安物の服を買っていました。


それなのに、セールスマンが帰った後、父にものすごく怒られるような金額の、わけのわからない百科事典をポンと買ってしまっていたようなんです。まだ字も読めない子のために。(当時はクーリングオフとかなかったから買うしかなかったんでしょうね)。

それは我が子のためを思って、という気持ちも大いにあったと思うんだけど、同じだけ「頭のよい子の母であるステキな私」になりたい母の欲望のため、でもあったんだろうな、と私は思います。
でも、これを知った時、私はそんな母が本当に愛おしくてたまらなくなりました。百科事典を買ってくれてありがとう(ほぼ読んでないけど)と思いました。それは、もう母が亡くなった後だったんですけど。


子育てをしている人のブログなどを読むと、それは本当に子どものためなのか?母のエゴではないのか?という親本人による葛藤や、外野からの批判やツッコミをよく見かけます。そのたびに、うわー子育て大変だな~、やっぱり自分には無理だな~と思うけれども、
親からしたら子どもがアホみたいなことでも一生懸命にやっている姿を愛おしく感じるように、子どもから見ても親が一生懸命なあまりに何か滑稽なことになっているとしても、それは愛おしいことだし、ありがたいことだと感じられるんじゃないかなと思いました。

感じる時期は、親が死んだ後かもしれないですが…。

小学一年生 2017年 10 月号 [雑誌]

小学一年生 2017年 10 月号 [雑誌]

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)

蜘蛛の糸・杜子春 (新潮文庫)

蜘蛛の糸・杜子春 (新潮文庫)

支援とか理解とかナメてんの?っていう話

最近のTwitter生活で心に残ったツイートはこれです。




本当にそうだと思ったんですよ。なんでこっちが下手に出ないといけないのか、と思ったんですよ。
自分は(たぶん、今のところ、社会的には)同性愛者でもなく障害者でもなく、健康で五体大満足な30代で、四代くらい前からバリバリの日本国籍で、養育すべき子も介護すべき親族もおらず、四大卒で名古屋市内にアパート借りて車も乗っててたまには好きな靴買ったり好きなだけ酒飲んで次の日にフラフラになったりもできるマッチョマンなんですけど。

差別とか、本当に、要するに「ナメてる」っていうことじゃんね。
よく知りもしないのにテメーの小っちぇー価値観に当てはめて見くびるな、ということではないかと思ったんです。支援したいとか理解したいとか差別ではなく区別だとか何様のつもりだ、それが免罪符にでもなると思っているのか。ナメていないとでも思っているのか。そんな声が、幻聴が、自分の中から発せられているようにも、自分へと浴びせられているようにも聞こえてきたのです。

www.ele-king.net

國分功一郎さんのこの書評を読んで、そうだ「愛」ではなくて「尊厳」だ、と思ったんです。
「子どもの貧困」と言うとき、えっ、もしかして「子ども」を可哀想だとか思ってんの?貧困を、可哀想だとか思ってんの?それってナメてない?って、ロジカルに説明するだけの言葉を私は持っていないんだけど、直感的にそう思って心に黒いものが渦巻いていたんです。
貧困は酷いです。そのためにその人が持っている可能性や自由を大幅に制限されることは酷いと思う、金がないというくらいのことで。でも、その人までがナメられる筋合いってあんのかなって思って。「あなたたちはダメなのよ、屑なのよ、どうしようもないのよ、と私は思うのよ。の、その先にあるもの。」を考えることって、そういうことなのかなって思って。

人の思いは網みたいになっていると思うんです。愛や哀れみ、優しさ、どうしていいかわからず思わず体が動いてしまうようなこと、その網の結び目に、子ども食堂とか子ども宅食とか、学習支援とか居場所づくりとかがあって、それぞれがそれぞれの活動を写しあっているとおもうんです。いや、写しあっていくといいんだろうなと思うんです。

でも、その網の下には「ナメてんのかコラ」っていう尊厳の網の目がないといけないんじゃないか、と思ったんです。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

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われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」

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