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毎日食べたものを書きます

「地」と「図」のあいだを編集するーー「NPOのための情報発信講座MADARA」第一回ふりかえり

↓こちらのブログでエモエモしく告知し「情報発信講座の情報発信がこんなんでいいのか?」と脳内世論を巻き起こした「NPOのための情報発信講座MADARA」を2017年9月18日に無事、満員御礼で終えました。お越しいただいた皆様、ご協力をいただいた皆様、本当にありがとうございました!

yoshimi-deluxe.hatenablog.com

「この会のふりかえりを書かないことには前に進めない」という呪いにかかっているので、もう一週間経ってしまいましたが書きます。時間が経つのが一瞬だなあ…。

「地」が広がらない

参加者の方に好評だったワークの一つに「地」と「図」を考える、というのがありました。

例えば「りんご」というモノは同じでも、「地」に「スーパーマーケット」を置けばりんごは「商品」と言い替えられる(=図)し、「地」に「仏壇」を置けばりんごは「お供え」になります。食卓に置けば「デザート」だし、アトリエを地に置けば「静物画のモデル」、ドコモショップならば「iPhone」になります。

では、同じように自分の団体(NPO)を「図」として、「地」を「将来の仲間(になって欲しい人)」と考えて、「地」を動かして自分の団体の在り方を色々考えてみましょう、というのをやりました。

「地」を動かす、つまり視点を変えると自分の団体の様子がダイナミックに動いて見える、捉え方が変わる、新しい見方を発見できるというわけです。これはなかなかに新鮮な体験で「面白かった」「持ち帰って団体メンバーの皆で一緒にやってみたい」(←社員研修などにオススメです!)などといった感想をいただきました。


でも、私が参加者の方のテーブルを見て思ったのは「あまり『地』が広がらないなあ」ということでした。NPOの「地」=将来の仲間って「団体スタッフ」「ボランティア」「寄付してくれる人」「利用者(お客さん)」「行政」だけなのかなあって。そういう風に書いてる人が多かったんだけど、それだけなのかなあって。

今日買物をしたコンビニの店員さんにとって、あなたの団体とは?
あなたの家族にとって、あなたの団体とは?
隣に座っている参加者の人にとって、あなたの団体とは?

っていう風に広がらないのは何故なんだろー、と思いながら見ていました。『誰もが○○な社会~』というのを標榜しているのに、それだけの人が『地』でいいの?「行政」とか「市民」ってざっくりしすぎでは?普段は『障害者』とか『外国人』ではなく『その人』をみる、という視点で活動しているのでは?など、小姑のようにイヤらしく観察してしまいました。そうです、私が「何もしない割に文句ばっかり言う、ヤなおばさん」です。


しかし、終了後のスタッフふりかえりの場で「あのお題ってどうだったのかなあ」という話が出まして。
「将来の仲間」=「地」って、NPOにとってそんなに無尽蔵に広げればいいってもんじゃないのでは?という意見があったんです。何のための団体か、理念に基づいた活動をしていれば、活動の影響の届く範囲は広く大きくなくても、確実に届けたいところに届くことや、仲間の数が限られてもいいのではないか。そういう団体にとって、「地」を動かす、という「方法」は学びになるとしても、やたらに振り幅を大きくすることにさほど意味はないのではないか?概念の遊びになってしまうのではないか?ということです。*1

それを聞いて私は「ああ、自分は『自分の持っている世界の殻を破ってどんどん新しい出会いを求めていくべき』」というフィルターで物事を見がちなんだな」ということに気づきました。

参加者アンケートでも「地」が全然広がらなかった、という感想があったのですが「できなかった」ことが悪いのではなく、むしろそこがチャンスなのだと思います。どんなフィルターを使って思考したから限界があったのか。フィルターを切り替えるために必要なことは何か。それを考えることがスタートなんじゃないかなあと思います。「編集が不足から生まれる」ってこういうことかー、と。

なんでMADARAという名前にしたのか

講座を始めるにあたり「NPOのための情報発信講座」というネーミングでは「長い・言いづらい・堅い・つまらない」の悲惨カルテットだと思ったので、何かよいニックネームを付けたほうがいいと考えました。

NPOのための情報発信講座」は東京など他の地域では何年も前からやっていたものでもあり、何か名古屋らしい意味を加えたいなと思っていました。どんなミクロな活動をしている人でも、グローバルな活動をしている人でも「名古屋(とその距離的な周辺)という地区」が「地」になりうる団体が参加者だと思ったからです。

でも「金シャチ」とか「味噌煮込み」とかベタな名古屋のイメージもなんか違うと思ったんですね。金シャチや味噌煮込みも好きだけど、NPOのイメージとは違うと思ったんです。私はNPOに「既存の価値観を超越していくようなもの」を勝手に期待しているので、誰でもすぐ思いつくような名古屋のイメージは使いたくなかった。

そんなとき、ある打合せで編集学校の名古屋チーム(曼名伽組といいます)の組長であり、名古屋の良心「面影座」の座長でもある小島さんが「名古屋って、どこかに確固たる中心があるのではなくて、各地に独特の歴史や文化があって'まだら’みたいになっているんですよね」と言ったことを思い出し、この名前をいただこうと決めました。(小島さんありがとうございます)


確固たる中心がなく、濃いところも薄いところもある。かたちも配置も不揃いである。でも、そういうところにこそ価値やつながりを見出していく。わたしはそういう世界(名古屋)に住みたいと思うし、NPOが目指す社会はそうであってほしいと思って「MADARA」という名前にしました。

また「まだら(斑)」の語源を調べたら、どうやら「(ま)がある」または「がない」という「」、あいだ、に関するものだったんで、これはイシス編集学校っぽさもあるなと嬉しくなって付けました。「地」に対する「図」が大事なのではなく、「地」と「図」の関係をたえず編集し続けていくという姿勢でいたいものです。


さらに後付けですが、「マダラ神」という神様がいることを知りました。『煩悩の神様』でもあり『後戸の神』といって、教義の本質的な所を守る神でもあり、芸術や芸能の神でもある、というのもいいなあと思って、悦に入っています。


で、MADARAはさらに掘り下げたい方のために、第一回の参加者限定ですが、二回・三回とある連続講座となっております。次からは少人数(10団体限定)となり、さらに濃いフィードバック(指南)もできると思いますので、ぜひ続けてのご参加も検討くださいませ。



★同じ講座のふりかえりとは思えない、きむらさん(スタッフ)のブログはこちら↓
meta-kimura.hatenablog.com

知の編集術 (講談社現代新書)

知の編集術 (講談社現代新書)

*1:もちろん「地」は、この場合は「将来の仲間」としましたが、どのようにでも変えられるものなんですが。

ウチに子ども用の百科事典があった話

私は小さい頃から本が好きで、母が「この子は家の中にばかりいて健康に悪いんじゃないか」と心配して庭に連れ出すと、外で勝手に遊んでいるので、よしよしと思って洗濯物を干したりしていると瞬く間に居なくなり、探しに行くとまた部屋で本を読んでいたそうです。

子ども用の本や絵本がたくさんあった記憶は全くないのですが、当時あった小学館の学習雑誌「めばえ」とか「幼稚園」とか「小学●年生」を毎月読んでいました。「めばえ」時代は記憶にないのですが、「小学●年生」になってからは毎月ねだって買ってもらっていたことを覚えています。当時は一年生から六年生まで、毎月学年ごとに違う雑誌が出ていたんですよ。次の号が出るころにはもうボロボロで、背表紙が剥がれバラバラになりそうでした。

父が本好きだったので、大人の本はたくさんありました。
漫画もあったので「こち亀」「キン肉マン」とかを読んで漢字を覚えました。好きな超人はステカセキングです。
父は子どもでも読めそうな本をたまに教えてくれ(芥川龍之介とか)、蜘蛛の糸の話とか幼な心に超~怖いと思ってトラウマになっていたんですが、ある日「アルジャーノンに花束を」を勧められ、読んでみたら面白かったんだけど、これをしょうがくせいのわたしによませるのわなぜなんだろう。と、戸惑いました。


なので、うちの子ども用の本棚に、子ども用の百科事典があってもあまり不思議に思いませんでした。
子ども用の百科事典というのはどういうものかというと、B4くらいの大きさで、厚さ3センチほど。ハードカバーで、ケース付き。歴史・文学・地理(アジア、ヨーロッパ、アフリカ、日本とか地域ごとで1冊ずつ)・数学・科学・昆虫・植物・動物・海洋生物とかとかそんな感じで全20巻くらいあるんですわ。で、内容を子ども用にやわらかくまとめてあり、もちろんオールカラー。厚くてつるつるの光沢のある紙に印刷してあるんです。

本棚から出すだけでも重たくて、ケースから出したり、またしまったりするのもクソ面倒で。私は歴史(「おはなし」みたいで面白かった)と植物の図鑑だけは好きでよく見ていたんだけど、他はあまり見ないでいました。昆虫、きもいし…。


わたしは長年、この百科事典は父が道楽で買ったものだと思っていたんですが、そうではなかったんです。


それは母が、わたしがまだ産まれたばかりで、1歳にもなっていない頃に、あやしげな訪問販売の人にそそのかされて、びっくりするような高いお金を出して買ったものだったというのです。

母は父と違って、全くと言っていいほど本を読まない人でした。高校も卒業したようだったけど、学校の勉強を一生懸命したほうではなかったようでした。私も母から勉強しろとかいい学校に行けとか言われたことは一度もありません。家事を覚えて早く嫁に行けとは言われたけど…。

それでも、母は訪問販売のセールスマンに、小さい頃から本を読むと頭が良くなりますよ、とか、すごく知識がつきますよ、とか、いい成績が取れる子になりますよ、とか言われて、大きく心が動いたのだろうと思います。
それは生まれたばかりの我が子を思う気持ちだったとも思うし、自分が生きられなかった人生への憧れでもあったと思います。

また、母は遊びが好きな父と違って、全然お金を使わない人でした。私は世の中のことが少しずつ分かるようになると、母はもう少しよい服や家電を買って贅沢しても家計は痛まないのではないかと思っていましたが、いつまでも古いものを使い続け、安物の服を買っていました。


それなのに、セールスマンが帰った後、父にものすごく怒られるような金額の、わけのわからない百科事典をポンと買ってしまっていたようなんです。まだ字も読めない子のために。(当時はクーリングオフとかなかったから買うしかなかったんでしょうね)。

それは我が子のためを思って、という気持ちも大いにあったと思うんだけど、同じだけ「頭のよい子の母であるステキな私」になりたい母の欲望のため、でもあったんだろうな、と私は思います。
でも、これを知った時、私はそんな母が本当に愛おしくてたまらなくなりました。百科事典を買ってくれてありがとう(ほぼ読んでないけど)と思いました。それは、もう母が亡くなった後だったんですけど。


子育てをしている人のブログなどを読むと、それは本当に子どものためなのか?母のエゴではないのか?という親本人による葛藤や、外野からの批判やツッコミをよく見かけます。そのたびに、うわー子育て大変だな~、やっぱり自分には無理だな~と思うけれども、
親からしたら子どもがアホみたいなことでも一生懸命にやっている姿を愛おしく感じるように、子どもから見ても親が一生懸命なあまりに何か滑稽なことになっているとしても、それは愛おしいことだし、ありがたいことだと感じられるんじゃないかなと思いました。

感じる時期は、親が死んだ後かもしれないですが…。

小学一年生 2017年 10 月号 [雑誌]

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アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)

蜘蛛の糸・杜子春 (新潮文庫)

蜘蛛の糸・杜子春 (新潮文庫)

支援とか理解とかナメてんの?っていう話

最近のTwitter生活で心に残ったツイートはこれです。




本当にそうだと思ったんですよ。なんでこっちが下手に出ないといけないのか、と思ったんですよ。
自分は(たぶん、今のところ、社会的には)同性愛者でもなく障害者でもなく、健康で五体大満足な30代で、四代くらい前からバリバリの日本国籍で、養育すべき子も介護すべき親族もおらず、四大卒で名古屋市内にアパート借りて車も乗っててたまには好きな靴買ったり好きなだけ酒飲んで次の日にフラフラになったりもできるマッチョマンなんですけど。

差別とか、本当に、要するに「ナメてる」っていうことじゃんね。
よく知りもしないのにテメーの小っちぇー価値観に当てはめて見くびるな、ということではないかと思ったんです。支援したいとか理解したいとか差別ではなく区別だとか何様のつもりだ、それが免罪符にでもなると思っているのか。ナメていないとでも思っているのか。そんな声が、幻聴が、自分の中から発せられているようにも、自分へと浴びせられているようにも聞こえてきたのです。

www.ele-king.net

國分功一郎さんのこの書評を読んで、そうだ「愛」ではなくて「尊厳」だ、と思ったんです。
「子どもの貧困」と言うとき、えっ、もしかして「子ども」を可哀想だとか思ってんの?貧困を、可哀想だとか思ってんの?それってナメてない?って、ロジカルに説明するだけの言葉を私は持っていないんだけど、直感的にそう思って心に黒いものが渦巻いていたんです。
貧困は酷いです。そのためにその人が持っている可能性や自由を大幅に制限されることは酷いと思う、金がないというくらいのことで。でも、その人までがナメられる筋合いってあんのかなって思って。「あなたたちはダメなのよ、屑なのよ、どうしようもないのよ、と私は思うのよ。の、その先にあるもの。」を考えることって、そういうことなのかなって思って。

人の思いは網みたいになっていると思うんです。愛や哀れみ、優しさ、どうしていいかわからず思わず体が動いてしまうようなこと、その網の結び目に、子ども食堂とか子ども宅食とか、学習支援とか居場所づくりとかがあって、それぞれがそれぞれの活動を写しあっているとおもうんです。いや、写しあっていくといいんだろうなと思うんです。

でも、その網の下には「ナメてんのかコラ」っていう尊厳の網の目がないといけないんじゃないか、と思ったんです。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

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われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」

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あなたの情報発信はなぜあか抜けないのかーNPOのための情報発信講座「MADARA」をやりますよ!

私、すっごくおしゃれが好き、ファッションが好きなんですけど、今までずっとそれを言えないでいたんです。もう、高校生くらいからいま38歳になるまで、ずっとずっと、ずっと言えなかったんです。

飾るべき中身がないのにファッションとか?外見だけおしゃれにしようとかしちゃダメなんじゃないか?とか。おしゃれじゃないのに「おしゃれが好き」なんて言っちゃダメなんじゃないか?とか、そう思って言えなかったんです。おしゃれじゃないのにおしゃれが好きって言うことが「おしゃれじゃない」と思っていて。

でもこれからは言おう、と決意したんです。好きだ―!私はおしゃれが大好きだー!たいして稼いでないのに家賃より高い靴を買ってエンゲル係数を押し下げているんだー!「ファッション好きとか言って全然おしゃれじゃないじゃん」「太っててオーバーサイズのブラウスがジャストサイズになってるじゃん、ププッ」とか言われても「うるせえ」って言えばいいんだ、って気づいてからは、もう堂々とすることにしました。

『おしゃれにしよう』とすると余計にダサくなるのはなぜか?

そういえば、一年くらい前に

「福祉とかNPOとか市民活動って
「ダサい/まじめ/とっつきにくい と思われているから
 『おしゃれにしよう』とすると、
 なぜか余計にダサくなる

という傾向があるように思う」

という内容のブログを書いたことを思い出しました。
この記事です↓

yoshimi-deluxe.hatenablog.com
久しぶりに読むとアホで面白いね!われながら!

なぜ、おしゃれしたいのにダサくなるのか。今回、私はそれを考えてみることにしました。

やみくもに流行やブランドを取り入れるのはダサい

思うに、これはおしゃれ初心者が必ず通る道ではないでしょうか。昔ほど「今年はこれじゃなきゃ」というビッグトレンドは無いものの、毎年それなりの流行はあるわけです。しかし何が流行で、何が流行ってないのか、どんなテイストが今年らしいのか等は一朝一夕に分かるものではありません。トレンドの文脈、ブランドの歴史やストーリーが分かったうえで取り入れないと、せっかく高いお金を出して着てもなんだか着られているだけになってしまいます。それどころか今や高級ブランドのデザインが爆速でファストファッションにコピーされてしまうので、安いしこれイイじゃんと思って買ったTシャツが「それって○○のパクりだよね」とバッタもん扱いを受けてしまうことも。なぜそのブランド、そのデザインなのか。着こなしには思想が必要なのです。

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私はソーシャルセクターの情報発信にも同じことが言えるのではないかと思うのです。こういうデザイン、ビジュアルが流行っている。インスタグラムをやろう。動画を作ろう。それ自体は悪いことではないと思うのですが、なぜそのデザインでなければいけないのか?なぜその方法を選ぶのか?という必然性がなく、ただ流行っているから、大きな会社やNPOはそうやって成功しているから、というだけでは、ビッグメゾンのパクりTシャツを着るようなもの。上澄みだけのおしゃれは他人の心も自分の心も満たしません。

似合わない服を着るのはダサい

そもそも似合ってない服はあか抜けません。何を着ていいのか分からない、ということであれば、なおのこと流行よりも似合う服を着たほうがずっと素敵に見えるはず。太っているのに痩せた人と同じシルエットのシャツを着るからちぐはぐなのであって、体型に合ったサイズとデザインの服を着ればスッキリ見えるわけです。

つまり「似合うものを着る」ためには先に「自分を知る」ことが必要になるわけです。何を着るか、どう着るかの前に、いまの自分の状態を知るべきなんです。

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体型は、顔立ちは、肌の色は?髪の長さは?どんな色が好き?
暑がり?寒がり?モテたい?それとも、目立ちたくない?
どれくらいお金をかけられる?いま持っている服はどんなもの?

こういうことを一つひとつ確認することなしに「似合う服」には出会えないのではないでしょうか。

媚びずにモテるおしゃれをしよう

「他人にどう思われようと、私は自分の好きな服を着るの!」という方もいらっしゃるでしょう。そういう考え方も、もちろんありだと思います。好きな服じゃないと着ていても楽しくないですしね。似合わなくても、これが好きだから着たい!それは全然悪くないと思います。個人のファッションの好みに関しては。

でも、今、私がおしゃれに喩えて考えたいと思っているのは、ソーシャルセクターの情報発信のことなんです。

ソーシャルセクターの情報発信は、何のためにするのでしょうか。
それは、自分たちが取り組んでいる社会課題と言われるものを知ってもらいたいとか、一緒に活動する仲間を増やしたいとか、活動を支える資金を集めたいとか、そういう目的からではないでしょうか。情報を発信する先には、発信された情報を受信する人がいる。そして、その人に何らかのアクションを起こしてもらいたい。そのための情報発信ではないでしょうか。

その時に「どう思われてもいい!自分の好きな服はこれなの!」という情報発信だけでいいのでしょうか。

どんな思いでそのデザインを選び、メッセージを発信しているのか。
伝えたい人にきちんと受け取ってもらえる着こなし=情報発信をした方がいいですよね。
見た目だけ流行のデザインで取り繕っても、感じがいいな、もっと知りたいな、応援したいなと思ってくれる人は少ないですよね。


流行の最先端じゃなくてもいい。カッコよく洗練されていなくてもいい。かといって、誰にも非難されないけど共感もされない、無難なスタイルも響かないし、つまらない。
自分が纏って心地よく、周りの人にも自分の魅力がきちんと伝わる。
相手の好み、社会の流行を無視するわけではないけれど、それに流されて自分らしさを失くしてしまうおしゃれはしない。
そして、いつもワンパターンじゃなく、誰に伝えるか、いつ伝えるか、何を伝えるかによって、柔軟に着替えていけたら素敵じゃないですか。
そういう情報発信をしたいですよね。

でも、どうやって?

NPOのための情報発信講座「MADARA(マダラ)」をやりますよ!

というわけで、イシス編集学校×起業支援ネットのコラボレーションで
NPOのための情報発信講座「MADARA(マダラ)」を開催することになりました。

NPOのための広報や宣伝、情報発信の講座って、いまや大して珍しくないと思うんです。
どの団体も悩んでいるし、手探りだし、学びたいと思っていると思うんです。

「MADARA」は「手っ取り早くおしゃれに見せる着こなし」とか「絶対にモテるコーディネートのしかた」を教えるような講座ではないと思います。
講座でやったことを次の日から実践するとア~ラ不思議、みるみる寄付が集まりました!ボランティアの人手不足が解消されました!SNSのフォロワーが激増しました!という即効性も、保証しません。(そういう講座もたくさんあると思うので、必要であれば探してみてください。)


でも、きちんと自分らしさを知り、それを生かす着こなしを考えたり
知性をもってトレンドをチェックして、賢く取り入れていく基礎体力をつける方法は、学べるんじゃないかな。と思います。
みんな、来てね!

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NPOのための情報発信講座 MADARA

私たちの思いと、思いの届け先
その間にある情報をあつめて、つないで
共感が生まれる発信のしくみをつくり、つたえる
NPOのための講座です

◆開催日時:
2017年9月18日(月・祝)13:30~16:30(13:15開場)

◆場 所:
ウインクあいち 中会議室B 903
(愛知県名古屋市中村区名駅4丁目4-38)
http://www.winc-aichi.jp/access/

◆参加費:4,000円

◆定 員:40名(申込先着順)

◆お申込:(1)こくちーずからお申込
        →https://goo.gl/tmfY5g
     (2)メール aile@npo-kigyo.net へ
       ・お名前
       ・電話番号
       ・メールアドレス
       ・ご所属(あれば)
       ・講座に期待すること
      をお書き添えの上、お申込みください。

◆共 催:NPO法人起業支援ネット(担当:久野)
      aile@npo-kigyo.net  TEL: 052-486-4101
     イシス編集学校
      http://es.isis.ne.jp/
 協 賛:日本財団CANPANプロジェクト

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自分たち以外の人とも思いを分かち合いたい。
共に活動する仲間を増やしたい。
しかし、いざ自分たちの活動内容やメッセージを発信しようとすると、うまく言葉にならない、伝わらない、何か違う気がする…。
そんなモヤモヤを感じたことはありませんか。
NPOのための情報発信講座「MADARA(マダラ)」では、組織や社会の情報を多様に収集し、伝えたい相手と関係づけて、メッセージを組み立てるプロセスに活用できる「情報編集の型」を学びます。

◆こんな方におすすめの講座です
・自団体の情報発信の方法を学びたいNPOの方
・団体内の情報共有、コミュニケーションをスムーズにしたいNPOの方
・あらためて自団体の理念や特徴を考えてみたいNPOの方 など
NPO法人でない団体(一般社団法人、任意団体等)・個人の方も参加いただけます。

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※全3回の講座ですが、第2回・第3回は第1回で学んだ方法をもとに
 より実践的な情報編集を学びます(10団体限定)。
 第1回はより多くの方に学んでいただけるよう、定員を拡大して
 実施します。
   第2回 2017年11月23日(木・祝)
   第3回 2017年12月23日(土・祝)

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うそは書きたくないが、正しいことも書きたくない

ニュースやSNSを見ていると、この世は地獄だと思うことばかりなので、よし、そんな中にあっても私は負けないぞ、私は正しいことを書いていくのだ、と決意した。

が、思ったそばから、この地獄の元凶って「俺は正しいぞ(お前らは間違っているぞ、無知だぞ)」どうしの戦いではないか、とはたと気づいた。

共謀罪も嫌、安倍政権も嫌、戦争もイヤ。長時間労働もイヤ、貧乏もイヤ。でも清く正しく美しいだけのリベラルもソーシャル界隈もうんざり。楽しくなきゃイヤ、おしゃれじゃなきゃイヤ、面白くなきゃイヤ。でも楽しくておしゃれで面白いだけでも何だか物足りない。これってポリティカル・コレクトネスっていうやつ?ポリコレも窮屈、でもポリコレ批判も下品で好きじゃない。

こんなことばっかり考えていると、俺は何だ、何者だ、何を書きゃいいの、と、気が付きゃ自分に問いかける羽目に。


その結果、正しいことではなく「正しいかどうかわからない」という揺らぎ、決められないもどかしさ、ぐずぐずと悩み続けること、ためらい、言い淀み、つまずき、などといった今の状態を隠さず書いていくしかないのではないかという考えに至った。
「こういう考えもあるよね」「どっちもどっち」と言ったあたかも中立で両論を併記しておりますよというポーズの逃げだけでもなく、かといって声高に自らの正しさ、間違ってなさだけを押し付けるのでもなく。安易な決断主義でもなく、かといって現時点での自分の考えの発信を先延ばしにし続けるのでもなく。
日々移り変わり、更新される思考の動きを書き続けていく、とにかく毎日書き続けるしかないのかなと思った。

いやいやえん (福音館創作童話シリーズ)

いやいやえん (福音館創作童話シリーズ)

キミドリ

キミドリ

ラッパーは「地元」に根差しているかーー「地域」が先か「カルチャー」が先か

読みごたえのあるラップ批評を書く韻踏み夫さんの記事。(早稲田大学の4年生らしい。本当にすごいなあと思う。)

www.premiumcyzo.com

記事に「ラッパーはフッド(地元)に根差している」「ラッパーがフッドを歌うのも、ラップがラッパーの自己と不可分であり、自己はその育った環境と不可分だからである。」とあるけれど、私はここは本当にそうなのかな?と思うことがある。


大和田俊之・磯部涼・吉田雅史「ラップは何を映しているのか」でも同じ議論があって、同著では『地域ではなくサブカルチャーに根差すというスタンスこそが日本のリアルなのではないか(磯部)』と語られており、私もそう思うんですね。

地元に根差しているラッパーは確かに少なくないと思うけれど、それは、ヒップホップというカルチャーのフィルター/フォーマットを通して「地元」を発見しているんじゃないかなと思うんです。
地元愛が先にあるんじゃなくて、いや、あったとしても、ラップ/ヒップホップというカルチャーが媒介となって地元を発見する、地元に根差すというスタイルを獲得しているのではないかと。


考えてみると「カルチャーを通じて『地元』を発見する」というのはラッパーに限ったことではなくて、意識高い感じで(←こんな言い方ですみません)地方に移住や定住を考える人たちも、そうなのではないか?と思う。

「忙しなく働くのではなく、ゆっくり流れる時間の中で
 近くで採れた新鮮な野菜や果物、魚や穀物を味わい
 自分で梅酒や漬物を仕込み、古い建物を直して住まう。
 夜は暖炉の火を囲んで、気の合う仲間と穏やかに語り合う」

という「カルチャー」…それは「思想」とか「物語」と言ってもいいかもしれないけれど…が先にあって、それにフィットした「地元(地域)」が浮かび上がり、選ばれるのであって、自然豊かな田舎であればどこでもこういうライフスタイルが生まれるわけではないと思う。*1

ヤンキーっぽい人たちも地元が好きとかよく言われるけれど、それも地元愛が先に立つのではなく「アツい仲間意識」「祭りで騒ぐ」みたいな文化・価値観があったうえで「こういうウチらの地元最高」っていう気分が出てくるのではないかしらと思うんです。


何が言いたいかと言うと、地域だ地域だ、地方創生だ、まちを盛り上げようという機運があっても企画が滑りがちなのは、

 ・地域の名前
 ・地域の特徴(観光名所や特産物とか)
 ・地域に住む/来るメリット

ばかりを連呼するばかりで、そこに誰かが乗っかりたい・共感したいと思う「カルチャー」とか「物語」がないからでは?と思うんです。いくらメリットがあっても「共感」が無ければそれは他人事。なので響かないと思うし、いざ住んでメリットを享受する人はいても、その人は単なる「消費者」であって、まちのために少しでも何かしてくれる人とか、愛着を持って住み続ける人にはならないだろうなあと思います。

だからと言って行政とかが「うちのまちの物語は、こういうストーリーなんですー!」とガッチガチのシナリオを作って押し付けてくるのもうざい。っていうかそんな市町村はあまり無いと思うけど、あるひとつのカルチャー/物語を推すと、どうしてもそれに「乗れない」人というのは出てくるわけです。ダサいと若い人は来ないと思っておしゃれにすると「気取った町は嫌だなあ」と言われてしまったり、とか。

ラッパーから見たらある町はゲットーだけど、チャレンジしたいビジネスマンや大学生にとっては可能性を感じるフィールドかもしれない。アートで身を立てたい高校生からしたら刺激のない退屈な村も、都会に疲れた人から見たら豊かさを感じる土地かもしれない。本当は素材にこだわったカフェや家具のお店もあるのに、メインストリートにはイオンやパチンコやスタバみたいなチェーン店が乱立して下品でしょうがない、なんて思っている人もいると思う。

でも、人が集まる町というのは「いい物語がある町」ではなく「たくさんの物語がある町」なんじゃないかと思う。都会に人が多いのは、便利だからとか、会社がたくさんあるからというのもあるけれど、いろんなカルチャー、いろんな物語、いろんな人が要られる場所が多いからじゃないだろうか。ラッパーとビジネスマンのカルチャー/物語は融合しないけれど、その街の中では「共存」していられる。都会に人が集まりやすいのは、たくさんの種類のカルチャーや物語があって、どこかしらに自分のフィットする居場所を見つけやすいからじゃないかと思うんです。

大都会ほどの人は住めないし、それほど多くの人に来てもらわなくてもいいけど、少しでも人が増えたらいいなあ、なんて思っている地域は、「メリット」ではなくて、まずは自分たちが持っている「カルチャー」や「物語」を発信したほうがいいんじゃないかしら?と思うんです。発信しないことには共感してもらえないので。
そしてヨソからそこに「暮らしたい」と思って来た人がいたら、その人の持っている「カルチャー/物語」をよく聞いて大切にしてあげることが必要なんじゃないかなと思います。自分たちのカルチャー/物語と言う名のしきたりやルールを押し付けるばかりではなく。きっとその地域が持っているカルチャー/物語と、その人が持っているカルチャー/物語がシンクロするところがあるはずなので。その積み重ねが、その地域の個性を作っていくのかなあ、なんて思いました。

□■□今回の記事とだいたい同じことを書いている記事□■□
yoshimi-deluxe.hatenablog.com


サイゾー 2017年 7月号 [雑誌]

サイゾー 2017年 7月号 [雑誌]

PEASTA

PEASTA

FANTASY CLUB

FANTASY CLUB

ヒップホップ・ドリーム

ヒップホップ・ドリーム

*1:「ラップは何を映しているのか」によるとアメリカではもっと強い「地域性」っていうのがあるらしいんだけど、日本ではそうでもないっていうか、やっぱりまだ「カルチャー」に根差した地元の発見、が強いと私は思う。

性格が地味でも営業職はできると思う話

こういう話って、タイトルを見ただけで
「これ、読んだら『うわぁ…』と思って
 ブラウザをそっと閉じるタイプの記事やで…」と
思うんだけど、よせばいいのについつい読んでしまう。

dktkyk.hatenablog.com
記事の内容も相当怖いが、コメント欄がまた怖い。くわばらくわばら

たぶんこれを読んだ人の中には「こんな電通マンばっかりやないでー!」という反論もあるんだろうなあと思う。私は電通のことはよく知らないので何とも言えないけれど、でも職業や職種に対するステレオタイプなイメージってあるなあと思っていて、例えばこういう華やかに見える広告関係とか、広告じゃなくても営業職の人は「バイタリティがあって」「人付き合いがよくて」「愛想が良くて」「話題豊富で」「話し好きで」「おしゃれで」「社交的で」みたいな人がやる仕事だと思われているところはあるよなあと思う。

私も昔、ある会社で営業職をやっていたことがある。営業マンだと「売り込みとか仕事の話ばっかりじゃなくて、お客さんと趣味の話とかもして仲良くなりなさい」とか言われるんですよ。それはお客さんの考え方や人となりを良く知るということで大事なことなんだけど、私は若かったこともあり、そういう雑談が全然できなくて苦しんだことを覚えています。
ある時、他の地域から転勤してきたばかりの客先の担当者の人と話していたら、

「この辺で美味しいお店とかってあります~?」

と聞かれて、私はそれほどグルメというか食に興味もないし、よく飲み会とかで行く店があるけどあそこって美味しいのかな、私って口にするものの9割くらいは美味しいと思ってしまうから、自分が美味しいと思ってもその店を勧めていいものなんだろうか…とか余計なことを考えて、モゴモゴと言い淀んでいたら

「ダメだなあ~、営業だったらこういう時、おすすめのお店の2つや3つパッと言って、お客さんをすぐ接待に誘えるようにしなよ~」

なんて言われたことがある。
お客さんには全然悪気はなかったと思うし、むしろ若い営業マンに役立つテクを教えてくれたんだと思う。そうなのだ、実際に美味しいお店をレクチャーするのが大事じゃなくて、お互いにどんなお店が好きかを話すことで人となりを知ったり、これをきっかけに飲み行ったりする間柄になって、スムーズに仕事を進められるようになればいいのだ。本当に聞きたいのは店の料理の良し悪しじゃないんだ。ということにハッと気づかされて、自分は何て営業に向いてない人間なんだ、自分の見栄ばかり考えてお客さんのことを全然考えられていないじゃないか、こんなんじゃ相手から仕事をもらう資格も会社から給料をもらう資格もない、いや生きてる資格もない人間だ、もう死のう、と無駄に極端な落ち込み方をしたことがある。


でも会社に帰って営業部を見渡すと、全くそんな人ばかりじゃなかったのだ。

お客さんと飲みに行って仲良くなってウェイウェイ仕事をもらってくるタイプの人もいる。でも、そうじゃない人もいる。真面目一筋で、気のきいた雑談なんて全然しないけれど、「絶対に約束を守る。絶対に適当な返事をしない。任されたことを確実にやり遂げる」ということだけを日々積み上げて、コツコツと確実に売り上げて成績を出している人もいた。さらに、絶対に失敗したくない大きな仕事、確実にやらなければならない仕事がある時にも、お客さんは「あの人ならば確実にやってくれる」と信頼して任せてくれるのだ。

かと思うと別の上司は「お客さんと会うたび、くだらなくてもいいから必ず突拍子もない提案を1つする」と言っていた。あまりにも現実的でなかったり、しょうもなかったりして呆れられていることもあった。しかし彼が言うには「お客さんが苦境に陥って、考えても考えてもどうしてもいい解決策が出ない時がある。そういう時『いつもとんでもないことを言っているアイツならもしかして…』と、一発逆転のアイデアを求めて声をかけてくれる。その時は企画チームを総動員して本気のプレゼンをブチ込む」とのことだった。実際に「どうやって受注したんだろう」と思うような仕事をやっていた。

あまねく仕事というのは「その人ではできないことを代わりにやってあげて、その対価としてお金をもらう」ということだと思うんだけど、相手のできないこと、やってほしいことにたどり着いて、お金を払ってもよいなと思わせる方法は、きっとひとつではないはずなのだ。私達が買い物をする時、財布のひもを緩める理由が様々なのと同じように。「実用的で役に立つと思えるから」「店員さんの感じが良かったから」「見た目がカワイイから」「社会貢献できると思ったから」「人に自慢できそうだから」「他のよりマシだと感じたから」…


だから今、せっかく自分が入りたいと思った会社ややりたいと思った仕事についてたけれど「●●じゃないから自分がダメなんじゃないか」と思って死にたくなっている人がいたら、もっと自分のキャラを生かしながら売れる方法があるんじゃないか?と、死ぬ前に考えてみてほしいなーと思う。
もしも会社が、あなたのキャラじゃなくて「もっとウェイウェイしないとダメだ!」と何か1つの方法だけを求めてくるとしたら、それはその会社のカルチャーとあなたのキャラが合わないのかもしれないので、転職を考えてもいいんじゃないかと思います。逆に単一の方法で社員に動いて欲しい会社は、採用の時からそれを伝えて、かつそれができそうな社員だけを採用するのがいいんではないかと思います。大きなお世話ですが…

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