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あいちコミュニティ財団のことを考えないでファンドレイジングしてもいいのか問題

4/14に「ファンドレイジング・日本2018(FRJ2018)振り返り会(東海チャプター主催)」に参加してきました。

日本最大のファンドレイジングイベント「FRJ2018」に参加された愛知県周辺の方が、このイベントの振り返りもかねて、FRJでどんな意見交換があったかをシェアしていただけるということで、勉強のために行ってきました。

jfra.jp

FRJではファンドレイジングにまつわる様々なセッションがあり、東海チャプターの方が参加されたセッションだけでも22。その中から聴講者が聞きたいセッションに手を上げてもらって、人数の多かったものからどんな内容だったかを東海チャプターの方が説明してくれる、というかたちで進行されました。

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この写真は、線の左側の数字がセッションの番号、右側が会場の人が「聞きたい」と手を上げた数です。
「聞きたい」の数が多く、この日に詳しい説明をしていただけたセッションのタイトルは下記の通りです。

  • No.49 「財団をつくる」という社会貢献のカタチ ~誰にでも助成財団を創れる時代の新たな可能性~(8名)
  • No.7 社会的インパクト評価の最新動向 ~2020年社会的インパクト評価推進に向けたロードマップ~(7名)
  • No.16 ソーシャルデザイン ~社会をちょっとよくするプロジェクトのつくりかた~(5名)
  • No.22. 受け入れ団体から見た伴走型コンサルタント ~組織づくりから始めるファンドレイジング~(5名)
  • No.54 マーケティングで企業から選ばれるNPOになる ~企業は何に「共感」してNPOと連携するのか?~(5名)

この中の「「財団をつくる」という社会貢献のカタチ ~誰にでも助成財団を創れる時代の新たな可能性~」は私も聞きたくて手を上げました。
内容は、平成20年に「新公益法人制度」が始まったことにより財団が作りやすくなったこと、その後にできた全国の財団(パブリック・リソース財団、熊西地域振興財団、一般財団法人みらいRITA)の活動を紹介するというものでした。日本の個人金融資産の約半分が預貯金であり、しかも60代以上の人に集中しているということで、お金の使い道が分かりやすい身近な財団が増えることで、寄付シーンの活性化につながるのではないか…というような話でした。

でも私はこれを聞いて「え、それだけ?」と思ったんです。

だって、財団といえばあいちコミュニティ財団じゃないですか?しかも、東海チャプターの振り返り会です。この地域でファンドレイジングに興味のある人で、あいちコミュニティ財団のことを知らない人はいないと思ったんです。

yoshimi-deluxe.hatenablog.com


なので「今年のFRJ2018では、あいちコミュニティ財団について話し合ったセッションはなかったんですか?」と質問しました。

答えとしては、FRJ2018ではあいちコミュニティ財団について正式に話し合いを持ったセッションはなかったとのことでした。

しかも、私の質問の意図がよく伝わっておらず、会場でなぜか日本ファンドレイジング協会の職員の方にあいちコミュニティ財団との距離感について説明させてしまったり、会場にあいちコミュニティ財団の関係者の方も来られており、財団のこれまでの経緯について丁寧にご説明いただくことになってしまったりして、私の不用意な発言で会の雰囲気が気まずい感じになってしまったことを申し訳なく思いました。ごめんなさい。

でも、私の質問の意図は、ファンドレイジング協会に説明してほしいとか財団に説明してほしいとかじゃないんです。
会場でも言ったんですが、ファンドレイジングをする/必要とする私たち一人ひとりが、ひとりのファンドレイザーとして、今回のあいちコミュニティ財団の一件をどのように受け止め、今後の活動に生かしていくか?ということを考えたかったんです。

しかし、あいちコミュニティ財団のことが公になったのは年末年始の時期。FRJ2018は大きなイベントなので、短期間で新しくセッションを追加するということは準備の都合で難しかったのかなーとも思います。ただ、公に議論はされなかったけれど、参加した東海チャプターのメンバーは全国のファンドレイザーの方から「あれはどうなったの?」と休憩時間などに聞かれることはあったとか。やっぱりファンドレイジングに関わる人の関心ごとであったことは間違いないようです。

そのうえで、今回FRJ2018であいちコミュニティ財団について考えるセッションがなかったとしても、それはそれでひとつの考え方だと思うんです。「あいちコミュニティ財団が起こした不祥事は、あいちコミュニティ財団という個別の組織の問題であり、日本のファンドレイジングを考えるうえで、大した問題ではない」という考え方もあるのかなと。(そういう説明をされた方はいなかったですが…)
でも、私は、そうではないのではないか、と思うのです。

あいちコミュニティ財団の不祥事の原因は「ファンドレイジング」活動が内包している矛盾にもあるのではないか

FRJ2018のセッション内容を見てみると「社会的インパクト評価」「企業連携・CSV」「社会貢献教育」「調査分析」「ストーリーテリング」「地域特性を生かしたファンドレイジング」「伴走型コンサル」とあり、これって全部「あいちコミュニティ財団」がやってきたことじゃんか、と思いました。昨年であれば、あいちコミュニティ財団の取り組みは、FRJでベストプラクティスとして輝かしく取り上げられていたのではないでしょうか。

それが今回、この無視ぶりというのは…。あいちコミュニティ財団も、日本ファンドレイジング協会はじめ全国のファンドレイザーと一緒に、日本の寄付シーンを盛り上げていこうと尽力してきた仲間ではないのでしょうか。
だからこそ、今回の不祥事には驚き、戸惑い、がっかりし、憤りも感じたと思います。財団の今後の方針など状況が定まらない中で対応に困ったことも多いと思います。
でも、でも、だからこそ、私たちはこの問題をなかったことにしないで、きちんと向き合い、考え話し合うべきものではないでしょうか。それは厳しいメッセージを発信することかもしれないし、立ち直りに向けて協力することかもしれないし、しないことかもしれません。

社会課題と向き合い、きちんと調査し、ロジックモデルを使って戦略を立てる。思いをストーリーにして語り、共感をベースに多くの人の協力を集め、「社会を変える」事業をかたちにしていく。かたちになった事業を数値にして評価し内容を公表する。その全部を美しく実現してきた組織が、一方では新たな「課題」や「抑圧」を生み出していた。それを私はどう考えたらいいのだろう、と思いました。

私だってファンドレイジングしたくて、ちゃんと勉強したくてこの振り返り会に参加したんです。私は今、あるホームレス支援団体の広報や寄付集めに関わっているのですが、スタッフのお給料はお世辞にも高いとは言えず「貧困者を支える団体が新たな貧困を生み出していないか?」とは、ずっと苦しく思ってきたところです。少しずつでも寄付を集めて、みんながストレス少なく活動できたらと思って試行錯誤しています。

だけど、一方で「社会にいいことをしているのだから」「ホームレス状態にある人だけじゃなくて、みんなのためになることだから」と言って活動をPRし、寄付をいただくことを「当然だ」と思っていないか、そこに傲慢さはないかと常に思っていなければ、と、私はあいちコミュニティ財団の色々を見て考えました。私の信じる「正義」のために無理を通していないか、「正義」のために美しくない部分を隠していないか、「正義」のために誰かに我慢をさせていないか。そしてそれでも「正義」というか信念を通さねばならないとしたら、どうするべきなのか。

もう一つは「誰のための」「何のための」ファンドレイジングなのかを忘れないことではないかと思います。
クラウドファンディング、休眠預金、ソーシャル・インパクト・ボンドなどなど、新たな資金調達の方法っていろいろあると思うんです。でも、それって「誰の」ニーズなのか?誰が望んでいることなのか?ということを常に考えないと、と思います。私は、テレビ塔の下の植え込みの陰で寝ている人や、後ろ指をさされながら空き缶を自転車に満載して売りに行く人に対して、私がやってる広報とか寄付集めってどんな意味を持つのかな?と思うと苦しくなることがよくあります。(なので、もっとよい方法を、たくさんの人と一緒に勉強したいと思っているのです。)

「社会を変える」とか「日本の寄付・社会的投資市場を10兆円へ」といったかっこいいキャッチフレーズは多くの人に響くし、そういう言葉がなければ寄付やソーシャルな活動に興味を持たなかった人たちもいると思います。だから、意味がないとは思いません。でも、結局は誰のためなのか?という問い、再配分を受け取るべき人を置き去りにしていないかという問いは忘れずにいたいと思います。

そして、その問いは、社会にイイコトをしていい気になってる私の驕りをいさめてくれるだけでなく、活動そのものを改革するエンジンになると思います。公園で寝ている人は「社会課題」というフワっとしたものではなく、ひとりの意志ある人間です。給食費が払えない、塾に行けない子どもも、障害者も、外国人も意志ある人間です。寄付はその人たちを助けるためのものでしょうか。それともその人たちを「社会課題」たらしめている状況を変えるためのものでしょうか。社会の前に、変えるべきはファンドレイザーのマインドではないか…と私は書きながら思いました。

手法に加えて、そもそも論も必要では?

こんだけ書いといてなんですが、私はファンドレイジング協会とか、FRJ2018とか、東海チャプターとかあいちコミュニティ財団をディスりたいわけではないんです。准認定ファンドレイザーの勉強しようかなあと思ってファンドレイジング協会にマイページも登録したし、一緒に学ぶ仲間だと勝手に思っていますよ!

ただ、ファンドレイズの具体的な手法だけでなく、何のためにとか、本当にこれでいいのかみたいな「そもそも」の話ももっと勉強できたらなあと思っているんです*1。それはもしかしたら、自分たちの活動の根幹を揺るがすような議論になるかもしれないけど、社会を変えるとか威勢のいいことを言うくらいなら、その程度のことにビビってちゃいけないんじゃないかな、とも思うんです。

完全に矛盾がなくて、美しい活動はないと思います。私は日本のファンドレイジング・シーンに矛盾があることがおかしい、と言っているのではなく、矛盾にこそ向き合っていきたいと思っているんです。首尾一貫していないこと、潔癖でないこと、自分の手が汚れ目は曇っているかもしれないことを、自分にも他者にも隠さないでいたいんです。清く正しく美しく、速く賢く大きい物語より、ズルくてケチくさくても「でも、やるんだよ」という実践こそが、「共感」や「ブレイクスルー」を生むと考えるからです。

私からは以上です。

■□■関連する記事■□■
yoshimi-deluxe.hatenablog.com

*1:ちなみにFRJ2018では「ファンドレイジングの7つのジレンマ~ワークショップで考える、エシカル・ファンドレイジング」というセッションがあったようです。「エシカル・ファンドレイジング」という言葉が衝撃だったんですが「エシカルとは言えない面も現状、ある」っていうことをちゃんと認識することって大事だなーと思いました。

うしろめたさゆえの短絡的な寄付ー寄付は贈与か交換か

前回の記事の続きです。

あいちコミュニティ財団のおこぼれにあずかろうと思っていた自分、財団内の色々について知っていたのに何もしなかったといううしろめたさにさいなまれ、私は藁にもすがる思いでこの本を手にしました。

うしろめたさの人類学

うしろめたさの人類学

「うしろめたさの人類学」とありますが、手に取ってみると筆者自身のエチオピアでの経験と、モースの「贈与論」などを引きながら「贈与」や「交換」や「市場」「国家」なんかについて論じるというもの。これはやはり今の自分にピッタリではないかと思い、どんどん読みました。

うしろめたい中流階級の私

 エチオピアを訪れた日本人が最初に戸惑うのが、物乞いの多さだ。街の交差点で車が停まると、赤ん坊を抱えた女性や手足に障がいのある男性が駆け寄ってくる。生気のない顔で見つめられ、手を差し出されると、どうしたらよいのか、多くの日本人は困惑してしまう。
 「わたしたち」と「かれら」のあいだには、埋めがたい格差がある。かといって、みんなに分け与えるわけにもいかない。では、どうするべきなのか?これは途上国を訪れた旅行者の多くが抱く葛藤かもしれない。(松村圭一郎「うしろめたさの人類学」ミシマ社、2017年)

 ホームレス支援のボランティアをしていた時にキツかったことがある。
 夜回りをしてカイロや食べ物を渡し、少しお話をしてありがとうと言われる。野宿の人も一緒に炊き出しの準備をし、みんなであたたかいものを食べて、教えてもらいながら片付けをする。イベントに呼ばれてみんなでビッグイシューの出張販売に行き、打ち上げと称して飲みに行ったこともあった。
 その時はお互いに仲間になれた気がして楽しかったけど、帰りは別々になる。私があたたかい風呂と寝床のあるアパートでグースカ寝ている時に、さっきまで一緒にいた人たちは、屋根もなくいつ襲撃されるかもわからない冷たい地面の上で眠るのだ。それを思うと辛かった。私のやっていることって何なのかなと思った。

 最近、エチオピアでは、私もポケットに小銭があれば、誰かに渡している。なるべく収支の帳尻をゆるくして、お金が漏れていくようにしている。
 自分が彼らよりも不当に豊かだという「うしろめたさ」がある。つねに彼らからいろんなものをもらってきたという思いもある。*1そのうしろめたさに、できるだけ素直に従うようにしている。
 それは「貧しい人のために」とか「助けたい」という気持ちからではない。あくまでも自分が彼らより安定した生活を享受できているという、圧倒的な格差への「うしろめたさ」でしかない。
 この違いはとても大きい。善意の前者は相手を貶め、自責の後者は相手を畏れる。(同)

 私が寄付をしたりボランティアをするのは、何よりもこの「うしろめたさ」が原動力だったのではないか。そして、もしかして今、コミュニティ財団みたいなところや、NPOや、クラウドファンディングに寄付をしたい人や、被災地でボランティアをしたい人や、フェアトレードの商品を選びたい人の動機にも、この「うしろめたさ」があるのではないかと思った。なので、「うしろめたさをなんとかしたい」という目標(Mission)に対して「寄付」という行為(Activity)がどんな結果(Output)や成果(Outcome)をもたらすのだろうか、という疑問からスタートして、この記事を書いてみようと思います。

贈与と交換と再分配

 「うしろめたさの人類学」では、「他者とのモノや行為のやりとりが社会/世界を構築する作業である」として、そのやり取りの種類を「贈与」「交換」そして「再分配」に分けて論じられていたので、私なりに整理して紹介しますね。

贈与:

  • やり取りするモノやお金に「思い」や「感情」を付け加える
  • やり取りする人どうしの共感を増幅する
  • やり取りする人どうしのつながりを作る
  • 感情にあふれた、でも時に面倒な親密さを生む
  • 代替不可能なかげけがえのないものになる
  • 「贈与される側」は受け取ることが義務であり、欲しくないものが贈られることも。贈与は心温まるやりとりだが万能ではない(被災地にたくさん支援物資が送られてくるが、実は現地では必要な物ではなく山積みになっているような状態とか)

交換:

  • やり取りするモノやお金から「思い」や「感情」を差し引く
  • やり取りする人どうしの共感を抑圧する
  • やりとりの関係が一回で完結する
  • やり取りの中に感情は乏しい
  • いつでも誰とでも交換ができる
  • お互いの必要性を満たす最適値を目指して取引がなされるため、ニーズの多様性に対応しやすい。モノのやりとりの「自由さ」をもたらす「市場」を創造する。しかし市場の論理だけだと、不公平な配分の責任は「個人」にあるとされてしまう。

「贈与」をバレンタインとかクリスマス、結婚や誕生日祝いのギフトやプレゼント、「交換」を「お買い物」としてイメージしてもらうとわかりやすいのではないかなと思います。
これは贈与がハートウォーミングで人間らしくて良い、交換がカネを介した冷血なやりとりでケシカランというわけじゃないんです。そもそも「贈与」と「交換」はどちらがなくても今の世の中は成り立たないし、ここからは贈与!こっちは交換!とクッキリとした線が引けるものではないということなんです。筆者の言葉を借りればこれは「仮の区切り」であり、わたしたちは日々贈与と交換を巧みに使い分けたり、その間をユラユラ揺れ動きながらモノやコト、思いや感情をやりとりしているんだっていう話です。*2

ちなみにモノのやりとりのもう1つの形態として「再分配」も紹介されていました。

再分配:

  • 税金のように、いったん多くの人から徴収した財を特定の人や事業に振り分けること
  • 非市場的な財の移譲という意味では贈与に近い
  • 贈与と違い、お金の出所が匿名化され覆い隠される(贈与では、贈られた人は贈った人の顔を思い出せる)
  • 資金の出し手も自分が資金の提供者であるという意識を失いがち。例:税の再分配の失敗は政府の責任であり、納税者たる自分の責任ではない。
  • 贈与=人との関係をつなげる、交換=人との関係を解消する、再分配=あるべきつながりが途中で切れている

あいちコミュニティ財団の事業は贈与?交換?再分配?

ここからあいちコミュニティ財団の事業を見てみると、「贈与」「交換」「再分配」のいいところを組み合わせて、新たなお金と人の流れを作っていこうとしていたんだなと私は感じました。

できるだけお金だけでなく「寄付者の声」を寄付者の顔写真付き紹介しようとし*3、寄付だけでなく応援してくれるボランティアが伴走する仕組みを作ろうとしていました。(=「贈与」のよいところを生かす)

そして私が「あいちコミュニティ財団やるな~」と思ったのは、「交換」の良さを生かそうとしていたところです。
前の記事から私がねちっこくこだわっているセオリー・オブ・チェンジ(TOC)や、TOCの考えをベースに非営利活動を評価するSROIは、まさに「贈与」だけでは共感できなかった多くの人たちに「交換」の理屈を活用してメリットを謳うことで「寄付」を促すそうという取り組みだったのではないか、そしてそれは、一定の効果があった(たくさんの寄付金を集めることができた)のではないかと私は考えました。でも、これは特段あいちコミュニティ財団に限ったことでなく、今の日本のファンドレイジング全体の流行なのかもしれませんが。

「交換」のほうが分かりやすい

いま私たちは、100円玉は100円の価値があるものと交換されなければならないし、それが当然だと完全に思っているのではないでしょうか。
さらに、手取りの月給が20万円ならばひと月20万円以内で暮らさなければいけないし、作るのに20万円かかる商品であれば20万円かそれ以上で売るべきであるというのが常識なんじゃないでしょうか。

そりゃそうなんですけど「贈与」ってその仕組みの外側にもあるものなんですよね。例えば私がオギャーと生まれてから今まで、両親から「贈与された」有形無形のモノコトカネについて、等価で返すことなんて一生かかってもできないし、親だって全部返せよ~とは思ってないはずなんです。
しかも「贈与」ってクソめんどうなんです。冒頭で私は「自分が寄付をするのは『うしろめたさ』ゆえなんじゃないか」と書いたけど、もらった方はもらった方で『負い目』を感じることもあるわけです。もらってばかりいる、養われている、誰かのおかげでメシが食えている、そういう負い目。だから、贈与には「あげる側がエラくならず、もらう側も負い目を感じない」という工夫が要る、と同書にも書かれていました。出産祝いでも香典でもバレンタインでも、贈られたら「お返し」をする決まりがあるし、大昔の狩猟採集民もわざわざ他人の道具で狩りをして、道具の所有者にも獲物を渡すとか、誰もが一方的にあげるばかりもらうばかりにならないようにしていたんですと。
贈られたもの、もらったものは返せない。返せないけど報いたいと思う。返されたら返されたで、うわあこんなに返されちゃった、また贈ろう、みたいな、もやもやだらだらしたやり取りになるわけです。

それに対して「○○円の寄付で子どもへの学習支援が〇回開催できます」みたいな説明は「交換」的で、なるほど!とすぐに合点がいきやすいように思ったんです。お返しを期待して寄付するわけではないけど、自分の財や行為がどう役立てられているのかが分かると嬉しいし。

そして何よりも「交換的」なやりとりって「対等である」っぽい感じがすると思うんです。要するに「等価交換」だから「負い目」や「うしろめたさ」を感じにくいのではないか?という理屈です。かわいそうだからやっているんではないんです、対等なんです。出したお金の分だけ、私(や社会)もリターンを受け取っているから、対等なんです。助ける助けられるの関係じゃなくて、共に歩む仲間なんです、っていう。

誰のための対等か、何のための共感か

でも最初にかえって、本当に対等なんだっけ?と思うわけです。ていうか対等って何?
支出と収入がバランスしているから、助けると助けられるとの量が一致しているから、一方的に与えるだけではないから対等なのかなあ。対等だから、負い目やうしろめたさを感じずに堂々としていればいいのかなあ?
と、私は思ったわけです。

冒頭の「うしろめたさの人類学」から再び引用します。

物乞いが、ぼくらのために働いてくれるわけでも、なにかを代わりにくれるわけでもない。このとき「わたし」が彼らにお金を払う理由はない、となる。
「交換」において、「わたしのお金」は「わたしの利得」の代価として使われるものだ。そこえはきちんと収支の帳尻を合わせることが求められる。簡単にお金は渡せない。
 こうして、日本人の多くは物乞いに「なにもあげない」ことを選ぶ。(同)

基本的にはNPOへの「寄付」も、直接的には「私だけのために働いてくれるわけでも」「何かを代わりにくれるわけでも」ない、と言えます。(寄付を求めるNPO=物乞い と言ってるわけじゃないですよ!!!)
でも「○○円の寄付で子どもへの学習支援が〇回開催できます」→「学習支援を受けた結果、高校への進学率は〇パーセントアップ、学習意欲が増えた子どもは〇パーセントアップ、人への信頼感が増えた子どもは〇パーセントアップ」→「進学せず就職した場合の収入と高卒で進学した場合の収入の差はいくらで、納税額ではこれだけ変わります」ってなるとさらに交換的になりますよね。

交換を説明に使うのは悪くないと思うんです。
でも、本当に「交換」だけで世の中が渡っていけるなら、寄付じゃなくてそもそもいいはず。市場で売り買いすればいいんです。それが「ソーシャルビジネス」というものなのかもしれないけれど。

市場の原理ではできない、もらったものを返しきれないから寄付でお願いしているんじゃなかったっけ、と私は思ったんです。
そして、見てしまったものを放っておけない、なにかしなければいけないのではないか、そういう心の動きを作ったものの原動力って実は「うしろめたさ」だったのではないでしょうか。それを「交換」によって「解決」して、なかったことにしていいんでしょうか。私はいいことをしている、寄付もしているボランティアもしている、啓発もしている差別もしない対等だ、だからといって、自分には温かい風呂と寝床があり、ある人にはそれがないという現実、それを受け止められない自分から目をそらしていていいのかな。私は「寄付」を通じて、「私はよいことをしている」という物語を買っていたというか、消費していただけなのかな?持て余したうしろめたさを麻痺させるモルヒネを買っていたのではないか…とも思いました。

ぼくらは他者と対面すると、かならずなんらかの思いを抱く。無意識のうちに他者の感情や欲望に自己の思いを共鳴させている。泣いている赤ちゃんを目の前にすると、なんだか自分まで悲しくなってくる。何かしてあげねば、という気になる。人がタンスの角などに足の小指をぶつけるのを見ると、その「痛み」はひとごとには思えない。思わず「あいたたた」と声が出てしまう。
 この「共感」が、コミュニケーションを可能にする基盤である。
 身体の弱った老婆を目のあたりにして、何も感じないという人はいないだろう。でも「交換」のモードには、そんな共感を抑え込む力がある。(中略)交換のモードでは、モノを受け取らないかぎり、与える理由はないのだから。心にわきあがる感情に従う必要はないのだから。(中略)
 あるいは「与えることは彼らのためにならない」と言うかもしれない。これだって同じ正当化にすぎない。ためになるかどうかは、そもそも与える側が決められるものではないからだ。いろんな理由をつけて最初に生じたはずの「与えずにはいられない」という共感を抑圧している。(同)

与えずにはいられないから与える。その結果、避難所に段ボールが積み重なるように、それ自体は感謝されないかもしれない。役立たないかもしれない。だから寄付って難しいし、「交換」の論理からしたら、何やってんのバカじゃない?となるかもしれない。そして、もらう側も、いかに「正当な」理由があっても、やっぱりもらうだけでは負い目を感じると思う。これだけのインパクトが出せる活動なんですよ、堂々としていいんですよと言われても、どこか「返せない」気持ちはあるのではないか。また「寄付者(資金の出し手)」から「私たち、平等ですよねっ」と言われたら「は、はい…」と答える以外はないのではないか、とも思う。。。
 

とにかく贈与には割り切れないいろいろが付きまとう。でも、「うしろめたさ」が行為の源泉ならば、そこから目をそらしてはいけないと思う。うしろめたさがあれば「こんなにいいことをやっているんです!」と尊大な態度をとることはできなくなる。

私は社会福祉士なんですけど、数年前に福祉関係の仕事もしている大先輩から「福祉の仕事は、どんなに美しく価値があることだとしても『結局は、人の不幸でメシを食っているとも言える』ということを忘れてはいけない」と言われたことがある。不幸・不便・不満・不足…を解決したり解消したりする仕事は尊く、役に立ち、人に感謝されるけれど、不幸・不便・不満・不足があらかじめない方がいいように、その仕事自体も本当はない方がいいようなものなのだ。でも、ないといけない現状があるから、やむにやまれずやらせていただくものなのだ。だからといって過剰に卑屈になることも、偉そうにすることもしなくていい。

 たくさんの人の共感を得て、たくさんのお金を集めたとしても、それ自体で浮かれてしまうことはないようにしたい。いたたまれなくてうしろめたくて思わず募金してしまったとしても、一度の「交換」でスッキリしてしまうばかりではなく、うしろめたさを生み出す真因を変えていく一歩を踏み出せる個人でありたい。そして既存の「贈与」や「交換」や「再分配」の定義に縛られず、組み合わせたり、境界線をちょっとずらしたりしながら、失敗もしつつしたたかに枠組みを変えていく挑戦をおそれないソーシャルワーカーでありたい。

*1:yoshimi_deluxe注:この本の筆者はエチオピアでフィールドワークする文化人類学

*2:同書の中ではアメリカからアフリカへの「贈与」としてのODAが、そもそも穀物価格の調整(=「交換」のための価値の最適化)を動機として生まれていること、アフリカへ渡った援助物資が(禁止されているけど)売買されて「交換」のためのモノに変わっていることが紹介されています。交換によって入手したものを心をこめてラッピングして贈与し、贈与されたモノはメルカリに出品され…と、贈与と交換の間を旅するモノの動きって面白いですね。

*3:今はリンクが切れていますが、HP上の「寄付者の声」コーナーでは顔写真入りで寄付者のメッセージを公開していた

あいちコミュニティ財団について私が考えたこと

名古屋の(というか、私のまわりの?)ソーシャル/NPO界隈に重い影を落とした、年末からのあいちコミュニティ財団のことで考えたことを書こうと思います。

ことの経緯については、三重県の川北さんという方が詳しくまとめてくださっていたので、ご存知でない方はこちらを読んでください。↓

「三六協定結ばず残業、未払い 愛知の財団に是正勧告」を受けて – 変速アプローチ ~小さなモノゴトの作り方~

Facebookやブログで他のNPOの皆様が想いを綴っているのを見て、僕もたくさん失敗しているし、多くの人に迷惑をかけているし、そこから得たものもあるし、まぁ、下手でも書いてみようかなと思い、書くことにしました。(上記の川北さんのブログより)

私はあいちコミュニティ財団には、設立の時と、財団を通じて「ちた型0~100歳のまちづくり基金」が寄付を募られていた時に寄付をしました。財団のスタッフだった方とも何度かお会いしたり、SNSで交流を持ったこともあります。元・代表理事の木村さんとは、彼が同じく代表を務めていた*1コミュニティ・ユース・バンクmomoで、融資先団体のSROIを測るプロジェクトの際に、ちょっとだけお手伝いをさせていただいたことがります。という関係です。
って書くと関係者っぽいですが、寄付をした以外に、特段財団の活動にコミットしたことはありません。月に一度くらいのペースで届くコミュニティ財団のメールマガジンも「マメだなあ、えらいなあ」と思うものの、ほとんど読んではいませんでした。(ごめんなさい)

ただ…これを書くのに勇気が要ったのですが…財団のスタッフの入れ替わりが激しく、原因が団体内の不調和にあることは、どこからともなく噂に聞いていました。ただ、このような事態となるまでの深刻さとは思っておらず、また、思っていたとしても私の立場からは(また聞きのまた聞きくらいだし)どうすることもできなかったのですが、ひるがえって「強力なリーダーがいる組織ってこうなりがちよねえ」みたいに…ハラスメントを受けていた方には申し訳ないのですが…軽く…思っていたところがあり…かといってどうしようもできなかったんだけど、なんとも言えない心苦しい気持ちに、勝手になっていました。

最初は「直接関係ない立場の私だからこそ、そして今こそ、パワハラ云々の問題は別として、いち寄付者としてコミュニティ財団の今後の事業の在り方を考えるブログを書こう」と思っていました。
でも、全然書けませんでした。なぜかと言うとそれはきれいごとで、私の本心ではなかったからです。
私のモヤモヤの正体は財団の事業云々ではなくて、自分も知っていながら、ハラスメントに遠くから加担していたのではないか、許していたのではないかという罪悪感だったからです。何も言わなかったことを、何も言えなかったと言いかえているだけではないのかと。いや、それこそが思い上がりじゃないのか、いやいや、でもでも…
以下に私は、偉そうなことを書きますが、どれだけ書いても、それはこの自分の罪悪感、うしろめたさを何とかしたくて書くものにすぎないのかもしれません。川北さんみたいにちゃんとしたことは書けないけれど、それでも、私もたくさん失敗しているし、多くの人に迷惑をかけているし、そこから得たものもあるし、まぁ、下手でも書いてみようかなと思い、書くことにしました。

いち寄付者としてコミュニティ財団の今後の事業の在り方を考える

本心ではないと言いながら、やっぱり「いち寄付者としてコミュニティ財団の今後の事業の在り方を考える」ということから始めようと思いました。

それ以外の立場では語れないのと、もうひとつの理由は、木村真樹さんが代表を辞されたからです。他の方からどう見えていたかは分かりませんが、いち寄付者としての私から見ると「あいちコミュニティ財団=木村さん」だったからです。もちろん木村さん以外にも、スタッフの方や理事の方、いろいろな方がコミュニティ財団を支えておられたと思います。でも、基本的にはこれまでは、木村さんのアイデアで、木村さんが戦略を組み立て、木村さんが作ったコネクションを駆使して、木村さんを中心に情報を発信されてこられたと私は思っていました。
だから「木村さんのいないコミュニティ財団って何だろう」と考えることから、私は始めたいと思いました。

ちなみに私自身はどうして設立時に寄付しようと思ったかと振り返ると…(正直あまり覚えていないのですが)特に木村さんと親しかったわけでもなく、たぶん知り合いでもなかった気がするのですが「何か大きなムーブメントになりそうだから乗っておこうかな」とか「もしかしたら、自分が関わっている団体に助成してもらえるかもしれないし」くらいの考えだったと思います。すみません。でも、本当にそれくらいの気持ちで、あまりよく分かっておらず、積極的に分かろうともしていませんでした。*2
ぶっちゃけたくさんのお金を集めていた財団の、ちょっとでもおこぼれにあずかりたいなあみたいな気持ちでいたんです。
申し訳ない。
でも、少なくともソーシャルセクターに関わる者として、心を入れ替える、までは、いきなりはできなくても、「ちょうだい、ちょうだい」ばかりではなく「今の自分に何ができるか」から考えることを始めたい。そして私はライターなのだから、書くことから逃げないでいようと思ったわけです。

財団の事業内容を見てみた

財団は公器なので、代表が変わっても理念や活動は引き継がれるはずなのです。なので、私は年末の報道が出てから財団のホームページを読みに読みました。…途中から「ただいま調整中です」と表示されるページばかりになったけれど…読みながら私は、今初めてあいちコミュニティ財団が「自分ごと」になったな…と感じていました。。。

「地域に必要とされているけれど、サービスの受給者からはお金をもらいづらい」という団体に助成するという点ではほかの助成金と変わらないけれど、申請の段階からアドバイスをしたり、助成が受けられても受けられなくても活動に対してフィードバックをしたり、お金をつけるだけじゃなくてプロボノとかのボランティアスタッフが人的な支援もするというところがユニークだなあ、と私は思いました。

ただ、驚いたのが下記の「情報公開」のページのトップにある「セオリー・オブ・チェンジ2020」です。
aichi-community.jp
画像も貼っておきます。
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2025年に財団の活動フィールドである愛知県がこうなっていたい、という姿をもとに、では2020年の愛知はどうなっているべきか、そのために2017年に財団はどんな取り組みをしていくか、というのをまとめた表です。

この表によると2017年は45の活動・サービスを手掛けるとなっています。説明会や勉強会などのイベントは30回以上開催予定となっています。30回といったら毎月2~3回以上は不特定多数の人を集めるイベントをやるということですよね。私はこの、ぎっしり文字が書かれた表を見て「こんなにやるの!?」「こんなにできるの!?」「こんなにやってたの!?」と普通に思いました。

財団のスタッフはホームページによれば常勤4名、非常勤2名+代表の木村さんだったと思うんですが、これはなかなか大変な業務量ではないでしょうか。回数や量が多いということに加えて、コミュニティ財団がやろうとしていることって、ほとんど前例がない取り組みばかりですよね?手戻り・やり直し・計画の変更がないほうが珍しい、くらいの試行錯誤がある仕事ばかりではないかと私は思いました。さらに、行政・大企業・中小企業・NPO・銀行・大学の先生・宗教団体などなどなどなどものすごく多彩な人と連携した取り組みであり、それは財団の強みでもあるのですが、スケジュール調整とかちょっとした連絡だけでもずいぶん手間がかかると想像します。
スタッフだけでなく、ボランティアスタッフも多く関わっているのでしょうが(「セオリー・オブ・チェンジ2020」によれば2017年で70名以上!のボラを集める目標)、ボランティアが多ければ、そのマネジメントにも工数が必要です。人が相手の仕事だから、コミュニケーションの丁寧さも求められると思うし…。それは、長時間労働にもなってしまうのではないかと思いました。。。

誰が求めたセオリーなのか

そして次に私が疑問に思ったのは「この『セオリー・オブ・チェンジ2020』は、誰がどうやって決めたものなんだろう?」ということです。

2025年や2020年をマイルストーンにしているのは、人口の統計とかを基に愛知県の課題を出して、それに対して何が必要か…って決めていったんだろうと思うんですが、その成立過程に誰がどのように関わっていたのかなと。
ネットで調べてみたら、2016年7月6日(水) に関心がある人を集めて検討会を行ったようですが、短い時間でどれくらいの議論がなされたのかはわからないです。
www.wherevent.com

『セオリー・オブ・チェンジ2020』自体は全方向にわたって大変緻密に作られていてすごい、正しい、何も言うことがない、これができたら確かによい、としか私は言えないのですが、その実現可能性を検討することも必要だったのかもしれません。
愛知県の2025年のために、実現が必ず必要であれば、もっと人的リソースがさけるだけの資金がもっともっと必要だったのかもしれず。

また、これができたら最高なんだけど、本当に本当にこれを全部2017年にやりきるべきなのか、限られた資源の中で。という検討も必要だったのかもしれません。あいちコミュニティ財団は、愛知県のたくさんたくさんの人の思いとお金でできた財団ですが、神ではないわけです。万能ではないわけです、残念ながら。解決しなければならない課題を、あいちコミュニティ財団がすべて背負う必要はないわけで。

寄付者として、そういうことを言えばよかったのかなあ。。。
とても期待もしているけど、なにもかもやって欲しいわけじゃないし、誠実にやってできなかったとしても怒らないし。*3
私は金持ってるわけじゃないけど、そんなにケチな寄付者でもねえんだよ!

あす2018年2月2日には財団の新体制発足説明会があり、私も参加する予定ですが、このあたりのことも今後はあらためて、理事会任せにしたり、スタッフだけに負わせるのではなく考えていけるといいのではないかと思います。

「セオリー・オブ・チェンジ」の強さときびしさ

↑の『セオリー・オブ・チェンジ2020』の一般検討会に参加された水谷衣里さんという方のブログにも、このように書かれていました。

blog.livedoor.jp

TOCの中に指標を設定するのであれば、その際に、その設定の妥当性を『どちら側から』考えるか
→ここでいう『どちら側』とは、「あるべき姿」なのか「できること」なのか、という意味です。

しかし台所事情や組織基盤の足りなさは常に頭をよぎる。そして「真にインパクトある成果」を作るためには一定の時間がかかる。

そのジレンマを認識するということに尽きるのかもしれない。ジレンマはジレンマとして認識(言語化)しておくべきだな、と。

TOC(セオリー・オブ・チェンジ)は近年ソーシャルセクターで活用されている(と言われている)方法で「未来の姿を定め、そこから逆算して自分たちがすべきことを決めていく」というものです。
目先のモンダイにえいっ!えいっ!と対処していくだけで疲弊したり、自分たちが「やりたいこと」と「社会の課題解決」を混同してしまいがちなこともあるソーシャル/NPO界隈において、ロジカルに活動を進めていく手段として「なるほどな~」と私は思いました。

ただ、この「未来から逆算して考える」というのは「現在」を「未来」の手段にするということでもあるわけです。「現在」のほうがリアルで確かなように思ってしまうけどそうではなくて「2020年に人口が減少に転じる」というデータはガッチリしているのに対して、「現在」はスタッフの体調が悪くなったり、寄付者の心はうつろいやすかったり、常に不安定なわけです。そのゆらぎと、ガッチリ定めたセオリーに齟齬が起きるのは当然じゃないでしょうか。


私見ですが、TOCって「地図を手にしているような感じ」なのかなと。自分たちが進んでいるのか遅れているのかが都度、「TOCをもとにして」ならすぐ評価できるからではないかと考えました。
ソーシャル/NPOの団体は、具体的な・目に見えるプロダクトがあるわけではなく、いわゆる受益者から売り上げをもらえないことも多いです。関わる人は無給だったりもらえても低額だったり、友達や親には「なんでそんなことしてんの?」って言われたり、クレジットカードが作れなかったり、感謝されることもあるけど、なんに役に立つの?と言われることもあったりして…とにかく「自分のやってることってなんか意味あんのかな?」って思うことが多々ありまくると思うんです。私はよく思います。
そんな時、目に見えるかたちで、バシーっと活動の「価値」を説明できるTOCって、力を与えるものになるだろうなと思うんです。特に外部の資金提供者と接することが多い人には。

だけどTOCはあくまでも「手段」のひとつであって、これまた万能ではないわけです。その副作用としてスタッフを縛ってしまうこと、活動のしなやかさを奪ってしまう可能性もあるわけです。そして「活動のしなやかさ」は、ソーシャル/NPOの強みではないかと私は思うのです。*4

ちゃんとした批評が必要だ

上記のブログで水谷さんはすでに「ジレンマはジレンマとして認識(言語化)しておくべき」と書いておられ、なんたる慧眼かと思いました。(水谷さんはどんんな人なのか知らないけど)

あるべき姿を追うことはもちろん大事ですが、ジレンマにどう対応していくかを話し合える労働環境、団体内のコミュニケーションも必要だと思います。いや、「ありたい姿」を追うばかりに効率化を進めた結果、ソーシャル/NPO界隈が対応せねばならん課題が噴出する社会になってしまったとも考えられるわけで、「ジレンマに対応していく」ことこそイノベーションにつながるのかもしれません。

そして、団体内で話し合うだけでなく、団体の「外」からの言語も必要だと私は感じました。
今のソーシャル/NPO界隈は「すごいすごい!革新的ないいことをやってます!すごい!」みたいなニュースとして取り上げられるか、内輪で「あの団体は外面ばっかりよくてムカつく」と悪口を言うかどっちかしかないように私には見えます。

ベタ褒めと愚痴だけじゃなくて、多様な視点からの活動に関する批評が必要でないかと感じます。
1)団体からの情報発信(つい持ち上げがち) 
2)ベタ褒め(持ち上げがち) 
3)悪口 
しか情報がなかったら、そりゃあ参画のしようがないですよね。
批評がないシーンって死んでいきますもんね。

ジレンマと付き合うのは面倒だし、ほめるかけなすかだけしていたほうが楽に決まってるんです。
でも私たちの生活や私たちの心はそんなに単純にはできていないですよね。そのゆらぎ、不安定さ、わからなさ、遅さ、だらしなさから目を背けず、かつ希望を失わないで進んでいける言説を、私も生み出していきたいし

それができることがイノベーションであり、それこそが本当に「強い」リーダーではないでしょうか。


つづく。。。


(2018年2月4日追記)
設立時・ちた型0~100歳に加えて
NPO法人PakaPakaさんにもコミュニティ財団経由で寄付をしたことがありました。PakaPakaさんに前職でお世話になったことと、個人的には「子ども」よりも「おとな」のための活動に興味があるというか共感がしやすいので、寄付しました。

*1:このブログを書き始めた1/29に、木村さんはmomoの代表も辞されたと発表があり驚いた。http://www.momobank.net/news/2543/

*2:「ちた型0~100歳のまちづくり基金」には、大変お世話になった方が関わっていたので、ほんの少しでもお返しできたらという気持ちで寄付しました。

*3:パワハラや法令違反、また公表の経緯がマズかったことは怒るけど

*4:もちろん、TOCがあったら必ず縛られるなんてことはなく、やりがいをもって楽しく取り組むことも全然できると思うんですが。

音楽のことを書いたブログ2つ(電気グルーヴとTHA BLUE HERB)

最近ブログを訪れてくれる人が増えているので、自分で書いて気に入っている記事を2つ紹介します。

1つ目は電気グルーヴの映画を見て、電気グルーヴについて思っていることを書いた記事。
yoshimi-deluxe.hatenablog.com

もう1つはTHA BLUE HERBについて書いた記事。これはエモい。
yoshimi-deluxe.hatenablog.com

今見ると言葉の使い方がおかしかったり、分かりづらかったりするけど、あえて直さず。どちらも当時は「スマホでも見やすいように」と思って、文章を短く改行していたんだなあ。でも私のブログでそれやると逆に読みづらいな、と思って最近は改行レスで書いています。

その時の気分や、書く内容によってちょうどいいリズムが違うのっておもしろいな。

MAN HUMAN

MAN HUMAN

TROPICAL LOVE

TROPICAL LOVE

TOTAL

TOTAL

アーティストの「人格」と「作品」は分けて考えるべきか問題

何年かぶりに新しいアルバムを発表したミュージシャンがいて、その作品が各方面ですごく絶賛されていた。私はそのミュージシャンが昔出したCDが好きで、若い頃にはうっとりしてよく聞いていた。

だけど、私はどうしても新作を聞く気になれなかった。

なぜかというと、ある時インターネットで、そのミュージシャンが過去に障害のある人に対してひどいイジメをしていたという記事を読んでしまったからだ。インタビュー形式で、悪びれもせず、こんなしょうもない遊びやってたんですよ~、みたいな調子で語られていた。私はそれを読んで、うわっ、エグい、ひどい、気持ちが悪い、とうんざりぐったりして、その人の名前を聞くだけで嫌な気持ちになるようになってしまった。その記事を載せた雑誌(ずいぶん昔の記事なんだけど)もどんな号であれ見たくない。
それくらいひどい内容だったし、私にはショックだった。読んだことを後悔するくらいトラウマになっている。

とはいえ、そのミュージシャンはかつてとても好きだったし、どこ行っても大絶賛だし、TwitterとかYoutubeとか見てると流れてくるしで、つい、つい、ちょっと聞いてみたら、おっ…、あっ…、…、… … みたいな良さがあり、よかった。でも、その良さを全然楽しめていないというか、「お前はこんなひどい奴の曲をいいと思ってるのか」と言うもう一人の私が出てきて邪魔をした。


いつもならこんなこと思ってなかったはずなのだ。

例えば、ミュージシャンが覚せい剤だか大麻だかで捕まると、その作品がCDショップから消えたり、曲がテレビやラジオでかけられなくなったりする。私は、それはおかしいと思う。シャブとかは違法だから、まぁ、それは悪いです、として、でも作品まで悪いか?作品は無実じゃないの?作った人が悪いことをすると作品自体に内在する良さまで損なわれるの?それに音楽って一緒に演奏してる人とか、CDをプレスする工場の人とか、営業の人とかジャケットの写真撮った人とかとの共同作品なんだからそのワンオブゼムが悪いだけで全部ダメなの?と思っていた。


そういえば、そんなに昔のことじゃないはずなのにもう忘れ去られつつあるけど、昨年は政治家の人が不倫してどーのこーのというニュースがいくつかあった。
それを見た人の意見の中には「政治家は法律を作って暮らしを良くするのが仕事なんだから、個人で不倫してよーと何してよーと有権者には関係ない。家族には個人的に謝るべきだけどそんなの有権者には関係ない」というのがあり、確かにそうだな、もっともだな、と思った。
でも一方では「家族との約束が守れない人に、有権者との約束が守れるのか?*1」とか「私生活で女性をないがしろにしているような人に、女性を尊重する政策が作れるのか?」みたいな意見もあり、うーん、そう言われると一理ある気もする…とも思った。


要するに、その人の「人格」と、公的な仕事や作品は
分けて考えるべきものなのか?
そもそも、分けられるものなのか?
と、悩んでいたんです。

私の結論

・その人の「人格」と、公的な仕事や作品についての評価は「分ける」

いや、何当たり前のこと書いてんだよって話なんですけどね!でも、つい混同しちゃうから。。。

えっとですね、私は分けようと思いました。分かりやすく言うと、どんなにイヤな奴でも、作品なり仕事なりの良い点はそいつのヤなとこは置いといて、良いと言おうと。逆にどんなイイ人、仲良しでも、作品なり仕事なりのダメなところはダメと言おうと。

仮にその作品/仕事のダメな点を評するときに「あ~、ココあいつの女性蔑視的な性格が出てるよなあ~」と思ったとしても、その人の人格と結びつけた批評ってしなくていいんじゃね?って思って。「作品のここに偏見が出てて良くないと思います」って言えば十分なんで。人格に言及する必要ないなと。良いところもしかり。

逆に作品/仕事が良いからと言って、その人を全人格的に持ち上げない。仕事でダメなことがあっても、その人自体がダメなわけじゃない。そういう風に考えることにした。

なに当たり前のこと書いてんだろって自分でも思うけど、作品や仕事と人格を結び付けられすぎて、傷ついたり、のぼせ上ったりしちゃう人がすごく多いなって感じるので、わざわざ書きました。

じゃあ例の曲が聞けるかっていうと、聞けないんだなコレが

そういうふうに考えることにしたんだけど…私はまだ冒頭のミュージシャンの曲をどっしり構えて聞けるかっていうと、どーしても聞けない。やっぱり吐きそうになってしまう。
前は、こうやって自分に筋が通っていないことが、嫌だった。

でもよく考えたら、この部分は矛盾していてもいいんじゃないかなって思った。

私には到底許せない過去を持っている人でも、その人が作ったものは美しい。その作品を美しいと評することを「でもあの人は…」と言って責めたり、否定することを私はしない。その事実ごと受け止める。

かといって、自分がどうしても受け入れられないものを受け入れることはしない。私として嫌なもの、聞けないものは聞かない。自分には受け入れられないことがある、ということを受け止める。でも、それを他の人に押し付けることはしない。

大人として、市民として、ライターとして、そういう態度を大切にしていきたいと思った。
厳しさと愛は同じところにあるな。


なんちて

*1:これに関しては「家族だからこそ守れない、っていう約束もあるんじゃないかな~」とも思った。それが不倫の言い訳にはならないと思うけど。

成り上がらないヒップホップ-SR サイタマノラッパーを見て考えたこと

昨年、友人から「まだ見ていないのか!絶対に見た方がいい!」という話になり、わざわざAmazonのギフト券をくれてまですすめてくれた映画「SRサイタマノラッパー」を年末に見ました。


SR サイタマノラッパー(予告編)


初めて(日本語の)ラップを見聞きした時に「うわー、なんか恥ずかしい」と思ってしまったことはないでしょうか。見始めるとすぐ、そういういたたまれなさしかないシーンがこれでもか、これでもかと襲ってきて、シリーズ1作目の30分くらいで見続けるのがつらくてつらくてたまらない状況に。

でも、それが良かった。

今、またラップが流行っているけれど、当然ながらみんながBAD HOPみたいにかっこいいわけでもないし、ゆるふわギャングみたいに曲で歌ったことが実現できるわけでもない。マイク一本で成り上がる、ゲットーでも力強く生きていく、みたいなストーリーをついユースカルチャー/サブカルチャー/ストリートカルチャーとかに夢見てしまうけれど、現実にはうまくいくことの方が少ないんだよなあ。

ルックスも良くなく、ラップも下手で、そんなに音楽も聴いておらず、本も読んでない。友達も少なく、恋人もおらず、学歴も仕事もない。クラブもライブハウスもない地元から出ていくこともできない。イズムのないBボーイ、渋谷にいないロンリーガール。
でも、本当はそういうラッパーのほうが多いんじゃないか。


私はいちおう社会福祉士なのでそういう目線で見てしまうけど、登場人物はもしかしたら「福祉」の「支援」の対象になるような人たちばかりだ。働いていない「ニート」だったり、借金があったり、クズな男にひっかかって風俗で働いて中絶したりとかとか。

「福祉」の「支援」というと、オフィシャルにはこういう人たちを「まっとうな暮らし」に「引き上げる」ようなものばかりなことに、なんとなくうしろぐらいというか、こそばゆいというか…それこそ初めてラップを聞いたときのようなわざとらしさ、居心地の悪さ、恥ずかしさも感じていた。
いや、正しいんですよ?無理なく、きちんと稼げる仕事を見つけるとか、自己破産とか生活保護とかの制度をスムーズに使えるようにするとか。孤立していたり、家庭などの人間関係がハードすぎる人にはあたたかい交流の場を設けるとかとか。もっと具体的に言うと「相談支援」「就労支援」や「学習支援」は「まっとうな暮らし」へ導く手段だし、「子ども食堂」「居場所づくり」「地域のサロン」は交流の場づくりですよね。
でも、こそばゆくないですか?いや、こそばゆくないなら、いいんですけど…。

よく言われていることだけど、支援をする側の人(=公務員、教員、福祉施設の人など社会福祉士などのソーシャルワーカー、大学生や地域の心あるボランティアの人など)は「まっとうな暮らし」と「健康で文化的な交流の場」を得ていて、それによって自分たちは幸せだと感じられている人がほとんどだと思うんです。
その幸せは何ら責められるものではないし、幸せであることに何の疑いもないんです。
でも、それだけが幸せなのかな?とか、自分が幸せだからって、それを持っていない人をそれがある状態まで「引き上げる」ことが「支援」なのかな?というのが、自分の中で解消されない疑問だったんです。

たとえば学習支援は盛んですけど、もしもその支援が進学のためだけの支援だとしたら、なんか違うんじゃないかなって思うんです。それなら学習塾に任せればいいし…ということもあるけど*1、進学しない幸せ、進学しない生き方、進学しなくてもサバイブする方法ってあると思うし、なきゃいけないと思うし、そういう「多 様 な 生 き 方」を作っていくことがソーシャルワークじゃないかなって思うんです。
でも「支援する側」の想像力が欠けているせいで、つまり「支援する側」が高校や大学を卒業しないで幸せになる、というライフコースを想像できないままに「支援」をしていていいのかな、とは思うんです。就労支援や学習支援をするときに、自分が選んでこなかった生き方、自分のまわりの人にはいない職業や働き方を想像できるかということは、大切だと思うんです。

大学進学率はいま6割弱になったようですが、逆に言うとまだ4割、半分近くの人は大学進学しないわけです。でも「支援する側」の人は高学歴の人が多く、高学歴の人の友達もまた高学歴の人ばかりという現象は進みつつあるので、階層が違う人の生き方、気持ち、つまり文化を知ることが難しくなっているのではないかと思うんです。
私の中で消えない疑問というのは「高学歴の人や高収入の人や経済的人間関係的に「豊か(とされている)」な人の文化やライフスタイルに合わせていくこと=支援」と思われてはいないか?ということなんです。モヤモヤ。


話をサイタマノラッパーに戻すと、登場人物は本当にグダグダな人ばっかなんですよ。(「グダグダ」だと感じるのは、私が高学歴で健康で文化的で最低限度以上の生活をしているから、だけではないと思う…)
金もなく仕事もなく理解してくれる人もなく、八方ふさがりな状況を人のせいにしてばかり。それでも仲間とラップすることを通じて、何かを得ていく…というところもあるんだけど、この映画のいいところは、それでも全然現実は変わらない、ということだった。相変わらずラップは下手だし*2田舎はクソだし仕事はないし誰からもバカにされる状況はそのままなのだ。

でも映画のハイライトは、そのクソな状況のなかで無茶苦茶ヘタなラップをこれでもかと聞かせるところだ。彼ら彼女らのステージは、夢見たライブ会場ではなく、場末のバイト先であり、早く結婚しろとなじる親戚の前であり、刑務所の中なのだ。
成り上がるな、身の程を知れと言いたいわけではない。むしろ逆で、成り上がりとか、まともな暮らしとか、豊かなつながりとか、手垢のついた言葉に惑わされないしたたかさを、どんなしょうもない状況と思われているなかにいるひとたちも、持っているはずなのだ。ラップとも独り言ともアジテーションともつかない調子でがなり立てるのは、「ただ、ここに生きているんだ」という言葉だけだった。

誰が見ても正しいとしか思えない善行も、自分はただここにいるんだと言っているだけの叫びの声も、どちらも恥ずかしいと感じてしまう自分は何なんだろう、と思う。
でも、サイタマノラッパーでいちばんみんなに力を与えていたのは、いちばんかっこ悪くていちばん恥ずかしいことを、最後までやり続けている人だった。

*1:実際に学習塾に任せる「スタディクーポン」という方法を選んだ自治体もあるみたいですね  http://studycoupon.hatenablog.com/entry/project.summary

*2:主人公のIKKUだけ、3作の映画を経た後のテレビ編では実際にはラップが上手くなってしまっており、ストーリー上これでいいのかなってなんか変な気持ちになった。

つながるけどつるまない---ネットワークについて

私、いちおう社会福祉士なんですけど、業界関係者が集まる勉強会とかイベントに行って必ず聞くのが「つながりが大事」「つながることが大事」というやつなんです。ネットワークが大事だと。
でも、大事大事といいながら、どうもいっこうに満足のいくネットワークができている人や団体がないようなんです。それは理想が高すぎていつまでも実現されないものである、という意味でもあるのかもしれないけど、どっちかというと相変わらずのセクショナリズム、いわゆる縦割り行政/縦割り民間団体、困ったときに頼れる社会資源がない、みたいな感じなんです。これだけみんながつながりつながり、ネットワークネットワークと言いながら、それが実現されないのはなぜなのでしょうか。そんなに求めているのになぜ得られないのでしょうか。

一方、SNSなどで華やかなパーティーかなんかの写真と一緒に「出会いに感謝」「ご縁に感謝」「いろんな人とつながれた」とか言ってるのを見るとイラっとしたりモヤっとしたりオエっとしたりしてしまうのは、なぜなんでしょうか。いいじゃないですか、つながり上等じゃないですか。…こういうことで嫌な気分になるのって、やっぱり私に友達が少ないから?妬んでいるだけなんじゃないか?と常々思ってきました。

そもそもつながりとは何のため?

でもなんで社会福祉士がつながらないといけないかというと、それはソーシャルワークのためですよね?仕事のため。命にかかわるような緊急の状態に介入してその人の生活をなんとかマシにするためとか、認知症の人が家で暮らすためのサポート体制をつくるとか、生活保護基準の引き下げを阻止する運動を起こすとか。そのために「つながり」が必要なんですよね?

そう考えると、その仕事、その問題の解決に必要なのはパーティでウェーイってなってる「つながり」とか、勉強会で「つながりが大事ですよね~」「大事ですよね~」「つながりたいですね~」とか言ってることではないということは明白ですよね。

それはネットワークじゃなくて仲良しグループじゃないの?

「つながり」とか「ネットワーク」、あるいは「協働」「連携」って「私たち同じ目標を持った仲間よね、チーム一丸となって力を合わせて頑張っていこっ(キラキラ)」みたいなものだと私は思ってたんです。
そして、それが気持ち悪いと思ってたんだな、と気が付きました。

もちろんそういうチームで頑張って、危機介入やサポートネットワークができて生活保護基準が道理の通らない理由で下がるのを阻止できるなら、どんどんやればいいと思うんです。でも、それだけでは物事が前に進んでいないから、変わらずネットワークネットワークと言っているのではないかと思うんです。

私は、目標を成し遂げるための、社会福祉士のネットワーキングとは「気持ちが同じ」「分かり合える」「仲の良い」人や団体と一緒にやっていくだけではなく、「嫌だなと思う」「あいつの気が知れない」「やり方がいけ好かない」と思う団体とこそ、うまくやっていくことではないかと気づきました。
「あいつ」とは、困難事例はスルーしてうまく金だけ儲けてるっぽいあの団体かもしれないし、異動してきたばかりの担当者が分かったような口をきく行政かもしれないし、たいしたエビデンスもなく自分の正しさだけを訴えてくるNPOかもしれません。「社会問題に興味を持ってくれない一般市民」かもしれません。

ガマンして仲良くするのが「ネットワーク」か?

この「うまくやっていく」の「うまく」が大事で、それは「ネットワーク」のために耐え難きを耐え忍び難きを忍んで「嫌な人とも仲良くする」ことではないと思うんです。それが苦なくできる人はやればいいと思うんだけど、苦ならやめたほうがいいと思うんですよ。「意見が違う人とも話し合えば分かり合える」とか言いますよね。粘り強く話し合いを続けることが大事な時や、それが苦にならない方は話し合いを続ければいいんですけど、残念だけどそうじゃない、ということも現実には多々あるので、解決にはいろんなバリエーションを持っていていいんではないかと思います。

どうするかというと「ベッタリ仲良くはしないけど『ココ』は組めるな」と思うところだけは組む、みたいな方法とか。いけ好かないから「あいつには金輪際頼らない」とか子どもみたいなこと言ってないで、どんな状況でも最適な手を打てるように手持ちのカードをしたたかにそろえておくこと、それが専門職のネットワークではないかと思うんです。誰とでも仲良くなって仕事をする、というだけじゃないと思うんです。それでうまくいく人はいいけど、多くの人はそれでは甘えが出てしまう。危機介入の例でいえばその人に最適な支援機関につなぐんじゃなくて「頼みやすいから」という理由だけでリファーしてしまう、とか。生活保護の引き下げの例で言えば、内輪だけで反対派の悪口を言うだけで終わってしまうとか。大事なのは「好きじゃないな」と思っても「この人にはここで相談してもらうとよさそう」と思ったら紹介できるとか、生活保護を受給している人に生まれてこの方一度も会ったことがないという階層の人とも、意味の通じる会話ができることではないでしょうか。

それは難しいことですよ。だからこそ、それが「専門職」に求められることなんじゃないでしょうか。

つるんでるほど暇じゃない

私が「つながり」や「ネットワーク」に感じていた気持ち悪さって、つまりはそれって「つるんでいる」ことに対する気持ち悪さだったのかなと。。。誰とでも仲良くできる人ならそれでいいけど、そういう人はあまりいないと思うし。自分だってそんなの無理なのに「仲良くしなきゃ」「相手の背景を理解すれば…きちんとした対話を重ねれば…分かりあえるはず…」みたいに思っちゃってたんですよね。でもやだなって思うことってあるしー、しかたないしー、そんなにすぐにわかんないしー。

「好きだから一緒に」「嫌いだから会わない」って子どもかよって話ですけど「嫌いだけどガマンしなきゃ」も同じくらいガキっぽい考え方ですよね。仕事なんだから、プロなんだからもっと賢くしたたかに、サスティナブルにやらないと。コミュニケーション力って「友達が多いこと」じゃなくて「好きとか嫌いとかの感情に左右されずにプロジェクトの結果を出せること」じゃないかなって思うし。

「嫌いなんだけど、自分も相手も不快じゃない」くらいのニュートラルさで付き合う。必要な時に、必要なぶんだけ、協力しあう。ゆずれないところまで折れることはないけど、目的のために必要なことは譲歩しあう。そういう細かな調整、冷静な状況分析ができるからこそ難しい課題にあたれるのであって、…近しい団体が「こうだよねー」「そうだよねー」って言ってるのはただつるんでるだけであって、ましてやそれでコレクティブ・インパクトとか無理なんじゃないかなって思います。

もちろん本当にダメな団体、ダメな行政にはダメってちゃんと言って「つながらない」ことも当たり前に大事なんだけど、ベッタリかバッサリかの二択、0か100かじゃなくて、自分がラクで相手も傷つけない割合で付き合えばいいんだと思う。何かの「つながり」を期待して気の進まない飲み会に行ったり、気に入らない団体の悪口を言ってるヒマがあったらもっとできることがあるはずだし。
(なんだか専門職の話だかふだんの人間関係の話だかわかんなくなってきたわ。)

つるまないほうがラクかも

ただ「つるみ」が必要な時もあると思うんです。わかるわかるとなんでも受け入れてくれて、安心して愚痴が言えるような。でも、それだけで悦に入ってるのって専門職の仕事なのかなって。もしかすると社会福祉専門職は孤独すぎて「つるみ」の場すら得られていないので、つながり以前に自分のベースとなる、あたたかな巣のようなつるみの関係を求めているのでしょうか…。って皮肉で書こうと思ってたんだけど、はた、と考えると案外そうなのかもしれない。とも思ってしまった。。。昨今の「居場所づくり」の流行って、みんなが「つるみ」を求めているということではないか、とか。

逆に言うと、私みたいに「誰ともつるめない」のが長年の悩みだった人には、そうじゃない人との「つながり方」で頑張れるフィールドがあるんだと思えるのはちょっと希望かもしれない。つるみとつるみの間をつないだり、批評したり、編みなおしたりするような。